今回の前文は、【22】や【23】の前文とも繋がっていたりするんですけど、萩尾望都先生の「一度きりの大泉の話」に、少年愛というか、BLのことが結構でてきます
というのも、萩尾先生は竹宮先生の「風と木の詩」という、今でいうBL作品に関連して盗作疑惑をかけられたからなんですけど……正直、読んでいて、50年前のこの頃からすでに少女たちというか、女性たちの潜在的なBL需要が物凄くあったということに、とても驚きました(^^;)
わたしがまだ10代だった頃、BLってそれでも、まだタブーのかをりと言いますか、そうした感じが残ってたような気がします。でも今ではもうどんどん市民権(?)を得てしまい、同人誌など、モノにもよるかもしれないにしても(笑)、今ではBLってひとつのジャンルとして全然読むのが当たり前のようになってしまった気がします
ただ、今から約50年前、少女漫画界にBL(ボーイズラブ)という言葉はまだなく、もしかしたら……竹宮先生と増山法恵さんが少年愛によって革命を起こしていなければ――というより、作品の発表が遅れていたとすれば、先に誰かがセンセーショナルな漫画を発表していた可能性もあったのではないでしょうか。
竹宮先生の「扉はひらく いくたびも」を読むと、そのあたりの焦りのようなものが伝わってくる気がしました。何分、ジルベールくんと脇役の男の子とのベッドシーンからはじまるという過激さなので、このまま載せたいということであれば、その前に読者アンケートで人気を取り、編集部を納得させなければならない……そうしてはじまったのが「ファラオの墓」の連載だったとのことで、連載時の最高位は2位で、結局1位を取ることは出来なかったそうです。
けれども、この次に「風の木の詩」を連載できることが決まり、竹宮先生と増山法恵さんにしてみれば、「これでようやく……!!」という、念願が叶ったということだったのではないでしょうか。ですから、わたしは読んでないので何も言う資格のない読者とはいえ(汗)、「風と木の詩」と同じく「(海外ヨーロッパの)男子寄宿舎」が舞台である「11月のギムナジウム」や「トーマの心臓」といった作品を描いて先に発表していた萩尾先生のことを、こうした時期、竹宮先生と増山法恵さんは脅威に感じていたということだったのかもしれません。
わたし、これから「風と木の詩」や「ポーの一族」、「トーマの心臓」などを順に読んでみようと思っているのですが、盗作に当たる部分がないだろうことは、もちろん読む前からわかっているのです(^^;)
ただ、純粋に「すごいなあ」と思ったのが、本を注文しようと思った動機です。何故なら、竹宮先生が「風と木の詩」を発表し、今でいうBL作品の先鞭をつけられてから……現在、少女漫画の世界ではBL作品が異性愛の世界を食べようとしている向きさえある気がするからなんですよね。
昔、同人誌好きな方が何人か集まって漫画やアニメのお話をしていた時――何かの拍子にBLの話になったことがあります。某漫画やアニメのキャラクターで、誰と誰のカップリングがいいとか、その場合攻めは△□で、受けは□△だ……みたいな、まあ、女性のヲタクが何人か集まればよくするような会話です。。。
でもこの中で、実はひとりだけ表面上は話を合わせつつ、BLがあんまり好きじゃないというか、あんまりよく理解できないZ子ちゃんという友人がいました。それで、帰り道でふたりきりになると、Z子ちゃんがこう言ったんですよね。「わたし、みんなが盛り上がってるからいつもなんとなく話を聞いてる振りだけはするんだけど……BLの何がいいのかさっぱりわからないんだよね」と。「漫画も普通に異性愛のほうを読むほうが絶対に好き。でも、みんなのほうが普通で、わたしのほうがおかしいのかなあ」
「Z子ちゃん、あなたのほうがまともなのよ」とは、わたし、言いませんでした。「ただそこにあるのが当たり前だった」ので、わたしもBLの同人誌などを普通に読んでいましたが、実はBLについてわたしも「わかっている」わけでもなんでもなかったので――「わたしも、本当の意味でわかってるわけではないよ」と答えておきました。
そのですね、「扉はひらく いくたびも」にも出てくるように、山岸涼子先生が「男性同士の愛がありうるということをどうしても描きたかった」と表明されていたり、萩尾先生のマネージャーの城章子さんが「男同士の夢を頻繁に見ていたくらい」ゲイ同士のものが好き……と書いておられるように、本当に生粋のBL好きの方というのがいらっしゃいます。
そして、そうした方がBLについて語る時、もう本当に瞳が輝いていて、それはもう話し方も情熱的で、仲間内における盛り上がりときたら――本当のというか、本物のBL好きでないわたしなど、会話に入っていくのが躊躇われてしまうほどです(^^;)
わたしのこの、「本当(本物)のBL好きでない」というのは、実はBL物がそんなに好きでないんだけど、自分を偽っている……といったことではなく、「本当に本物のBL好きの方」に比べたら、簡単に言えばその間に入っていけるほどその愛が深くないといったような意味なんです。
周囲にBL好きの方がいて、BLの話で盛り上がってるのを聞いたりしてると、「間違いなく自分は違うな」って、はっきりわかります。なんでかっていうと、わたしはある漫画とかアニメについて、「そうそう!△□のこーゆーとこがいいよねえ!!」みたいに、そうしたことについては、自分の好きな作品のことだから、情熱的に夢見るようにうっとりと語ることが出来ます。
でも、「本当に本物のBL好きの方」のBL愛についての語りというのは――もしそこに三人友人がいて、そのうちふたりが物凄いBL好きだったりしたら、わたしはちょっと距離を置いてふたりの話を聞くといった立ち位置なんですよね。だから、わたしの中では感覚として「普通に一般的な少女漫画を読むのと同じく、BL本を読んだりもする」くらいな感じなので、「生粋のBL好きの方」に比べると、あんなにテンション高くなれない自分をずっと感じていました。
なんというか、萩尾先生や竹宮先生とわたしは世代が違うかもしれませんが、「一度きりの大泉の話」を読んでいて……たぶんこうした「漫画が大好きな人が何人も集まった時の空気感」というのは、もしかしてわたしが十~二十代だった頃も、あるいは今十~二十代くらいの若い女の子たちも、共通して普遍的な何かを持ってるんじゃないかな、なんて、そんなふうに思った次第であります
なんにしても、まずは「風と木の詩」を注文してみました。萩尾先生の「一度きりの大泉の話」を読まなければ、おそらく読むことのなかった作品かもしれません。ただ、「一度きりの大泉の話」を読んで以降、すっかり萩尾先生のことで頭を乗っとられてしまったので(笑)、その関連で「まずは竹宮先生の作品を読まなければ、わかるものもわからない」という気がしたため、届き次第読んでみようと思っています
それではまた~!!
