こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

惑星シェイクスピア。-【62】-

2024年06月07日 | 惑星シェイクスピア。

【複製禁止】ルネ・マグリット

(今回も、【59】~【61】に引き続き、「幻覚剤は役に立つのか」に関連した前文となりますm(_ _)m)

 

 >>ロケットで宇宙に飛びたつ宇宙飛行士にとって、離陸時の激しい振動、体にかかる強力な重力負荷は苦しく、恐ろしくさえあるだろう。自分がものすごい勢いでばらばらになっていくような感じがして、必死に命にしがみつこうとした様子を描写している人もいる。当時四十四歳で、機密取り扱い許可を持って軍事産業企業に勤務していた物理学者、ブライアン・ターナーは、こんなふうに表現していた。

 

 脚から順に体が消えていき、とうとう残ったのは顎の左側だけとなった。とてもいやな感じだった。数えてみるともはや歯が五本と、あとは下顎しかない。このままでは私が消えてしまうと自分でもわかった。そのとき、言われたことを思い出した。恐ろしい出来事に出合ったら、あえてそちらに進め。すると、死ぬのが怖いというより、何が起きているのか興味が湧いてきた。もう死ぬのを避けようとは思わなかった。怯えて縮こまることなく、調べてみようと考えた。すると、すべてが溶けだして、なんとも心地のよい浮遊感に包まれ、私はしばらく音楽になった。

 

 >>「私は起き上がり、トニーとクリスタリアと話をした。私はこう言った。誰もがこの経験をする価値がある……もしみんなが経験したら、他人を傷つけることなど二度とできなくなる……戦争も不可能になる、と。部屋が、そこにあるものすべてが、美しかった。クッションに座っているトニーとクリスタリアまで輝いていた!」ふたりは彼を支えて浴室に連れていった。「ばい菌さえ(そこにもしいたら、だが)美しかった。私たちの世界と宇宙にあるものすべてがそうであるように」

 

 そのあと彼は「あそこに戻る」のに少し躊躇があると言った。

 

「大変だけど、冒険している感じは楽しい」

 

 やがてパトリックはアイマスクとヘッドホンをつけて横になった。

 

「それからというもの、愛のことしか考えられなかった……今までもこれからも、それだけが目的だ。愛は、たったひとつの光点から発散されているようだった……それは震えていた……自分の体が宇宙とひとつになって震えようとしているのを感じた……じれったいことに、踊りたくても踊れない男になった気分だ……それでも世界は受け入れてくれた。純粋な歓喜……至福……涅槃……とても言葉では表せない。実際、私の経験を、私の状態を、この場所を、正確にとらえられる言葉などない。この気持ちに少しでも近い喜びは、現世では一度も感じたことがない……どんな感情も、どんな美のイメージも、地球上で過ごしたあいだのどんなものも、このジャーニーのクライマックスでの歓喜と栄光に満ちた純粋なひとときにはかなわない」

 

 彼は口に出して言った。

 

「魂のオーガズムなんて初めてだ」

 

 経験のあいだ、音楽の存在が大きかった。

 

「私は曲を覚えようとしていた。シンプルな曲で、ドの一音しか使われていない……宇宙の振動だ……存在するものすべてが集まって、全部合わせれば神に匹敵する」

 

(「幻覚剤は役に立つのか」マイケル・ポーランさん著、宮崎真紀先生訳/亜紀書房より)

 

 サイロシビンはいわゆるマジックマッシュルームと呼ばれるキノコ(シロシベ・クベンシス、シロシベ・キアネセンス、シロシベ・アズレセンスなど)から摂取される幻覚剤の成分で、LSDはもともとは麦角アルカロイドの研究によって合成された幻覚剤だということでした。

 

 ただ、こうした薬剤が何故問題になったかというと……いわゆるセットとセッティングを間違えたことによって、ということなんですよね(^^;)つまり、今見ている現実が現実ではなくなり、自分のまわりにあるものがぐにゃぐにゃしだしたりとか――そこでその部屋から飛び出し、幻覚剤使用者が問題を起こしたりとか、「だからこうした幻覚剤は恐ろしい」みたいに言われ、それが社会的にも定着したのみならず、法によって厳しく規制されるようにもなったというか。

 

 そして、実際のところ「自我を超越する」というのは、自分が消えるような、そうした過程を通ることもあることから、当然薬を飲んだ方はパニックになることがある(今自分が自分と信じているもの、自我が消えるわけですから、パニックになるのも当然というか^^;)けれど、医師といったガイド役の方がセッション中、幻覚剤使用者の傍らにいて、「落ち着いてください。大丈夫ですから。次第に~~になりますよ……」的にアドバイスするうち、その時々の精神状態その他のことも関係するようですから、「いつも必ず」、「そのような素晴らしい世界を経験できる」わけでなくても――わたしも何度も同じようなこと書いててアレなんですけど、「自分のちっぽけな脳の外側に宏大に広がる世界を体験」したり、「大いなる神の深い臨在と愛に触れたり」……といった、そうした経験が出来るらしい。

 

 また、このことが何故「不安障害」や「強迫性障害」、「うつ病」、あるいは何かの「依存症」を持つ方の癒しになるかというと……マイケル・ポーランさんは幻覚剤のことをとりあえず英語版のほうでは「サイケデリクス」と呼ぶことにしようと思う、みたいに書かれてるわけですけど、こうした幻覚剤に強い興味を持ってることからして、著者のポーランさん自身、「サイケデリックな感じの人なのかな?」と想像していたところ、実際は全然違うみたいなんですよね(^^;)

