今回も前回に引き続き、↓のお話のほうが佳境なもので、全然関係ないことを前文に書くのはどんなもんだろう……と思い、流石に今回は本文に多少関わりのあることをと思いましたm(_ _)m
それで、O.J.シンプソン事件のことと、ルワンダ内戦のことと、どちらについて書こうかなと思ったんですけど、どちらもまあ↓の中で、ほんのちょっと言及があるといった程度ではあるんですよね(^^;)
O.J.シンプソン事件は、元アメリカンフットボールの有名選手だったシンプソンが、別れた奥さんの二コール・ブラウンさんの首を切り、その場に偶然居合わせたロナルド・ゴールドマンさんの体を33箇所も刺して殺害したという衝撃の事件で、その後彼は「ドリームチーム」と呼ばれた最高の弁護団を雇い、結局のところこの刑事裁判で無罪を勝ち取りました(証拠はどれも彼が犯人であることを指していたにも関わらず……というのは、あんまり有名すぎて、説明する必要もないですよね。そしてその後、ロナルド・ゴールドマンさんの遺族が民事裁判を起こして勝訴したというのもまた、有名な話と思います)。
それでこのO.J.シンプソン、別れた奥さんの二コールさんが命の危険を感じるほどの、恐ろしいDV男だったらしく――それで、↓の中の文章で関係あるのが、DV男性というのは、緊張期(ささいなことでイライラしだす)→爆発期(怒りを爆発させ、暴力を振るいだす)→ハネムーン期(暴力を振るったことを後悔し、一転して優しくなるが、結局のところやがて緊張期→暴力期がやってくる)という周期を繰り返すという、そのことだったりします(これも今は一般的に知られてることだと思うので、特に説明いらなかったかもしれません^^;)。
では、次はルワンダ内戦について……1994年4月6日、ルワンダでは、その後約百日間に渡り、80万とも100万人とも言われる人々が、その短い期間に大量虐殺されたと言われています。
トップ画像の後藤健二さんの本の情報によると、人口としては約8割を占める多数派のフツ族と、少数派のツチ族とがいたわけですが、1962年に植民地支配が終わりを迎え、独立国となると……どちらの民族が国を治めるかで対立を深めていったと言います。
植民地だった頃は、ベルギーなどの欧米諸国の支持を得て、少数派であるツチ族が国を治めていたのですが、1973年に、多数派であるフツ族出身の大統領が国を治めることになり……「おまえらは欧米の手先の言うなりだ」と批判し、ツチ族の人たちを逮捕して刑務所送りにしたり、財産を取り上げたり、死刑にしたりと、弾圧するようになっていったそうです。こうして、少数派のツチ族の人々と多数派のフツ族の人々の立場が逆転することになってしまった。
もうルワンダには住んでいられないと、国を出て近隣諸国へ逃れて難民になるツチ族の人々もいましたが、このツチ族の人々が中心となって反政府勢力『ルワンダ愛国戦線』を作り――ルワンダ国境付近でルワンダ政府軍と戦闘を繰り広げるようになっていきます。
そして、1994年、フツ族の大統領の乗ったヘリコプターが何者かによって撃墜されたことをきっかけに、ジェノサイド(大量虐殺)という悲劇が起きることになりました。
激怒したフツ族の過激派の人々が、ツチ族の人々を次々殺しはじめたのです。過激派や政府軍といった人々だけでなく、一般のフツ族の人たちも銃やナタなどを手にして、近所の、それまで仲良く一緒に暮らしてきたツチ族の人々を殺害してゆき――また、同じフツ族の人の中にも、過激派でない穏健派の人々がいたわけですが、こうした人々はまず、同じフツ族の過激派の手にかかって死んでゆきました。
この本の中で、後藤健二さんは、学校の先生をしていた夫と、四人いた兄弟のうち長男を殺された、アルフォンシンさんという、現在は国会議員をしている女性を本の中で取材しています(ちなみに、この取材は内戦終了後、約14年が経過してからのものです)。
この内戦で、虐殺に関与した人々は裁判を受けることになりました。そして、これは(本の中で)約14年が経過した今も続いているものであり――慰霊祭の夜、アルフォンシンさんと四番目の息子さんで、事件が起きた時は四歳であり、現在十八歳に成長したパトリスさんが交わした会話を、本文中から一部抜粋させていただきたいと思いますm(_ _)m
>>夜の慰霊祭で。
十八歳のパトリスさんは初めてこの慰霊祭にやってきました。ジェノサイドで生き残った人たちの話をこうして目の前で聞くのは生まれて初めての体験でした。
「今、村ごとにジェノサイドの裁判が行なわれているけれど、襲った犯人たちが被害を受けた人たちに本気でゆるしてくださいと言っているのか、それに、言われた方は彼らをかんたんにゆるせるものなのか、理解できない」
アルフォンシンさんはパトリスさんに説明します。
「襲った犯人たちは、ドラマのセリフのようにゆるしてほしいとくり返し言うけれど、本当に心から言っているかどうかはわからないわ。
自分の心を楽にするためだけに『ゆるしてください』と口だけで言っている人だって、きっといるでしょうね。でもね、わたしは最後は神さまが決めることだと思うわ」
「与えられる罰が軽くなることを期待してあやまっているとも思うけどな」
「そうね。でも、神さまはたとえ悪い人でも、敵であっても、ゆるしてくださいと言われたらゆるしなさい、と言っているのよ。難しいことかも知れないけれど、わたしたちもそう考えて生きていかなければならないの」
「でも、もしそうなら、襲った犯人たちは、殺したり、暴力をふるったり、こんなひどい被害を受けた人たちに、きちんと彼らの前に立ってあやまる必要があるでしょう?」
「そうね、その通りだと思う。あたりまえのことね。それじゃ、例えば、あやまらなくてはならない相手がもう生きていなかったら、パトリスはどうするべきだと思うの?」
「自分がしたことには責任を取らなくちゃいけないんだ。言い訳などしないで、きちんと責任をとる」
「わたしたちを襲った犯人たちは、たとえ直接被害を受けた本人がいなくても、今生きているその人の子どもや親戚にあやまって、ゆるしてもらわなければいけないわ。直接会ってあやまって、どうぞゆるしてくださいと相手に言わなければならないのよ。法律でもそういう決まりになっているの。