久しぶりのナツメロシリーズ(?)です♪(^^)
ピアノと薔薇の日々。-【27】-
簡単にいえば、レオンはコンサートにやって来た義理の妹に対し、それに相応しいように扱い、楽屋に招いて少しばかり話をするとか、そんなふうにしていたら良かったのではないだろうか。だが、もしこのヨウランという娘が、単なるレオンのストーカーであった場合、それならそれでトラブルは避けられなかったに違いない。
(そろそろ向こうは朝の五時ごろか……)
君貴は卓上の時計が午後の四時を差しているのを見て、そのように計算した。日本のほうがニューヨークより、約13時間ほど進んでいるはずだからである。
(電話して出るかどうか、微妙なところだな。俺は、こんな本が出版される運びだということ自体、レオンは知らないのが一番だとしか思えないが……だが、レオンとマキが知るのも時間の問題だな。こういう時、世界的有名人というのはつらい。こんな事実を知らない奴らのいる国へ行こうったって、極限られてくるものな……)
今、君貴が言えるのはただ、「耐えるしかない」ということだけだった。来週の水曜日にこの本が発売されるのは、もう誰にも止められないだろう。そこでまた、本を読んだ人間の感想やら何やらでマスコミやネットは盛り上がるに違いない。そのピークがいつまで続くかはわからないにせよ、とにかく君貴が思うのは――時の経過とともに、「レオンは必ず勝てる」ということだった。
書かれている内容については、レオンのほうに同情が集まるのはまず間違いのないところである。また、すでにネットでは>>「知りたくなかった」、>>「ただの下品な暴露本だろう」、>>「絶対に売名行為だ」、>>「中国人のビッチめ!!」……などなど、批判する声が相次いでいる。だが、ウォン・ヨウランの本のPR作戦は、その後もやむことはなかった。発売日の前日の火曜まで、彼女は毎日数本のテレビに出ては、大体最初に出た番組と似たり寄ったりの内容についてしゃべくっていたものである。
アメリカやヨーロッパのみならず、当然日本でもこの『世界同時発売』なる本は話題を読んでいた。ニューヨークで最初の一報のあったのが、金曜の朝九時半頃だったわけだが、日本時間では翌日の土曜の五時台のニュースにて、「汚れたピアニスト、レオン・ウォンの真実」という本に関して最初の取り上げがあった。
もっとも、レオンもマキもこの時はまだそんなことも知らず、朝は八時過ぎくらいまでぐっすり眠っていた。テレビをつけ、朝食を取っている間も、呑気に親子三人、笑って過ごしていたものである。
貴史が大きくなってくるまで――マキもレオンも朝はパンを食べていた。けれど今は三人とも朝はごはんだった。そして、土曜はマキが食事の当番なので、彼女はあくびをしながら起きてくると、まずは子供用ベッドで眠る貴史の様子を見にいった。彼がぐっすり寝ているのを確認すると、マキはそこから忍び足で出てくる。
マキが土曜の朝に起きてきてすることと言えば……ラジオを聴きながらおにぎりを作り、他に卵焼きやウィンナーを作ると、あとはきのうの冷蔵庫の残りものなどを並べるといったところである。マキがキッチンで動いている気配を感じてか、大体レオンは彼女が朝食を作りはじめると起きてくることが多い。
この時もそうで、レオンは半分寝ぼけ眼で起きてくると、彼の大好きな鶏そぼろ入りのライスボールをつまみ食いした。それからマキに「おはよう」と言って、チュッとキスする。その後、レオンは貴史のことを起こしにいき――それからぐずる息子のことを手伝って服を着替えさせたようだった。
「おっはー」と挨拶する貴史に向かい、マキも「おっはー」と朝の挨拶をする。それから貴史はパパ・レオンと一緒に洗面を終えて戻ってきた。この頃にはマキも大体のところ調理を終え、テーブルについていた。青のチェックのテーブルクロスの上には、海苔を巻いたおにぎりが六つと、卵焼き、ウィンナー、ツナとじゃがいものサラダ、ほうれん草の味噌汁などが並んでいる。
「あ、これたらこだ。♪たらこタラコたらこ~」
レオンが歌いだすと、貴史もまた「♪たらこタラコたらこ~」と続けて歌いだす。
「ええ?どうしてそんな歌知ってるの?結構昔に流行った曲だと思うんだけど……」
「あれ、どこだったかな。なんかスーパーでかかってたよ。結構な無限ループだよね」
「ふうん……」
マキは家族が三人揃ったので、ラジオでかかっていたビージーズの「How Deep Is Your Love」を途切れさせると、テレビをつけることにした。大抵、いつもは貴史が見るような幼児番組をつけることが多い。けれど、この日は土曜だったので、それらしいものがないようだと確認すると、マキは一週間の報道をまとめて紹介するワイドショーに落ち着いた。
「レオン、何か見たいようなのなんてある?」
「いや、僕はなんでもいいよ。それよりさ、ごはん食べ終わったら三人でちょっと庭いじりしよう。今日は土いじりするのに最高の日和だよ」