 

 つまり、奥さんと息子さんがいて、御自身は安定した仕事も持ち、性格は真面目……みたいな。それで、毎日同じ轍の同じ溝をなぞって深くしているようなつまらない毎日っていうんでしょうか。また、そんなポーランさんが幻覚剤を使用してみたところの自身の変化と、他に色々な人生背景を持つ方々の、同じ体験をした(もっとも、幻覚剤体験に同じものはひとつとしてないにしても)興味深いリポートが本の中にたくさんあるわけです。さらに、サイロシビンやLSD、5-MeO-DMTといった薬剤が脳のどの部位に働くからこうしたことが起きるのか、fMRIや脳磁図によって測定したところ、デフォルトモード・ネットワークが関係しているらしい――といった、「神経科学――幻覚剤の影響下にある脳」といった章もあります。

 

 でもやっぱり、「何故そうなのか」よりも、実際にそれで心や魂を救われる経験をした方が数多くいるという、現実のほうがより大切な気がするんですよね。もちろん、科学的にそのあたりが明らかになっておらず、幻覚剤セッションを経験した方の体験談だけだったら、本として物足りなかったとは思います。でもやっぱり、「何故そうなのか」よりも、現実として「そうなってる」=「心や魂を救われた方がたくさんいる」事実のほうが遥かに重要なことであるように感じました(もちろんわたしも、幻覚剤の成り立ち、文化的歴史、何故そのような作用をもたらすものが存在するのか、それを人類はどう扱ってきたか……といった謎解きのようにすら感じられる部分が凄く面白いと思って読んでいたものの^^;)。

 

 たとえば、うつ病であればわたしもなったことあるのでわかるんですけど、「何故自分が自殺したいほど鬱々としているのか、その理由についてはわかっており、冷静に分析も出来るにも関わらず、その精神的鬱々監獄から出ていくことが出来ない」みたいなことなわけですよね、それは。家族や周囲の人々も、「うつ病」に関する本を読んでみたりして、「変に励まさないようにしよう」とか色々気を遣ってくれていることは本人にもよくわかっている……でも、他の精神に関する病いもそうかもしれませんが、「よくわかっているのに、自分の力ではどうすることも出来ない」という、あれはそうした話ですよね。。。

 

 言ってみれば、著者のマイケル・ポーランさんとは別の意味で「精神の同じ轍の溝に嵌まり、そこを行ったり来たりしている。もっと他の場所に移って軽い溝をたくさん作って何度も行ったり来たりしよう……と精神科医にはアドバイスされているが、それが出来てりゃそもそも医者のカウンセリングなんか受けてねえ」みたいな、そんな話(^^;)

 

 ところが、こうした患者さんが幻覚剤を使ったセッションを受けると、「ランの花が美しいのはわかってる。でもうつ病になる前のように美しいとは感じられないんだ。うじうじ☆」みたいな感じだったのが、例の自我が消失したり小さくなったりしたことで、魂を圧倒されるような体験をすることを通し――「うつ病になる前以上に、今はランの花が美しいと感じる」といったように、変えられてしまうということなのだと思います。

 

 

 >>インタビューした被験者は、感覚の分断についても訴えた。ある患者はワッツにこう話した。

 

「ランの花を見たとして、頭ではそこに美しいものがあるとわかっているのですが、そう感じないんです」

 

 被験者の多くが、サイロシビン体験によって、たとえ一時的であっても、心の監獄から解放されたと話す。被験者のある女性は、セッション後の一ヵ月間、1991年から続く抑うつ状態から初めて解放されたと私に話した。ほかの人たちも同じような経験について語っている。

 

「脳内の監獄から休暇をもらったよみたいな感じでした。私は自由になり、何も心配がなくなり、エネルギーで満たされた」

 

「真っ暗な家で急に照明のスイッチが入ったみたいでした」

 

「はまり込んでいた思考パターンから解放され、コンクリート製のコートを脱いだ感じ」

 

「パソコンのハードドライブをデフラグ(断片化されたファイルを最適な状態に再配置すること)したみたいに思えました。『脳みそがデフラグされた、なんてすばらしいんだ!』」

 

 この心の変化がその後も継続した被験者も多い。

 

「心の働きが前とは変わりました。以前ほど反芻しなくなったし、考えに秩序や文脈が生まれました」

 

 感覚と再接続されたという被験者もいる。

 

「目にかかっていたベールが取り払われて、急に周囲がくっきり見えるようになったんです。輝いて見えました。植物を見て、きれいだと感じたんです。今もランを見ると美しいと感じられます。これは長く続いている変化のひとつです」

 

 自分自身とまたつながれたという人もいる。

 

「自分にやさしくなれた」

 

「根本的に、うつ病になる前の自分に戻った感じがする」

 

 あるいは、他者とまたつながれるようになったという人もいる。

 

「知らない人に話しかけていました。出会った人すべてと、長々と会話をしました」

 

「通りを歩く人を見て、よく考えました。『人間って本当に面白い。みんなとつながっている感じがする』」

 

 そして自然とも。

 

「以前は自然を楽しんでいたが、今はその一部だと感じる。前は、テレビや絵画みたいに、物として眺めていた。でもあなたはその一部であり、そこに断絶や区別はなく、あなたが自然そのものなんだ」

