ええと、実は今回の【18】と次の【19】とその次の【20】とは、もともと一繋がりの章だったりするんですけど……どこで切っていいかわかんなかった結果、ここの前文に使える文字数が極めて少なくなってしまったというか(@_@;)。
いえ、一応毎度ながらどーでもいいことなんですけど(笑)、↓の<ベルサイユのはなや>の従業員さんその他の方のお話は、結構リアルで聞いた方のお話が元になってたり(一応、多少変えてあるとはいえ)、前にちらっと出てきた育児ノイローゼの方のお話などもそうかな、なんて思います。
ただ、この育児ノイローゼの方の場合は、会った瞬間から見た目がもう精神病っぽいというのでしょうか。症状としてそのくらい重いっていうところが、小説で書いたのと違うところかなって思ったり。「赤ちゃん生む前までは、全然あんな感じの人じゃなかったのよ」とのことで、奥さんがそうした状態(赤ちゃんを世話することに関して怯えきってる状態)なので、旦那さんのほうが仕事との両立でもう大変……っていうことだったんですよね
いえ、普通小説に書く場合、元の聞いた話などを少し大袈裟にしたりして書くことのほうが多い気がするのに、この小さなエピソードに関しては、現実のお話のほうが重かったと言いますか(^^;)
もともと、奥さんのほうが旦那さんのことが好きで好きで、旦那さんのほうではそうでもなかったけど、すごく「好き好き」アピールしてくれるので、それで結婚した――といったことでもあったらしく。。。
奥さまも、お子さんの成長と同時に、ご病気のほうが快復されているといいなと思います(いえ、このお話聞いたのがもう相当昔のことなので、この時赤ちゃんだったお子さんは、もうかなり大きくなってると思うので^^;)。
ではでは、そろそろ文字数のほうが本当に限界なようです……!
それではまた~!!
ピアノと薔薇の日々。-【18】-
「おっ、おまえ……レオンっ。一体おまえ、何してんだよ!?」
その時もマキは、仕事中で留守だった。君貴がやって来た時、レオンはもうここ一月ほどですっかり慣れたこと――貴史のことを抱っこしてあやしながら、料理の仕度をする――に忙しく、彼自身ここ暫く会ってない恋人のほうを、振り返ることさえしなかった。
「見りゃわかんだろ。仕事で疲れて帰ってくるマキのために、ガパオライスの準備してるとこ。マキはほんと、なんでも喜んで食べてくれるんだ。まったく作り甲斐があるよ」
ここで、貴史が「ほぎゃあ、ほぎゃあ!」と泣きだす。レオンは「ほんとだ」と呟きつつ、ガスを一旦止め、赤ん坊のことを背中から下ろした。
「マキが言ってたよ。貴史はおまえがやって来るなり必ず泣きだすんだって。最初に聞いた時はただの偶然なんじゃないかと思ったけど……ほんとなんだな」
「そりゃたぶん、エディプス・コンプレックスの前兆ってやつだ。実際のところ、今だってそうだろ。俺と貴史の間でマキのことを取り合ってるようなものなんだから」
「そろそろミルクの時間だ」と、君貴のことを一旦無視し、レオンは煮沸消毒したミルク瓶に粉ミルクを入れ――温度のほうをよく確かめてから、貴史にミルクを与えはじめる。
「なんだよ、エディプス・コンプレックスって。単におまえが父親として不甲斐ないってだけの話だろ?マキから色々話を聞いたよ。君貴は火中の栗でも拾うみたいに、びくびくしながら自分の息子と接してるっていうようなことをね」
「しょうがないだろ!人にはどう考えても向き・不向きってものがある。俺は子育てには向いてない。けど、まさかおまえが本当にここに来るとは思ってなかったよ。一体なんだ、あの写真?マキと貴史とレオンが三人で、幸せな家族のポートレート風に写ってるってやつ。もしかして、俺に対するあてつけか?」
んっく、んっく、と可愛らしく哺乳瓶からミルクを飲む貴史を見て、レオンは満足の吐息を洩らす。これは、彼にとって何度繰り返してもまるきり飽きない光景だった。
「もしかしなくてもあてつけだよ。決まってるだろ」
そう言いながら、レオンは改めて呆れた。君貴は間違いなく、自分の息子に本当に興味がないのだ。いや、もしかしたらここにマキさえいたら……それが本心でも、もう少しは取り繕うような態度を取るのだろうか。
「それで、おまえは何がしたいんだ?そもそも、コンサートのほうは?いや、暫くコンサートのほうは休むようにスケジュールを調整してあるんだとしても……いずれピアノの練習を開始したりとか、色々あるだろ?ここじゃ、ピアノはあっても、ガキがうるさく泣きだすから練習だってままならんだろうしな」
「僕のことはいいよ。一応、半年後にどうしてもキャンセル出来ないチャリティ・コンサートがあるから……まあ、どこかスタジオを押さえてその前には練習しなきゃならないだろうけどな。そのあたりはいくらでもなんとでもなる。だけど、貴史の面倒を見たりするのは今しか出来ないことなんだよ」
「ふうん。で、マキとはうまくいってるのか?」
君貴も、一月ほど前からふたりが一緒に暮らしはじめ、共同で子育てしている……といったことについては知っていた。だが、彼としてはレオンがこんなに赤ん坊の世話をすることに夢中になろうとは、想像していなかったのだ。せいぜいのところを言って、2、3週間もすれば根を上げて逃げだすだろうといったようにしか。
そうしたら、君貴の立場としては(ほら、おまえだって人のこと言えないだろ?)といったようにせせら笑ってやるつもりでいたというのに――これは一体どうしたことだろう。
「うまくいってるね。そのことに、僕も驚いてるし、マキのほうはもっと驚いてるんじゃないかな。まさか赤ん坊のパパの恋人がやって来て、ここまで親しくなれるとは、彼女自身思ってもみなかっただろうし……もしこれで定期的にセックスさえしてたら、僕とマキは完璧な夫婦といったところだよ」
「へえ。べつに俺は構わんぞ。貴史の父親である俺のことを茅の外に置いて、おまえとマキがイチャコラしてようとどうだろうとな。一日置きにでも三日置きにでも、セックスしたけりゃすればいいだろ?俺に気を遣う必要はない」
「おまえ、それ、本気で言ってんの?」
