あ、萩尾先生と竹宮先生のことに関連して、BLのこととか書こうと思ってたにも関わらず、今回は何か普通に言い訳事項がありました(^^;)
レオンが所属してるのは、ニューヨークに本社のあるエージェンシーなのですが、アメリカのタレント・エージェント制によれば、レオンのマネージャーのルイス・コーディのような人物は存在しえないものと思われます
それは、ここを書いてる時からすでにわかってたんですけど……日本ではタレントさんにはマネージャーがつくといったイメージがあることから、あえてこうした形にしてみたと言いますか。。。
というか、向こうのエージェントさんというのは、物凄くやり手というか、交渉上手というか、そういう方がタレントさん側に雇われているといった形なので……↓に出てくるようなルイス・コーディみたいな人は即刻クビにされてしまいそうです(笑)
じゃあ何故こうした形にしたのかというと、物凄く押し出しのいいエージェントが出てきたりした場合――なんかそれだとつまんないなと思ったのです。大学時代はアメフト部に所属していて、女子にはモテモテだった、経歴のほうは某経済学部でMBAを取得してるぜ……的な人物がレオンと対等に話しあって仕事をとってきてもらったりした場合、もちろんレオン側でそうと頼んでいるわけですから、当然仕事したくなきゃ彼の都合でそうしなくていいでしょうし、そうなると前に書いたこととも矛盾してくるなあ……なんていうことをつらつら考えているうちに、まあ、日本のタレントさんのマネージャーみたいな感じで書いちゃってもまあいっか☆みたいに、わたし的には思ったというか(^^;)
なんにしても、「タレント・エージェント」で検索をかけると色々出てきますので、このあたりは説明するまでもなく有名なお話とは思うものの、ご興味のある方がいらっしゃいましたら、そういうことでよろしくお願い致しますm(_ _)m
それではまた~!!
ピアノと薔薇の日々。-【25】-
こののち、君貴はいつも以上に頻繁に、レオンとマキのふたりに電話をかけて連絡を取りあった。ふたりがまず第一にするのは、こちらが求めてもいないのに息子の貴史を携帯画面に収めてこようとすることだったが――それはさておき、レオンの不在時に君貴は、マキにレオンと喧嘩した時のことを聞いた。
『喧嘩っていうか……そんなに大袈裟なことじゃないの。レオンにとって大切なお友達が亡くなったのに、わたしが無神経だったっていうそれだけの話。ただ、レオンの感情の爆発のさせ方がすごかったから、ちょっとびっくりしちゃって……それでね、きっとレオンはわたしに対する不満をそのくらい内に溜め込んでいたんじゃないかって思ったら、なんだか悲しくなっちゃって……』
「マキが悪いわけじゃないさ」
君貴はいつも通り、彼女の声を聞いているだけで、心の奥深くが癒されるような、幸せな気持ちになれる。
「ただ、有名ロックバンドのヴォーカルが友達で、その友達が死んでショックを受けただなんて言って、レオンもマキを心配させたくなかったんだろ。まあ、あいつのヒステリーは一過性のもんだ。もし仮に花瓶のひとつやふたつ壁に投げつけて壊したとしても――そう驚くようなことじゃない。それにあいつは、家で子育てしてて煮詰まってるわけでも、鬱屈とした思いを抱えてるわけでもないんだよ。むしろ、今のマキとのような生活を送れるのが理想だったとはいえ、俺とじゃそれは不可能だからな。そうだな……こう言えばわかりやすいか。この場合、マキが男でレオンが女だったとする。で、レオンは妊娠してピアニストをやめたとするわな。本人はもともとピアニストなんかやめて専業主婦になりたいと思ってた。だが世間やら夫やらが『君にはあんなに素晴らしい才能があるのにもったいないよ』としつこいくらい言ってくるわけだ……でも本人は、家にすっこんで静かに暮らしたいと思ってるんだよ。何より、マキとふたりきりでね。それがレオンの本当に心からの望みなんだってこと、マキにはわかってやって欲しい」
ぐすっと泣きながら、マキは何度も頷いていた。あれからふたりで話しあい、レオンの本心が彼女にもわかったわけだが――それでもまだ、(本当にこれでいいのだろうか?)との迷いが心の底に残っていた。けれど、今の君貴の言葉で、本当にこのままでいいのだと、そのことがマキにもよく理解できていた。
『あのね、君貴さんがうちに来たらわかっちゃうと思うから、先に懺悔しておこうと思うんだけど……レオンが部屋の壁紙というか、壁をボコっちゃって、破れて傷がついちゃったの。一応今はそこに書棚を置いて、外から傷が見えないようにしてはあるんだけど……あのね、ここの二十階くらいの部屋が一室、売りに出されてるのを前に見たことがあって。それで、売却金額を見て、トムとジェリーのトムみたいに目玉がバネ式に飛び出るかと思ったわ。そのことを思うと、今も胸が痛むっていうか……』
「はははっ!べつに、大した金じゃないさ。知り合いの不動産会社が間に入ってるから、二千万くらい値引きもしてもらったしな」
『でも……』
「まあ、気にするな。それより、壁紙くらい俺がホームセンターで買ってきてDIYで直してやるよ。第一な、仮に壁に穴が開いたにせよ、これからもレオンとつきあってくつもりなら、そんな程度のことは驚くに当たらないぞ。なんにしても、マキが今このタイミングで妊娠してくれて良かった。たぶん、確率的にレオンの子の可能性のほうが高いわけだし、自分の子供が生まれたらあいつは手放しで喜んで、これからも生きていこうとする希望と気力が湧いてくるだろう」
『…………………』
マキは一度黙り込んだ。自分が妊娠中だからだろうか。ふたりは何か大切なことを隠しているらしいとわかっていたが、かといって、深く掘り下げて聞いていいかどうかもわからない。