まずは直接あやまること。被害を受けた人たちが犯人の謝罪の言葉を受け入れて、ゆるすかどうかは被害者それぞれの考えや気持ちしだいだから、ゆるす人もいるし、けっしてゆるさない人もいるわね」
「でも、今は殺人を犯した者でも自分の罪を認めてあやまれば、刑罰が軽くなるよね。例えば、刑務所に三十年間いなくてはならないのに、五年に刑が減らされるとか。そんなの理解できないし、ぼくは絶対に受け入れられない」
疑問をぶつけてくるパトリスさんに、アルフォンシンさんはしばらくだまっていました。
「パトリス、この国で起きたことは、そんなに単純じゃないし、この国の未来を作っていくのもかんたんなことではないのよ」
「お母さん、たとえば、一度罪を犯した人が被害者にあやまってゆるしを願い、刑罰が軽くなった。でも、また別の人を殺した場合は今の法律ではどうなるの?」
「無期懲役ね」
「死刑にはならないんだね」
「わたしたちの国では死刑や復讐をすることはできない。そういう法律なのよ。二度と刑務所から出てくることができない無期懲役ね」
「二度と出てこられない無期懲役か……」
(『ルワンダの祈り~内戦を生きのびたある家族の物語~』後藤健二さん著/汐文社より)
実は抜粋したい箇所が他にもあるのですが、文字制限に引っかかってしまうため、ご興味のある方は、是非後藤健二さんのこの本を手にしてみて下さい字も大きいので読みやすいですし、一度読んだらアルフォンシンさんやルワンダの人々が抱える苦悩について、読了後には共感と感動を覚えることの出来る、本当に良い本と思うので……。
後藤健二さんもまた、悲劇的な亡くなり方をした方ですが、おそらく彼は善きサマリア人であろうとしたのでしょうし、少なくともわたしの中では後藤健二さんの死というのは、一時期ニュースで騒がれて終わったといった種類のものでなく、今も忘れられないこととして心に残っています。
それではまた~!!
ピアノと薔薇の日々。-【30】-
『ああ、君貴?』
相変わらずレオンの声が沈んでいたため、君貴は胸が痛んだ。果たして、自分がマキの想いを代弁したところで、どこまで彼に通じるだろうかと、少しばかり不安にもなる。
「もしかして、寝てたのか?」
『いや、起きてたよ。それで、自分のことをテレビ番組でやってるのを……自虐的にずっと見てた』
「おまえ、そういうのやめろって。ただ単に精神衛生上よくないってだけだろうが。テレビなんか見るな、ネットも繋ぐな、ただ綺麗なものとか美しいもんだけ見て、心を安らがせろって言っただろ?風呂の棚のところに色んな入浴剤があるから、そんなのでも使ってリラックスして寝ろ。俺がそっち行けるのはたぶん、二週間後とか三週間後とかになっちまうから……そんな気が落ち込むことしてるくらいなら、マキのところに帰れよ。わかったか?」
ここで、レオンは突然くすくす笑いだしていた。躁うつ病患者にも似た気配を感じ、君貴としても一瞬受話口を見つめてしまう。
『いや、それがさ……そうでもないんだよ。ほら、僕が今までに出演した映画の共演者が、すごく怒り狂ってるんだ。特に、ポーリーン・クラウスやエリザベス・コープランドなんかがね。君貴も本を読んだんならわかると思うけど、彼女たちは本の中に名前が出てくる。映画の中で恋人同士だったり友達だったりした関係から、ちょっと一緒に食事したってだけなのに、交際してるんじゃないかみたいに騒がれたことがあって……その事実関係について、ヨウランの代理人のインタビューを受けたってことだった。彼女たちは「レオン・ウォンの半生について本を執筆中」だっていう著者の代理人に、特に不審の念を抱くことはなかったんだね。それに、物凄く好意的な言い方で「レオンのことは大好きだけど、つきあってはいない」とか、エリザベスなんて、「レオンのほうからそう言われたら喜んでつきあっただろうけど、残念ながらそうじゃなかったの」なんて言ってくれてるんだからね。だけど、もし本の内容がこんなものだって最初からわかってたら、絶対インタビューになんか応じなかったって。あと、テレンス・ヨークのことなんて、君貴知ってる?』
「もちろん知ってるさ。知らないわけがない。アカデミー賞を二度も受賞してる名優だものな」
『そうなんだよ!その彼が、ツイッターで怒りを表明してくれてね。あと、自分のことを追いかけてきたパパラッチなんかに、「俺のことなんか追いかけてる暇があったら、あのクソみたいな中国女をどうにかしろ!」って怒鳴ってくれたんだ。いや、僕、テレンス・ヨークとは一面識もないよ。だけど、僕の演技を見て、最初から才能あると思ってたんだって。それなのに、こんなくだらないことで二度とスクリーンで僕のことを見られないだなんて残念だって……ほら、彼も僕と同じなんだよ。彼の場合は両親とも揃ってはいたけど、虐待が原因で施設に預けられて、そのあと何人かの親戚や里親にたらい回しにされたりして――だからさ、人事とはとても思えないって』
レオンは泣いていた。そしてこの時、君貴は心のどこか奥のほうでほっとした。心のもっとも暗いところに引きこもっていた彼自身に、一筋の光が差し込んできたのではあるまいかと、そんな気がして。
「良かったな。テレンス・ヨークが味方だなんて、凄いじゃないか!あとな、レオン。ついさっき、マキと話したんだ。そしたら、おまえのこと愛してるって言ってたよ。ずっと待ってるから、気持ちの整理がついたら帰ってこいだとさ。淫売女が金を払ってでもおまえとやりたがってるとも伝えておいてくれって言われたよ。おまえ、マキにそんなこと言ったのか?」
『………言った。確かに、言ったけど、おまえだってわかるだろ?そんなのもちろん本気じゃない。他に、くだらない花屋と家を往復するしか能のない平凡な女のくせにとか、素直なのと正直な以外取り柄がないのに、嘘までつくようになったらおしまいだとか、すごくひどいこと言っちゃったんだ』
まさかマキから、そんな意外な切り返しがやって来るとは思わなくて、レオンはあらためて自分が恥かしくなっていた。