レオンは、可愛い貴史の耳を汚したくはなかったが、これはマキのいない間にしか出来ない話でもあった。それで、貴史にミルクを与えつつ、そのまま会話を続ける。
「ああ、本気だよ。レオンは俺に罰が当たってちょうどいいくらいにしか思ってないんだろうし、マキもほどよく復讐できていいんじゃないか?それで、マキとの間に第二子でも作れ。そのかわり、もう俺に対して子育てに参加しない駄目な父親だなんだと、説教垂れるんじゃないぞ。その二番目の子がレオンに似ていた場合――貴史もその子も自分の子だと言って育てたところで、べつに父ちゃんがいるとわかったら、俺も赤の他人のおじちゃんの振りは出来ないんだからな」
「信じられないよ。それとも何?僕が女性とはしたことないから……それで、どうせそういうふうにはならないと思って、高を括ってそういう言い方するんじゃないの?大抵の男は挿入と射精を指してセックスだって言うけどね、僕はそういうふうには思ってないんだ。他にも、彼女のことを悦ばせる方法は色々あると思ってるし……たぶん、大丈夫なんじゃないかっていう気がしてる。ただ、マキは君貴と違って、僕とおまえの両方と関係を持ったのに、その間でケロリとしてられるようなタイプじゃない。だから手を出してないっていう、それだけだよ」
「ふうん。大した入れこみようだな。おまえ、あれなんじゃねえの?ほら、子育てしてる間って、愛情ホルモンっていわれるオキシトシンがたくさん出るって話だから――貴史の面倒を見てるうちに大量にオキシトシンが分泌されるあまり、それをマキと共有してるから、それを本物の愛だって脳が思い込んでるってだけの話なんじゃないのか?」
君貴は少々意地悪な言い方をした。なんといっても、彼にとっては面白くない状況であることに変わりはない。身から出た錆と言われてしまえばそれまでとはいえ……恋人と愛人のふたりを同時に失うという、過酷な状況に耐えねばならない立場なのだから。
「違うよ。マキは、本当に可愛いんだよ。なんでおまえがマキの初めての相手で、僕じゃなかったんだろうっていうくらいね。だって、僕だってもしかしたら酔ってたら、マキのことを男と間違えて寝たって可能性がなくもないだろ?残念だよ、ほんと。貴史が僕の子じゃないっていうこともね……けどまあ、君貴の子と思えばこそ、僕もこの子がこんなにも可愛いんだ。だから複雑だよ」
レオンは溜息を着いた。貴史がミルクを飲み終わると、抱っこして軽く背中を叩きつつ、げっぷをさせてやる。
「っていうかさ、おまえ、いつまでここにいんの?もし二、三日いるんならさ、一日くらいマキをデートに誘って外に連れだせよ。僕もまさか子育てっていうのが、こんなに大変だとは思ってもみなかったからな。どこかロマンティックなところで食事でもして、夜はホテルででも過ごせ。貴史のことは僕が見てるし、それでまたおまえとの間にふたり目の子が出来たとしたら……その子も僕が面倒見てやるから」
「……レオン、おまえそれ、本気か!?」
君貴はまるで狂人でも見るかのような目で、レオンのことを見返した。いくらオキシトシンで脳が満タンであったにしても、寛容すぎるにもほどがある。
「ああ、本気だよ。僕は何よりも、今はマキの幸せを願ってる。おまえは気づいたかどうか知らないけど、本棚の下の後ろのほうに、ゲイの男が主人公のノンフィクション本なんかが数冊あったよ。僕も時間のある時に読んだけど、あれを読んで、マキは大体のところゲイの男ってものを理解してるんだなと思った。まあ、僕とおまえもそうだけど、一口にゲイって言っても色々ある。本当は性的嗜好としては絶対そっちなのに、世間体やらなんやらあって、女性と結婚して子供までいるものの……その後家庭を捨てて男に走る奴もいれば、女性の子宮に挿入することまでは出来ても、射精まで出来なくて悩んでたら実はゲイだったと気づくとかね。ようするに、そういう男の人生のことが色々書いてある本だよ。その上、女性誌で産後の膣締め体操なんていう記事をマキが読んでるかと思ったら……まったく、僕は君貴のことが許せなくなってくるね」
「なんだ?俺はそういうのが一番嫌なんだよ。なんとなーく『おまえが悪いんだ』みたいに精神的に処刑してこようとする気配を感じるっていうのがな。だから、繰り返して言うぞ。もしマキが欲求不満だっていうんなら、今一緒に暮らしてるレオンとどうにかなるっていうのが一番自然だ。そのことで、あとからマキのことを責めたりもしない。そのかわり、今後は俺の顔を見ても『父親としての責任を果たしてない』だのなんだの、恨みがましいことを言うなよって言ってるだけのことだ」
「あ、そーだ。忘れてた」
レオンがリズムを取って貴史のことをあやしていると、「きゃっ、きゃっ!」とそのたびに可愛らしい声が洩れる。にも関わらず、そんなことにも一切注意を向けないとは……(冷血人間め)と、レオンは目に見えない人の烙印を君貴に押した。
「マキさ、僕とおまえにだけじゃなく、もうひとりモテてる男がいるんだって。あ、もうふたりかな。廊下にさ、ずらっと蘭の花が並んでただろ?それ、なんとかって会社の社長が送ってきてるんだって。あと、もうひとりが同じ花屋の従業員さ。一度、貴史のことを病院に連れていった時……その帰りにね、安心させようと思ってマキの会社まで行ったんだ。僕、間違えて裏の倉庫に入っていっちゃったんだけど、なんだったかなあ。『おまえも変わってんな。マキちゃん、もう子供までいるのに好きだなんてさあ』とかなんとかしゃべってた。いやあ、なんか僕、悪いことしたよねえ。それなのに、そんな場所にズカズカ入っていって、『オザキ・マキさんいらっしゃいますか?』なんて聞いちゃってさあ」
「嘘だろ?おまえ、邪魔な虫を一匹踏み潰して排除できたとしか、絶対思ってないだろ!?まあ、いい。それで一人目はほぼ消えたに等しいからな。レオンのことを見て、張り合えると考える男がいるとしたら、そいつは狂人だけだ。それで、蘭の花の野郎のほうは?一体どんな奴なんだ?」
この時、君貴は不意に思いだしていた。『なんだ、この趣味の悪い花は?』と廊下にズラリと並ぶ蘭の花を見て聞いたら――『店のあまりものなの』とマキは言っていたような記憶がある。まさか、彼女は自分に嘘をついたのだろうか?