『レオンは、何があったの?』
「そうだな……レオンがどこまでマキに話したかわからんが、俺から聞いたと聞いても、あいつは怒らんだろ。ロックバンドのクォーターランドのヴォーカルは、レオンの幼馴染みだったんだ。で、ふたりがいた児童養護施設では組織的な虐待が横行していたらしい。一応公的に認可されている場所ではあったが、職員が特に気に入ったガキどもを地下の部屋に監禁していじめていたわけだ。レオンも、レオンの友達のマークも、彼らの言うことを聞かなければろくに食事もさせてもらえないようなひどい環境だった。そのことを密告しようとする人間がいれば、恥かしい写真を撮って脅したりと、そんなこんなで彼らのしている悪事はなかなか表沙汰にならなかったらしい。だが、いつまでも隠し通せることでもないだろうからな……とうとう、弱味を握られているにも関わらず、告発に踏み切った勇気ある女性がいたんだ。その後、レオンは別の専門治療施設へ移され、マークとは離れ離れになった――だが、お互いテレビに顔の出るような有名人になり、レオンはマークがロックバンドとして成功し、なおかつ結婚して子供もいることを喜んだ。マークのほうでも、レオンがつらい過去を乗り越えて、プロのピアニストとして華々しく活躍してることを祝福したんじゃないか?ところが、彼が自殺したと聞いて……レオンは自分の存在が根幹から揺るがされるくらいショックだったんじゃないかと思う』
『その、ね……わたしも、レオンから話を聞いて、あのあとネットで色々調べてみたの。あと、クォーターランドって、名前は聞いたことあっても、ちゃんと音楽のほうを聞いたことなかったから、ストリーミングで聴いてみたりしたんだけど……』
「マキが何を言いたいかはわかる。だからこそ、レオンはマキに何も言わずに黙ってようとしたんだろうなってこともね。彼は自分の身に起きたことを一切隠してないし、むしろ歌詞の中でそのことを告白し、神に呪いの言葉を吐いたり、ファックって叫んだりもしてる。『神がこの世に存在するなら、あんたにフェラチオを決めさせて、俺があんたのアナルを犯してやる』だなんて……確かに上品な歌詞とは言えない。だがそれがクォーターランドが出したシングルの中で一番売れたんだ。確か、ビルボード・チャートで最高三位だったんじゃないか?だが、彼はある時からその曲を歌ってない。それがなんでかっていうことも、インタビューの中で答えてる。『子供がもう五人もいて、彼らの祝福を神に求めてるのに、そんな矛盾した歌はもう歌えない』っていうことだった」
『その……マークさんの遺書のことなんだけど……』
レオンは、その児童養護施設で「人道的な扱いを受けなかった」とか、「言うことを聞かないとろくに物も食べさせてもらえなかった」といった言い方はしたものの――具体的にどういった暴力を受けたか、といったことはマキに説明しなかった。ゆえにマキは今も、マーク・クォーターランドと同じ扱いをレオンも受けたのだとは、もし仮にそうであったにせよ、そんなことは口にしたくなかったのではないかと思っていた。
『「人生はがらんどうで、虚しく無意味。俺は乗り越えられなかった。ゆるしてくれ」だなんて……わたしも、すごくつらいわ。レオンは前と変わらず優しいし、貴史の面倒もよく見てくれて……だけど、わたしのほうではレオンに何もしてあげられないだなんて……』
「マキは、ただレオンのそばにいてやってくれ。それがあいつにとっては何よりの心の癒しなんだから。『そんなにつらいことがあったのに、何も知らなくてごめんなさい』とか、口に出して言う必要さえない。俺は思うんだがな……マークとレオンじゃ違うんじゃないかという気がするんだ。ほら、クォーターランドはアルバムの最初の五枚目くらいまでが一番よく売れてるんだよ。つまり、偽善者の里親を罵ったり、プロムに誘ったけど断られて孤独だとか、学校で人間関係がうまくいかないとか……俺の人生がうまくいかないのは虐待されたせいだとか、とにかく問題は常にそこに帰結する。ようするに人生に対する怨み節だな。大体、最初のアルバム二枚はそんな感じだ。三枚目はホームレスたちから聞いた人生の悲哀について歌い、四枚目でまた神への怨みと呪いが復活し――その後、奥さんと結婚して子供が出来、そんな自分も愛によって変えられた、この世界で一番大切なのは愛だ……というのが五枚目のアルバムのテーマだな。以降は、ライブで自分で自分の体を傷つけることもなくなり、CDセールスのほうも伸び悩んでいた。言ってみれば、そうしたアーティストとしての苦悩や精神的鬱ってことが、彼にはあったんじゃないだろうか」
『あのね、君貴さん。わたし……レオンの言ってたことで気になることがあるの。ほとんど無意識のつぶやきだったと思うんだけど……「五人も子供がいて、それでも駄目だったのか」って。そのあと、ハッとしたみたいになって、なんか全然違う話をわたしに明るくしだしたんだけど……なんとなく気になっちゃって』
「そうだな。だが、マキには悪いが、俺だってもし事業が失敗し、多額の借金を抱えてもう死ぬしかないとなったら――子供が何人いようと自殺するのが最善の策と考えるかもしれんな。もちろん、そんな考え方は間違ってるのかもしれない。だが、一時的にせよ、そうするのがその時点において一番楽に思える人生の選択肢としか思えないとしたら……魔が差すということはあると思うんだ。もっとも、少し時間を置いてまた考え直せば、『何を考えてるんだ、俺は。子供が五人もいるのに……』ってなるかもしれなくても」
ここで、受話口の向こうから、マキが溜息を着いたような気配がした。君貴も、妊婦に聞かせていいような話ではなかったと思い、後悔する。
『あのね、君貴さん……君貴さんは大丈夫?』