 

「私はすべてのひと一人ひとりと等しく、一体で、60億の顔を持つひとつの命なんです。愛を求め、同時に愛を与える。海で泳ぎ、そして海は私なんです」

 

(「幻覚剤は役に立つのか」マイケル・ポーランさん著、宮崎真紀先生訳/亜紀書房より)

 

 アルコール中毒の方であれば、「お酒はほどほどにして」と言う妻や娘のことをまた殴ってしまった……うじうじ☆、そこでまたその落ち込んだ気分を晴らすのにウィスキーの瓶に手を伸ばす……といった自己肯定感が下がる一方の抜けられないスパイラルに嵌まっていたのが、幻覚剤セッション後、「神さまに愛されていることがわかった」、「それは魂が圧倒されるほどの深い愛だった」的体験をすることにより、その後、どうしても変えられなかった行動が変わるという実際的な変化がある……という、そうしたことなのだと思います。

 

 これは特に本の中に言及はなかったのですが、自分的に思うに、それでいくと家の鍵を閉めたかが気になって、仕事を抜けだしてまでも確認しにいくという、確認恐怖症、あるいはガスの元栓を閉めたかどうか気になるあまり、家族と遠く離れた場所にキャンプしに来たというのに帰ろうとする方であるとか(同じく強迫神経症)……手を何度も洗わずにはいられない清潔(不潔)恐怖症の方など、「もう同じ轍の溝をなぞって深くすることに飽き飽きしている。でも、そのループから自分の力では抜けられない」方が、その苦しみから解放される可能性というのは確かに高いのではないかと、そう思ったりしました。

 

 他に、以前から調べてみたいと思っていてまだ出来ていないのですが(汗)、統合失調症の方の聞く幻聴であるとか、本で今は脳でこうしたことが起きているからだとわかっている……的な文章を読んだことがありました。わたし、不思議なんですけど、大抵そうした幻聴って、自分を否定する言葉や、誰かが自分の悪口を言ってるとか、そうしたことが多いって言ったりしますよね。でも、サイロシビン・ジャーニーを経験すると、それがすべて逆に肯定的な言葉に置き換わる可能性があるような気がしてます。つまり、それが神でも大いなる存在でも、空気中に存在する善い霊でもなんでもいいのですが、「おまえを愛している」とか、「自然のすべてがおまえを肯定し、おまえの存在をともに喜び祝ってる」とか、幻覚剤によるセッションを経験した方は、それがただ一度きりでなく、その後の生き方や精神状態にも変化が起き、その後もそのことを思い返す――ということも、経験として特徴的なことのひとつなのかなと思ったんですよね。

 

 その、実際に自分で経験したわけでもないのに、何故そのような通常の治療では出ない「差」が生じるのか、本を読んだだけでもわかる気がしました。つまり、今目の前に見えている「この現実しかない」ということだと、生きているのは苦しい。でも、幻覚剤によるセッションを経験した方が何故「生きるのがラクになった」とおっしゃるのか、それは自我がなくなる、あるいはそれが小さくなる経験をしたことを通し、神に対するあまりに強い畏敬を感じる世界や、その神から愛されているといった確信を得る経験を通して――「自分の人生で起きている不幸は実は大したことじゃない」と、【実感】できるからなのだと思います。

 

 わたし自身、そうした報告例を読んだだけで、根本から精神が塗り変えられるほどではなくても、確かに心が癒されました。そうした現実の外側にある、わたしたちの脳の外側に広がっている、こちらの現実世界より遥かに重要な世界があるとわかっただけでも……昔ベストセラーになった「小さいことにくよくよするな!」という、この精神状態のことをよく思い出すようになったというか。

 

 いえ、自分が実際に今じかに目の前で経験してることって、「気の合わない上司はやはり気の合わないままで、彼の怒りや叱責も現実以外の何ものでもない」ことに変わりありませんし、学校でもしいじめかそれに近いことがあったとすれば、「気の持ちようで世界は変わる」なんて言う奴のことは殺してやりたいくらいでしょうし、やっぱり嫌な奴に会えば彼/彼女というのは脳の中で「嫌な奴」に分類され、そうした人に不愉快な目にあわされたら、そうした記憶というのはパソコンのデスクトップにあるゴミ箱にその記憶ごと移動させたくなることにも変わりないとは思います。

 

 ただそれでも――「あ、これ、そういえばほんとの現実じゃないんだっけ」、「魂を圧倒的に凌駕するほどの、本当に本物の世界から見た視座のことを思えば……まあ、くだらないことだよな。また、そちらの世界から自分を見て、よりよく生きよう」というのでしょうか(また、自分と同じくこうしたエゴやエゴを守るための行動に振り回されている人を見て、「君もあの世界を体験すれば、色々変わることが出来るだろうにね……」と、経験者の方であれば寛容な気持ちで許すことすら出来るのかもしれません)。

 

 わたしが思うに、何かの罪悪感の縛りが強いと、そのことに関連した世界がまずトリップ後の世界に現れることもあるようですし、日本に昔からある「お天道さまが見てる」というあの道徳観というのは、無意味なものでもないんだなと思ったりしました。たとえば死後、なんの良心の痛むところのない人生を送った方であれば、目の前になんの邪魔するものもなく天使のような存在が現れて、そのまま案内され、至高天に昇っていくような経験をされるかもしれません。でも、そうじゃない方の場合、この理論でいくと「自分が生み出した自我の怪物が立ち現れて、それが悪魔やモンスターのような姿を取り、邪魔して邪魔して邪魔をされ、そんな自我の地獄的牢獄にずっといることになる」――それが実は、古来から色々な宗教が言ってきた天国や地獄、天使や悪魔という存在の正体だった……という可能性もゼロではない、ということなのではないでしょうか。