昔――といってもほんの二年半ほど前――「はっぱー」と言ったのが初めての言葉だった貴史も、今では随分語彙が豊富になった。「おにぎり、おいち!」と言いながらもぐもぐと頬張り、「♪たっこさん、たっこさん、タコさんウィンナー」と節をつけつつ、フォークでそれをぐさりと刺している。
「卵焼き焼くのは、やっぱりマキのほうがうまいよね」
「そう?でも、料理のレパートリーでいったら、全然レオンに敵わないわ。イタリア料理、スペイン料理に中華料理……わたしが得意なのは肉じゃがとか、いわゆる日本のおふくろの味とかいうしみったれた料理だけよ」
「僕、マキの作るものはなんでも好きだよ。おでんも絶品だよね。あと鍋料理も最高だし」
「鍋はただの手抜きよ」
そう言ってマキは笑った。彼はいつでも何かしら、恋人の美点について無理にでも褒めてくれるのだ。
「お昼はどうしようかな……レオン、リクエストなんてある?レオンの好きなたこ焼きの具材は買ってきてあるし……ラーメンやうどんなんかも作れると思うけど」
「マキってさ、毎週土曜は同じこと言うよね。朝ごはん食べてる時に、必ずお昼は何食べたいかって聞くんだよ」
「ホットケーキ!」
ここで、パパとママの会話の間に、貴史が飛び込んでくる。
「たっかくんは、ホットケーキがいいと思いまーす!!」
「そっかー。タカくんはホットケーキか。ママはどう思いますかー?」
「う~ん。そうねえ。ホットケーキは三時のおやつじゃダメ?」
「それでもいいと思いまーすっ!!」
貴史の賛同を得て、レオンとマキは子供の屈託のなさに笑った。ここまでなら、いつもの彼らの朝食の風景だったろう。だが、半分見ているようで見てなかったテレビに――見慣れた映像が入り込んできて、マキの箸を動かす手が止まる。
それから続いてレオンが、マキの視線を追うように、貴史からテレビのほうへ視線を移し……彼もまた、顔の表情を失ったのだった。
『で、この本の著者であるウォン・ヨウランさんっていうのは、何者なんですか?』
コンサートの舞台で、流麗にピアノを弾くレオンの映像をバックに、ベテランニュース司会者がそうパネリストの一人に聞いた。ちなみに、ゲストは三人おり、一人は芥川賞を受賞したことのある文学者、一人は大学教授でもある経済学者、残りの一人がチャイコフスキー・コンクールで入賞したことのあるピアニストだった。
『私も、今回の報道を受けて調べてみたんですが……』
最初に口を開いたのが、作家の大縞香織だった。二十歳で芥川賞を受賞した時、才色兼備の作家として一躍有名になった。
『ピアニストのレオン・ウォンさんの義理の妹さんなんですね。ロサンゼルス在住の友人に聞いてみたところ、向こうではこの話で持ちきりだそうです。著者であるウォン・ヨウランさんが自身の書いた本の内容についてテレビで語ったところによると……義理の兄のレオンは自分の父の愛人だったということなんですよ。だからこそ、実の息子や娘であったヨウランさんや彼女の兄のウォン・ハオランより、レオンさんの遺産の取り分が多かったのだと。レオンさんのゲイ疑惑については、グーグルで「レオン・ウォン・ゲイ」と入力しただけで、笑ってしまうくらい色々な噂が出てきますから、真偽のほどは定かでないにしても――これでレオンさんがゲイだというのは間違いないらしいということで、ファンの方の間では激震が走ってるんですね』
『ほうほう、なるほど。私もね、ツイッターの反応などを追ってみたんですが、「彼がゲイでも愛してる!」とか、「ゲイだからなんだっていうんだ。レオンが天才であることに変わりはない」とか、「彼はピアニストとしても人間としても素晴らしい人だ」とか……本の発売前から随分批判の声のほうも高まっているようですね』
今度は、話を振られた著書多数の中年経済学者が語りはじめる。
『そこがなんとも悩ましいところですよねえ。言ってみればこれは、炎上商法みたいなものなんですよ。批判のツイートが多ければ多いほど、来週発売の本はこれで絶対売れると、この本を書いた人物やその関係者はほくそ笑んで喜ぶ、というね』
『笠原さんは、以前レオン・ウォンさん本人に直接お会いしたこともあるとか……』
経済学者の意見に神妙な顔でうんうん頷きつつ、元芸人の司会者はピアニストの笠原優介に今度は話を振る。
『はい。僕は十代の頃からずっと、レオンに憧れてまして……』
『直接お会いしたレオンさんは、どんな方ですか?我々が一般的に知る限りにおいて、超クールなピアノの達人というイメージですよね。あとは女性のファンがたくさんいて、絶えずモッテモテ。だから男の目から見た場合、「なんか腹立つなあ、こいつ。なんでこんなにカッコいいんだ!」みたいな、同性としてはそうした嫉妬の目で見てしまう部分もあるわけですが……』