「俺か?俺は全然平気だ。何分、仕事が生き甲斐だという可哀想な人種だからな。仕事さえ与えておけば俺はどうにかなるといったタイプの人間だ。だが、そういやレオンの奴も言ってたな。前以上に忙しくなってて大丈夫か、みたいなこと。だがまあ、もし資金難ということにでもなれば、マキとレオンと貴史の住むそのマンションからまず真っ先に出ていってもらうとでも覚えておけばいいさ。今のところ、業績的には問題ないよ。建築業界も決して景気がいいとは言えないはずなんだが……まあ、うちの会社はその中でも比較的うまくいってるほうだろう」
『うん……実をいうとね、わたしもそういうことはあんまり心配してないんだけど、レオンもね、前に来た時、君貴さんが少し痩せたんじゃないかって』
(そういうことか)と思い、君貴は笑った。だが、自分が大切に思う人間に心配されるというのは、ある意味嬉しいことでもある。
「まあ、忙しすぎるせいだろ。会社の規定でな、半年に一回は人間ドックを受けてるし……俺が脂ぎった肉系のものばっか食って野菜はあんまり食わないから、マキはそんなことが心配なんだろ?その点はな、秘書の岡田の奴がゴキブリの卵かゴリラの鼻クソみたいなサプリメントを飲ませようとしてくるんだよ。『ボスはあんまり野菜を食べないから、少しはこういうものでも摂取してください』ってな。だからまあ、しょうがないと思って毎日食後に飲んでるさ。ゴキブリの卵とゴリラの鼻クソをな」
ここで、マキの軽快な笑い声が、受話口の向こうから聞こえてくる。
『君貴さんはどうせあれでしょ?「自分に対する嫌がらせとして、時々本当にゴキブリの卵やゴリラの鼻クソを混ぜる気だろ、おまえ」なんて、岡田さんに対して言ったりしてるんじゃない?』
今度は、君貴が笑う番だった。というのも、そっくりそのまま、大体同じ意味のことを彼は秘書・岡田に言っていたからである。
「よくわかったな。あいつが自分には健康のことを色々考えて食事にも気を遣ってくれる奥さんがいて良かった……とかなんとかノロけてきたからさ。嫌味のひとつも言ってやって当然だろ?まあ、飛行機の移動時間含め、なんとも不規則な生活ではあるが、人間ドックで調べて何か異常値が発見されたわけでもないしな。よしんば、俺にガンが発見されて、余命いくばくもないとなったら――財産的なものは全部、おまえに行くように手配してあるよ。ほら、貴史はまだたったの三歳だし、レオンはすでに俺が金なんか残さなくてもいいような資産家なんだから」
『……君貴さん、そんな話、初めて聞いたわ。それに、君貴さんには御家族だっているじゃない。それなのに……』
「ああ、べつにマキが気を遣うようなことじゃない。第一、俺が阿藤家の人間に自分の財産なんか残して何になる?何より、自分と血の繋がった息子が俺にはいるんだぞ。だが、その子はまだ小さい。となったら、おまえに残すのが一番だ」
『…………………』
「というより、マキ、おまえのほうが少しおかしいんじゃないか?確かに、俺たちは結婚してないし、一緒に暮らしてもいない。だが、俺がおまえと結婚してないのは単に仕事が忙しすぎて一緒にいてやれない以上、そんなの実質的な意味での結婚とは言えないというそのせいだ。そんな時、レオンがマキと暮らしだした。そして、今はおまえたちのほうが結婚してるも同然の関係になってる。だが、ふたりが育ててるのは俺の息子だってことになったら……」
君貴は、自分でも話してるうちにおかしくなってきた。確かに彼はマキのこともレオンのことも愛している。そして、マキは自分とレオンのことを愛し、レオンはマキと自分のことを愛し……だがとにかく、三人のうち誰が欠けても自分たちは物足りないのだ。
「ようするにさ、結婚してなくても、実質的にマキは俺の奥さんだってことだ。俺の中の基準としては、毎日俺にメシを作ってくれるとか、そんなことは関係ない。しかも息子もいるとなったら、法律的にも、おまえに俺の財産が行くっていうのはある意味当然のことだ。俺のものは家族として当然マキやレオン、貴史のものだって言っていいんじゃないか?第一、俺がマキや貴史にしてやれることといえば、せいぜいが金のことくらいなものだしな」
『そんなことないわ。君貴さんはいい父親よ』
「まさか。いい父親っていうのは、レオンのような奴のことだろ?まあ、なんでかわからんが、貴史は俺がいると突然俺に媚を売りだすわな。『将来、世渡り上手になるんじゃないか?あとは、接客業に向いてるかもしれん』なんて言ったら、レオンは呆れた顔してたけどな」
『媚を売るとかじゃなくて』
マキもまた笑って言った。
『単に、君貴さんに懐いてるのよ。もともとあまり人見知りしない子ではあるんだけど、君貴さんはその中でも特別よ。やっぱり、実の父親だってわかってるんじゃないかしらね。レオンなんて、僕が相手じゃもう貴史は新味を感じないんだろうな、なんてあなたが帰ったあと、少し拗ねてたわ』
「なるほどなあ。だがまあ、レオンが拗ねる必要はないさ。貴史はただ単に、自分の親父のことを哀れんでるだけさ。マキとレオンと自分のゴールデントライアングルから俺だけ弾き飛ばされてるのを見て、可哀想に思って仲間に入れようとしてくれるんだろ」
『空気を読める、頭のいい子ね。流石はわたしたちの子だわ』
――実際、貴史はだんだん色々な言葉をしゃべるようになってきており、大人三人が揃っている時、下手な会話は出来ないようになってきてもいた。そこで問題になるのが、「誰がほんとのパパなのか」ということだったかもしれない。貴史はすでに金髪碧眼のレオンのことを「パパ」と呼んでおり、月に一度か二度遊びにやってくる君貴のことは「とうたん」と呼んでいるのである。
「パパ」と「とうたん」……貴史の中のこの矛盾は、果たして彼が大きくなった時、うまく解消されうるものなのだろうか?