 

 わたしもそうですが、何かの精神的病気を患ったことのある方は、「自分の最大の敵は実は自分である」という経験をされることが多いと思います。しかも大抵の場合、旧約聖書に出てくるヤコブが天使に勝ったようには、人は神に勝つということまでは出来ない……でも、幻覚剤によるセッションを経験した方は、「いつもの慣れた轍をさらに深くするためなぞる」ということを、どうしてもそれをやめられないからこそ、長くカウンセリングにかかり、SSRIといった気分の悪くなる薬を飲んでいるというのに……治療の効果のほうは、こちらの幻覚剤によるもののほうが高いのではないかと、個人的にそんなふうに感じたりもしました。

 

 なんにしても、「幻覚剤は役に立つのか」は、人の人生やその生き方をも変える力を秘めているという意味でも、本当に素晴らしい本なので超おススメです♪

 

 それではまた~!!

 

 

       惑星シェイクスピア。-【62】-

 

 ギベルネスは、レンスブルックがパン屋ポンピーのラキムという男に殴られたという例の場所――<コリオレイナス食堂>で、ウィザールークと待ち合わせていた。道を渡った斜め向かいにある<ルキア食堂>でも良かったのだが、ギベルネスがこちらを選んだのにはある理由があった。というのもこの<コリオレイナス食堂>の女主人というのが寡婦であって、小さな子供がまだ六人もいるというのに今は亡き主人の味を守りつつ、一生懸命店を切り盛りしていたからである。

 

<ルキア食堂>のほうはいわゆる人気店であり、昼時などは行列が出来ていることも珍しくない。だが、そんな時<コリオレイナス食堂>のほうではまだ座れる席が残っていることがよくあり……つまり、ギベルネスとしてはこの苦労人のおかみに多少なりクラン銅貨を渡してやりたく思っていたというのがある。確かに、ルースの言っていたとおり、ワインのほうはいただけなかった。だが、料理の味のほうは決して悪くもなく、安い値段でちょうど腹が膨れるくらいのものが出てきたと言ってよい。

 

「あのおかみ、そのうちノイローゼでぶっ倒れそうだぎゃ」

 

 一階の店の脇にある階段からは、赤ん坊の泣く声が聞こえ、それをまだ十になるかならぬかくらいの長女があやしているのが丸聞こえだった。そんな所帯じみた雰囲気が嫌だというので、敷居を跨ぎかけた客が帰ってしまうと、おかみは二階に向かい「これであんたたちの食い扶持がまたひとつ減ったよ!そんなガキ、殴ってでも黙らしとくんだ!!」と鬼のような形相で怒鳴り散らす。そこで今度は驚いた客が慌てて金を払い、そそくさ出ていこうとすると――「あ、こりゃどうもどうも。またよろしくお願いしますね。うちも生活が苦しいもんで、ハァ」と一転低姿勢となり、今度は百八十度コロリと態度を変えるのだった。

 

 おかみはまだ三十半ばほどと思われたが、黒い髪には白いものが混ざっており、これほど毎日客に食事を振るまっていながら、自身は何も食べていないのでないかというくらいガリガリに痩せ細っていた。しかも、ギベルネスが以前やって来た時「こうしたお店を経営していくのは大変でしょうね」と何気なく言うと、今度はホロリと泣きだし、他に客が二名しかいなかったせいもあり、自分の不幸な身の上話をえんえんはじめていたのである。

 

 また、ギベルネスはレンスブルックが何故彼女に対し「ノイローゼ」と言ったのかも、よくわかっていた。というのも、カウンターの内側で料理を作っている間、おかみはまるで魔女が呪文でも唱えるようにブツブツ言いながら特製スープの鍋をかき混ぜている。そして、その間も別の注文された料理を同時に作っているため、ちょっとした邪魔が入るなり、「うるさいね!今できるよ!!」などと、また鬼のような形相に変貌するのだった。

 

 おかみの妹や従姉妹といった誰かしらが手伝いに来ている時はそれでもいいのだが、しまいには見てられなくなった客のほうでウェイターよろしく手伝いだすことまであったほどである。そしてそうした時、おかみはまたもホロリと泣きだし、「すみませんねえ。なんとありがたいことでございましょう。あなたは聖人さまに違いない!!」と、今度は小汚いエプロンで頬の涙をぬぐうという始末だった。

 

 ギベルネスはこの店に通ううち、常連客の全員がもしや、この店の料理を味わうというよりも、おかみの百面相による一人芝居を見に来ているのではあるまいか……と思うことさえあるほどだが、やはりそれがなんであれ店をやっていくのに立地というのは非常に大切なもののようである。というのも、ここ<コリオレイナス食堂>は織工街が近いのみならず、城砦内でも大きな通りにある商店街のひとつで人通りも多い。となると、他の店のテーブルが人で一杯ならば、「まあここでもいいか。味だってそんなに悪くない。いわゆるおふくろの味というやつさ」ということになり、それなりに客もやって来て、一日にクラン銅貨のほうも壺に貯まろうというものだった。