嘘をついた=何かやましいことがある……との図式が脳裏に成り立つと、君貴はなんだかイライラしてきた。それじゃなくても、インドのインディラ・ガンディー空港から一路、東京へやって来るのに十時間近くかかっている。彼は本当にもうこれ以上、余計なことでストレスをかけさせられたくなかった。
「なんだっけ。君貴と同業なのかなっていうような会社名のCEOだよ。ケン・イリエとかっていう……だけど、こっちも一応手を打つことには打っておいたんだ。マキもさ、もう置く場所がないって言って迷惑そうだったから、僕の独断でいくつか会社のほうに送り返しておいた。「お心遣い、ありがとうございます」っていう短いメッセージ・カードと一緒にね。そしたら、とりあえず今のところ蘭の花は届かなくなったけど……マキも気味悪がってたよ。そもそも、その会社に何回か花を届けにいった時に、ちょっと話したことがあるっていう程度なんだって。僕が『一目惚れかなんかなんじゃない?』って言っても、マキはピンと来てない様子だったけど――まあ、気持ちはわかんなくもないよ。見る目のある男にはわかるってやつさ」
「……レオン、おまえ、何気に何いい仕事してんだよ」
君貴は呆れたような顔をして笑った。それにしても(ケン・イリエだって!?)と、驚いてしまう。自分が何度となく競合している、ライバル会社のCEOではないか。
「だっろー?僕ってほんと、役に立つよねえ。花でいったらラベンダーとかじゃない?ほら、ここテラスがすごく広いじゃん。だから、休日はマキと一緒に土いじりとかしちゃったりしてさ。ラベンダーには虫除け効果があるとかなんとかって、マキが言ってたことがあるんだ。でさあ、この間、貴史が初めて言葉をしゃべったんだよ。なんて言ったと思う!?」
「さあ……」
レオンの目には冷たい父親といったようにしか映らなかったかもしれないが、この時、君貴は入江健がマキに蘭の花を贈ってきたという事実に、何か嫌な予感を覚えていたのである。
「『はっぱー』って言ったんだ。それが貴史が生まれて初めてしゃべった言葉さ!テラスのところで、ハーブの寄せ植えをしてたら、ダスティ・ミラー(白妙菊)の葉をぎゅっと握ってはっきりそう言ったんだよ。そのあと、『ぱぱ、はっぱー』だって!僕、『この子は天才だっ!』て、マキに向かって思わず叫んじゃったくらいだよ。以来、もう毎日色んなことを貴史に教えるのが僕の生き甲斐なんだ。今はもうそういう赤ちゃん向けの面白い教材っていうのが、たくさんあって……」
レオンが興奮して、おもちゃ箱の中から、ボタンを押すと色々な物の言葉が音と一緒に出てくる絵本を探しだし、持ってこようとする。
「レオン、おまえほんとに子煩悩な子育てパパなのな。それにしても生まれて初めてしゃべった言葉が葉っぱとは……将来、コカイン中毒にならないように気をつけねばなるまいよ。『パパ、はっぱー』ってことは、ようするにあれだろ?『ハッパ買うのに金くれよ、親父』っていう……」
「まったくもう、何言ってんだよ!こんな可愛い赤ん坊を前にしてさえ、おまえはそんな荒んだ物の見方しか出来ないの?あ、それとももしかしてショックだった?貴史が僕のことをすでにパパだと思ってるって知って……」
(だけど、それも君貴が悪いんだよ!滅多にここにやって来ないからそんなことになるんだ)と言ってやろうかと思ったが、レオンは黙り込んだ。彼がなんだか何時になく、落ち込んでいるように見えたからである。
「すまん。インドのデリーから飛んできたせいもあって、疲れてるんだ。あと、ちょっと仕事もしなけりゃなんないもんだからさ……あと、レオンはただの言い訳みたいにしか思わないだろうけど、今のこの状況は、何も俺ばかりが悪いわけじゃないんだぜ。俺は、マキがもし仕事を辞めて、俺がよく行く先の外国のほうへついてくるっていうんなら、それなら一緒にいる時間は増やせるとは、一応言ってみたんだから。けど、あいつにもわかってるんだ。仕事を辞めて子供の面倒みてるだけの女なんて、俺にはつまらない女にしか見えないだろうってな。レオン、俺とおまえだってそうだろ?今だって、こういうイレギュラーな出来事があったほうが――お互い、面白いと思うくらいなんだからな」
「まあ、確かにそうだな。僕、前におまえに言ったことあったろ?まだマキに対して、自分の中の偶像の娼婦とごっちゃにして彼女に嫉妬しまくってた頃……『僕とおまえとそのヴァージンの子の三人で3Pだなんて、絶対ごめんだからな!』みたいに怒鳴ったことが。でもまあ、今はもう実際それに近くなってきてるよな。普通、3っていうのは、人間関係のうまくいかない不吉な数字、みたいに言われるのにさ」
「だな。まあ、この話はまた、あとからマキが帰ってきてからしよう」
いつもの君貴なら、必ず3Pという言葉に食いついているところである。ところが、彼は本当によほど疲れているのだろう。自分の書斎のようになっている部屋へ閉じこもると、彼はまず仕事の取引先と話しはじめ――それが終わると、倒れこむようにしてベッドへ横になっていた。