『そうですね。レオンはとにかく優しいんですよ。あとは、男か女かということは関係なく、すごくファンのことを大切にします。まあ、ピアノの技術に関しては他の同時代のピアニストの追随を許さないといったところでしょうか。神は二物を与えずと言いますが、あのルックスと性格の良さと天才的なピアニストの腕前と……二物も三物も持っている人間に対して、凡人はつい嫉妬してしまうものです』
『すみませんね、凡人で……』
『いやいや、僕は今、ピアニストとして、レオンと比較して自分のことを言っただけですから。正直、この本に何が書いてあるのか知りませんが、こんなことをしてどうするつもりなのかなと僕なんかは思ってしまいます。彼と仕事をしたことのある音楽関係者の人であれば、みんな激怒してると思いますよ。ゲイかヘテロかなんていう個人のセクシュアリティについては、レオンの素晴らしい芸術活動とは直接関係のないことですし、レオンがショパン・コンクールで優勝するのと同時、義理の父であるルイ・ウォン氏は亡くなっておられるわけですからね。だから、それ以前というと彼が十四とか十五といった頃のことでしょう。父親が未成年淫行の罪を犯していたと実の娘が告発してどうするのかという話ですよ。もちろん、もしそれが事実であったとしてですが』
『なるほど。確か、レオンさんは国際貢献と言いますか、戦地に危険を犯してまでピアノを弾きにいったり、日本へも災害のあった県にチャリティで来てくださいましたよねえ。ファンの方のみならず、被災地ではたくさんの方が泣いて喜んでおられたのを、私もよく覚えています。アフリカにも御自身の名を冠した孤児院や病院や学校なんかを持ってるんですよ。そんな素晴らしい人の過去を暴露したりして……むしろ逆に、このウォン・ヨウランさん自身が今後生きにくくなったりしないのかと、むしろ心配になってしまいますね。では、次のニュース……トランプ大統領がまた、何かアホなことを言ったようです』
ここで、ウォン・ヨウランがアメリカのテレビに出演していた時の画像が、今度は星条旗を背にしたトランプ大統領のアップへと切り替わる。マキはあまりにいたたまれなくて、テレビを消すとラジオをつけることにした。
「はは……っ。なんだよ、汚れたピアニストって……」
ニュース司会者のバックで流れていた映像の中に、何度か本の表紙も映しだされていた。もちろん、レオンの耳には自分を庇うコメントをしてくれた、笠原優介の言葉も入ってきてはいたが――レオンはどちらかというと、彼らの後ろに映る、ウォン・ヨウランの姿に釘付けになっていたのである。
「ヨウランの奴、整形したんだな。しかも、前とは似ても似つかないというあたり……相当金をかけたんだろう」
「レオン……」
ただひとり、意味のわからない貴史だけが、椅子の下で足を揺らしつつ、もぐもぐ一生懸命おかかのおにぎりを食べている。
「ごめん、マキ……ちょっと、エージェントのほうと連絡取らなきゃ……」
「レオン、大丈夫?」
「いや、全然大丈夫ではないよ」
そう言って、レオンは微かに笑った。これが君貴相手なら、おそらく彼は『大丈夫なわけないだろ!馬鹿か、おまえは』とでも怒鳴っていたことだろう。
「けどまあ、起きてしまったことは仕方ないさ。あとは最善の策を打つというそれだけだ」
レオンは無理に冷静を装い、ピアノのある部屋のほうへ入っていった。途端、ドガッ!と壁を叩くような音が聞こえ、マキは一瞬びくっとした。だが、貴史のほうは呑気にケロリとしたままだった。
このあと、マキも心塞がれる思いで、再びテレビのほうを見ることにした。事実について知りたいと言うよりも、知らざるを得ないと感じていた。先ほど見たあの報道だけでは……彼女には、一体何が起きたのかがはっきりとまでは把握できていなかったからだ。
そして、その後大体似たような体裁のワイドショーの中で、ウォン・ヨウランが出演した番組の、日本語テロップ付きの短く編集したものを彼女は見たのである。そこでマキにも初めて――レオンがまるで大丈夫ではない、ひどい状況に追いやられようとしていることがわかったのだった。
「ごめんね、貴史ちゃん。今日のおやつはパパの大好きなたこ焼きじゃダメかしら?」
「ホットケーキ!ホットケーキ!!絶対ホットケーキがいーのっ!!」
「うーん。そうね。ママ、さっき一度約束しちゃったもんね……」
レオンも食欲などわいて来ないだろうと思い、マキは息子の意見を通すことにした。何か、少しでも彼の力になれるようなことをしてあげたいと思うが、今の彼女に出来ることと言えば――実質的に、何もなかったのである。
マキはピアノのある部屋の前まで行ってもみたが、そこからは彼が英語で話す声が聞こえるのみで、英語のわからない彼女には事態がどういうことになっているのかまるでわからなかった。そこで、溜息を着いて再びリビングのほうへ戻ってくる。
「うん……そうだよ。社長のロイとはさっき話した。で、おまえももう本の内容のほうは読んだんだろ?」