 

 そしてこの日も……「いいよ、おかみさん。自分の食いもんくらい自分で運ぶさ」という客が現れるたび、「すみませんねえ、なんて有難いこったろう!あんたは聖人さまだね。ねっ、実はそうなんだろ?」などといういつもの会話が交わされていた時のことだった。

 

 何人かのならず者――少なくとも、ギベルネスにも、他の客にも一目でそうとしか思えない――が戸口に現れると、何かの書面を片手に、ドカドカ店内へ押し入ってきたのである。

 

「おい、おかみ!てめえの旦那にゃ実は借金があったってのは、前にも説明したとおりだ!!それで、百リーヴル、耳を揃えて返せる算段はついたのかい!?もし期限までに返せねえなら、この店も二階の住まいのほうも全部、それは全部俺たちのボス、マルヴォアザンさまのものってことになるぜ!!」

 

 いかにも腕っぷしの強そうな男たちが四人、店の中の椅子やテーブル、あるいはそこにのった物などを蹴飛ばし、「何見てやがんでえ!?」、「見せもんじゃねえぞ、おおう!?」などと凄んで、食事中の客すらもすっかり追いだしてしまう。残ったのは、ギベルネスとレンスブルックのふたりだけであり、レンスブルックはといえば、椅子から半分腰を浮かし、反射的に逃げだそうとしたほどだった。

 

 気の毒なおかみはといえば、カウンターの隅のほうに身を屈め、顔を覆ってすすり泣きながら、「ああ、神さま!ああ、神さま……どうかどうか、今こそお助けを……!!」と、ブツブツつぶやくばかりだったと言える。

 

「その借金返済の期限というのは、いつまでなんですか?」

 

 二階からは六人の子供たちが下りて来、それから店の周囲にも人だかりが出来つつあった。というのも、彼女は<変わり者の名物おかみ>として多くの人たちに知られていたからであるし、また彼女は近所の人々からは同情され、愛されてもいる人だったのである。

 

「なんだ、このなまっちょろい色男は!?」

 

 下から顔を覗き込まれるようにして凄まれると、ギベルネスは吹きだしそうになった。なまっちょろいはともかくとして、少なくとも色男ではないと自覚していたからだ。

 

「その書面にはなんて書いてあるんですか?いつまでの期限に百リーヴル支払えと書いてあるのですか?」

 

 ギベルネスが、この四人の中では一番のボス格らしい男にそう聞くと、彼は何故か書面のほうを引っ込めようとした。筋骨隆々といった体格の男であるが、顔にはどこか理知的なところがあり、それなりに頭のほうもいいのではないかと思われた。メルガレス城砦は市民の識字率は比較的高いほうであったが、おかみがちょうどそうであるように、字の読み書きが出来ない者というのも決して珍しくなかったのである。

 

「なっ、なんだてめえはよ!まずい料理だすしか能のねえ、この店の常連かなんかか!?ようするにだなあ、このおかみのしょうもねえ死んだ旦那はよ、マルヴォアザンさまお抱えの娼館で娼婦とねんごろな関係ってやつになり、途方もねえ借金を生前に抱えていたのよ!!それで、その借金を耳そろえて返す前におっ死んじまった。マルヴォアザンさまがお怒りになるのは当然のことだろうが!!」

 

(マルヴォアザンさま、マルヴォアザンさまと連呼してるということは、おそらくそう大したことのない裏の世界の小物だろうな。もし本当の大物であれば、自分の名前のことは何があっても隠そうとするものだろうし……)

 

「もし、その書面が正当な法的効力を持つものであれば、法務院のほうに訴えればいいんです。それで、この気の毒なおかみさんの旦那さんが死んだだけではその負債は帳消しとはならず、妻である彼女にも返済するよう法が命じるのであれば……その時、もしおかみさんに返済するだけのお金がないとなれば、私のほうでなんとかしましょう」

 

「へっ、てめえみたいな貧乏くさい身なりの男に、百リーヴルも払える金があるってのか!?それに法務院に訴えでられて、いい恥見るのはその惨めな痩せっぽちの年増女のほうだぜ!!自分に女としての魅力がねえから旦那が娼館に走って夜毎……いてっ」

 

 突然、男の背後から石つぶてが飛んできたかと思うと、それは筋肉男の首の後ろあたりに見事命中した。見ると、二階に続く階段のある戸口から、六人の子供全員が顔を覗かせている。

 

「父ちゃんはそんなヤラしいところに行ったりしないよ!!」

 

「そうだ、そうだ!!父ちゃんは母ちゃんのことだけ愛してたんだから!!」

 

「それに、毎日一生懸命働いて、うちの一階と二階を行ったり来たりする生活だったんだから、そんな気力も父ちゃんにはあるわけなかったよ!!」

 

 次男も三男も、まだ六歳とか七歳くらいの年だったから、男の言った本当の意味についてはわかってなどいなかったろう。それでも、赤ん坊を抱いた十歳の娘がもう一度渾身の力で石を投げようとすると、流石のならず者たちも良心が疼いたようだった。

 

 そこへもってきて、店の正面からも石が飛んできた。もし、この<コリオレイナス食堂>がならず者たちの暴力によって奪われてしまうとしたら、次は自分たちの番かもしれないと、他の近所に店を構える者たちが石を投げはじめたのである。

 

「あんたたち、それでも人間なのかい!?」

 