「インドのデリーだって。貴史のパパはお仕事大変でちゅね~。まあ、貴史にとってのパパは今は僕でも、血が繋がってるのは君貴であることに変わりないからね。そのうち、貴史も大きくなったら、ほんとのパパの偉大さがわかってくると思いまちゅよん」
このあと、レオンは上機嫌で料理の続きに取りかかった。今日はタイ料理がメインで、ガパオライス、野菜炒め、パクチーサラダ、トムカーガイといった品がテーブルに並ぶ。
唯一日曜だけマキが「どうしても」と言って自分で昼食や夕食を作ろうとするのだが――貴史も連れて三人で買い物へ行くことが多いので、レオンはなるべく外食して済ませるようにしている。週に一度しか休みがないのに、そんなことで彼女を煩わせたくなかった。
夜の七時近くに帰ってくると、マキは見慣れたジョンロブの靴を見て、(君貴さんが来てる……!)ということにすぐ気づいていた。そして、今回に限っては、いつも以上に彼女はドキドキしていた。この一か月半近くもの間、マキは彼の恋人であるレオン・ウォンと共同で息子の貴史のことを育ててきた。彼は、本来なら君貴がしてくれるはずのようなことを、すべてしてくれた。初めてハイハイした時も、まるで我が子のことのように喜び、「貴史、パパはこっちだよ!」と言いながら、毎日息子の相手をしてくれている。しかも、その様子をずっとホームビデオで撮影し、しつこいくらい見返しているところから見ても――レオンが無理しているわけでないらしいことが、マキにもよくわかるのだ。
レオンは、貴史から「パパ」と呼ばれて以来、ますます子育てにのめりこんでいるように見えるのだが、実をいうとマキはそのことが少し心配だった。(彼はほんとのパパじゃないのに)といったことではまるでなく、どうもレオンが子育てを通して自分のことも込みで愛情を抱きはじめているらしいことに対し……マキはそのことは『一時的な錯覚』ではないかと感じていた。
もちろん、子育てのことのみならず、レオンは本当によくしてくれる。毎日、美味しい料理を作ってくれ、彼が来てくれて以来、マキは日曜日に一度も洗濯機を回していない。レオンは本来的に軽い潔癖症らしく、部屋のほうはいつでも綺麗に整っていた(赤ん坊のいる家庭だとは、とても思えないくらいに!)。
けれど、マキも流石にだんだん不安になってきた。レオンが自分でそれと望んで、うちにいてくれるのは嬉しい。けれど、彼は誰もが天才と認める、世界的なピアニストなのだ。半年くらい先までスケジュールは空けてあるとレオンは言っていたけれど……本当に、こうした生活を彼にずっと続けてもらっていいものなのかどうか――レオンにしても、一度こんなに深く関わってしまったら、途中で投げ出すのは無責任であるとして、変に縛られたりするのだとしたら……また、今の心地好いレオンとの関係というのは、マキは君貴がやって来たら壊れてしまうかもしれないと漠然と感じてもいたのである。
(何事も起きなければいいんだけど……)
マキはそんな心配を胸に秘めつつ、自然な振りを装って「ただいまー」と明るく居間のほうへ入っていった。途端、「しー」と、レオンが人差し指を口の前に立てているのがわかる。
「どうしたの?」
レオンは、小声で聞くマキに対し、君貴の寝ている部屋のほうを指差した。見ると、彼の隣で息子の貴史がすやすや眠っているのがわかる。
「あいつ、相当疲れてるみたい。今日はインド帰りだってさ。ほら、マキもたぶん知ってるとは思うけど……あいつがオランダに造った音楽ホール。あれ以来だよね。君貴はやっぱり元がピアニストで耳がいいだろ?だから、音響効果的なことにすっごいうるさいわけだよ。結果、各国のオケや音楽家たちが大絶賛するような音楽ホールが出来て……以降、新しく舞台を作るだの、音楽堂を作るだのといった場合、直接指名を受けることが多くなって――だからちょっと、その分野ではあいつのひとり勝ちみたいなところがあって、少し同業者に恨まれてるところがあるらしいね。しかもあいつ、恐ろしいくらいの完璧主義だし、ちょっと気になることがあると、自分の部下が撮った写真やムービーなんかじゃまるで納得できず、自分の目で見ないと気が済まないんだな。やっぱり、建築物っていうのは一度出来てさえしまえば、永遠にとまでは言わなくてもかなりの長い時間持つものだろ?だから、もうほんと、それに自分のすべてを捧げてるっていう感じなんだよ」
「う、うん。わたしもね、一応わかってはいるつもりなのよ。君貴さんにとってどのくらい仕事が大切かとか、そういうことについては……だから、邪魔するつもりもないし、無理してここに来なくていいのよっていうのは、そういう意味でもあるの。父親らしいこと何もしないんだったらべつに来なくていいとか、そういう意味じゃなくてね」
マキは気づかなかったが、レオンはこの時、少し寂しそうに微笑った。やはり、彼女は君貴のことだけが好きなのだと、はっきりとわかる。いつもそばにいてくれるのでなくても、息子にとってのいい父親でなくても構わないのだ。ただ、忙しい合間を縫って会いに来てくれるというそれだけで――おそらく、マキはそれ以上多くのことを望んではいないのだろう。
