【シャロットの女】ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
ええと、今回は前文に文字数ほとんど使えないため、本文のみのとなりますm(_ _)mエレイン姫についてはまた次回、再び何か補足しておこうかなと思ったり(^^;)
それではまた~!!
惑星シェイクスピア-第二部【16】-
翌朝、先頭の屋形船には、ハムレットとエレアガンス、それに彼の近衛兵、他にタイスとカドール、ランスロットとギネビア、ギベルネスが乗り込むということになった。さらにここに、船の舵を取る船頭と操舵手が各一名ずつおり、彼らは常に船の船首と船尾にそれぞれ座を占めていた。
屋形船のほうは二層構造をしており、下のほうにある船室(キャビン)は、そこで十数名の人間が寛げるくらい、広々としていた。サロンにあたるような部屋、寝室らしき場所、広間など、家具調度類も最上のものが備えつけられており、船の外装同様豪華だったものである。
とはいえ、ランスロットとカドール以外、河下りなど初めてする面々は、海風を長く受けたせいで、日焼けした顔に皺が深く刻み込まれた……といったような船頭と彼の部下と同じく、ほとんどの時間を甲板に出て過ごしていた。ロムレス河の川幅は広く、軽く二十メートルはあり、ギベルネスの感覚としてはほとんど海にも近いものがあったと言ってよい。しかも、造船技術のほうも操舵輪まで付いているというあたり、彼が思っていた以上に進んでいるように感じられたものである。
「いやあ、海に出るには三本マストの、こんな小型のちゃちぃ船じゃない、もっと立派なのが港湾あたりにゃズラリと並んでるんですぜ」
屋形船の素晴らしさについてハムレットが興奮したようにはしゃいで褒めちぎると、ずっと無表情にムッツリしていた船頭は、すっかり相好を崩していたものである。彼も、船首側にいる操舵手も、いかにも厳つい海の男……といった雰囲気を感じさせる若い青年たちで(二十代後半ほどである)、名前をアントニオとバサー二オといった。
ギベルネスもまた、彼らの巧みな操船技術を見て興味を持ち、この気のいい青年たちに率先して話しかけていた。すると、そのうち自然彼らも心を開き、自分たちの身の上について色々語ってくれたのである。
「そっちの船首側にいるバサー二オの奴も俺も、ある時酒場の賭け事ですっかりすかんぴんになっちまって……その時ロドリアーナで募集していた伯爵専属の船の操舵手の募集に応募したんでさ。それが今からもう五年くらい前のことになるかな。その頃はまだ、今より少しくらいは税率のほうも高くなかったから、ロドリゴさまも立派な船団をお造りになって船出することがお出来になったものだったんですが……海竜リヴァイアサンの怒りに触れたものかどうか、嵐でその船がすべて難破しちまいましてね。俺とバサー二オはその時も同じ船で操舵手をしていて、命からがらようやくロドリアーナのほうへ戻ってきたといったような具合で。けれどまあ、ロドリゴさまのことは責められませんわな。小さな頃から海の潮の香りを吸って育ったここいらの男ってのはね、荒れ狂う嵐を見ると、どうにも血が騒いでならず、誰に頼まれたというわけでもねえのに、危険な船旅というやつにどうしても出たくて堪らなくなるのですからな。ええ、そうですとも。ロドリゴさまがもし仮に立派な船団をお造りにならなくても、俺たちは俺たちで、やっぱりそんなうふうにみんなて金だしあっていい船を造って、やっぱり船出せずにはおられなかったでしょうからな」
(そんなものかなあ)と、この時点では、ハムレットはぼんやりそう思うのみだったが、この生まれて初めての河下りについてはすっかり気に入ってしまった。そこで彼は、ほとんど下の船室のほうへは降りたりせず、右舷側や左舷側を行ったり来たりしながら、陽光の照り返しを受け、青や緑に色を変える河の輝きを飽きもせずずっと眺め続けた。さらに、河の両岸の景色がなんとも言えず素晴らしいのである。時々、灰色の土手が姿を現したり、枯れ草の塊のようになっている場所もあったが、そのほとんどがエメラルドグリーンの草原と、その先に続く豊かな森林地帯へと続いていたのだから。
(アヴァロン州の湿地帯でだって、同じように水も緑も豊かだった。けれど、こんなふうに心を躍らせる感じまではしなかったんだ。この違いは一体、どこからやって来るものなのだろう?)
ハムレットは決して、あの時はやもすれば沈みそうな、貧乏っちい襤褸舟に乗っていたからだ――とは思わなかった。今も彼はあの時あった色々な冒険譚のひとつひとつを愛しい気持ちで思い返すことが出来る。舟で巧みに櫂をこいでくれたジェラルドのことも忘れられない。もしいずれ自分が王となったとすれば、必ずもう一度彼と会い、王専用の舟の漕ぎ手になって欲しいと考えてすらいるほどだ。
(そうか、わかったぞ!その原因は、たぶん風だ。この屋形船はなんとも快く河面を滑ってゆくし、スピードもある……それにこの、森林地帯の土と川の香りが混ざったような自然に生じる素晴らしい風の匂い。たぶん、人はこうしたいくら金を積んでも買えないもののためならば、どんなことでもしようと思うものなのじゃないか?)