レオンは、まず真っ先に自分が所属しているエージェンシーのCEO、ロイ・シェパードに電話していた。実際のところ、レオンはこの時相当動揺しており、ロイから本に書かれた内容について聞き及ぶと、マキの前では決して聞かせられないような罵り言葉がいくつも飛び出したものである。
『そうだな。実際に内容を知らないことには、レオン、おまえのことを守りきれないと思ったからな。それはロイだって同じだ』
「あいつ……ヨウランの奴、殺してやりたい。あいつを殺して、僕もそのあと自殺してやるっ!!」
『落ち着けって言ったって、無理なのは俺もわかってる。近いうちに会えないか?おそらくマスコミ連中はおまえが日本の東京にいるとまではわかってないはずだ。そう考えた場合、俺がそっちへ行ったほうがいいんだろうな』
君貴もまた、胸塞がれる思いで、この時スケジュール帳をパソコンの画面上で見ていた。会議のほうに彼自身が参加するというのではなく、代理の人間を向かわせるか、あるいはリモート参加ということにすれば……どうにか調整は可能だろうと思っていた。
「それで……来週の水曜にはそのクソッタレな本が出るんだろ?僕、もうマキの前で冷静でいられる自信なんてないよ。というか、今すぐ完全にひとりになりたい。でも、マキだって今妊娠五か月目だってことを思うと……あっ、そうだ。もしかしてマキから聞いた?お腹の子、やっぱり女の子だって」
『そうか。レオンの子ってことは、生まれてくるのが楽しみな反面、心配な気もするな。おまえの美貌を受け継いだハーフの子か……今から将来起きることのために、ヤマンバよろしく鬼の仮面をつけて包丁を研ぐ必要があるな。それかサムライの刀だ』
「なんだよ、それ」
レオンが愉快そうに笑ったので、君貴も少しほっとする。君貴が急いで彼に会いたいのには理由があった。妊娠中のマキには、今のレオンの状態を受け止めきれないだろうことと、来週の水曜日に本屋に並んだ本をレオンが読んだ場合――相当荒れに荒れるだろう。その時、間違いなく絶対に自分がレオンのそばにいる必要があると感じていた。
『とにかくさ、来週の水曜にはそっちへ行くよ。レオン、本に書いてある内容のほうは最悪でも……これはおまえにとって間違いなく勝てる戦いなんだ。ただ、本の発売直後はレオンにとっては一番旗色の悪い、嫌な時期を過ごさなきゃならないだろう。だがな、ツイッターのツィートなんかを見ててもわかる。みんな、この件にはすでに嫌悪感を抱いてるんだよ。しかも、おまえ自身に何か落ち度があるわけでもないとなったら尚更だ』
「わかってないな、君貴。僕はね、大衆の憐れみや同情なんかこれっぽっちも欲しくないね。僕は今、本に何が書いてあるのか正確に知ることが出来ないことにまずはイラだってる。このソワソワした落ち着かない気分が来週の水曜まで続くってだけでも最悪だ。けどまあ、ロイから聞いた話だけでもある程度大体は推測できるさ――君貴、僕はね、自分がゲイだってことや、ルイ・ウォン氏と愛人関係だったってことをバラされることに関しては、ある部分仕方ないとして諦めもつく。第一、ヨウランにしても自分の父親の恥部をバラすって意味では、彼女にだってダメージがまったくないわけじゃない。そう思えば我慢も出来る……僕が何よりなんとも我慢できないのは、自分にまったく罪のない幼年時代のことさ。あの児童養護施設で何があったのかについては――誰にも知られたくなんかないし、そのことを世の中の誰もがこれから知るのだと思ったら……とてもじゃないけど、落ち着いてなんかいられないっ!!」
レオンのヒステリー寸前の声色から、君貴は今日明日中にでも日本へ向かうべきかと考えるが、仕事の都合がつきそうなのは、どう考えても二日後以降だった。
『その点については、ロイが訴えを起こすと……』
「裁判なんかやったところで、一体何になるんだよっ!そりゃね、もし仮に神とかいう奴が裁判官で、僕が正しいとなったら、本を読んだ奴ら全員の記憶を消してくれるとでもいうんなら話は別さ。だけど、そんなことをして一体何になる!?裁判は長引くだろう。そして決着が着くまでの間、僕はずっと腹を立てたりイライラしたり、ヨウランに対する憎しみなんかで、マキも僕と一緒にいて嫌気が差すっていうそれだけさ。これから本当に父親になるかもしれないのに……なんでなんだよっ!この三年もの間、僕は……僕もマキも貴史だって幸せだったんだ。これからっていう時に、なんで……」
君貴は、とにかくレオンに感情のすべてを吐きださせてやろうと思っていた。それで、聞いている、という姿勢のまま、静かに沈黙を守り続ける。