「確かに、頭のいい子ではあるな。レオンが数を教えたり、色を教えたり、幼児番組を見ながら一緒に踊ったりしてるそのせいなんだろうな。俺ももううっかり、貴史の前では変な下ネタなんか話せない気がする」
この時君貴は、息子から「とうたん、しゅっきー」と純粋な眼差しで言われたことを思いだし、あらためて胸が痛くなった。たまにしかやって来ない、ろくに世話もしない親父に好意を表明するとは!君貴は良心が痛むあまり、次に訪ねる時には高いおもちゃでも買っていこうと今から考えているくらいだった。
『そうねえ。ただ、レオンとしては少し悩ましいみたいよ?やっぱり、何か物を揺らして壊したりとか、そういうことがあった時には「ダメっ!めっ!!」て叱ったりしなくちゃいけないでしょ?悪いことをしたらなんでそれが悪いのかを説明したり……意外にね、わたしが叱ったほうが効果あるのよ。「僕、なんか最近貴史になめられてる気がする」ですって。確かに損よねえ。一番長く一緒にいて、色々面倒みてくれるのはレオンなのに、ずっと留守にしててやっとこわたしが帰ってきたら、今度はわたしから離れないんですもの』
「いやいや、レオンさまさまだな。俺たちは一生あいつに頭上がらないというか、俺なんかあいつに会うたびにまんじゅうでも供えて拝むべきなんだろうな」
『ほんとにそうよ。だけど結局、貴史が一番好きなのはわたしよりレオンなんだけどね。わたしが怒って貴史が泣きだして、レオンに助けを求めにいく時の様子といったら……もう、レオンの面目躍如といったところよ』
マキが嬉しそうに笑う声を聞いて、君貴はほっとした。彼が次に東京へ行けそうなのは、来月の中頃である。それまで半月以上あるが、おそらくスケジュールを無理に調整し、少し早めに訪問するような必要性は、もうないかもしれなかった。
だが、君貴としてはそのような予定であったにも関わらず……日本でゴールデンウィークが明けた頃、レオンとマキ、君貴の三人の関係性を脅かす、ある大きな事件が起きた。
その日、君貴はニューヨークの自宅マンションにて、そのニュースに接した。午前の十一時からドバイのホテルに関する問題点と、工期修正について会議の予定が入っていたが――それまでに出社すれば良いと考えていた君貴は、ぼんやりしつつ、焼いたトーストを齧っているところだった。
マキとレオン宅の朝食が「ほとんどきのうの残り物よ」などと言いつつ、非常に豪華なのに比べ……君貴のそれは極めて質素だった。焼いたトーストにバターを一塗りし、あとはただコーヒーでそれを流し込む。そのかわり、ランチのほうは近所のお気に入りのイタリア料理店へ食べにいったり、中華料理を注文したりと、少しボリュームのあるものを食べる。そこから長く続く、午後の業務をこなすために……。
そしてこの時君貴は、いつもの習慣によって何気なくリモコンでテレビをつけた。ちなみにこの時間帯、君貴のほうで特にチャンネルに拘りはない。だが偶然とはいえ、君貴は恐ろしい一報に接するということになる。
>>『本日は、来週の水曜に発売予定の「汚れたピアニスト、レオン・ウォンの真実」を執筆された、ウォン・ヨウランさんにインタビューさせていただきます』
ブロンドの、ベージュ色のスーツをかっちり着こなした美人ニュース司会者が、長い黒髪の中国人女性に対し、「是非、お座りください」といったように、ソファのほうを勧めている。
その前まで、君貴はトランプ大統領の政策が槍玉に挙げられているのを見て――(やれやれ。トランプが大統領である限り、アメリカに未来はないぞ)などと思い、心の中で親指を下に向けていたわけだが……この瞬間、半分寝ぼけていた頭が一気に冴え渡っていった。
(レオン・ウォンの真実だって!?)