「あんな、生活の苦労で頭がおかしくなってる人に対してよくもまあ……」

 

「恥を知れってんだ!!わかったら、とっとと帰りな!!どのみち、百リーヴルなんて金、ここにあるわけねえだろうがっ!!」

 

 ならず者たちは、しぶしぶといった体で店から出ていったが、最後にもう一度、テーブルを蹴ったり、カウンターの皿を床に投げつけるのを忘れなかった。だが、そんな突然の嵐が過ぎ去ると、店の外にいた人々はわっとばかり中に入って来、散らかった<コリオレイナス食堂>の店内を片付け始めたのだった。

 

(チッ。くだらねえお涙ちょうだい物語だな……)

 

 待ち合わせ場所へウィザールークが到着してみると、何故だか食堂のまわりに人だかりがしている。背が低く、さらには右目しかない彼としては、一体何が起きているやらまるでわからなかったのだが――それでも、店のほうから聞こえるならず者の脅す声からある程度察することは出来た。続く、子供たちの叫び声やら、ならず者たちを非難する声やらなんやら……。

 

 ウィザールークはしらけるあまり、その場から即刻立ち去りたいほどだったが、それでもやはり、約束は約束である。<コリオレイナス食堂>の前から人々が三々五々散ってゆき、店内のほうもある程度静けさを取り戻すと、彼は自分とよく似た男と、茶の僧服を着た人物のいるテーブルのほうへ進んでいった。

 

「景気の悪い店のようだから、場所を変えようか。どうやらここは商売の話をするにはいまいち縁起が悪いようだからな」

 

 美味しい鶏の脚を齧っていたギベルネスとレンスブルックは、互いに首を振っている。

 

「べつに、ここでいいぎゃ。きっと、先生もそう思ってるぎゃ」

 

「そうですね。ガーゼや包帯といったものは、どのくらい作れそうですか?」

 

 店内は賑やかでありつつ、それでいてどこか人々のしみじみとした優しさの余韻が空気中に漂っているようでもあった。おかみさんは涙々のあまり、すっかり料理も手につかなくなっているので、代わりに隣の雑貨店の女主人が出来た料理をよそったり、包丁仕事をして手伝っている。子供たちはみな、皿を運ぶのに大忙しだった。そして、そうこうするうち、近くに住んでいるおかみの妹や従姉妹らが、話を聞きつけてすっ飛んできたというわけだった。

 

「あんた、さっき百リーヴル代わりに払ってもいいとか言ってたな?ボロっちい身なりをしてる割に、実は結構な資産家だったりするのかい?」

 

「そんなお金、あるわけありません」と、ギベルネスはケロリとしたような、すっとぼけた顔をして言った。「ただ、彼らはようするによくいる手合いの地上げ屋みたいなものなんだろうなと思ったんですよ。ここは立地がいいから、おそらくはどんな商売をしてもある程度儲かるでしょう。何分、寡婦というのは立場が弱いものですからね……ああいうならず者たちというのは難癖をつけ、暴力によって物事を解決しようという連中です。法務院などへ行かれて困るのは彼らのほうだろうと思ったので、あんな言い方をしたまでのことですよ」

 

「あんた、マルヴォアザンがどんな奴か知らないのかい?」

 

 注文を取りにきた八歳くらいの娘に、ウィザールークは「強い酒を持ってこい」とぞんざいに言った。「ここのワインは安いがどうにもいただけねえ。ラム酒かジンか、とにかく飲めるような酒を持ってくるんだ」

 

 この店の次女は、ウィザールークに凄まれると、ビクビクしながらカウンターのほうへ取って返した。彼は四十になった今も百センチほどしか身長がない。だが、小人として小さな子供らにからかわれるのが嫌いなため、ウィザールークは相手が子供でも常に容赦がないのだった。

 

「この城砦の悪の大物だったりするのですか?」

 

「そんなところだ……とでも格好つけて言いたいところだが、残念ながらそこまでじゃない。ただのあぶれ者の小物チンピラといったところかな。裏町の大物の使い走りをして日銭を稼いでいるといった手合いの奴だよ」

 

 酒のほうを持ってきたのは、おかみの妹だった。彼女は自分の可愛い姪を脅したウィザールークのことが気に入らなかったのだろう。ただ黙ってジュニパーベリーによって香りづけされた酒を置いていく。

 

「へん!こんなもん、水とアルコールを混ぜてつっとばかジュニパーベリーで香りをつけたといった程度のもんだな。これで金とろうってんだから、ぼったりくりもいいところだぜ」

 

「そんなに文句を言うものじゃないぎゃ。それに、いい酒を飲みたきゃ、それなりの店のほうへ行くぎゃ。ほら、オラのパンとソーセージを分けてやるから、先生に恥をかかせるような真似だけはやめるぎゃ」

 

 レンスブルックがそう言うなり、ウィザールークは皿の上にあった彼の分のパンとソーセージをガツガツ食べた。最後に、脂のついた自分の親指と人差し指を美味しそうになめる。

 

「よう、兄弟。恵んでくれてありがとうよ。それで、お宅のほうの景気はどうだい?」

 

「よくも悪くもないぎゃ」ウィザールークのほうで面白がっているのとは違い、自分とよく似た顔を見るだに、レンスブルックは嫌悪感がこみ上げてくるのを感じてしまう。「オラのほうはあんたみたいに商売をやってる金持ちってわけでもないぎゃ。ま、そのうちいつか……陽の目でも見られりゃいいとは思ってるぎゃ。けんど、その場合でもあんたみたいな金持ちにはまずもってなれんぎゃ」