この時、ハムレットは幸せだった。言うなれば彼は自然の与えるそうした香気に、酒にでも酔った者のように酔っ払っていたのだから。そして、州都ロドリアーナでどのようなことが待ち受けていようとも、(きっとすべてうまくいくに違いない)という希望だけが彼の心を占めていたのである。
船頭のアントニオもまた、初めて船に乗った七つか八つの子供のようにハムレットがはしゃぐのを見て満足だったし、川面の輝きを瞳の中に映す、幸福そうな様子の彼を見ていて、タイスもギベルネスもギネビアもカドールもランスロットも――その幸福な希望が感染したように、終始甲板で他愛もないことを話しては笑いさざめいていたものである。
もっとも、「この船は本当に沈まないのだろうな」、「あまり綺麗な河の色じゃないなあ」、「我がメレアガンス州のムートンメリエール川のほうが、よほど澄んでいて綺麗だぞ」、「実は俺、泳げないんだよ。もし溺れたらどうしよう」……などとボソボソ話し、すぐ下の船室へ下りていったエレアガンスの近衛たちにとってこの船旅は、実に気の毒なことになったようである。というのも、彼らはすぐに船酔いに苦しめられるようになり、再び甲板のほうへ上がってくると、緑灰色の河の流れの中にゲロを吐くことになっていたからである。しかもその中で症状の一番ひどかったのがエレアガンスで、彼は自分の素晴らしい衣装が吐瀉物の飛沫で汚れると、そのあとはずっと顔色も悪く、落ち込んでブツブツつぶやくばかりだったようである。
* * * * * *
やがて、両岸の緑の草原の向こうに、灰色の城塔郡が見えてきた。ガノン・ギュノエ郡長官のロノエ城も、なかなかに立派で居心地の良い住まいであったが、それは一郡長官の居館など問題にならぬほど巨大な城塔群――いや、灰色の巨大な城塞だったのである。
「アントニオ、あれは一体……?」
灰色の切石がこの上もなく整然と積まれ、その繋ぎ目がほとんど見えぬ威容と量感を誇る城塞が遠くから迫ってくるのを見――ハムレットは再びそのような質問を海の男にした。
ちなみに、以前に二度ほどここへやって来たことのあるランスロットとカドールはその答えを知っていたが、特段口を挟んだりはしない。
「ああ、あれですかい?あれはグレイストーン城塞と言いましてな、もしロットバルト州が東王朝軍にでも攻められた時には……防御の役を果たすという意味で、この州内でも一、二を争うくらいの規模の城塞なんでさ。今の城主はガウェイン・カログリナント将軍ですね。随分長いこと、王さまの船団を率いてエレゼ海を旅してきた猛者でして、民衆からも英雄として人気があります。ただ、五十を過ぎて少々お年を召されましたのでな、ロドリゴさまが引退をお勧めなさったのですよ」
「へえ……」
ハムレットはてっきり、アントニオが舳先をひょいと城塞側へ向けてくれるのではないかと期待したが、残念ながら屋形船はグレイストーン城塞の前を素通りして進んでいった。すると、見るからにがっかりした顔をするハムレットを見て、アントニオが笑う。
「もしかして、あすこの城塞の中を見学したかったんですかい?まあ、心配入りませんよ。ああした実務的な趣きの強い城塞でなくて、今日はアストラット城へ一泊する予定ですからね。規模としてはグレイストーン城塞ほどの大きさはないかもしれませんが、その代わり実に優雅な、お伽話の国のお城のような……風光明媚で美しいところですからね、アストラットは」
「アストラット城だって!!」
その城の名を聞くまで、無邪気にはしゃぐ弟を眺めるようにハムレット王子を見守っていたランスロットの顔色が変わった。何分、ローゼンクランツ騎士団最強の男であり、さらには聖ウルスラ騎士団の誰ひとりとして敵わなかったほどの騎士として、メレアガンス州においても褒め称えられたほどの彼である。一体何ごとかと、誰もが一斉に視線の集中攻撃を浴びせても、なんの不思議もなかったに違いない。
もっとも、ただひとり、カドールだけはその理由についてよく知っていたのだが……。
「ええ。もしかしてご存知なので?日中は茶とも、くすんだ橙色ともつかぬような壁の色をしているのですがね、陽暮れ時には夕陽を受けてなんとも言えない薔薇色に輝く、それは壮麗なお城ですよ。ロドリゴさまは大切なお客人だからと、アストラット城主であるギロン・ド・ティリー男爵にみなさまのことを特別にもてなすようにと、そうお頼みになったようでしてな」
「…………………っ!!」
ランスロットの顔はすっかり青ざめていた。その尋常ならざる様子に誰もが気づいていたが、カドールは笑いたいのをどうにか噛み殺し、唯一ギネビアだけが――遠慮なくはっきりこう聞いていたものである。
「一体どうしたんだ、ランスロット?なんだかまるで、竜に睨まれた青だいしょうみたいなひどい顔色じゃないか。ええ?」
「……なんでもない。気にするな。どうやら、少しばかり俺もまた船に酔ったようだ。少し、下のキャビンのほうででも休ませてもらうとしよう」
そう言うなりランスロットは、川風にたなびく黒マントを肩のところでかきあわせるようにして、船室に続く階段のほうへ急いで降りていった。この場にいる誰にもまして、ギネビアにだけは口が裂けても本当のことを言えぬ彼にとっては、無理もない行動である。
「なんだ、ランスロットの奴のあの態度。変なのー!」
鈍いギネビアは気づかなかったようだが、カドールがどうやら何か事情を察しているらしきことに、周囲の誰もが気づいていた。だが、そのことを直接彼に訊ねるわけにもいかず……その日の夕刻頃、アストラット城がもっとも美しく光り輝く時間帯に、五艘の屋形船は順次、ロムレス河の支流のひとつであるイムニル川へと曲がり、アストラット城の水門へその船体を滑り込ませていった。
こうした場所には大抵、万一の時に城主やその一族が逃げるために、秘密の地下水路がある――などと言われるものだが、残念ながらアストラット城にそのような秘密の通路はなかった。ゆえに、ハムレットたちは一度船を下りると、一日中外で風に当たっていた疲労のためかどうか、土手へ上がり、小高い丘の上にあるアストラット城まで歩く間、やたら体が重かったものである。