(まあ、だからこそ僕は、マキのことが心配なんだけどね。これからも時々僕が、君貴のことをせっついたりなんだりしないと……あいつはマキのことはともかくとして、自分が父親だってことについては、仕事が忙しすぎてほんとに忘れちゃいそうだし)
「マキは、そんなに君貴のことが好き?」
「えっ、ええ!?」
突然の質問に、マキは頬を赤らめた。ふたりを起こしてはいけないので、そっとドアを閉めると、リビングのほうへ戻ってくる。
「こんなこと、君貴さんの恋人であるレオンに言うのって、どうかとは思うんだけど……そうね。女の人はみんなそうなのかもしれないけど、初めての男の人に対して、女は特別な感情を持つものなんじゃないかしら。もしわたしがただ、そのことにしつこく拘ってるだけなんだとしても――ただの自己満足の愛だったとしてもいいの。わたし、たぶんただ、あの人のことが好きな自分が好きなのかもしれないって思うことがあるわ」
「ふう~ん。それって、いわゆる見返りを求めない愛ってやつ?」
レオンはキッチンのほうへ行くと、料理を温め直すことにした。もちろん、君貴の分もある。
「さあ……そんないいものでもない気がするけど。それに、見返りならちゃんとあるのよ。さっきみたいに、君貴さんと貴史の並んでるところを見たりとか……これはわたしが勝手に思ってることなんだけど、貴史がもっと大きくなって知恵がついてきたら、あの子も割とお父さんに懐くんじゃないかなって思ったりしてて。たまに、外国土産を持って帰ってくる僕の父さんはすごいんだ!みたいな感じでね」
(馬鹿みたいでしょ?)という顔をマキがするのを見て、レオンは微笑んだ。彼にしても、確かにそんなような気はするのだ。
「そっかあ。まあ、僕はただの『パパ(仮)』的存在だからね。貴史が物心つく前には、混乱しないように気をつけようとは思ってるんだ。じゃないと、『うちにはどうしてパパがいないの?』じゃなくて、『どうしてうちにはパパがふたりもいるの?』ってことになっちゃうものな」
「あ、あのねっ。わたし、レオンにはものすっっごく感謝してるの。レオンがうちに来てくれて以来、毎日がなんだか天国みたい。ごはん作らなくていいし、部屋も赤ちゃんがいるだなんて思えないくらいすごく綺麗だし、洗濯までまめにしてくれるし。わたし、いつも思ってるのよ。世界のレオン・ウォンにこんなことさせてて、本当にいいのかしらって……」
「いいんだよ。全部僕が自分で好きでやってることなんだから」
このあと、マキとレオンはふたりきりで静かに食事した。何か、少しおかしな感じだった。べつに、君貴が来たからといって、ふたりの間で何が変わるわけでもない。けれど、貴史の存在が間に挟まっていないと、マキはやはりなんだか落ち着かないものを感じた。
「仕事はどう?なんて、毎日聞かれても、マキも困っちゃうか」
「そうね。だって毎日、全然変わり映えしないんですもの。レオンだって、うちみたいな小さい会社の人間関係なんか聞かされたってつまらないでしょ?」
「ううん、そんなことないよ!えっと、なんだっけ。マキの会社の社長さんと専務さんが夫婦だけど、別居してる話とか……」
「そうそう。今日もあの社長は、新聞の死亡広告欄を見て『人が死ぬと花屋は儲かる』とか、どうしようもないこと言ってたわ。パートの店員の柴田さんなんて、いつも社長がいなくなったあと、『おまえが死ね!』って言ってるしね。というのもね、今じゃあの社長には愛人がいるとか、そういうことを従業員はみんな知ってるからなの。わたしが入社した頃からね、社長と専務はほとんど口を聞かないなあみたいな雰囲気はすごくあったんだけど……従業員の前だからなのかな、くらいに思ってたわけ。そしたら、もうかなり昔から社長には愛人がいて、仕事のほうはそこそこに、その愛人の家のほうへ行ってるらしいの。で、奥さんである専務のほうから『別れたい』って言ったんだけど、社長のほうで絶対承知しないんですって。<ベルサイユのはなや>の社長っていう立場って、人に説明するのにも便利だし、その地位にい続ける限り、毎月お金もお給料みたいな形で入ってくるわけだから、社長にとっては離婚しないほうが都合がいいってことみたい」
「そんなの絶対変だよ!そんなやつ、身ぐるみ剥いで、会社からも家からも追い出しちゃえばいいじゃないか」
実をいうと、社長と専務の関係に関しては、貴史のことを娘の亜由美に預けるうち、マキが彼女の口から聞いたことである。『お母さんもずっと別れたいと思ってるんだけど……「そんなことをしたら、ただじゃすまさないからな。ええっ!?」みたいな感じで、脅してくるのよ、あいつ。ほんと、我が父ながらどうしようもない奴よ』といったように。
「専務も、本当は心からほんとにそうしたいみたい。だけど、娘さんの話じゃね、そんなことしたら変に逆恨みして、出刃包丁片手に暴れそうなところがあるから、おっかなくてそうも出来ないってことみたいなの」
「ふうん。面白いねえ……あっ、ごめん。人の不幸が面白いって意味じゃないんだよ。なんていうか、マキの職場って何気に面白い人多いよね。イラチの金田常吉さんとか」
「ああ、金田くんね」