この瞬間、君貴の脳裏をよぎったのは、『マドンナの真実』や『マイケル・ジャクソンの真実』といったような、いわゆる暴露本系の本のことだった。とにかくこの場合、想像するにろくでもない本であるのはほぼ間違いないだろう。
『こちらのウォン・ヨウランさんは、有名ピアニスト、レオン・ウォンの義理の妹さんに当たられます。まず、来週発売予定のご著書についてですが……わたしも読ませていただきましたが、なかなか過激なタイトルですね』
『そうですね。でも、真実なのですから、仕方ありません』
控え目な印象ではあるが、長い髪を高い位置で結い、濃紺のルイ・ヴィトンのスーツを着たヨウランは、東洋の神秘的な美人といった雰囲気を演出するのに十分成功していたといえる。ちなみに、靴のほうはフェンディである。
『レオンが我が家に養子としてやって来たのは……彼が八つ、わたしが七歳の時のことでした。本の中の描写にあるとおり、レオンがピアノをはじめたのはわたしの影響なんですよ。わたしがピアノの練習をしているのを見て、彼が興味を示し……母はあまりいい顔をしませんでしたが、わたしは自分が師事している先生に、彼にもピアノを教えてあげて欲しいと頼んだのです』
『なるほど……ですがタイトルのほうは汚れたピアニストですよ?ヨウランさんがレオン・ウォンがピアノをはじめるきっかけであることはわかりましたが、その後、彼がショパン・コンクールで優勝するまでの間、中国のウォン家では何があったのでしょう?』
『レオンは……わたしの父の愛人だったのです』
ここで、観覧席にいた人々が一気にざわついた。「まさかっ」とか、「そんなのウソよっ!」といった女性の声まで聞こえる。
『証拠、といっても、家の中でもそれはわたししか知らないことです。ですが、母や使用人の何人かは気づいていたかもしれません。ようするにわたしは……見てしまったのです。レオンが父のことを罵倒し、自分の足からはじめて、他の部分をなめさせたり……自分の欲望の奴隷にしているところを。その頃彼はまだ、十四か十五くらいでした。けれど父はレオンに首ったけだったんです。兄やわたしは、厳しい父の愛情など感じたことはありませんでしたが、レオンのことだけは別だったのでしょう。果たして美少年にセックスの相手をさせるためだけに父が彼のことを引き取ったのかどうか、その点についてはわかりません。ただ、次のことだけは言えたでしょう。レオンはわたしの父のことを精神的に……あるいは性的にと言うべきでしょうか、そのような形で支配していました。そして、自分に多額の遺産を残させたのです』
スタジオ中がざわめきに包まれる。ここで、三十代の美人司会者は、まるで何かの効果でも狙うかのように、あえて数瞬時間を置いた。そして再び質問を開始する。もしかしたら人々の頭の中に、この衝撃的な事実がしみ込むのを待っていたかのかもしれない。
『ヨウランさんのお父上のミスター・ウォンは、妻であるイーランさんに全資産の約半分を、残りを兄のハオランさん、養子であるレオン・ウォン、それから妹であるヨウランさん……あなたに三分割して与えたのでしたね?』
『そうですね。細々したことを言えば、父が生前お世話になった人や使用人、親戚の叔父や伯母など、父が遺産を残した人々は他にもたくさんいます。けれども、母を除いたとすれば、わたしたち三人の中ではレオンの取り分が一番多かったのです。それは金額的なことではなく、生前、すでに父はニューヨークにあるペントハウスやニースやモナコ、プエルトリコにある別荘など……不動産についてはレオンの名義に変えさせていました。そして彼はそこを、自分が男の恋人と会う愛の巣にしていたのです』
(…………………っ!!)
自分にも関係のある事実が出てきて、君貴はもう朝食どころでなくなった。微動だにせず、ただテレビの画面に釘付けになる。
テレビのスタジオ内では、「彼、やっぱりゲイだったの!?」、「噂は本当だった……」といったような、ひそやかな安っぽいささやきまで洩れている。まるで、あらかじめリハーサルしていたかのような白々しさだった。
『兄は、そのことをいまだに根に持っているようです。しかもその後、レオンは父から譲られた世界各地の別荘のほとんどを売ってしまいましたし、レオン・ウォン基金などという慈善事業まではじめました。ですが、みなさん騙されないでください。それもすべて、レオンの策略なのです。たとえば、遺産相続後、兄やわたしなどに訴えられた時のために……不動産は売却しておけば、それをわたしたちに譲る必要はなくなりますし、慈善事業という隠れ蓑を常に使って資金を運用すれば、ピアニストとしてクリーンなイメージを保てます。何もそんなことをしなくても、わたしも兄も、彼のことを訴えたりなどしなかったというのに……』
どういった種類の涙かは理解しかねたが、ヨウランはここでうっすら涙を浮かべていた。そして、少し悔しそうに下唇を噛んでいる。
『レオン・ウォンが定期的にチャリティ・コンサートなどを行い、災害のあった国などに多額の献金をしてきたことは、世界的に有名な事実です。ヨウランさんは、それすらも彼の慈善心ではなく、策謀によるものだと……?』
『いえ、そうは言っていません。確かに、レオンは恵まれない子供たちに夢を与えただけでなく、たくさんの慈善団体に寄付することで、世界に貢献しているアーティストではあるでしょう。ですが、そもそも彼はロンドンにある児童養護施設でひどい虐待を受けているのです。そのことが彼が恵まれない子供たちに手を差し伸べるもっとも強い動機なのではないでしょうか。レオンはそこで……施設の男性職員を相手に、色々なことをさせられたようです。可哀想なことです。そしてそのことが、のちに彼を同性愛者にしてしまったのではないでしょうか』
ここでニュース司会者は、この痛ましい事実を前に、どこかつらそうな顔の表情をし、瞳を伏せた。だが、額に刻まれた皺のほうは、ある種の嫌悪感を表明しているようにも見える。