「なるほどなあ。けどあいつ、全部わかってたよ。どんなに相手を傷つけても、それでももし愛してるって言ってくれたら、それが本当の愛だってレオンが思ってるんじゃないかとも言ってた。だから、何も心配いらないんだよ。貴史も、自分が悪い子だからパパがどっか行っちゃったみたいに思って、元気ないらしいぞ。マキも、おまえと一緒に暮らしはじめる前まで、どんなふうに自分と貴史でやってきたのか思いだせないくらいだって言ってたしな。ふたりともレオンがいなくて寂しいし、おまえが家にいる間、どんなに毎日が楽しくて輝いていたかとも伝えておいてくれだってさ」
『……嬉しいよ。本当に、心の底から嬉しい。僕だってマキのことを愛してるし、貴史のことも愛してる。でも、今はまだ駄目なんだ。ほら、今の僕の精神状態はちょうど、DV男のそれとまったく一緒だからさ。かなり昔にあったO.J.シンプソンの事件は、君貴だって知ってるだろ?』
レオンの文脈でいくと、シンプソンが妻に暴力を振るって死に至らしめたにも関わらず、優秀な弁護士をつけたことにより、法廷では無罪になったという有名な事件のことを言いたいらしい。
だが、君貴の中ではそのことと、レオンの言いたいことがまるで繋がらなかった。
『僕もさ……まさか自分がこんな人間だとは思ってもみなかった。あれ、確かエルか何かだったと思うんだけど……カバーを僕が飾ったことがあってね。普段僕は女性誌って、そういうことでもないと読まない。だけど、そこに書いてあったんだ。DV男にはあるサイクルが存在していて、殴ったりなんだりしたあとには、そのことに対して悪いと思って反省する時期がある。ちょうど今の僕がそうであるみたいにね。で、そのあとさらに自分のパートナーに物凄く優しくするっていうハネムーン期があって――また何かちょっとしたことで腹を立て、相手を気が済むまで罵って傷つけたり、殴ってストレス解消をする暴力期ってのがあるわけだ。君貴、僕の言ってることわかる?僕がもし今、マキの元へ戻ったりしたら……僕はマキや貴史に対して、この上もなく優しくするに違いないよ。だけどまた、何かちょっとしたことをきっかけに、マキにひどいことを言っちゃう気がする。君貴、僕はね……軽蔑してくれていいけど、危うくマキに暴力を振るうところだったんだ。ギリギリのところで思い留まることが出来たのは、一重に彼女が妊娠してたからだよ」
「そうか。だがまあ、おまえの今の精神状態じゃ、それも無理はない。俺も、マキには言っておいたんだ。今はお互い時間と距離を置いたほうがいいんじゃないかって。それでな、大体マキにちょうど子供が生まれる頃……今回の件も静まってるだろうし、腹の子はレオンの子だろうから、それで一件落着だって」
『まあ、僕は生まれてくる子は君貴の子なんじゃないかっていう気がするけどね。それに、こうなってしまった今は、それで良かったんだとも思える。ヨウランの本が出版される前までは、絶対僕の子であって欲しいと願ってたけど……本当に、もういいんだ』
レオンもまた、マキと同じくぐすっと鼻を鳴らしていた。ティッシュを抜き取り、鼻をかむ音が聞こえる。
「そう言うなよ。俺にガキをふたりも押しつけようってのか?そりゃないぜ。もちろん俺は、レオンに対して何か偉そうに言えるような筋ではないけどさ。あとな、それでいくとおまえはもうあのヨウランって子の術中に嵌まってるってことにもなるんだぞ。ほら、エリザベス・コープランドやポーリーン・クラウスなんかにわざわざ裏を取ったみたいに……女との交際事実がなかったとわかるたび、ウォン・ヨウランのほうでは気味悪くニヤリと笑ってたんじゃないか?それで、今回の件でレオンとマキの仲を駄目にするっていうのが、あの女の計画の一部だったんじゃないかという気がするんだがな」
『そっか。でももう、僕にはそんなことも冷静に考えられないや。とにかく、ヨウランの計画は成功した……彼女の計画通り、今僕はボロボロだ。傷を回復させようにも、君貴は遠いところにいるし、マキや貴史の元へは戻れない。だけど、あいつの思ってるとおりにだけは、絶対させないつもりだよ』
君貴は、レオンの決然とした意志を感じて、彼が訴訟を起こすことに同意するつもりなのかもしれないと思った。何分、ハリウッド・スターや、普段からパパラッチに追いかけ回され、プライヴェートを脅かされているタレントたちは、ほとんどがレオンの味方なのだから。
「確かに、あの娘はある意味賢いな。本が実際に発売になる直前までプロモーション活動をして、発売と同時に雲隠れでもしたようにメディアには姿を現さなくなった。本を読んだ人間がどんなふうに反応するか、わかってたんだろう。マキもな、レオンから問い詰められた時点で、実際には本の最初のほうしか読んでなかったって言ってたぞ。あんまりつらくて、読み進められなかったらしい。だけど、レオンがもう自分が本を読んだと思ってる以上、つらくても読む必要があると思って読み通したと言ってた。レオン、あんな腹の黒くて醜い中国女に負けたりするなよ。そんなものより……もっと俺たちには大切なものがあるだろ?まあ、マキのほうでは、俺たちにとって自分がどれほどの位置を占めてるか、その意味と重みについて、まるでわかってないようではあるがな」
『そこがマキのいいところだよ』
レオンはふっと顔の表情を緩めた。あの呪われた本をすべて読んだ……マキの深い愛情については、彼の心の奥深く、隅々に至るまで満ちてはいたが、レオンはこの時自分たちの関係は終わったと、そのようにはっきり感じていた。