「お、俺はここで、みんなの船を守っているよ。あっ、明日中にはロドリアーナへ向けて出発するんだろ?だったら一晩くらい……」
「何言ってんだよ、ランスロット!!おまえ、なんか今日おかしいぞ。ここの土地に誰か会いたくない人間でもいるってのか?たとえば、ギロン・ド・ティリー男爵と以前喧嘩でもしたことがあるとか?」
実をいうとギネビアはこう考えていた。ランスロットは強すぎるがゆえに、ついうっかり馬上試合でティリー男爵の部下をこてんぱんにのしてしまい、男爵の機嫌を損ねるか何かしていたのではないかと。というのも、年に一度<都上り>という年貢納めの行事があり、その時にランスロットやカドールがロドリアーナにも立ち寄っているだろうことを彼女は知っていた。ギネビアもその、年貢(税金)を納めるための守護隊にいずれは参加したいと考えていたが、ずっと父親のローゼンクランツ公から反対され続けていたわけである。
「まあ、そうだな」ランスロットが気の毒になるあまり、カドールが助け舟を出す。親友に向かい、(これは大きな貸しだぞ)という顔をしてみせながら。「ギネビア、俺たちにはおまえにはわからん騎士の流儀というものがある。それで、このままランスロットがなんの事情も話さずアストラット城へ入城した場合……ランスロットはなんというかまあ、騎士として道を外しているような気分になることだろう。そういうことだと思って、ここは黙ってランスロットの好きなようにさせてやることだな」
「はん!騎士だっていうなら、わたしだってその騎士だぞ。さてはおまえたち、わたしに何か隠し事をしているな?何故カドールとランスロットのふたりだけでこそこそ何かを承知しているんだ?我々は仲間なのだから、なんでも話せばいいじゃないか!その上でのことなら、わたしたちだって納得した上でランスロットに同情し、こいつの名誉やなんかを守ってやろう。だが、何も言う気はないというのは、そもそもそのこと自体が大きな裏切りだ。少なくともわたしにはそうとしか思えないっ!!」
二艘目の屋形船、三艘目の屋形船……と到着しても、ランスロットとギネビアはカドールを間に挟んで揉めたままでいた。ハムレットやタイスやギベルネスといった他の者たちは、むしろ自分たちがいると邪魔だろうと感じ、一足先にアストラット城のほうへ向かうことにしたものである。水門を通り、そのまま船から城内へ入り込めるようにしておいたほうが、何かと便利だろうに――城のほうが丘上に位置しているのは、それなりに理由のあることなのだろう。もしかしたら過去に、ロットバルト州が今のような形でまとまる以前、戦争になった時に船からそのまま城へ乗り込まれるといった、そうした事態があったのかもしれないと、ギベルネスは苔むした緑の道を歩くうち、そんなことを考えた。
結局ギネビアは、二艘目の屋形船に乗っていたキリオンたちになだめられながらも、ぷりぷり怒りつつアストラット城のほうへ向かうことにしたらしい。ランスロットは船を警護するという名目によって、その場に残り――屋形船のほうを繋留して下船したアントニオたちは、そのことを彼に感謝していたものである。というのも、水門の鍵を開けてもらったその内側に船を入れてもらうと、そこには水門を守るための立派な城門塔が二塔聳えており、さらにそこには警備兵らが詰めていたわけだが、それでも一応屋形船のほうには誰かが残らなければならなかったからだ。だが、ランスロットが一晩中いてくれるというので、アントニオ、バサー二オ、グラシャーノ、ソレイ二オ、サレアリオ……といった操舵手たちの間では喧嘩せずに済んでいたのである。
五艘の屋形船にはそれぞれ、多くて二十名程度の騎士や兵士らが乗っていたが、残りの者たちは騎乗して馬でやってくる一団もあれば、この屋形船が引き返してくるまでの間、ロノエ城のギュノエ郡長官の元で待機している者らもいるといった具合である。
アストラット城のほうでは、前もってロットバルト州の領主印によって封がされた伝令書が届けられていたから、ギロン・ド・ティリー男爵は準備万端な状態で王子の一行を迎えていた。もっともティリーにしても、彼が<王子>であるとまでは聞かされていなかったため、ロノエ城で起きたのと似た事態がここでも起きていたと言えよう。船酔いにより、一時ふらふらになっていたエレアガンスではあったが、彼と彼の近衛らは陸に足がつくが早いか、大地に足をつけている間は最強の勇者だという例の物語のように、みるみる元気を回復していたものである。
「やれやれ。ひどい目に合った」
「どうやら、エレアガンスさまも俺たちも、これでは海や川向きの人間とは言えぬようだな」
「だが、今回のこの冒険譚はいずれ僕たちの手で詩にすることにしよう」
そんなふうに話す、エレアガンスの従者らの言葉を聞きつけ、最初に笑いだしたのはレンスブルックである。
「♪ああ、ロムレス川、ロムレス川、ロムレス川……ゲロを吐き吐き川下り。立派なおべべも汚物で台無し、これでいかにして英雄となれようか、エレガンスなエレアガンス」
口笛とともに、この憎めない小人はそうそらんじた。ハムレットたちは気の利いた節まわしに爆笑したが、彼らが何故笑っているのかまでは、少し離れたところを歩くエレアガンスたちには聞こえなかったようである。
「それにしても、何故ランスロットはひとり水門の塔へ残るなどと言ったのだろうな」
タイスが隣のハムレットにそう疑問を呈すると、ハムレットは「さてな」と、どこか悪戯っぽさを瞳に宿らせ笑った。
「おそらく、何かよほどの事情でもあってのことだろう。カドールはそのあたりのことについて知っているようだが、まあ、放っておけばいいのじゃないか?このまま、特にアストラット城で何も起きなければそれでよし、オレたちのほうでもランスロットの名前が何かの折に出たとしても、余計な詮索をするような真似は紳士らしくよすとしておこう。よくはわからないが、オレが察するには……あれはおそらく、ギネビアが知ったとすれば怒り狂う何かなのだ。何分、彼女の騎士としての理想は聖ウルスラ騎士団の騎士たちもひるむほど、とてつもなく高いようだからな」