「思えばね、予感ならなくもなかったんだ。ほら、マークが自殺したって聞いた時……僕は物凄く嫌な予感がした。思えばマキと暮らしたこの三年もの間、人生の中でこんなに穏やかで幸せだったことが僕にはなかった。だから、そろそろ何か起きるんじゃないかと、マークが自殺したと聞いて思わなくもなかったんだ。だけど、そのあとマキが妊娠したってわかって……ああ、気のせいだ、僕の考えすぎだと僕は思うことにした。けど、違ったんだよ。マークの自殺こそ、僕にとっては破滅の序曲のはじまりだったということさ」
『レオン、おまえ……あのヨウランって子から、何か恨みを買った覚えはあるか?確かに、素っ裸でベッドに寝ていて、「抱いて」と言ったのにつっぱねられたというのは――女として恥かしいことではあるかもしれない。だが、あの本はそれだけが動機という気がしないんだ。もしあの本に書いてあることに事実が含まれていて、あの子がおまえがピアノをはじめるきっかけになったのだとしたら……』
「ああ、君貴が何を言いたいかは大体のところわかるよ。僕が時々くらいはヨウランと連絡でも取って、義理の兄らしい態度でも取ってれば、今こんなことにならなかったんじゃないかって言いたいんだろ?だけど、そんなの無理だよ。ヨウランはね、僕が女装させられてあの子の父親に犯される間……クローゼットに隠れて実の父の痴態を見ているといったような子だった。まさか、父親が射精する瞬間を狙って、「ばあ」とばかり出てくるつもりでいたわけでもないんだろうけど……僕は多少そのことを期待しなくもなかった。流石に実の娘に見られたとあっちゃ、ウォン氏も僕を犯すのをやめてくれるかもしれないと思ったからね」
ここで、君貴にはわからなかった謎がひとつ、解けることになった。ウォン・ヨウランは本の中で、偶然ドアの隙間から見ることになった、といったように記述している。だが、いくら広い屋敷でのこととはいえ――妻のイーランと兄のハオラン、そしてヨウランとは大きな池や川、橋のある庭の向こう側、レオンはその反対の離れのような場所に住んでいたとはいえ……そんな誰にも知られるわけにいかない関係を行うのに、無用心にドアなど開けておくだろうかと思ったのだ。
「いつもの君貴らしくもないな。笑えよ。どう考えても今のは笑うところだろうが。とにかくね、僕はヨウランが僕とウォン氏の関係を知っているとわかって以来、あの娘に対して冷たくなった。それまでだって別に特段仲が良かったというわけでもない。いいかい、君貴。僕の身になってよく考えてくれ。それまでロンドンにいたっていうのに、突然チャイナなんていう異文化の国に連れて来られたんだぜ?しかもあの子の兄貴は会った瞬間から、『財産の分け前が減るから出てってくれ』なんて言うガキだった。で、妹のほうはだんまりを決めこんで何も話さない……今はね、少しくらいはわかるよ。ヨウランがただ単に人見知りで内気な娘だったってことはね。でもその頃は僕もまだ八歳だったし、前にいた施設で起きたことが原因で、心が傷ついてもいた。確かにあの子の父親は変態だったにせよ、それでも僕にとっては比較的まともな変態だった。『自分の女房にでも話せよ』といったような、自分の人生についてやたらぺらぺらしゃべってきたり、体のどこかに痛いところはないかだの、健康についても気遣ってくれた。つまりね、例の児童養護施設で起きた、人間扱いされない身分に比べれば――遥かにまだ耐えやすかったんだよ。ただ、だからといって僕が傷つかなかったわけじゃない。そもそも、あんなハゲの脂ぎった親父に犯されて、嬉しい奴なんかいるわけないだろ。けどまあ、比較論でいったらあの人はまだ許せるのさ。自分の罪悪感を解消するためかどうか知らないが、たんまり財産を残してくれたって意味でもね」
『見当違いのことを言うかもしれないが……あのヨウランって子はもしかして、レオンのストーカーなんじゃないのか?』
「どういう意味?」
レオンはここまできてようやく、少しだけスッキリした。もちろん、君貴との電話を切ってしまえば、また解消しようのない苛立ちと腹立ちとソワソワ感に悩まされるだろう。だが同時に、彼とマキと貴史、それにお腹の子という存在があることを思えば……どうにか耐えられる気もした。
『前に……レオンからヨウランって子の話を聞いた時から思ってたんだ。その子はたぶん、おまえが中国の屋敷で一緒に住んでた頃からレオンのことが好きだったんじゃないかって。もちろん、恋愛対象である憧れの兄貴が父親とそんなことになっていてショックを受けはしただろう。だが、本にも書いてあったよ。そのことに関してレオンはただの犠牲者であって、何も悪くない、みたいにね』