『あのさ、君貴。マキにあらためてあやまっといてもらえないかな。もちろん、僕にだってわかってるんだ。そんなこと、わざわざ言う必要さえないくらい……あやまる必要さえないくらい、マキが僕のことをわかってくれてるってことはね。僕はマキに、素直なところと正直なだけが取り柄の平凡な女みたいに言っちゃったけど……本当は違うんだ。そういう意味じゃなくて、僕はずっと、マキのことを尊敬してた。ほら、僕は自分が二重人格だからさ、わかるんだよ。無理して善い人間なんかやってると、絶対どこかに皺寄せがやって来る。それで僕が時々君貴にヒステリー起こして当たるみたいにさ。でも、マキにはそういう裏表が一切なかったし、実際のところ、本当に素直で正直で善良だったら……人間として、他には何もいらないくらいじゃないか?そういう意味でも、マキは全然平凡な女なんかじゃないよ。そんな人間、僕は今の今まで、マキ以外誰にも会ったことなんかないんだから。花屋の仕事にしたって、もし僕がマキなら、君貴の子を妊娠した時点で絶対辞めてるね。それに、おまえが生活費くらい出してやるって言ってるんだから……途中で放りだした僕が言える筋じゃないけど、おまえはマキのことをもっと労わってやらなきゃ絶対駄目だよ。貴史の時だってそうだけど、よく子供が生まれるギリギリまで働いてたもんだって思うからね。そりゃ、マキはもともと痩せ型なせいか、妊娠五か月の今もあんまり太って見えないけど……女の人っていうのは、ほんとに大変なんだから』
「おまえら……それ以前に俺を伝言ゲームの駒として使うのをやめてくれないか?そんな長い言葉、たぶん次に俺がマキに伝える時には、内容が少しくらい変わってるぞ。もしそれが嫌なら、俺との通話を切ったあと、マキに電話しておまえの口から直接そう言え」
『ああ、そうするよ。ありがとう、君貴』
「それじゃあな……あっ、あと、いくら世界がおまえの味方でも、テレビはやっぱりなるべくだったら見るな。ネットもな、エゴサーチなんか絶対するなよ。そんなものより、昔の名作映画でも見て心を潤してろ」
『なんだよ、それ。まあ、いいや。僕のこと、心配してくれてるっていうのは痛いくらいわかってるからさ。愛してるよ、君貴。それじゃあね』
――レオンは、君貴に嘘をついた。彼のほうでは、マキに電話をするつもりは毛頭ない。ロンドンのチェルシーの屋敷へは、ただ自分の荷物を整理するためだけに帰ってきた。あとは、彼自身がこの世界でもっとも愛した男に対して、置き手紙を残してゆくために……。
(ここでは、本当に色々なことがあった。三十室以上もある部屋のすべてで――あと、時には廊下や階段の踊り場のところでも愛しあったことがあるくらいだった。同じくらい喧嘩もよくしたけど、今ではそのすべてがいい思い出だ……)
最後、レオンはそのひとつひとつの部屋を懐かしい思いで見渡してから鍵をかけ、フランスのシャトー風にも見える、薔薇色の装飾煉瓦で出来た屋敷を見上げた。鍵のほうは、庭の手入れなど、君貴の留守中を預かっている近くに住むコンシェルジュに渡すつもりでいた。
君貴へ。
こんなふうに手書きでおまえに手紙を書くだなんて、もしかしたら初めてのことかもしれないね。今はなんでも、チャットアプリやメールなんかで済ませてしまえる時代だから……おそらく、この手紙を君貴が読む頃、僕はもうこの世界にいないだろう。
もちろん、わかってる。おまえやマキの気持ちを考えたら――僕は今でも、自分が間違った選択をしようとしてるんじゃないかとは思うから。だけど、むしろ逆に考えてもらえないだろうか?もし僕が君貴と出会ってなかったとしたら、たぶん僕の寿命は間違いなくもっと短かった。今から四年くらい前だったかな。僕はコンサート中に指が強張るような感覚を覚えて、病院へ行ったことがある。その後も、かろうじてミスはしなかったとはいえ、そうした感覚が続いた僕は、今度は別の病院へ行った(最初の病院では、心因性のものではないかと診断され、精神科を紹介されたからね)。局所性ジストニア……ピアニストやギタリスト、弦楽器奏者の指などに起きるもので、ある特定の動きを頻回繰り返す人間がなることのある、脳神経疾患だそうだ。君貴にもわかるだろう?今から約四年前といえば、僕がマキと一緒に暮らしはじめるようになる、少し前くらいだ。僕がその時、絶望したと思うかい?正直、ショックはショックでも、絶望するってほどじゃなかった。何故といってその前までの人生に、僕には色々なことがありすぎたからね。『神さまや運命ってやつは、どうしてこんなに残酷なんだろう?』と思いさえしなかった。そんなこと、人生の極初期の頃にすでに体験済みだったし、ピアノが弾けなくなるといっても、練習時に指の強張りを覚えたことは一度もない。そういう意味では心理的ストレスといったことも関係した病気なんだろうね。それに、治療法がないわけじゃないんだ。僕は定期的に通院して(これは特に、コンサートの予定が入った時、計画的に、ということだけど)治療のほうは受けていたし、脳にメスを入れてまで根本的に治そうといったようにまでは思えなかった。むしろこれで、ピアノはやめにできると思い、心のどこかで安心してさえいた気がする。ただこの場合、僕にとって問題になるのは、君貴、おまえとの関係性のことだった。
ピアノは、僕と君貴の間を繋ぐ大切な絆でもあったし、ピアノをやめてしまったら、もしかしたらおまえはもう僕に以前ほど興味を示さなくなるかもしれないとも思った。こんなこと、今さら書きたくはないけど……おまえが一夜限りの関係を遊びで誰かと持つというんじゃなく――女がいるってわかった時、僕は本当にもう、おまえとの関係は終わりだと思った。実はね、僕はマキのいるマンションを訪ねた時、彼女がどんな人間なのかをよく知りたいように思っていた。何分、僕と君貴の関係は終わりになるにせよ、マキとおまえの間には子供がいる。子供がいる以上、これからもなんらかの形で関係を持ち続けるのは当然のことだろう。だが、おまえは自分の息子に驚くくらい興味を示さなかった。そこのところ、おまえとは逆に血の繋がりなんかなくても、僕はただ純粋に貴史のことが可愛かった。マキも働いていてすごく大変そうだったし……いや、それもあるけど、何より僕はマキのことを気に入ったんだよ。本人は気づいてるかどうかわからないけど、たぶんあれは一種の才能だね。大体、最初の僕がそうだったみたいに、彼女のことを理由もなく嫌いになったりする人間は、性格のねじくれたどうしようもない奴だけだと言っていいだろう。