「そうでしょうね」と、ギベルネスが頷く。「何分、ランスロットほどの騎士を得たいと思ったところで、どの王侯貴族も簡単に得られるものではないでしょうし……その彼が、まるで城の煉瓦の隙間に隠れるネズミのようにじっと隠れていたいというのであれば、我々も余計なことはすべきでないでしょう。ランスロットとの友情が大切というのであれば尚更ね」
――ハムレット一行がアストラット城の城門へ辿り着く前に、それと察したギロン・ド・ティリー男爵は、二塔の城塔に守られた城門を開くと、満々と水の満たされた堀に吊り橋を下ろし、その奥の広場にて自ら出迎えていた。また、彼の隣には息子のリオン・ド・ティリー、その妹でアストラットの美姫として名高いエレインがいた。
この時もやはり、エレアガンスが自分のゲロで汚した衣服を、長持ちの別の派手なそれに着替えていたせいであろう。この一団の最重要人物は真紫のダブレットの真ん中にメレアガンス州の紋章をつけた若者だと判断し、ギロンはそちらへ足早に近づいていった。
「これはこれは、お初にお目にかかりまする。どうぞ今宵はこのアストラット城を我が家と思し召しくださって、ごゆるりとお過ごしくださいませ」
エレアガンスは普段より、臣下らにかしずかれるのが当たり前であったし、何より彼の場合は物心ついた時からずっとそうなのである。ゆえに、この時もハムレット王子に対して自分が先んじるなど失礼に当たる――とは一切考えなかったらしく、そのままギロンや彼の息子や娘とともに城門をくぐり、オレンジ色の屋根に覆われた、四階層ある居住区のほうへと、厩舎やいくつもある管理塔の前を通って進んでいった。
大広間のほうは、人魚像が掲げ持つ宝物の彫刻や、この地方に伝わる湖の伝説がタペストリーに描かれたものが飾られていたりと、海や湖、川に纏わるモチーフのものが多かったようである。たとえば、二階へ上がっていく階段の親柱のところには人間の顔をした魚が描かれ、手すりの木彫りのほうは翼の生えた魚が交互に彫刻されているといった具合で、淡水魚や川魚でない海の魚を、ロノエ城で初めて口にしたハムレットにしてみれば……それらの架空の生物たちは、なんとも不思議な感じがしたものである。
この時、ハムレットもタイスも、海老や蟹といった甲殻類を、ギロンが腕を振るって用意した夕食の席にて、生まれて初めて口にしていた。その他、詰め物をした七面鳥に添えられたソースなども、驚くほど味がよく――どうやらこのギロン・ド・ティリー男爵は結構な美食家らしいと思われたものである。その他、イノシシの焼き肉、大ぶりのキジやウズラのソテー、カエルのもも肉、千鳥やウナギのパイ詰めなど……デザートにマルメロ(カリン)の甘露煮が出る頃には、一同はすっかり腹がくちくなって、下品にゲップしたりせぬよう、よくよく気をつけねばならぬほどだった。
「それにしても馬っ鹿だよなあ、ランスロットの奴」と、ギネビアがマルメロのコンポートに舌鼓を打ちながら言った。彼女は最初、ギュノエの城館でと同じく、エレアガンスが上座に座り、子爵としてギロンと会話するのを見、怒っていたのだが――ハムレット王子がそこに座るべきだということで――「むしろオレはあいつのお陰で助かってるよ」と王子が口にすると、ようやく静かになっていた。他に「ハムレットさまの正体がわからないためにも、影武者としてちょうどいいぎゃ」とレンスブルックが指摘したせいもあったに違いない。「どんな事情があるかは知らないけどさ、あのままただ黙ってついて来てりゃあ、こんな素晴らしく美味しいご馳走を食べられたのにさ。そうだなあ。ここにあるものを少しくらいあいつの元に持っていってやるのは、流石に行儀が悪いだろうし……どうしたものだろうな」
「おや、ギネビア」と、同じテーブルに着いていたカドールが、ワインの杯を傾けて笑う。味のいい白ワインだった。「ランスロットの腹の具合を心配するくらいには、おまえにも慈悲心が残っていたというわけだな。けどまあ、おそらくは放っておいても大丈夫だろう。あそこの水門には衛兵が詰めているようだし、食べ物くらい、彼らが何か持ってきてくれるだろう」
「まあ、そんならいいけど……」
カドールは、彼が部屋に入ってくるなり、アストラットの美姫が自分の存在に気づき、ハッと息を飲む気配を感じた。(やれやれ。実際のところ、ランスロット。これは大きな貸しだぞ)と、カドールは食事しながら考えていたものである。それというのも、これから一体自分はどんな嘘話をエレイン姫に披露すべきかと、彼は頭を悩ませなくてはならなかったからである。
実は話はこうしたことだった。今から二年ほど前にあった<都上り>の行事の時、金銀宝石や、その他香辛料といった納税の品を積んだ荷を守るため、ランスロットもカドールも王都まで長く旅をしてやって来た。そしてその帰り道、ロドリゴ=ロットバルト伯爵の招待を受けたということもあって、一行の半分は遠回りをしてロドリアーナへ向かうことにしたわけである。その途中、彼らはアストラットの地へ立ち寄った。すると、その時ちょうどこの地方では馬上試合が開催される前日だったのである。この一帯には、アストラット城だけでなく、他にも名城として知られる、四人の貴族たちがそれぞれ所有する城があった。そして彼らは大体その時期、自分たちの所有する騎士らを戦わせ、トーナメントに打ち勝った者に褒美を与えるのを慣わしとしていた。
ところで、アストラットの美姫として知られるギロンの娘のエレインは、その頃年齢のほうが十八となり、四つの貴族の一族から「俺こそが彼女の夫となるのに相応しい」、あるいは「自分の息子の嫁に是非とも欲しい」といったように、結婚相手として求婚してくる者があとを絶たなかったのである。輝くばかりのブロンドの髪(彼女の求婚者のひとりはそれを、「太陽も昇ってくる時恥じ入るほどの美しさ」と形容した詩を送ったものだ)、このあたりでは滅多に見られぬ雪のように白い肌、エレゼ海の青さよりも深い憂いを帯びた紺碧の瞳と魅惑的な眼差し……エレインと出会った男たちはみな、一目見るなりすっかり彼女の虜になってしまうのだった。