『それは本当に事実なのですか……?また、レオン・ウォンは本当に間違いなく同性愛者なのでしょうか?彼のファンの多くは女性だと言われていますが、もしそれが事実であるとすれば、きっとみなさん、今ごろ非常にがっかりされているのではないかと思いますが……』
『レオンがゲイであることはほぼ間違いありません。もしかしたらこれから誰か、お金で雇った女性と偽装結婚し、同性愛者である疑惑を晴らそうとするかもしれませんが……とにかく、彼はとても頭がいいのでしょうね。レオンの周囲にいる人々が騙されるのも無理はありません。何分、あの美貌ですから、彼のあの深い瞳にじっと見つめられると、大抵の人が黒いものでも真っ白く見えてきてしまうのではないでしょうか』
『残念ですが、そろそろお時間となってしまいました。今ウォン・ヨウランさんの語ったことの詳細についてお知りになりたい方は、来週の水曜日に発売予定の、「汚れたピアニスト、レオン・ウォンの真実」を御一読くださいますように!ヨウランさん、今日は貴重なお時間、本当にありがとうございました!!』
ここで、ヨウランはニュース司会者に向かって一礼し、彼女の手を取り握手してから、中国語で「シェイシェイ」と小さな声でつぶやき――それから、どこか颯爽とした足取りでスタジオから退場していった。
「あったまいてえなっ!一体なんだ、あの女っ!!」
ちなみに今日は金曜日である。ゆえに、どんなに本に書かれた内容について君貴が知りたくとも――あと五日は待たない限り、ウォン・ヨウランがそこにどんな彼女にとっての<真実>を書いたのか、知ることは出来ないのだ。
今、時刻は九時三十五分である。そろそろ、秘書の岡田が車で迎えに来るはずだった。そこで君貴は、リムジンの後部座席でスマートフォンを使い、ワイドショー放映後の反応を探ってみることにした。日本の東京は今、夜の十一時くらいだろうか。何分、子供のいる家庭が休むのは早いだろうし、日本のワイドショーがすぐ反応するかどうかもわからない。その場合、レオン本人がこのことを知るのは――彼がもし今、マキと同じベッドで眠っていたとすれば、翌朝ということになるに違いない。
>>超ショックー!めっちゃファンだったのに……(涙)
>>まあ、昔から色んな男とそーゆー関係なんじゃないかっていう噂はあったもんねー。
>>つか、何今さら感満載的な?(笑)
こうした、ゴミのようなつぶやきには君貴も興味はない。だが、あのテレビショーを見た大衆の、概ねの反応というのだろうか。そうした動向についてはある程度把握しておきたかったのである。
また、車で移動中にレオンのマネージャーであるルイス・コーディに電話した。何分、レオンが所属しているエージェント会社はニューヨークに本社があるのだ。彼が今他のアーティストについていて、ニューヨークにいなかったとしても――ルイスの仕事用の携帯に電話すれば、繋がる確率は高かったに違いない。
果たして、ルイス・コーディはコール三回で電話に出た。それで君貴は「例のテレビは見たか?」と即座に聞いた。今まで、君貴は何度となく彼に泣きつかれ、レオンのことをなだめるなどしてステージに彼のことを上げてきた。その関係から、お互いの電話番号についてはすでに相手の名前が入っていたのである。
『もちろん、見ましたあっ!』
ルイスは情けない声でそう叫んでいた。
『でも、日本は夜中だからですね、いっくら携帯に電話しても出ないんですよおっ。どうしましょう、アトーさんっ。私は一体どうすればいいですかねえっ』
(相変わらず他力本願かよ)
そう思い、君貴は舌打ちしたくなったが、どうにか堪えた。だが、そこがルイスのいいところでもある……彼のそうした超低姿勢は、徹底して超低姿勢であればこそ、他の人間を動かす力足りえるのだ。
「どうするもこうするも……暫くは静観して、あの性悪の中国女がどうするつもりなのかを見るしかあるまい。何より、あの真実性が疑わしい暴露本な、あの内容をしかと確かめるまでは、おまえらのほうでも動きようなんてないだろ?」
『それがですねえ……つい先ほどニューヨークの事務所のほうに、挑戦状よろしく本のほうが届きまして……私はまだ読んでないのでございますが、社長が今、部屋のほうで首っぴきになっているところなのでありますっ』
「そうか……なるほど。もし可能であるとしたら……俺にもその本、読ませてもらえないだろうか?何分、来週の水曜まで待ちきれないもんでな。あと、社長が本を読み終わり次第、すぐにその感想を聞きたい」
『わっかりましたっ!そのようにお伝えしておきまーすっ!!』
「ああ。よろしく頼む」
このあと君貴は、出社後、二時間ほどで会議を終えてのち――会議中に連絡があったというレオンが所属するロイ&タナー・エージェンシーのCEOに電話した。何分、この社長自身がゲイで、ニューヨークで同性婚が認可されると同時、長年のパートナーと結婚したという人物だった。君貴は彼とさして親しい間柄というわけではなかったが、この時レオンと一緒に結婚式のほうへは参加していたのである。
『超多忙の人気建築家さんのお手を煩わせて、申し訳ないね』
ロイ&タナー・エージェンシー(RTA)は、モデルや俳優や作家など、実に多くの人材を抱えるエージェント会社である。レオンがたくさんあるこうした事務所の中でここを選んだのは、やはり社長自身がゲイだったから……という理由が大きかったらしい。
彼、ロイ・シェパードは現在五十五歳であり、東海岸のみならず、当然西海岸でも交友関係が広かった。『君がゲイじゃなかったら、うちの事務所のモデルでも紹介したのにね。それか、君がファンのハリウッド女優でも誰でも、会いたい人物がいれば会わせてあげるよ』などとよく言われたものである。
「俺の忙しさなんて、ロイの忙しさに比べたら大したことないでしょう。それより、例の本の内容についてなんですが……」
『正直なところを言って、旗色のほうはレオンに非常に悪いね』
そう言って、ロイは重い溜息を着いていた。