僕は自分がゲイだと思っていたけど、毎日ずっと一緒にいて、相手に好意を持っているのに――欲情しないなんていうのはまず難しいことだ。それで、僕はマキとそうした関係になれたらいいと望んだ。この頃、僕はもう遠い先まで仕事を入れてなかったし、演奏旅行やらコンサートの重圧やらのストレスからもすっかり解放され、生まれてこの方感じたことがないくらい自由で幸福だった。たぶん、あのままとにかくひたすら仕事をキャンセルし続けて、君貴のチェルシーの屋敷なり、ニューヨークの自分のペントハウスにひとりでいたとしても……僕は自分を大して幸せとは思えなかっただろう。だが、マキが僕の魂を救った。これ以上のことは色々細かく書かなくても、この三年もの間、僕がいかに幸せだったかは、誰よりおまえの知っていることだろう。だから、マキに伝えて欲しい。僕が今まで生きてきた人生の中で、一番幸福だったのは、最後に彼女と過ごした三年ほどの時間だったということを……。
君貴にはつらい役割を押しつけるようで悪いとは思ってる。それに、僕が死んで、いくらおまえの仕事に支障がまったく出ないようにと願っても――無理なこともわかってる。もし今僕とおまえが逆の立場で、何か仕事上のトラブルで悩みに悩んで自殺することを選んだとするだろう。そしたら、マキがいなくて前と同じく僕とおまえだけの関係性だったら、僕ならおまえのあとを追って必ず死ぬ。もし仮に僕が病気になってなくて、コンサートが先々ぎっしり詰まっていたとしても、もう生きていく気力が湧いて来ないだろう。だが、君貴は僕とは違う。世界中でおまえがなんらかの形で関わった建築物のプロジェクトが進行中で、百名以上もの部下を抱えた会社のCEOでもある……その責任のため、またマキのためにもおまえは必ず立ち直ることが出来ると信じられるということ、それだけでも僕は安心して死んでいけるんだ。
だが、その前に僕が何故死を選び取ることにしたのか、その部分の説明が必要だと思う。僕は前に、これまでの人生で何度か死のうと考えたことがある――そうおまえに言ったことがあったよね。ウォン家に引き取られてきたばかりの頃、僕は夜ひとりきりになると泣いてばかりいた。でもその後、インターナショナル・スクールに友達も出来て、生きているのが少し楽しくなった。通っているのは本当の金持ちの、上流家庭のお坊ちゃまやお嬢さまばかりだった。親の愛情をたっぷり受けて、何不自由なく育てられると、あんなふうに性格も良く育つんだな……といったようなね。もちろん、僕は彼らや彼女たちが好きだったし、家のほうにもよく招いてもらって、みんなの家族にも愛されているといったような関係性だった。前にも話したとおり、昼間普通に学校で勉強してから、今度は家でスタン先生についてさらに勉強するのは苦痛ではあったよ。でも、スタン先生が『おまえはこれから世に出ていって勝ち組になれ』と言ってくれたことで――僕には生きる目標が出来た。そうだ、確かに僕はウォン家の人間には誰にも愛されてない。でも、成績が優秀なら、最低でも大学までは出してもらえる。そしたらそのあとのことは自分の実力次第ということになるだろう……僕に色々屈辱的なことをしてきた連中は、今刑務所にいる。あいつらの将来は出所しても真っ暗闇か、いいところを言って極めて黒に近い灰色といったところだろう。でも僕の未来はきっと光り輝いている――僕はそう信じて努力を続けることにした。真面目にコツコツ頑張れば上にいけるチャンスがあるだけでも自分は幸運な人間なんだと思い込むことにしたんだよ。けれど、自分の擬似親のように感じていたスタン先生はある日突然クビになった。そのあと、ミスター・ウォンによる猥褻な行為がはじまって……ヨウランも「父のことを弁護するつもりはありませんが」と断りつつ、「父は最初からそうしたことが目的でレオンのことを引き取ったのではないと思います」と書いていたね。僕も、この点については同意する。そもそも、外に愛人を十人も持ってる男が、何故男にまで手を出さなきゃならないんだ?僕はね、最初に彼に犯された時、死のうと思った。コツコツ努力だって?そんなことが一体何になると思ったし、すべてが馬鹿らしく、生きている意味自体ないとしか思えなかった。他のインターナショナル・スクールに通ってるお坊ちゃま・お嬢さんと僕とで、一体何が違うんだ?比較する対象が身近にある分だけ、余計自分が惨めだった。けどまあ、あのタコのハゲ親父は、僕に跪いて許しを乞うたのさ。それまで、僕の人生で本当の意味で謝罪してきたような人間は一人もいなかった。もちろん、嫌には嫌でも――それまで、衣食住といったことでは何ひとつ不自由なく、ピアノも自由に弾かせてもらえ、学校にも通わせてもらえてる……昔の惨めな境遇に比べたら、まだしも耐えられる要素があると僕は思った。それでも、自分の人間性が貶められ、尊厳が汚され続けることに変わりはない。果たして自分はこのまま生きるべきなのか、死ぬべきなのか……禅の瞑想でもするみたいに、僕はピアノを弾きながら悩み続けた。この時には僕のピアノは同じ年齢の子と比べて、かなりのところ上をいってたんだろう。国内外のピアノコンクールで優勝するたび、次々と先生が変わっていった。その後のショパン・コンクールの優勝。と、同時に、ミスター・ウォンも死んだ。思った以上に早く彼が死んで、僕はそのことを心の底から喜んだ。ほんのついきのうのことになるけど、深夜に僕のこれまでのピアニストとしての歩みというか、昔撮影されたドキュメンタリーが放映されてるのを見た。ショパン・コンクールで優勝したあとの記者会見で、僕は泣いてたよ。「涙が出るほど嬉しいことだったんですね」なんて間抜けなことを聞く記者がいてね、僕は如才なくこう答えたものだ。「すみません。僕を養子として引き取ってくれたミスター・ウォンが、僕がピアノコンクールで優勝したことを知ることなく亡くなってしまったものですから……僕が流しているのは、その悲しみの涙です」とね。今となってはまったく笑ってしまうよ。ヨウランは本に書いていたね。「レオンは記者会見でそう答えていましたが、彼は実際には葬式の席で涙ひとつ零しませんでした」と。でもまだ、この時には僕だって、ウォン氏が自分に実子のひとりと変わりのない資産を残してくれただなんて、知らなかったんだからね。とにかく、たんまり遺産を貰った僕は、その莫大な金の贖いをもって、ミスター・ウォンのことは許すことにした。何故といって、相手のことを許さないということは、いつまでもその相手に縛られ続けることだからだよ。あのタコのハゲ親父は、僕にとってそこまでの価値はまるでなかった。