ガパオライスを食べながら、マキは笑った。前に、レオンがしつこく従業員のことを知りたがったので、それでマキは話した記憶があった。
「ほんと、仕事のほうはプロフェッショナルなのよ。フラワーアレンジメントのほうも本当に短時間でパパッと次から次へと完璧に仕事をこなしていく感じだし……ただわたし、綺麗な花束を作る人は心も綺麗とか、あんまり関係ないんだな~なんて、金田くんを見てると思うのよね。いつもブツブツ独り言いいながら、「チッチッ」って舌打ちしつつ仕事してるんだもの。そういう時にまた新しく注文が入ったとか話しにいくと、「ああん?」みたいに返事する人だしねえ」
レオンは笑った。彼女はたぶん、あまりに日常生活と化しすぎていて、自分がどのくらいおかしな職場環境で働いているのか、気づいてないのではないだろうか。
「それで、その金田さんって、バツイチって言ったよね?それで、前の奥さんと別れた理由っていうのが……」
「うん。わたしが入社してから一年か二年くらいで奥さんと別れたみたいなの。最初のうちはね、おしゃべり好きな店員さんたちも、『なんで離婚したのよ?』なんて聞ける雰囲気じゃなかったんだけど……それでも、仕事の片腕みたいになってる伊東くんあたりには一応別れた理由を話したらしくて――で、伊東くんは結婚してて、もうお子さんもいる、性格もすごく温厚な人なの。それで、柴田さんあたりが、休憩室で一緒になったりした時にしつこく聞いて教えてもらったみたい。てっきりみんな、金田くんのあのイライラが原因で別れたんじゃないかって言ってたんだけど……奥さんがアルコール中毒だったことが、結婚したあとにわかったんですって」
「へえ。その金田さんって人は、あんまり飲まないほうなの?」
「そうね。見た目、結構飲みそうな雰囲気の人なんだけど……本人は下戸だって言ってるわ。それで、料理をするでもなく洗濯をするでもなく、とにかく金田くんが仕事で疲れて帰ると、家でべろんべろんに酔っ払ってる状態なんですって。結婚する前までは全然そんなところのない普通のOLさんだったってことなんだけど……毎日喧嘩が絶えなくて、ある時金田くん、奥さんに危うく暴力を振るいそうになったってことだったわ。自分でもそんなことを一度したらもうやめられなくなるだろうと思って、怖くなって離婚することにしたっていうことだったの」
「ふうん。その金田って人にも、早く春がやって来るといいのにねえ。あと、社長と専務の娘さんのアユミさんっていう人も、離婚して実家に帰ってきたんだっけ?」
レオンは、金田氏についても伊東氏についても、倉庫で会った(あの人だな)と、大体見当がついている。ちなみに、マキのことを好きなのは、このふたりのうちどちらでもなく、花岡という、ただひたすら黙々と仕事をするタイプの従業員らしい。
(でもなんか、そういうのもちょっとストーカーっぽくて怖い気がしなくもないよな。貴史がいるのを知ってて、それでも好きっていうのは……)
「えっとね、なんかわたしも、柴田さんに負けないくらいのおしゃべりおばさんって感じするけど……今、浩太くんっていう六歳の息子さんがいるのね。でも、浩太くんを生んで以降、旦那さんと五年くらいずっとセックスレスで――それが別れた理由ってことみたい」
「ふうん。セックスレスかあ。でも、その人の場合は実はゲイだったとか、そんなことではないわけだろ?」
この時、マキはごほっと、パクチーサラダを吹きそうになった。
「えっとね、もちろんそういうことではないみたい。とにかく、なんていうかこう……子育てにも熱心な感じじゃなくて、子供の面倒を見るよりゲームしてる時間が長いみたいな、そういう感じの旦那さんだったみたい。仕事の疲れを癒す一番の方法はゲームだ――っていうのは、結婚前からそうだったんですって。でも、ゲームばっかりして、アユミちゃんの話にも生返事ばっかりで、全然聞いてない感じだったってことなの。それで、結婚後八年してある日大爆発して、『わたしたち、もう離婚しましょう!』ってアユミちゃんのほうから言ったってことだったわ。そしたら、向こうでは『いつアユミがそう言うか、待ってたよ』ですって。それで余計頭にきて大喧嘩したってことだったわ」
「ふう~ん。まあ、夫婦ってやつは難しいもんだよね。そうかあ。ゲーム中毒の旦那かあ。アルコール中毒の妻もイヤなもんだけど、ゲーム中毒の夫ってのも、そりゃ奥さんにしてみりゃイラつくよなあ」
「そうよねえ。アユミちゃん的には、そんな人でも子供の父親だしっていう感じで、ずっと耐えてたっていうことだったのね。だけど、こんなことなら八年も耐えたりしないで、もっと早くに離婚してたほうが良かったって言ってたわ。でね、五年もセックスレスだったから、次に誰かとつきあったらバンバンやりまくってやるつもりだなんて言うのよ」
マキは何気なく笑っていたが、ふとレオンが真剣な目で自分を見ているのに気づいて、照れてしまった。時々、彼にはこういうところがある。
「マキはさ、どうなの?」
「どうって?」
食事のほうは大体のところ終わったので、マキはティッシュで口許を拭いていた。
「ほら、君貴に抱かれたくて夜眠れないとか、そういうことってないのかなと思って」