『レオンの生い立ちからはじまって、かなりのところ詳細に調べてある。ほら、彼がいた児童養護施設で一緒だった子たちや、あるいは当時の施設のスタッフなんかから、随分聞き込みを行ってるんだ。何分、中国のお金持ちのお嬢ちゃまだものな。相当金を使って人に調べさせたんだろう。まず、その部分に関して物凄く説得力がある。ゆえに、レオンがルイ・ウォン氏と愛人関係だったということも――それを直接知るのがあのお嬢さんひとりであったにしても、本を読んだ人は、彼女が見たという現場の再現を信憑性が高いと思うに違いない』
「どういうことですか……?」
君貴は、あまりのことに声が震えた。レオンは、ただの色ボケ中国人の大富豪に性行為を強制されたに過ぎない。もし仮に彼が体をなめろと命じていたにせよ……それは、無理強いしてレイプするよりも、そのように「相手が望んでいる」形態のほうがより興奮するという、ウォン氏のプレイにレオンがつきあっていたにすぎない。
『いや、わたしが今ここでその部分を読んで聞かせたりするより……本のほうをルイスか使いの者にでも届けさせよう。今は、ニューヨークの本社のほうにおられるのかね?』
「ええ……ロイ、どうかレオンのことをお願いします。もうお聞き及びでしょうが、彼はプロのピアニストという看板を下ろす決意をすでにしているんです。それなのに、今こんなスキャンダルに巻き込まれでもしたら……」
『ああ、わかっている。何より、そのことを止めていたのはこの私なんだからね。ピアニストとして定期的にコンサートを開かなくてもいい。モデルとして雑誌のカバーを飾るとか、映画にちらとだけカメオ出演してピアノを弾くとか……そんな仕事ならいくらでもあるわけじゃないか。だから、私はレオンの才能を惜しいと思ったんだ。彼さえその気なら、俳優としてもレオンは才能があるからね。だが、今にして思えばレオンが「引退したい」と言った時に、そうさせてやるべきだったと思う。しかしながら私にそうした責任がある以上、最後の最後まで何があってもレオンのことは我々で守ろう。こちらにも、あちこちから電話がかかってきているがね、うちでは「訴訟を起こすつもりでいる」としか今のところ答えてはいないよ』
「そうですか。ロイのほうでそのつもりでいてくださるなら、俺としても心強いです。レオンもそう聞いたら、同じように思うでしょう」
『ところで……だね。レオンがウォン氏から譲り受けたペントハウスや別荘で会っていた男の愛人が――名前こそ出ていないとはいえ、日本の有名建築家Kとなっているんだよ。キミタカ、そのあたり、君のほうでは大丈夫かね?』
ここで、君貴があんまり素っ頓狂な声で笑いだしたもので、ロイのほうでも驚いたようだった。
「す、すみません……いえ、日本の有名建築家でイニシャルがKといえば、俺の他にケン・イリエって奴もいるんですよ。で、俺はほとんどあまり日本にはいないんで……そう思ったらちょっと、あいつに迷惑かかるのかと思ったら、その部分だけなんかおかしかったもんですから」
『なるほど。じゃあまあ、どっちかわからないといった形になって、キミタカにとってはむしろ都合がいいのかな?』
「いやあ、俺はもともとレオンとつきあいはじめた頃から……あいつとの関係についてはいつ誰にバレてもいいとしか思ってませんでしたよ。ただ、レオンの女性ファンに対して申し訳ないっていうそれだけで……」
『そうか。なら良かった。なんにしても、また何かあったら連絡したいんだが……キミタカのほうでは構わないかね?』
「もちろんです。いつなりと、電話してください。ニューヨークにいなかったとしても、レオンに関することではなんでも協力しますから」
――携帯を切った約一時間後、早速とばかり例の本が届いた。この時、君貴は部下から上がってきた設計案をチェックしているところだったが、一度仕事を中断し、本の内容のほうに集中することにしたのである。
君貴はまず、本が思っていた以上に厚いことにまず驚いた。それから一字一句逃さず読む……というのではなく、まずは本に書かれた内容について、大体のところ把握する、という読み方を一時間半ほどかけてすることにした。結果として、本を半ばほども読まないうちから、すぐにロイが言っていた言葉の意味がわかった。
(確かにこれは、レオンにとって相当旗色の悪い内容だな……)
まず、レオンの母親の生い立ちや、彼を妊娠した経緯、自殺した理由など、随分細かく調べてある。おそらくこの中には、レオン自身もまったく知らない内容まで含まれていると思われた。その後、カトリックの乳児院に預けられ、七歳になった頃、同じカトリック系列の児童養護施設ではなく、外部のそうした施設のほうへ移されることになったらしい。この点については調べようがなかったのか、理由については述べられていない。ただ、>>『もしそのまま、同じカトリックの児童養護施設にいることが許されていたら、彼もすっかり神のことなど信じられなくなるような体験をせずに済んだでしょうに……』と書いてあるのみだった。
レオンが受けたと思われる虐待については、君貴にしても読んでいて嫌悪感が込み上げるあまり、読み進めるのがつらかった。『彼らはレオンのことを王子様(プリンス)と呼んで、よくからかっていた。まだ勃起の意味もわからないのに、マスターベーションするよう命じられたり……結局うまくできなくて、殴られては泣いてたよ』、『あいつらは本当に鬼畜みたいな連中だった。性的な何かをさせたあと、ご褒美として食事を与えるんだ。逆に、奴らの機嫌の悪い時はわざと床に食事をこぼして、這いつくばって食べさせられたっけ。やりたい放題だった』……ロイ・シェパードの言っていたとおり、当時施設にいた子供たちを、刑務所やアルコール・ドラッグの治療施設にまで訪ねて、こういった裏を取ったようである。
中国のウォン家に引き取られて以降のことは、ウォン・ヨウランの視点に変わり、今度は客観的事実とは別の意味で描写が詳細だった。とはいえ、ヨウランにも父親が何故突然金髪碧眼の孤児を引き取ろうとしたのかまでは、わからなかったらしい。また、中国国内に数多くあるそうした施設からではなく、何故わざわざイギリスから――といったことについては、父亡き今、彼女にも調べようがなかったということだった。