ヨウランが、音楽雑誌の記事なんかの、お角違いの意見を集めてたと思うけど……レオン・ウォンのピアノの演奏技術は、ショパン・コンクールを頂点として、徐々に衰えていった時期がある、とかいうやつ。実はあれは、当たっていなくもない。一種の燃え尽きシンドロームっていうやつだ。苦しみの元凶だったミスター・ウォンは、『早くコイツ死なないだろうか』と僕が悪魔に願っていたとおり、早死にしてくれた。その上、生活するのにまったく困らない資産まで今はたっぷりある――もちろん、ピアノのことは変わらず好きだったよ。でも、人からキャーキャー言われたり、時の人として騒がれても……僕はあまり嬉しくなかった。彼らというのか、彼女たちというのか、とにかく大衆が見てるのは本当の僕の姿ではない。その上、大衆の求める「理想のレオン・ウォン像」を演じ続けなきゃいけないっていうことも……長ずるにつれ、なんだか面倒だと思うようにもなってきた。
この時、僕の中に生きていたのはとにかく、スタン先生が僕の中に否応なしに叩き込んだ「何も考えられなくなってへとへとになるまで何かに集中する」ってことだったかもしれない。とにかく毎日、「僕は出来るだけのことはした」、「最高の結果が得られるよう最善の努力はした」という気持ちで夜眠れるようにしたわけだ。演奏旅行で世界のあちこちの国へ行けるのは純粋に楽しいことだったし、世界の広さを身体を通して体験することで――自分が囚われていた悩み・苦しみが小さく感じられるようにもなってきた。また、唯一僕自身が「生きている」、「生きていて良かった」と感じられるのは、ピアノの演奏を通して人に喜びを与えられるその瞬間だけだということもわかった。僕はますます音楽のミューズへの献身を心に誓うようになり、ジュリアード音楽院へ進学した……こんなふうに書いていくと長くなるから飛ばすけど、僕にとって大切なのは、何よりおまえという存在に出会えたことだ。「僕とピアノ」、「ピアノと僕」――ピアニストっていうのは、どうしても孤独にひとり研鑽を積む以外にない種族だ。そして、スランプ期というやつがどうしたってある。僕はね、君貴と会うちょっと前まで、暫くの間コンサートは控えて休養しようかと考えていた。でも、おまえと出会ったことで、僕のピアニストとしての寿命は伸びたし、もう伸び代はないように感じてもいたのに、学ぶべきことは確かにまだあったよ。君貴、僕はおまえのピアノが好きだ。なんで建築家になんてなっちまったんだろう……今もたまにそんなふうに思うことがあるくらいね。とにかく、おまえの演奏技術は僕にとって新鮮で、弾き慣れた曲にも、まったく新しい解釈が成り立つことに気づかせてもくれた。「楽譜通りに弾くとすればこうでも、俺ならこう弾く」とか、ピアノの前でいつまで話していても、飽きることはなかったのを、今も思いだすよ。いつだったか君貴は、僕を見ていると「自分にあったもうひとつの姿を見ている気がする」って言ってたことがあっただろう?僕はね――おまえのその一言で、もう少しピアノを続けてもいいと決意することが出来たんだ。ピアノだけじゃない。僕はおまえの与えてくれるすべてのことに夢中になった。そうして、生きる充実感のようなものが幸福とともに再び戻ってきた。僕はおまえがいれば他に何もいらなかったし、仕事熱心なおまえの影響を受けて、映画やモデルや、新しいことにも挑戦してみることにした。今にしてみると、本当にそうしておいて良かったと思う。わかるかい、君貴。間違いなくおまえと出会えたことで……僕の寿命は延びた。まあ、浮気がどうのと随分喧嘩もしたけど、それでも僕は心のどこかで――こんなにも誰かひとりの人間に執着できる自分に、喜びを覚えてもいたんだ。それからマキ……マキのこともおまえの浮気が原因とはいえ、もしそんなことでもなかったら、僕は彼女と結ばれることはなかったわけだから、そのこともおまえに感謝しなくちゃならないと思ってる。本当に、ありがとう。
この手紙をマキに見せる必要はないし、僕が言いたかったことの主旨は、大体のところおまえがマキにうまく説明してくれると信じている。それでも、自分から死を選び取った僕のことを、おまえは決して許せないだろう。だが、覚えていてくれ。僕は決して――ヨウランのために死ぬわけでも、彼女に対する当てつけのために自殺するわけでもない。ただ、彼女はこのことで苦しむだろう。良心の呵責に悩むあまり、何かの精神的な病気を発症する可能性だってある……でも、僕はそんなことまで気にかけてはいられないんだ。第一、あんな本を出版しておいて、僕が自殺する可能性もあるとは彼女は考えなかったのかどうか……なんにしても、僕の病気のことは死後に事務所のほうから発表になるだろう。その上、あの悲惨極まりない生い立ちだ。君貴、僕は頑張ったんだ。これでも、自分なりに出来ることはすべてしてきたつもりだ。僕は、本当によく頑張って今日この日まで生きてきたと――そのことを自分でも誇りに思うくらいだ。
僕の遺産のほうは、すべてレオン・ウォン基金に贈られることになってる。本当は、君貴やマキや貴史、それに生まれてくる子供に遺産を残したい気持ちはあった。けれど、そうすれば本に出てくる建築家Kは間違いなく君貴だということになるだろうし、マキに関していえば……僕との関係をあれこれ世間から詮索されることになるだろう。それに、これはミスター・ウォンから遺産を受け継いだ時に僕が思ったことでもあるけど――あれはあまりいいものではない。世間からあれこれ言われる種でもあるし、あり余る資産といったものは、人との間に不和を生みやすくもある。ヨウランも言っていたろう?実子である彼女や彼女の兄のハオランより、何故僕のほうが受け継いだ不動産が多かったのか、なんてね。すべてはくだらないことだ。僕の目から見たとすればね。ただ、金にはいいところもある。