一方、エレイン自身がそのことをどう感じていたかというと、どの男性の反応も大抵似たりよったりなのでそのことにすっかり慣れてしまい、よほどのことでもなければ心が動くことなどなかったのである。『「太陽も昇ってくる時恥じ入るほどの美しさ」ですって?随分ありきたりで陳腐な表現ね。この程度でわたくしの心を掴めるとでも本気でお思いなのかしら?』といったような具合で、どのような殿方の褒め言葉にも宝石や花といった贈り物にも――一向なびくということがなかったようである。
ところが、である。そんな彼女が恋をした。いつもは、自分のほうが一目見るなり恋をされる側であったのに、エレインはランスロットという黒ずくめの騎士と初めて出会ったその瞬間から……がくがくと心の芯が震えるほどの思いを味わった。最初、彼女は自分のそうした恋心を隠すのに必死で、ランスロットやカドールに対する態度も随分ぞんざいだったものである。そんなわけで、ランスロットやカドールのエレインに対する第一印象は(美人だが、気どったところのある高慢ちきなお姫さまだな)というものだったといって良い。
その時、近くアストラットの地にて馬上試合が開催されると聞いても――ランスロットもカドールも、最初は参加するつもりなど微塵もなかったのである。ところが、一宿一飯の世話になったティリー男爵が、溜息を着きつつ、次のように嘆いているのを聞いてしまったわけだった。
『みなさま方、この老いぼれの愚痴を出来れば聞いてくだされ。ほれ、愚痴というものはこぼすだけならただと申しますでな……エレインは美しかった死んだ我が妻の若い頃にそっくりで、ほうぼうから求婚者がやってきよりますわい。まるで牛小屋で牛に群がるアブか何かのように……払っても払っても、気がつけばアブがいるといったような具合でしてな。まあ、こんな言い方を父親のわしがしとると聞いたらエレインも気を悪くするでしょうから、馬にたとえましょうかな。実際のところ、厩舎に入れた馬というのは、アブがやって来ると馬房で身動きも取れず、かといってアブにたかられると痒いというわけで、なんとも可哀想ですじゃ。そこで、ですな。わしんところの大切な馬っこたちはそういう時、近くの草原の囲いに放すことにしておりますのじゃ。ほれ、そうすればアブにたかられた時、そこらへんを駆けていって、この汚らわしい虫どもから逃れることが出来ますじゃろ?簡単にいえば娘のエレインは、そんなふうに風を友にして、風とともに生きたい娘なんですて。ところが、どうやらこの周辺に住む貴族どもは、もう随分前からエレインのことを狙ってましてな。そのうち娘を巡って殺しあいでも起きないのが不思議なほどでして……そいで、近く馬上試合が開催されますわな。どうやら彼らの間では、そのトーナメントで勝利した者がエレインを我がものとすることが出来るという協定が出来上がっておるようなのです。それでもし、これをエレインが拒んだとしたらどうなります?きっと――きっと彼らは、憤慨して我が城に攻め込んでくるかもしれませんわい。その昔、実際そうした戦争がありましたわな。ひとりの、ヘレナさまとかいう王女さまを巡って、貴族たちが民衆には傍迷惑なだけの戦争を起こしたことがあったと、伝承ではそうしたことでしたからな』
ギロン・ド・ティリーの嘆きがあまりに激しいものであったことから、ランスロットもカドールもすっかり同情し、その馬上試合へ参加することを即座に承知した。そして、実際に彼らは優勝者と準優勝者となり、ふたりとも互いに『自分たちは実に騎士らしい、良い行いをした』との思いで、アストラットの地を後にしようとした、その日の夜のことである。
アストラット城の客間のひとつでランスロットが眠っていると、そこへエレインが薄い夜着のみを身に纏ってやって来たのである。実をいうと彼女は、馬上試合に彼が参加すると知るなり、自分が一番大切にしている、幾つも真珠の縫いつけられた真紅の晴れ着の袖を裂き、ランスロットに与えていた。あとからランスロットが後悔したことには、おそらく一番大切だったのは、この時その真紅の袖を受け取らないことだったのだろうということだ。馬上試合においては、騎士たちが自分の想い人の何がしかの品を身に着けて戦うということは風習として昔からあったことである。けれど、ランスロットのほうにはある誤解があった。(『風を友として、風とともに生きる』か。おそらく彼女もまたギネビアと同じで、結婚だの男だの、くだらぬ世間の風習から逃れたいといったタイプの姫なのだろう。それに、あれほどの美貌であれば、自分から結婚したいとさえ思えば男などよりどりみどりなのだ。ここで俺やカドールが勝ったところで問題はあるまい)……そのように考え、その真珠の縫い付けられた真紅の袖を、あくまでもただの「応援の品」と理解し受け取っていたのである。ところが、エレインの思いとしては違った。その真紅の袖は、彼女の純潔、純真な燃える恋心の象徴だったのである。それを受け取り命を賭けて戦い、勝利してくれたということは――(ランスロットさま、わたくしのすべてはあなたさまのもの)と、エレインが誤解したとしても、まったく無理からぬことだったのである。
『い、いけません、エレイン姫……っ!!』
『どうしてですの!?ランスロットさまは命を賭けてわたくしのために戦ってくださった。それも、わたくしの贈った真紅の袖をつけて……ここ二日ほどの間、わたくしが一体どれほどの想いでいたか、まったくご存知なかったわけではないでしょう?あなたが他の貴族たち所有の騎士に打ち勝つたび、わたくしの心も魂も一緒に拍手喝采し、喜びに打ち震えておりました。何故といって、わたくしの心から愛する方がこのわたくしのために戦って、それで勝利を得てくださったからです。それも、あれほどまでの心すくばかりの連戦連勝。ええ、そうですとも。ランスロットさま、あなたにはその戦利品をお受け取りになる権利がおありになりますとも』