 

「ふふん。よく似た顔の、しかも同じく砂蜘蛛に片目をやられた者同士のよしみというやつで、うちに来て働いてくれたっていいんだぜ?ま、オレたちのように容貌のよくねえチビッ子ってやつぁ、世間からろくな目に合わされやしねえ。そのこと、身に沁みてよくわかってるだけに、レンスブルック、お宅のことだけは特別だ。なんか悲惨なことでもあって、もう生きていたかぁねえってくらいの時には、オレのことを思いだしな。そしたら、うちの地所で綿花畑の世話の監督でもしてもらって、従業員どもを鞭打って金でも稼いでもらおうじゃねえか。なあ?」

 

 レンスブルックは返事をしなかった。彼はドッペルゲンガーという言葉を知らなかったが、いうなれば、そのような存在に人が出会った時に感じる不気味さ……ウィザールークにレンスブルックが感じる気味の悪さは、そうした種類のものだったろう。

 

「それで、ガーゼと包帯の件は承知していただけるでしょうか?」

 

「まあなあ」くいっとジンを飲みながら、ウィザールークは不機嫌に言を継いだ。「だが、あんたに百リーヴルほども金がないとわかった今じゃ、ちょいと魅力のねえ商取引というやつだな、それは。あん時は、自分と瓜二つのそっちのレンスブルックという生き別れの兄弟みてえな奴がいたもんで、これも何かの縁かと思い、つい安請け合いしちまったが……そんなものをたんと山ほど作ったあとで、「やっぱいーらない!」だの、金が払えねえだの言われたら、こっちゃたまったもんじゃねえからな」

 

「お金のほうは、必ずお支払いします」

 

「だからさ、前金としていくらもらえるかって話なんだっての!!あんたからもらったサンプルを元に、こっちで一応作ってはみたがよ」

 

 そう言って、ウィザールークは鮮緑色の上衣の懐から、蜘蛛たちが吐きだす糸を元にして作ったガーゼと包帯を取りだした。正直、ガーゼも包帯も、彼が仕立て屋街にて承っている布地に比べたら――遥かに金がかからず量産できるものではある。だが彼は、苦労に苦労を重ね、今の人から敬われる商人としての地位を得た。ゆえに、金に関しては出来るだけ吹っかけ、びた一文たり負けたくないという精神を誰に対しても貫いてきたのである。

 

「素晴らしいですね……!これなら、怪我人たちを手当てするのにちょうどいいどころか、少し上質であるようにさえ感じるくらいですよ」

 

「そうかい?おりゃあよ、この街の衣服には一家言あるうるせえ人たちのあらゆる注文に答えてきたって男なもんだから、こんな簡単に出来るもんを大量に注文してえなんて聞くと、むしろなんか騙されてる気がしてきて、ケツのあたりがムズムズしてくるのよ。つか、あんたこんなもんにほんとに金払ってくれんのかい?」

 

「ええ。申し訳ありませんが、今すぐお金を支払うわけにはいかないかわり……」

 

(だろ!?そう来ると思ったぜ)

 

 ウィザールークはそう思い、チッと舌打ちしてジンを煽るように飲んだ。

 

「もし、それが必要という時にはこちらから連絡しますので、その時には必ずきっちりお金のほうはお支払い出来ると思います」

 

「そんなこと言ったってなあ。こっちは他にも仕事が色々あるもんで、いきなりその時急いで作って持ってこいなんて言われても、そう出来るとは限らねえんだぜ。けど、前金をちょいともらっておいて、残りの分仕上げてくれたらこんくらい払いますぜと、ちょいと証文でも一筆書いてもらえりゃあ、こっちだって「よしきた!!」とばかり、一生懸命なんでもさせてもらいまさあな。あんたが旅のお人で、ここに長くはいんなさらないと聞かされてる以上、そこんところは尚更だ。そこだけつっとばかこっちの事情についても考えてもらえませんかね」

 

 ギベルネスは考え込んだ。というのも、ウィザールークの言ったことは誰が聞いてももっともなことだろうと思ったからである。だがここで、レンスブルックが蜂蜜パイを頼み、自分と瓜二つの男の隣に椅子を進めた。ちなみに、この蜂蜜パイというのはウィザールークの大好物である。

 

「兄弟、これはここだけの話ぎゃ」と、レンスブルックは囁き声で続けた。「今先生が頼んだことはここ、メルガレス城砦の政府のお仕事だぎゃ。そんで先生は、そんことをなるべく秘密にしたいぎゃ。そこでなんかしら証拠が残ると困るわけだぎゃ。ということは……だぎゃ。頭のいいあんさんには言うまでもないことのような気もするぎゃ、こんなガーゼや包帯がぎょうさん必要になるってえことは、そりゃもうてえへんなことなわけだぎゃ。ほいで、この仕事をあんさんがきっちりしてくださったとしたら……伯爵さまは大喜び、お宅さんはもうこんな程度のことでよもやメルガレス城から招待されるとはというくらいの栄誉が得られるぎゃ。ようするに、先生が金のことを心配せんでええ言うとるのは、そういう意味だぎゃ」

 

(えっと、それはちょっと違うかな……)

 