僕はチャリティ・コンサートを開く傍ら、レオン・ウォン基金を通じて、色々な慈善団体に寄付をしてきたけど……アフリカの発展途上国の子供たちとかね、僕は自分が上から手を差し伸べるべき存在だとは思っていない。何故なら彼らのひとりひとりが僕自身だからだよ。僕が自分のことを助けるのはあまりに当然のことだった。そう思って、寄付の傍ら、現地を訪れて何度となく無料のコンサートを開いてきた。僕が戦争やテロの被害があった土地、被災地へ行くのも大体同じ理由からだよ。僕は過去に遡って、「自分よりも悲惨な目にあっている人間」を求めてきた。ひねくれた薄暗い心理からね。僕が経験したよりも大変な事態や悲惨な経験、人生の辛酸をなめる体験をしている人間がいて、なおかつそれを乗り越えた経験を持つ人がいたとすれば――それは僕が生きる理由にもなりうることだからだ。ルワンダ内戦のことは君貴も知ってるだろう?同じ国内で約八割を占めるフツ族と、残り二割ほどのツチ族が対立を深めて争い、多数派だったフツ族が少数派のツチ族を虐殺していった。子供も女性も、赤ん坊も……ただツチ族だというだけで殺された。しかも、彼らはツチ族の人々を簡単には殺さなかったんだ。まず、逃げられないよう足の腱を切り、腕を切断し、足を切断し……あまりの激しい痛みに「いっそのこと殺してくれ!」と嘆願しても聞き入れてもらえず、そうした形で生き延びた少年もいる……慈善心なんかじゃないよ。僕はね、自分よりもひどい目に遭った人がいると聞くと、「生きていてくれてありがとう」と思い、そうした人々のためには跪いていくらでも何かしたい気持ちになった。刑務所への慰問なんかも、理由は大体同じだね。僕はたぶん、あんな環境であったにせよ、「自分はラッキーだった」と思うべきなんだろう。じゃなかったら、引き取られた先の里親と気が合わないか何かして、その家を飛び出し、金がなくなって行き詰まり、安い金で体を売ってはクスリを手に入れる……何かそんな男娼みたいな生活でもする以外になかったろうね。そうこうするうち、何かの犯罪事件に巻き込まれ、刑務所行きになるというお定まりのパターンだ。何分僕は男どもに目をつけられやすい――おそらく、その際には地獄のような刑務所生活になっていたことだろう。この一事をもってしても、ルイ・ウォンのことは金持ちの「いい客」だったとでも思って許すしかないと、僕としてはそんなふうに思うのみだ。
だけど、彼の娘のヨウランのことは別だよ。見ててごらん、君貴。僕は今自分がこんな事態になるとは露知らず、貴史のことを家で育てる傍ら、時々自分の人生にこれまで起きたことを振り返り、時系列順に文章にしてきたんだ。もっとも、児童養護施設時代のことだの、ウォン家での性的虐待だの、そんなことには一切触れられていない。ショパン・コンクールで優勝するまでにどんな紆余曲折があったかとか、その後の演奏旅行を通じて、僕がどんなふうに人間として成長していったかといったような、ハリウッドが喜びそうな感じのサクセス・ストーリーだよ。あとは、その時々で得意としていた演目の音楽的解釈のことや、世界中のオーケストラとの関わりや、指揮者やヴァイオリニストといった共演者の間にあった面白いエピソードのことや……いつか将来、もし貴史やお腹の子が僕のこの本を読んだら、「自分もピアニストになろうかな」と夢を持つことが出来るような、そんな内容だ。
そうだよ、君貴。僕はかつて義理の妹だったウォン・ヨウランに復讐する。原稿のほうは、最後にもう一度読み返してから、ロイ&タナー・エージェンシーのほうへ送るつもりだ。もちろん、こんな結果になって申し訳ないといった謝罪と感謝の手紙と一緒にね……この原稿の中には、僕が今まで一体どこの国でチャリティ・コンサートをし、その時どんなふうに感じたかといったことについてまで、すべて書いてある。こんな慈善の大家、聖人の鏡を我々は失ったのか、なんという世界の損失か――と、読む人が感じるような内容だ。だから、貴史やお腹の子が大きくなったら、こっちの本を読むようにしてくれないかな。たぶん、十代とか二十代くらいの子が今の世界のことを考えるのに、多少なりとも助けになるか、なんらかの形で感化されるような、そうした内容になっているとも思うから。
僕はこの原稿の中で、ヨウランのことには一切触れてないし、遠まわしにでも彼女が出版した本の内容を打ち消すようなことも書かなかった。ジュリアード音楽院時代、仲間に囲まれて楽しい学生生活だったとか、そんなことは確かに書いたけどね。でも逆にいうとこれは、ヨウランの書いた本の内容の反証ともなることだ。こんなに充実した、素晴らしい人生を生きた人物は、彼女の本の中に出てくる人物と本当に同一人物なのだろうか……といったようなね。それとね、文章の中に出てくることで、僕は君貴にあやまらなきゃいけないことがある。特に本の後半に、友人とモナコで過ごしてその年はこんな楽しいことがあったとか――そうしたエピソードに出てくる「友人」というのは、その多くがおまえのことだ。でも、このエッセイ風の文章を読んだ人はレオン・ウォンには何人もそんな親しい友人がいるのだろうな……といった印象を持つだろう。あと、本当は君貴が口にしたことなのに、まるで僕がそのことを考えたみたいに、9.11のことやテロや戦争のこと、あるいは大きな地震や津波のあった国のことについて語っている箇所もある。もっともおまえは自分が「そんなことをしゃべっていたか」ということにも、気づかないかもしれない。でもまあ、すでに死ぬ覚悟を決めた奴が書いたことだから仕方がないと、大目に見てやってくれないか。