『い、いやっ、お、俺としてはですね、お父さまのギロン男爵がお困りになっておられるようだったので、ここで俺かカドールのどちらかが他の騎士たちをなぎ倒して勝てば……エレイン姫、あなたが誰か結婚したい男性を選ぶ権利を得るか、あるいは今は結婚しなくても良い自由を得ることが出来ると、そのように考えただけなのです。ギロン男爵は、このあたりに住む他の貴族方が自慢にしているほどの騎士を持っていないと、そう嘆いておいででしたので……』
この時、急いでベッドから起き上がり、四柱式ベッドの柱と垂れ幕に隠れようとするランスロットを見て、エレインはじわりと涙を滲ませた。
『べつに、このわたくしが良いと言っているのですから、良いではありませんか。それとも、すでに他にお心に決めている女性でもおられるのですか?いいえ――その場合でも、わたくしにとってはどうでも良いことです。あなたさまはわたくしのため、それに父のためにも驚くばかり良い働きをしてくださったのですから。片恋といえど、わたくしがあなたさまに褒美を取らせたと聞いても、父も決して怒りなどなさいますまい。ですから、ランスロットさま……』
『いっ、いけませんっ、エレイン姫っ。そんなことをすれば、俺は騎士として悪評を立てられるばかりか、翌朝には今日の英雄譚は朝霧のように消えうせ、ギロン男爵も俺に怒りを燃やすばかりとなっておりましょう。どうかおわかりください。騎士というものは名誉がすべてという生き物だということを……それに俺は、ローゼンクランツ騎士団の騎士団長の息子として、ある高貴な姫の身を穢したにも関わらず、責任を取りもしなかったなどと、そんな不名誉を被るわけには決していかぬ立場なのです。そんなことをすれば、騎士団長である俺の親父の顔のみならず、主君であるローゼンクランツ公爵の顔にも泥を塗ることになってしまいます』
『では、黙っておいでになったらいいのではありませんか?今宵のことは、わたくしは他の誰にも――侍女たちにですら何があったのか、決して冗談でも洩らしたりは致しません。ほら、これならよろしいでしょう?お互い秘密にさえしておけば、それですべてが丸く収まるのです』
(すべてが丸く収まるって言ったって……)
美貌のエレイン姫が薄着一枚を羽織った格好で近づいてきても――いや、それであればこそ――ランスロットは必死で彼女から逃げた。そして、このあと豪華なしつらえの寝室では、傍から誰かが見ていたとすれば、結構なところ滑稽な場面が演じられることになった。エレインがベッドの左側から回り込もうとすれば、ランスロットはさらに左側へ逃げ、彼女が右側から回り込もうとすれば、ランスロットもまた右側へ逃げる……といったような。エレインとしては、(あともう一押し!!)といった思いでランスロットにぶつかっていったわけだが、最終的に彼を捕まえて抱きつき、ベッドへ押し倒したにも関わらず――彼女は最後の最後で、聞きたくもない言葉を聞くはめに陥っていた。
『おっ、おお、俺にはぁっ、婚約者がいるのですうっ!!ギネビアという名の姫がぁっ!!』
(自分に迫られて嫌がる男性など、この世に存在するはずがない)――との自信に満ち溢れていたエレインだったが、その瞬間、自分の愛する男からパッと体を離していた。そのギネビアという女性に操を立て、自分を抱くことは出来ない……そういうことであれば、彼女のほうで身を引くしかなかった。何故か?自分だって、自分の婚約者や結婚相手には、同じ理由から操を立ててもらいたいからに他ならない!!
その瞬間まで、(肉体関係を持つまで決して離さなくてよ)といった強気な態度で、爛々と燃える眼差しをしていたエレインが、突然自分から体を離してベッドから下り、さらには静々と部屋から出ていく後ろ姿を見て――ランスロットはほっとするのと同時、おかしな感じもした。惜しいというのではない。実際のところ、きのうも今日も続けて戦い、六人ばかりもの騎士に連続して打ち勝たねばならなかったせいで、彼は疲れ切っていた。そこで、なんにしても明朝、なんの良心の呵責も感じることなくギロン男爵と握手して別れることが出来たことを……ランスロットとしては喜ぶばかりだったのである。
これが、ランスロットが『アストラット城』と聞いただけで血相を変えた理由だった。ほとんど「一晩だけの関係でいいので、寝てほしい」と、あのようにプライドの高い姫に言われたも同然であったのに、そのエレイン姫ともう一度顔を合わせるなどということは、剣技や格闘技といったこと以外では、無口で内気なところのあるランスロットには、ほとんどどうして良いかわからぬ不可能事だったと言えよう。
エレイン姫がカドールの存在に気づきハッと息を飲んだように、ギロン男爵も自分の存在に気づいていないはずがない――と、カドールはそう思っていた。実際、ハムレットたちのいるテーブルのほうへギロンがやって来なかったのは、そこにカドールが座っていたからに他ならない。だが、にも関わらず食事のあと、「カドールさま」と彼は従僕に呼びとめられた。「ご主人さまがお話があるとのよしにございます」とのことで、この立派なお仕着せを着た若い従僕の案内で、ギロンが私室としている部屋のほうへ向かうことになったわけである。
「ランスロットさまは御一緒ではございませんので?」
型通りの挨拶ののち、冷たい声音でそう切り出され、カドールとしても不審に感じた。何故といって、自分もランスロットも、二年前にティリー家の紋章を冠した盾を片手に馬上試合で見事勝利を得、このアストラット城に栄誉をもたらしていたはずである。しかも彼は帰り際、『今後、お近くをお通りの際はいつでもお立ち寄りくださいますよう』と、この上もなく上機嫌に手を振ってくれてもいたのだ。
(これはもしや……ランスロットはやはり、水門塔で待機しておいて良かったということなのか?)