 ギベルネスはそう思ったが、とりあえず黙っておいた。ウィザールークの反応をとりあえず見たかったのである。

 

「兄弟、それは本当か!?」

 

 用心深いウィザールークが、こんなにも簡単に話に乗ってきたことには、レンスブルックもギベルネスも驚いた。実は彼には、かねてよりある野望があったのである。その昔、ウィザールークが今の商売をはじめて間もない頃……仕立て屋街や織工街などを順番に回り、必死に頭を下げて仕事を取ってきたものである。それぞれの店には昔より長く懇意にして商取引しているところがあるゆえに、こうしたゼロからの開拓というのは非常に難しい。それも彼のような一見してどこの誰とも知れぬあやしい者ということになれば、それは尚更である。だが彼は、相場よりも安い値段によってより上質な布地や糸、染色料などを提供することによって、寝る間も惜しんで働き、今の商人としての地位を築いたのである。そして、そんな彼がさらなる望みとしているのが――実はメルガレス城に出入りし、伯爵さまや貴族さま方専用の出入り商人になるということだった。

 

「本当も本当ぎゃ」

 

 説得するのは難しいだろうと感じていただけに、レンスブルックはむしろ、このウィザールークの食いつきっぷりに驚いた。

 

「オラもあんたの布地商売のことはよくわからんぎゃ。せいぜいのとこ言って、あんたのその衣服が最上級の染料によって染められているのに対し、オラのこの緑の服はただの安い草木染めだってことくれえのことしかオラにはわからんぎゃ。とはいえ、そんなに苦労もなくガーゼや包帯を作れるなら、政府のほうに恩を売っておけば……間違いなくそれなりに見返りってものはあるに決まってるぎゃ」

 

「うむ。オレと同じ器量の悪い顔、それに人から好かれそうもない空気感を纏ってるおまえに言われたのでなかったら……オレももう少し考えたかもしれん。だが、オレはおまえを信用するぞ、兄弟。というのもな、おりゃあ、政府公認の仕事ってやつをするのが昔からの夢だったのよ。宮廷に出入りしてる人間どもが、どんなふうに仕事するか知ってるか、兄弟?まさに濡れ手に粟というやつよ。確かに、第一級の布地によるドレスやらダブレットやら、そんなものしか伯爵さまも貴族さま方も身に纏うってことはねえだろう。だが、そいつをお届けするために宮廷に出入りしてる人間てえのは、普通に同じ仕事してる奴らの軽く三倍か五倍か、あるいは事によったら十倍も儲けているというわけよ。兄弟、おりゃあな、おめえと同じこんなチンケな容貌だが、一度宮廷に出入りしてるご身分だなんてことが周囲に知れてみろ。「なんとかさまにこんとかいうお願いごとをしていただけませんでしょうか」なんておべっか使う連中が激増すること間違いなしよ。へ、へへ、へへへ……そしたらよ、オレのほうではどうすると思う?涼しい顔して、「ど~しよっかな~。ま、頼んであげてもいいけどお~」なんて具合でな、これ以上胸のすくってことはないってくらいなもんだぜ」

 

(チンケな容貌は余計だぎゃ)と思ったが、レンスブルックはウィザールークの気持ちがよくわかるのだった。とはいえ、彼の片目しかない右目のほうが、金や名誉欲といった欲望にギラついているのを見るたび、(こんなふうにはなりたくないもんだぎゃ)とは、同時に思うのだったが。

 

「まあ、兄弟。そういうことだから、お宅の好物の蜂蜜パイでも一緒に食べて、先に祝杯でも上げるとするぎゃ」

 

「ありがとうよ、兄弟」ウィザールークのほうでは、すっかり自分の頭には栄誉の冠でも輝いているかの如く、気分よく酒に酔っている様子だった。「おめえに最初に会った時から、おりゃあ思っていたのよ。そりゃまあ、最初は驚いたわな。こんなみっともねえチビがこの世にもうひとりいる……しかも同じく砂蜘蛛に食われて片目がねえときてる。こりゃ一体なんの因果か前世の業かってな。だが、おめえからはなんとなくいい奴の風が吹いてくるのがオレにはわかってた。ふふん、オレのこういう勘てのはいつでも当たるもんよ。なあ、兄弟。オレたちにはもしかしたらなんの血縁もないかもしれねえ。が、これからはオレのことを本当に兄ちゃんか何かだと思って頼ってくれ。その他、多少のことであればなんでも都合してやろう」

 

(オラがあんたから最初に会った時に感じたのは、なんとも嫌な奴から吹いてくる風だったぎゃ。ほいで、顔が似てるってことは、オラも同じ嫌な奴の空気を周囲に振りまいてるかと思って、絶望したぎゃ……が、まあ、同じ顔と背格好だからわかるってこともあるぎゃ。無一文からはじめて、今くらいの金と地位を得るのに、ウィザールークがどんくらい苦労したかとか、そういうことについては痛いほどわかるぎゃ……)

 

 ――こうして、無事商談が成立し、ギベルネスとしてはほっとした。もちろん、レンスブルックのウィザールークに対する説得の文言には問題のある箇所もあっただろう。だがこの先、メレアガンス州の領主であるメドゥック=メレアガンス伯爵が、ハムレット王子に味方してさえくれれば……残りの部分の口約束や金についてはおそらくどうにかなるだろうと、ギベルネスのほうではそのように見積もっていたのである。

 

 

 >>続く。

 

 

 

 

 


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