最初からわかっていたことだけど、長い手紙になったね……僕があと心配なのは、マキとお腹の子供のことだけだよ。僕が自殺したと聞いて、マキがショックを受けるあまり、体に変調をきたしたりしないか、そのことだけが心配なんだ。でも、僕にとって機会は間違いなく今しかない。次にもう一度君貴の顔を見たとしたら――僕はすっかり決心が鈍ってしまうだろう。けど今、僕は妙に清々しい気分だ。色々あったにしても、本当にいい人生だった。何故かわかるかい、君貴?それは僕がこれから終わらせようとしてる僕の人生の最後のほうで、おまえとマキに出会えたからだよ。もし、時を巻き戻して、もう一度この世界に生まれたとするだろう。それで、神さまみたいな人が言う。「これから色々つらいことがあるだろうけど、最後のほうで心から愛せる男と女にひとりずつ会えるから頑張りなさい」……なんてね。君貴、おまえも知ってるだろうけど、僕にはずっと神と死の専門家みたいなところがあった。あのつらい児童養護施設時代、「神さま赦してください。もう疲れました」みたいに、何度祈りながら眠ったことだろう。子供というのは一体どこまで純粋な生き物なんだろうね。あんなひどい目に遭っていたのに、僕はまだ神を信じていた!もし神さまというやつがいて、「あんな目に遭わせて済まなかった」と、ただ一言あやまってさえくれるなら、僕にも向こうを泣きながら赦すといった選択肢がないわけじゃない。「あんただって大変だもんね。いまや地球には七十億以上も人間がいて、その全員の面倒をみるのは大変だろ?それに、あんた自身があいつらをけしかけて僕のことを犯すよう仕向けたってわけでもない。だから、あやまってくれるんなら、僕だって赦してあげないことはないよ」……だけど、キリスト教の神ってやつは、決してあやまるってことがないんだって。それで、人間のほうがとにかくひたすら自分の罪を告白し、それを赦すかどうか決める裁量権というやつは、向こうにしかないらしい。だから僕はその昔、インターナショナル・スクールに通っていた頃――「神さまはそんなに無罪なんですか?」と、教師のひとりに聞いたことがある。もちろん、彼は答えられなかった。自分の性的虐待のことは一切言及せず、世の中にはこんなひどいことやあんなひどいことがある……といった例を僕はいくつも挙げていった。特にキリスト教では、神は聖なる方で無罪で、人間の善悪について裁きをつける存在らしいけど、そんなのおかしいじゃないか、とね。人間の原罪と一緒だよ。罪を犯さざるをえないシチュエーションが用意されているのに、いざ何かの罪を犯したとなったら罰せられ、楽園という幸福で満ちた場所から追い出される……人間の人生なんて、何かそんなことの繰り返しだろう?僕はその時、そんなシチュエーションを用意した神にこそ罪があるのではないかと言った。こんな疑問に「答えてください、先生」なんて言われた教師は、まったく気の毒だった。彼が言ったのはただ――「君の聖書解釈はおかしいから、日曜日に教会へ来て学びなさい」ということだけだった。まわりの子たちも、僕がそんなことを考えるのは、孤児で惨めな境遇で、その上引き取られた先の中国人家庭でも愛されてないからだ……そう思ったんだろうね。自分たちの通っている教会の礼拝へ一緒に行こうと誘われたよ。この時の経験はのちにクラシックの宗教音楽を理解するのに、大層役立ったと思う。
僕は神に愛されてないし、運命にも呪われたような人間だ。ショパン・コンクールで優勝してのち、多くの人から「Gifted Child」なんて呼ばれたけど……僕は自分の血の滲むような努力と研鑽の積み重ね、与えられた運命に打ち克とうとする力から、自分の演奏技術を獲得していったに過ぎない。でも、ほとんどの人が誤解している。そして、僕のことなど本当の意味では理解できない。残念ながらこれはおまえやマキでもそうなんだ。誤解しないでくれ。僕は君貴のこともマキのことも愛してる。ただ、心のこの部分までは理解しきれない――人間というのはどんなに愛しあっていても、そうした部分が少しくらいは残る……そのことは、理解してくれるだろう?だから、何故僕が自殺という道を選び取ったのか、おまえにもマキにも理解できないに違いない。ヨウランのあの本の最初と真ん中あたりに、いくつか写真が収められているページがあっただろ。あの中には、マークの幼い頃の写真もあった。でも、彼が自殺してまだあまり時間が経ってないせいだろうか、そこの児童養護施設にはのちのクォーターランドのヴォーカル、マーク・クォーターランドもいた……なんてことは書かれてなかった。あの施設の集合写真の中に、僕の左隣にマーク、それから右隣にルカ・オースティンという子が写っているものがある。僕たちはあの悲惨な境遇の中でも、互いに互いを思いやりあうような関係性だった。実は僕がマークに会いに行ったのは、ルカが自殺したと知ってのことでね……マークもショックを受けていた。それも相当昔のことだけど、今回マークの死を受けて、何か今妙に納得してる。僕たちのことは、僕たちにしかわからないことで――彼らがもう<向こう>にいるっていうことは、僕もおそらくは最初からそうなる運命だったのに、最後の最後まで運命に抗った結果がこれだったということなんだろう。
愛してる、君貴。何度も言うよ、おまえとマキのお陰で、僕の人生の最後のほうは、特別素晴らしいものになった。僕はこの幸せを経験するためにこそ生まれてきたんだと思える瞬間が数え切れないほどあった。そのことを僕は今、神に感謝できる自分のことを嬉しく思う。一体いつ僕が長年恨み続け、呪い続けてきた神と和解を果たしたか――おまえにわかるかい?理由は貴史だよ。赤ん坊というのはまったく、存在自体がもっとも神に近い。そして、だんだんに罪を覚えて堕落して、ただの人間というやつになっていくのかもしれないね。マキの深い愛情と、貴史がいたお陰で、僕の心に空いていた大きな穴はすっかり埋まってしまった。この子こそは、本当に心から深く愛され、神さまに祝福されたような人生を送ってほしい……それが、僕が人生の最後の最後で、神という存在を信じてもいいと思える唯一の理由だ。もちろん、おかしいだろう?僕はゲイだし、キリスト教ではゲイの上、自殺したような人間は天国へ行けないとされているんだからね。まあ、このことについて僕にはいくらも議論できる用意があるけど、このへんでそろそろ筆を置くとしよう。
ありがとう、君貴。言うまでもなく、僕なきこれから先は、マキのことだけを本当に心から大切にしてくれ。それから、嘘でも偽善でもいい。貴史とお腹の子のことを――2%くらいは僕の子である可能性もある赤ん坊のことを、人生の最後の砦として、最後まで守り通してくれ。よろしく頼む。
レオン・キング
>>続く。