「ええ、まあ。いっ、いやっ、どうでしょうね。そのうち、ここいらをあいつも通りかかるやも知れませぬが……」
カドールは、いつもの彼らしくなく歯切れの悪い物言いをした、というのも、彼にしても事情のほうがどういうことなのか、さっぱり飲み込めなかったからである。
「やはりそうなのですね……我が娘エレインに対し、やましい思いがあるゆえに、この近くを通りかかっても素知らぬ振りを通そうというわけだ。まったく、あなた方が二年前に去ったあのあと、このアストラット城がいかに惨めで暗い時を過ごしたか……エレインはランスロットさまに恋するあまり、飲まず食わずでみるみる痩せ細っていくばかりでしてな。一度など、この城の城塔のひとつからイルムル川に向かって身を投げたこともあるくらいで……」
「なんですって!?」
カドールは驚いた。ランスロットからは、姫が夜半にやって来て体の関係を迫られたが、婚約者がいるからと言って断ったら静々部屋を出ていった……というように聞いていた。そして、彼がこうした種類のことで嘘をつくことはないと、カドールはよく知っている。むしろ彼は『そこまで言われたのであれば、抱けば良かったじゃないか。というより、俺ならば絶対そうしたな。第一あれほどの美姫、もったいないじゃないか』と言って、何度もしつこくからかっていたほどである。
「ええ、そうですとも……娘は、あの並ぶものなき美しさを持つエレインは、そのせいで死にかかったほどなのですよ。もし水門のところの鉄柵にすっかり冷たくなった体が引っかかっておらなんだら……エレインは今ごろ灰色の墓の下に横たわっておったことでしょうな。その後の、わしや兄リオンの嘆きがあまりに激しいものだったためか、エレインは気丈にもどうにか立ち直ろうと努力し、以前の容色を取り戻しました。また、物事は悪いことばかりでもなく、どんな悲劇にもひとつくらいは良いところがありますわな。エレインに求婚する者もぱったりなくなり、そうした恋の鞘当てがまったくなくなったらなくなったで、ちょっぴり寂しいようなところもありますが……まあ、あれにはわしが時が来たら必ず良い縁談をまとめてやろうと思うております。ええ、ランスロットさまに女としての初めてをお捧げし、傷物にされたくらいなんでもありませんとも。エレインのあの優しさ、美しさを持ってしましたならばな」
「…………………」
カドールには、最早もう一度『なんですって!?』と口走る気力もなかった。あまりのことに、頭の回転の早い彼を持ってして、親友のことを弁解する言葉がまったく思い浮かんでこない。
「そ、その……どうやら、俺があいつから聞いたのとは事実のほうが随分違うようですね。それは、エレイン姫がご自分の口で本当にそうおっしゃったことなのですか?」
「さて、どのことですかな?なんにしても、エレインがランスロットさまがこの城から去られてのち、様子がおかしくなかったことは事実。また、死のうとまで思い詰めるということは、おそらくそこまでの関係が出来上がっていたと考えることのほうが自然でしょう。ところが相手は、ここから千里も離れているかと思われる砂漠の地へ帰ってしまわれたのですからな。わしにしても、もしランスロットさまが隣のメレアガンス州にでも住んでいるというのであれば、父として訪ねていって直談判し、娘との結婚を迫っていたことでしょう。ですが、あれからはや二年……手紙の一通も来ないということは、ランスロットさまは騎士の風上にも置けぬ方と判断するより他ありませんでしょうな」
(なんということだ……二年前に善意でしたことが、よもやこのような形で仇を返されるとは)
カドールは内心で溜息を着いた。彼としてはただ、これから水門塔のほうへ食事の品を包んだ風呂敷でも運び、ランスロットに届ける傍ら、これこれのことになったと、残念な報告をせざるを得ない。
「おそらく、我々の間にある誤解は今後とも解けることはございますまい。となれば、俺がここにいるだけでも、ここアストラット城の人々にはランスロットのことが思いだされ、ただ不愉快なだけでございましょうから、俺は一足先に少々離れた場所へ退去したほうが良さそうですね」
「そうしていただけますかいのう」
ギロンは二年前にあった、あの胸がすく馬上試合での勝利のことはすっかり忘れ去っているようだった。この際、カドールとしてもただハムレット王子たちにまで悪い影響が及ばぬよう、臣下のひとりとして忠実に退くのみといったところである。
「とはいえ、名のある騎士さまに城の外で野宿せいというのも、何やら礼を失しておりますわな。なんにしても、娘のエレインのそばをうろちょろせんでいただけたら、それでよろしいのですよ。ただ、うちの侍女にでも一晩の相手を強制したりされないでおられたら、たったのそれだけで……ええ、そのような条件でしたら、わしも一晩の宿を喜んであなたさまにお貸しいたしましょうぞ。カドール・ドゥ・ラヴェイユ殿」
(やれやれ。なんということだ……)
ギロン男爵の私室を、なんとも言えぬ居心地の悪さとともに辞去すると、廊下の柱の影に、さっと隠れる何者かの姿があった。その衣の色や形状から察するに、それは女性のものだった。また、その刺繍の豪華さからも、顔を見ずともおそらくそこにいるのはエレイン姫に相違ないとカドールには察しがついていた。
『俺に何かご用でも?』と、いつものカドールであれば声をかけたことだろう。だが、ギロン男爵から「娘のまわりをうろちょろするな」と言われたばかりなせいもあり、カドールはそのまま、何も気づかぬ振りをしようと決め込んだのである。