「ふうん。僕はね、今も中国人というか、ウォン家の人間が何を考えていたのかなんて、さっぱりわかっちゃいないんだ。それに、中国の中でも有数の金持ちの、特殊な家庭で起きたことだからね、あんなのを一般的な中国人の家庭となんて比較しようもない。確かに僕は、ウイグル自治区のことや、台湾や香港のことなんかで、中国政府を批判はしたさ。だが、北京で暮らす間、そこに住む中国人にはいい印象しか持ってないよ。みんな、いつでも親切だったし……もちろんそれは、金髪碧眼の異邦人に対して親切だったという意味ではあるにしてもね。だけどほんと、変な家だったよ。家に父親がいて食卓に着いている時は、父親が話してもいいと許可しないと、ハオランもヨウランも食事中にしゃべることすら許されなかった。僕もね、普段は彼らと一緒に食事なんかしないんだ。でも、唯一ミスター・ウォンのいる時だけ夕食の席に呼ばれて、学校はどーだの、そんなことを聞かれるんだよね。ああ、そうだった。ヨウランが僕のストーカーってことだけど、仮に僕のことを好きだったとして、あくまで一過性のものじゃない?それに、『抱いて』って言われた時につっぱねたわけだから、僕にしてみたらその時のことを逆恨みしてるって考えたほうがわかりがいいね。ただ、そんなのもう十年以上も昔に起きたことなわけだから、なんで今ごろ……とは思うよ。急に金でも必要になったのかな」
この瞬間、君貴にはピンと来るものがあった。(彼女はおそらく知っているのだ)と、君貴は思った。となると、ウォン・ヨウランストーカー説はますます信憑性が高くなる。
『だんだんわかってきたよ……レオン、彼女はあとがきで、自分は資産的なことでは特段困ってないから、これは売名行為ではない、といったように書いてるんだ。それに、おまえがプロのピアニストになってから、ずっと世界中のコンサートをついて回ってる。彼女はたぶん、レオンがゲイで、男とつきあう分にはおそらく構わんのだろう。だが、今はマキがいる。ここからは俺のただの推測にすぎないが、三年くらい前からレオンはコンサートの回数をぐっと減らした。ヨウランはおそらく、そのことを何故だろう、と思ったのさ。カルバン・クラインの広告塔も降りてしまったし、雑誌に載ったり映画に出るといった露出も極端に減った……だから、義理の妹というよりもおまえの純粋なファンだったヨウランは、金を使ってそのことを調べたんじゃないか?そしたら、日本人の女性と同棲していることがわかった……本の執筆の動機は、おそらくはそんなところだという気がする』
「ええっ!?冗談だろ……ただ、僕個人の幸福を破壊するためっていうのが、そんなクソくだらない本を書いた理由ってことかよ。第一、すでに別の男と再婚してるとはいえ、あの子の母親のイーランさんって人は、家の名誉とか、そういうことに凄くうるさい人なんだよ。だから、実の娘が整形してアメリカのテレビなんぞに出ているのを知ったら、びっくらこいてヨウランのことを厳しく叱りつけるはずさ。兄貴だって、中国の経済界の名士なんだぞ。わざわざそんな家督に泥を塗るような真似をして……まったく、どういうつもりなんだろうな」
『長年、たくさんのファンの追っかけがいるレオン先生に、ストーカーについてご教授するなんて、おこがましいという気もするが……今、整形してると言ったな?ということは、その子は物凄く危険な気がする。たぶん、おまえのコンサートのほうも、かなり前の席のほうで見ているはずだ。整形したのもおそらくは、レオンに気づかれないためだろう。それか、おまえに関係を迫って突っぱねられたあと、自分がレオンに見合うくらい美しくないと感じてのことかはわからん。ストーカーという奴はとにかく、どんな形であれおまえと繋がりが欲しいといった人種らしいからな。仮にこれからレオンから電話がかかってきて激しく罵られようとも、まったく関係がないよりは喜びに悶えることが出来るというな。だからある意味、訴訟ということにでもなれば、相手の思うツボだとも言える。さっきレオンが言ったとおり、訴訟は長引くだろう。その間、あの子は世間が自分に対してなんと言ってようと痛くも痒くもないに違いない。裁判の時におまえの姿を近くで見られるとなれば……そのことのほうがよほど嬉しいという、これはおそらくそうした話だ』
「うっそだろ……やめてくれよ」
レオンはうんざりするあまり、壁際のストライプのカウチに、力なく座り込んだ。本当に、吐き気がしてきた。
『本当は……訴訟になったとすれば、まずレオンのゲイ疑惑を晴らすのが一番なんじゃないかと俺は思っていた。ほら、ようするにマキと結婚すればいいのさ。で、裁判の席で彼女の手を握りしめて「あの本に書いてあることはデタラメです。僕はこんなに妻のことを愛しているのに……」とでも言えばいいんじゃないかってね。レオンの小さい頃にあったことに関しては、個人のプライバシーに対する侵害だと訴えれば、陪審員どもも全員レオンの味方をするだろう』
「無理だよ」
レオンは重い溜息を着いて言った。