「……んーと、レオン。そういうのはプライヴェートなことだから……」
「あっ、ご、ごめんっ。べつに、変な意味じゃないんだよ。ただ時々、僕が相手じゃダメなのかなとか、思ったりするもんだからさ」
マキのほうでも頬を赤らめて俯き、レオンにしても不用意なことを聞いてしまい、気まずくなっていた時のことだった。まるでこの瞬間を狙いすましたかのように、リビングのドアがバタン!と開く。
「このクソガキを俺の横に寝かせたのは誰だ?くっそ!目が覚めたらゲロ吐いてることに気づいたぞ」
貴史のほうは、ゲロを吐いた割に、極めてケロリとした顔をしており、特に具合が悪そうでもなかった。珍しく、実の父親に抱かれていても泣いてさえいない。
「あっ、貴史ちゃん。お目々さめたの?」
マキは君貴から息子のことを受け取ると、「お~よちよち」とあやしつつ、君貴の部屋のほうへ向かった。ベッドのシーツの上部が少しばかり汚れてはいるが、そう大したことはない。マキはそれを見てほっとした。
「ふふふっ。貴史ちゃん、パパに構ってもらいたかったの?きっとそうなんでしゅね。ハーイハイ。今ちょっとシーツを取り替えまちゅよ~」
「いいよ、マキ。僕がやるから!」
「いいのよ。こんなことくらい……」
「いいって!」
結局、シーツのほうはレオンが換えた。それから、ミルクの吐き戻しで少しばかり白くなったところを洗い、それから洗濯機のほうへ放り込むということになる。
マキはといえば、仕事から帰ってきてまだ母子のスキンシップを取っていなかっただけに、暫く息子のことを抱っこしたまま色々なことを話しかけていた。「今日は一日どうでちたか?」、「レオンお兄ちゃんに遊んでもらえてよかったでちゅね」といったように。
「やれやれ。おまえらもう、俺のことなんか脇にほっぽっておいて、結婚したらどうなんだ?」
貴史を含めた三人が居間へ戻ってくると、君貴はテーブルの上のものを色々つまみ食いしつつそう言った。彼はとにかく今、カレー味のしないものが食べたくて仕方なかった。
「な、何言ってるのよ!世界のレオンさまに向かって……」
「いいね、それ!!」
マキが君貴の冗談に反駁しようとするのを、レオンが強引に止める。
「ほら、マキ。僕らもう、結婚してるも同然の仲じゃないか。さっきも話してて思ったんだけどさ、君貴は父親には不向きなんだよ。そんな奴より、血の繋がりはなくても、僕ならマキのことも貴史のことも必ず大切にするっ。そのことは絶対誓うよ。だから……」
「だ、ダメよ。何言ってるのよ、レオンっ!もちろんわたし、レオンにはすっごく感謝してるし、貴史の面倒まで見てもらって物凄く有難いとも思ってる。だけど、レオンだっていずれまた、ピアニストとしての仕事が第一ってことになるでしょ?わたし、本当に心苦しいのよ。日本でいったら、重要無形文化財みたいな人に、自分の息子のオムツなんて替えてもらってていいのかなって……そのこと、毎日考えない日はないくらいなの」
「ピアノなんか、今の僕にはもうどうだっていいんだよ!それより、子供を育てるってことのほうが、人間としてどれだけ大切なことか……ピアノはね、まあ仮に何年か休んだところでまた弾けるさ。だけど、貴史の成長をすぐそばにいて見守ってあげることが出来るのは今だけだからね。ほら、アフリカに、僕の名前を冠した孤児院や学校があるんだけど――あの子たちのうちの誰かを引き取って育ててやれないものかとは、ずっと思ってたんだ。そのことには、罪悪感に近い気持ちを持っていたといってもいい。だけど、僕が引き取れるのはせいぜいが一人か二人くらいなものだから、それじゃなんだか不公平だし……とにかくね、うまく言えないけど僕は今、大切な何かを掴みかけてるんだ。それに、マキのことも好きだ。もう愛してるって言ってもいいくらい」
困惑しきっているマキのことを見て、君貴は笑った。キッチンのあたりを覗いて、自分の分にと残してあったガパオライスを電子レンジで温め直す。
「いや、まさかおととしの大晦日の夜には、こんなことになるとは想像もつかなかったよな。マキ、べつに俺がいるからって遠慮することないぞ。というより、こんなボーギャルソン(美青年)がいて、おまえらがそういう関係になってないってことのほうに、むしろ俺は驚いてるくらいだ。べつに、膣締め体操の効果については、俺が確かめなくてもレオンがどうにかしてくれるとさ」
「何よ、もうっ。人のこと欲求不満みたいに言って!どうせあれでしょ?わたしが帰って来る前にふたりで、わたしのこと色々しゃべったりしてたんでしょ?」
レオンはまだ、顔を赤らめたままだった。君貴が部屋に入ってくる直前に話していたことも、今口にしたことに関しても、あくまで彼は本気だったからだ。(愛してるって言ってもいいくらいどころじゃない。本当に愛してるんだ)とさえ思っていた。
「まあ、そうだな。マキに二件くらい浮気疑惑があるって話を聞かされたよ。あ、そのことでおまえ、俺に嘘ついたろ?廊下にずらっと並んでる気色悪い蘭の花……店のあまりものでもなんでもないんだってな。それと、相手の名前が気になる。入江健っていうのはもしかして、ケン・イリエ建設エンジニアリングのトップの奴のことか?」