「あの……ランスロットさまは、御一緒ではないのですか?」
柱の影から、そのようにか細い声が聞こえ、カドールは振り向いた。溜息とともに「それは、あなたがどちらを望んでいるかにもよります」と、そう答える。
「では、あの方もいらっしゃっているのですね?先ほど、大広間のほうではお見かけしませんでしたけれど……」
「あいつは、あなたに遠慮したのですよ。ご婦人に恥と不名誉を着せるくらいなら、自分がそれを着ようという騎士らしい心遣いからね」
「ま、まあ……!!」
エレインが衣装の袖を振り、口許まで両手を持っていったため、オレンジの生地に金刺繍の施されたそれが、壁の松明の光に照らされた。だが、彼女が柱から出てくる様子まではない。
「おそらく、父は何か誤解しているのです。一応、説明はしたのですよ。わたくしが一方的にランスロットさまをお慕いしているというそれだけであって、あの方は何ひとつお悪くなどないのだと……それで、あの方はお元気でいらっしゃいますか?」
「そうですね。精神的にはどうかわかりませんが、肉体的には元気と思いますよ」
「そ、それで……すでに御結婚されたのですか?例の、ご婚約者の方と……?」
「いえ、結婚はまだ致しておりません」
カドールは頭が痛くなってきた。ギネビアのほうでは、例の馬上試合の時、自分の婚約者を殺そうとしたことで――それがランスロットとの婚約解消を意味していると考えているようだった。だが、言葉にしてはっきりそう聞いたわけではないが、カドールは親友としてわかるのだった。ランスロットのほうでは、今もまだギネビアは自分の婚約者であり、今回のこの長い旅の目的が達せられ、落ち着いた頃にでも……いつか自分たちは結ばれるだろうと、何かそんなふうに考えているらしいと。
「な、何故ですの?あれからもう二年も経ちますのに……ご、誤解なさらないでくださいね。わたくしにしてみればいっそ、『あの方はすでに結婚して幸福に暮らしている』と聞くことの出来たほうが、諦めがついてほっと出来ると思ったんですわ。ですから、勇気をだしてこんなところでカドールさまを待ち受け、こんなふうにご質問しようと思っただけですのに……」
「まあ、色々と事情のほうがありましてね。ランスロットの婚約者はローゼンクランツ公爵の次女なのですが、長女のテルマリアさまはクローディアス王のご子息であるレアティーズ王子の婚約者であられる方。我々の州のしきたりとしましても、長女を差し置いて次女が先に嫁ぐようなことはないのです」
「でも、あの方はギネビアとおっしゃるその公爵の次女に当たる方を心から愛しておいでなのでしょうね。そんなにも辛抱強く、長くお待ちになれるということは……」
「たぶん、そうなのでしょうね」
こののち、暫く沈黙があった。カドールは相手に気づかれぬようもう一度溜息を着くと、その場をあとにしようとした。ランスロットとギネビアの間にある、兄妹とも幼馴染みとも言えぬ微妙な感情のことは、彼自身にも言葉で説明することなど不可能だった。だが、そんなカドールにもあるひとつのことだけはわかっている。なんにしてもエレイン姫は、一日も早くランスロットなどという砂漠の騎士のことは忘れ、彼女は彼女で新しい恋へ飛び込んだほうがいいということだ。
「たぶん、とはどういうことなのでしょう?」
カドールは廊下を先に進んでいった。だが、エレイン姫は彼のあとをぴったりついて来ているのだ。等距離にある柱の影にサッと次々隠れるようにしながら……。
「いえ、失礼しました。ランスロットの奴はローゼンクランツ公爵の次女であるギネビア姫のことを心から愛しております。それはもう大切にして、姫が三歩あるこうものなら、その先の空気中に目に見えぬ障害がありはせぬかと、逐一心配するほど……そのくらい、姫のことを思いやっているようです」
「……………………」
(こうしたタイプの女性には、嘘でもはっきり言ってやったほうが効果的だ)――カドールとしてはそう判断したのだったが、廊下の先のアーチ型の出口あたりに、噂をすれば影とばかり、ギネビアが横切っていく姿が見えたのである!カドールはこの瞬間、彼らしくもなくギクリとしていた。
「あっ、カドールじゃんか!厨房のとこでさ、パンとか肉の残り物もらってきたんだよ。意地汚ねえ客だと思うでもなく、料理係の人たち、ソーセージとかなんか色々くれたんだ。ランスロットの奴、今ごろ水門塔のところでぐうぐう腹鳴らしてるかもしれないだろ?だからこれからこれ、届けてやろうと思って」
しかも間の悪いことには、彼女のあとをキリオンとウルフィンが追ってきていた。
「ギネビアー!ランスロットのところへ行くんだろ?じゃ、ぼくも一緒にいくよ。ちょっとした散歩と腹ごなしのためにさ」
「カドールさんも一緒に来られますか?」
「おっ、俺は……」
次の瞬間、カドールは後ろを振り返った。強い人の気配を背後に感じたそのせいである。それは真夜中、誰もいない部屋の隅に何かのオーラを感じるにも似た気配であり、彼が後ろを振り返ると、そこにはエレイン姫が柱の影から姿を現していたのである。
「いや、俺は行かないよ。が、まあよろしく伝えておいてくれ」
「よろしくって、一体何がよろしくなんだ?夕方、ついちょっと前に別れたばっかだってのにさ。ま、どーでもいいけど!」
ギネビアはそのまま、ご馳走の詰まった風呂敷包みを振り回しつつ、廊下を走り去っていった。そのあとにキリオンと彼の従者であるウルフィンがバタバタとついていく。
>>続く。