「もちろん、そういう理由でならマキも僕と結婚することを承知してくれていいかもしれない。だけど、問題はそういうことじゃないんだ。僕はね……あの児童養護施設で起きたことに関して言及されると、自分でも自分がどうなるかわからないんだよ。ヨウランの顔を見るなり、気違いみたいに突然叫びだしちゃうかもしれないし、裁判に出席してる人間は全員、当然あの本を読んでるってことだ……その場にいるほとんどの人間があのことを知ってるって状態に置かれること自体、僕には絶対耐えられない。そういう意味で、裁判を起こすなんて僕には論外なんだよ。第一、今の君貴の話でいうと、訴訟ということにでもなれば、むしろヨウランは喜ぶってことだろ?じゃあ、そういう意味でも裁判なんか起こさないほうがいいってことだ」
『いや……レオンは必ずしも出廷する必要はないんじゃないか?レオンの側の言い分はすべて弁護士に代弁してもらえばいい。どうしてもレオン本人が話す必要がある際には……PTSDを主張すればいい。ほら、レイプの裁判なんかで、被害者の女性が姿を隠して証言を行ったりするだろう?アメリカの裁判は陪審員制だからな。おまえが勝訴する可能性は極めて高いはずだ』
「気乗りしないね。君貴、僕はさ、その本が出て僕の過去が暴露されてしまった時点で、もう終わりだと思ってるんだ。一度失墜した名誉はその後どんなに取り繕おうとも決して回復はしない。児童養護施設時代のことさえ本に言及されてなければ……ヨウランの父親と愛人関係にあったとか、そのことが本の中で暴露されてるとかだったら、僕にしても極めて強気でいただろうね。それこそ、テレビ番組の中でヨウランと直接対決してもいい、というくらいに」
レオンの様子がすっかり意気消沈し、声音も弱々しいものになったため、君貴はなんとか彼を慰めようとした。
『なあ、レオン。ニューヨークっていうのは、成功と裏切りの街だってよく言うだろ?マンハッタンあたりで事務所を構えてれば、どこそこの会社が倒産しただの、CEOやCOOがスキャンダルで辞任しただの、当たり前みたいに耳に入ってくる……ニューヨークでは、羽振りのいい間は磁石に引き寄せられるようにたくさんの人間が群がってくるが、誰かひとりの人間が破滅したと聞いた途端――パッと離れるのも恐ろしく速い。そういうのを脇目に見ながら十年くらい俺もここにいるが、そういう時、自分の本当の味方が誰で敵が誰なのかがはっきりわかる。それとな、本の発売後の騒ぎがある程度過ぎ去って……そうだな。マキにおまえの子が生まれた頃には、レオンは完全に勝利してるよ。今はただ黙って静観してるというのが、一番利口なやり方だ。レオンが一切沈黙を守っていたら、あとは世界中にいるおまえのファンたちがあの中国女のことを始末してくれるだろう。肯定も否定もしなければ、『レオンさまはあんまり愚にもつかないくだらないことなので、馬鹿馬鹿しくて何をおっしゃるつもりにもならないのだ』といった具合にな』
「まあ、僕はそううまくいかない気がするけどね……」
けれど、この時初めて、レオンは心の暗闇に、一条の光を見出してもいた。先ほど見た日本のテレビのワイドショーは、随分上品な取り上げられ方だった。もちろんそれは、まだ本が発売になっていないせいかもしれない。そして、レオンにはわかっていた。笠原優介は本の内容を読んでも、激怒こそすれ、何か自分に対して態度を変えるような人間ではない。そういった意味で、誰が本当の味方で敵かという分水嶺としての役割を、例の本は果たすかもしれなかった。
「なんにしてもさ、僕はおまえとマキと、貴史とお腹の子と……自分の味方は四人もいれば十分と思ってるからね。それ加えて、盲目なまでの僕のファンの子たちとか、今まで一緒に仕事してきた音楽仲間とか、全部合わせたとすれば、僕にとってはそれだけでも十分な数になる。そう思って耐えるしかないんだろうな……」
『元気だせ、なんて無責任なことは、今の状況では到底言えない。だが結局、最後に勝つのは王者レオン・ウォンだってことだ。とにかく、なるべく早くそっちに行くから、それまでの間どうにか、マキの前でだけはヒステリーを起こさないように気をつけろよ』
「うん。がんばるよ……ほんと、なるべく早くこっちに来てよ。僕はマキのことを愛してるけどさ、こういう時には彼女、まったく役に立たないから。むしろ、一生懸命僕のことを慰めようとか無駄な努力をするのを見て、自分が情けなくなるっていうか、僕がひとりで勝手に余計惨めになるっていうそれだけだからね……」
このあと、レオンは「君貴、ありがとう。愛してる」と言い、君貴のほうでも「俺もだ」と言ってお互い電話を切った。とはいえ、レオンの携帯を切る手は震えていたし、精神的な動揺も長く続いていた。おそらく人はこういう時、アルコール……いや、次第にアルコールだけでは利かなくなって、ドラッグにまで手を出しはじめるものなのだろう。そして、これまでドラッグによって自ら破滅していったハリウッド・スターやロックスターのことなどが脳裏をよぎっていく。レオンはここが日本で良かったと思った。それに、自分は決してひとりではない。もしマキや貴史がいなくて、今のこの状況が自分を訪れていたとしたら……おそらく到底正気を保つことは出来なかったに違いない。
>>続く。