「えっと、確かそんなような名前の会社の社長さんだったかな。ほら、うち小さい会社だから、配達に人手が足りないってなると、免許持ってる他の従業員がバンに乗って花を配達したりするの。で、なんかそこの社長さんから、またわたしに花を配達してくれみたいな指名が来て……だけど、べつになんてことないのよ。ただ、社長室みたいなところに頼まれた花を飾って終わりってだけなの」
「ふうん。そりゃ確かに気持ち悪いな。それで、そいつに何か聞かれたりしたか?」
「なんだったかな。あ、そういえば忘れてたけど、会社の帰りに偶然会って、入江さんの車で送ってもらったことがあるんだった。もちろん、貴史も一緒に」
ここで、レオンが急に顔色を変えた。
「ええっ!?だってマキ、ここの住所も知らないとかって、僕に言ってたじゃないか。それなのに、車で送ってもらったなんて……」
「違うのよ。送ってはもらったけど、ここのマンションの真ん前とかじゃなくて、結構手前のところで停めてもらって、そこから歩いてきたの。あと、その時わたし貴史のこと抱っこしてたし、会社帰りだから、もう疲れきってボロボロな状態よ?そんな女のこと、そんな目的のために待ち伏せたりしてるもんかしら」
「う~ん、そっか。貴史が一緒だったってことは、僕がまだここへやって来る前ってことだもんな。そういえば君貴、もしかしてそいつ、なんか同業の知ってる奴だったりすんの?」
自分の本気の告白が中心の話題ではなくて、レオンは少しほっとした。そうだ。君貴がいなくなって、貴史も含めてまた三人きりになったとしたら――もう一度、マキにその気はないのかどうか聞いてみようと、そう心に決める。
「そうだな。俺の仕事のほうは、うちに頼みたいってことで直接指名が来る場合と、あとはいくつかの会社がコンペに参加して、その中で一番気に入った奴を……っていうパターンがある。で、ケン・イリエなんたらって奴は、そのコンペで俺の会社の名前と並んでることが割と多いってやつだ。だが、わからんな。あいつが俺を嫌ってるとして、俺との間に出来た私生児をマキが育ててると探偵でも使って調べたとして――あいつに一体なんのメリットがある?そんなプライヴェートなこと、仕事で俺の足を引っ張るのに、何か役立つか?」
「そうだねえ。それだったら、僕との関係のほうをすっぱ抜いたほうがいいだろうしね。ほら、日本の会社の内部のことなんて僕はあんまりよく知らないけど、日本って欧米に比べて保守的なんだろ?だから、ゲイだってことがバレると、場合によっちゃ肩身の狭い思いをしたりするんだろうしね」
「でもたぶん、入江さんは貴史の父親が誰かなんて、知らなっぽそうな感じだった気がするけど……ただ、自分も離婚した妻との間にひとり娘がいるんだとか、ほんと、フツーの世間話をしたってだけ」
ここで、君貴とレオンがほぼ同時にマキを射るように見た。それで、彼女のほうではやましいことなど何もないのに、妙にドギマギしてしまう。
「マキってさあ、ほんと鈍いよね」
「確かにそうだな。そりゃ、今自分は結婚してなくてフリーだけど、結婚したことがあって娘もひとりいるから、そこそこそういうこともわかってます的アピールってやつだ。まず、間違いない」
「ち、違うわよっ!ふたりとも、ちょっと考えすぎなんじゃない?それで、浮気疑惑の一件目はシロだってことでいいでしょ?二件目は一体何?」
心当たりのまったくないマキは、首を傾げた。貴史のことを抱っこしたまま、「まったく、失礼しちゃいまちゅね!」と囁きかける。「この人たちはばかでちゅ」とも。
「ほら、マキの花屋にチンコみたいな名前の奴がいたよな?それで、そいつに顎でこき使われてる、緘黙症なんじゃねえのかってくらいしゃべらない従業員がいるんだろ?そいつがなんか、マキのことを好きらしいんだと」
「あっ、僕さ、一度マキの会社に行ったことあったよね?その時、間違って裏の倉庫のほうに入っていっちゃって、その時に偶然聞いちゃったんだよ。『マキちゃん、もう子供もいるのに好きだなんて、おまえも変わってんなあ』みたいな話だったんだけど……」
「君貴さんが言ってるのは、金田くんのことでしょ?」
社長が金田常吉のことを呼ぶ時、必ず金ちんと呼ぶ……しかも時々、「♪かねかねちんちん、かねちんちん」と節をつけられるのを、本人はとても嫌がっている――という話を、マキは君貴にしたことがあった。その時の話が、おそらく脳裏のどこかに残っていたのだろう。
「ああ、そいつだ。金子じゃなくて金田だったか。まあ、この際どっちでもいい。レオン、俺、ケン・イリエ、チンコに顎で使われる緘黙症……まあ、マキが一番好きな男を選べばいいさ。単に俺は、マキが蘭の花のことで嘘をついたっていうのが気になっただけなんだ。だが、確かに気にする必要はまるでなかったみたいだな」
これで一件落着、とばかり、君貴はガパオライスの皿を手にしたまま、ソファのほうへ行った。そこでテレビをつけ、チャンネルをいくつかザッピングしたのち、最終的にワールドニュースに落ち着く。
>>続く。