ここからは、レオンが八歳から十六歳まで、八年間同じ屋敷に暮らしたヨウランから見たレオンの姿について、詳しく描かれているわけだが、このあたりについてもロイの言うとおり、なかなか信憑性を感じさせる筆致によって書かれていたと言ってよい。君貴にしても、自分の知らないレオンについて知るという部分において、純粋に興味深いと感じる一方……やはり、父親の恥部ともいえる姿を克明に描写してしまえる彼女の思考回路については理解不能だった。
この、『十四歳の少年の体を貪る父の顔は、まさしく変態そのものでした』……というルイ・ウォンが亡くなるまでの過程については、間違いなくレオンも知らないものだったろう。何故といって、彼はその時ショパン・コンクールに出場しており、ショパンのピアノ協奏曲を弾いている真っ最中だったのだから。その後、葬儀の席でもレオンは涙ひとつ見せなかったという。『本当に、奇妙なお葬式でした。父のために母も泣きませんでしたし、わたしも兄も涙ひとつこぼしませんでした。ただ、父の愛人たちやその子供たちだけが泣いていました。もしかして父は、わたしたちには見せなかった愛情深いところを、彼らには見せたりしたのでしょうか?……お葬式のあと、わたしはレオンに「良かったわね」と言いました。レオンはぼんやりした顔のまま、「何が?」と聞き返しました。わたしは、「父が死んで良かった」という意味で言ったのですが、彼はどうやらショパン・コンクールのことを言われたのだと勘違いしたようです。「あんなもの、くだらない茶番だよ」……レオンの言うことは、わたしには時々よくわかりませんでした。それで、それ以上何も言わなかったのですが、父が死んだことで、彼がもう二度と父におかしなことをされずに済むと思うと――わたしの心には喜びが溢れました。わたしは自分の目が見たとおりのことを書きましたが、でも誤解しないで欲しいのです。レオンは父の欲望の犠牲者だったというそれだけなのですから……確かに彼は実子であるわたしより兄より、一番多く父から資産を受け継ぎました。でも、わたしがレオンの立場でも、自分が払った犠牲のことを思えば、そのくらいのことはしてもらって当然と思ったかもしれません。レオン、可哀想な人……何故といって彼の心の中には、今も決して埋められない穴が開いたままなのですから』。
(やれやれ。こりゃあ、レオンが怒って相当荒れる内容であることは、まずもって間違いないぞ……)
さらに、ここからまだ話のほうは続いていく。レオンはウォン家から出ていき、彼らとは弁護士を介してしか話をしなくなったという。だが、ヨウランはその後も義理の兄を慕う気持ちから、彼が世界中のあちこちでコンサートを開催するたび、そこへ足を運んだということだった。その時に自分が感じたことや、クラシック音楽の批評家が彼の演奏を当時どんなふうに評価していたかなど……この段になると、君貴はだんだんにある疑いが心に芽生えてきたものである。
(ようするにこの女、ただのレオンのストーカーなんじゃないのか?……)
ジュリアード音楽院に在学中は男の恋人も女の恋人もいなかったようだということや(同じピアノ科のクラスメイトなどに、こちらも人海戦術で聞き込みを行ったらしい)、その後もまだ恋人がいたのかどうか不明な期間が続いてのち、ようやく例の建築家Kの名前が出てくるわけである。このあたりについては、知らない間に自分にも尾行のようなものがついていた可能性のあることから、君貴としてもいい気はしなかった。
そして、ウォン・ヨウランは客観的事実に基づいた義兄レオン・ウォンの伝記を描きつつ――常に自分は彼の味方である……といったスタンスについてだけは、決して崩していないのである。あとがきにて、彼女は本書を執筆しようと思いたった理由について書き記しているが、『天才を間近で目撃した者の義務だと思ったのです』とのことだった。『レオンの幼年時代は極めて厳しくつらいものでした。わたしが彼なら、到底耐えられなかったでしょう。そんな彼にとって、ピアノだけが救いだったのです。その頃のレオンの、ピアノと向き合う姿を見た人であれば、きっと誰でもわかったに違いありません。彼は取り憑かれたようにピアノを弾いていました。おそらく、ピアノだけが彼にとってつらい過去を忘れさせる唯一の手段だったのではないでしょうか。九歳からピアノをはじめてあれほど急激に伸びるという理由について、他に思い当たることがわたしには考えられません……そして、そのようにレオンにとって救いに繋がる何かを自分が与えられたということが、何よりわたしにとって嬉しいことであり、誇りでもあるのです』
君貴は最後のページを捲り終わると、(ああ、なるほどな)と納得すると同時、(こんな本、絶対レオンに読ませられんぞ。もちろんマキにだってだ……)と、溜息を洩らした。
もしレオンがこのヨウランという娘が「抱いて」と言った時に抱いていたら、今こんなことになっていない――おそらく、彼女にとって話はそうしたことではないのだ。ようするに、『レオンはもっと自分に感謝してしかるべきだ』と彼女は言いたいのではないだろうか?
ヨウランは、まず最初にレオンにピアノの手ほどきをしてやり、その後、自分のピアノの教師に彼のことも教えてくれるよう頼んでいる。もしその「きっかけ」がなかったら、彼がショパン・コンクールで優勝することはなかっただろう……そう言いたいのだ。また、彼女は起きた事実について、脚色していないように思われた。つまり、レオンの自分に対する態度が常に一定の距離のある冷たいものだった――そのように描写しており、『わたしのほうでは親しくしたい気持ちがあっても、彼は当時通っていたインターナショナル・スクールの同級生ほどには、決して心を開くことがありませんでした』とも書いている。また、そのことを寂しいように感じていた、といったようにも……。
>>続く。