今回は言い訳事項がたくさんあります(^^;)
ええと、まず冒頭の染色体のことや「王室病」に関しての文章などは、トップ画の松田洋一先生著の「性の進化史~いまヒトの染色体で何が起きているのか」(新潮社)より、ほぼコピペ☆させていただいたに近いと思いますm(_ _)m
こちらの本についてはわたし、HKで、「いずれ男性の性は滅びるかもしれない」というテレビ番組を見た時、その後気になって購入してみた本でした。これはまあ有名な話とも思うのですが、女性の性染色体がXXであるゆえに、片方の染色体Xに何か異常があっても、もうひとつの染色体Xによって修復されるのに対し、男性の性染色体のXYのYのほうに異常や欠損があっても、それはそのまま修復されず遺伝してゆくため――欠損したものが次の世代に修復されないまま伝わり、現代ではもう昔に比べて相当すり減ってる(?)と言いますか、その時テレビで見た図によると、どうもそんな感じのことだったんですよね(^^;)
ゆえに、このままいくと男性のXYのY遺伝子はその機能を果たさず、この世界から男性という生き物は絶滅するかもしれない……みたいな、そんなお話だったと思います。わたし、こちらの本読んだの結構前で、今回まだ読み返してませんので(汗)、このあたりの正確なことを知りたい方がいらっしゃったとすれば、面白い本なので本当にお薦めです
まあ、実はわたしが一番驚いたのは、男性の性が女性の性をカスタマイズしたものだ……ということで、確かSRY遺伝子というものが働かなければ、そもそも人類というのは全員が女性になるはずなのですが、胎児期にSRY遺伝子のスイッチが働き、男性ホルモンのシャワーを浴びたとすれば、性のほうが男性となる。そして、一説としてこの時男性ホルモンのシャワーを十分浴びなかったとすれば、自身の性に確信が持てないと言いますか、「自分は女性だと思うのに、体のほうは男性なのよね……」という事態になる原因なのではないかと言われています
ええと、実は今回一番の言い訳事項がですね、ギベルネスがある女性の出産の場面に立ち会うんですけど、医学的な正確性についてはちょっとわからなかったりということだったりほんと、ギベルネスが藪医者風味になってないといいんですけど……後産のことなどについては、「来て!助産婦さん」という素晴らしい本があって、こちらの本を参考にさせていただきました
こちらも名著と思うので、本当にお薦めなのですが、「コール・ザ・ミッドワイフ~ロンドン助産婦物語~」というタイトルでドラマ化されているので、見たことのある方も多いと思います。ようするにこちらが原作本なわけですが、時は1950年代のイギリス、イーストエンドにある貧民地区が舞台(もちろん実話が元になっています)。まあ、貧しかろうと富んでいようと、男女がいて恋愛するなり結婚すれば、当然その後妊娠と出産ということが待ち受けているわけで……共感するのはたぶん、その時代の生活の苦しさの中で、人々が悲喜こもごもどんなふうに生きていたか、その部分が胸を打つということと、登場する修道女や助産婦さんたちがみな献身的で、そうした部分でも感動を呼ぶドラマだと思います
それでも、>>はさみ、臍帯クリップ、臍帯用結紮糸、胎児聴診器、膿盆、ガーゼ、綿花、止血鉗子……他に吸水性の高いシートなど、1950年代ともなれば、そうしたものくらいは揃っているわけで、ギベルネスの場合は胎児聴診器なんていうものもないまま、出産に立ち会うことになってしまったという……本星エフェメラあたりでは、人工子宮によってほぼノーリスクで子供は生まれてくるのかもしれませんが(つまり、本星には産科医というものがほとんど存在しない)、ギベルネスはミドル惑星出身なので、大体今の地球くらいの文明成熟度だったりするわけです(^^;)
あと、センメルヴェイスに関しては前にもどこかに書いた気がするものの、こちらはアトゥール・ガワンデ先生の本に書いてあったことだったりセンメルヴェイスは、妊婦さんの産褥熱の原因に関して、医師が手を洗わずに次々妊婦を診ていることが原因だと突き止め、患者と接する医師自身はもちろんのこと、器具類その他清潔にすべきと、今であればあまりに当たり前の衛生観念について説いたわけですが、当時の医師たちにそのことは受け入れられず、鼻でせせら笑われて終わってしまったようです。彼の死後、センメルヴェイスの正しさは立証され、立証されるどころか病院における「衛生概念」、「清潔概念」は、当時の医師らがタイムスリップして手術室を見たら、たぶん顎が外れるくらいのものなのではないでしょうか。。。
なんにしても、お話的にはようやくここまでやって来た……といったところかもしれません。第二部はそんなに長くないので、第一部に比べてその半分くらいで終わると思うのですが、次回の【27】で大体ようやく半分くらいまで来たかな……といったところかも。あ、第三部も第一部ほど長くなかったと思うので、実際にはもうとっくに半分過ぎてるかもって話なんですけどね(^^;)
それではまた~!!
P.S.作中の、イピカックという植物の根を煎じて作ったとかいう咳止め薬は、例によって『赤毛のアン』に出てくるイピカックから取りました(喉頭炎に効くという薬の名前です・笑)。他に、「虎の尾」といえば当然サンスベリアですが、こちらはまったく別の植物を想定していたり……まあ、主成分がそれでも、他に色々と咳止めとして効き目のある成分の薬草や、肺の炎症に効くという生薬などをラルゴ先生独自に配合しているのではないか――といったように思われます(^^;)
惑星シェイクスピア-第二部【26】-
ギベルネスがロドリゴ=ロットバルト伯爵から話を聞き、まず最初に疑ったのが、それが特殊な遺伝病なのではないか、ということだった。ここ、惑星シェイクスピアの人々は、地球発祥型人類と酷似した進化の過程を通ってきており、染色体が46本あるところも、男性の性染色体がXY、女性の性染色体がXXであるところも同じである。さらには、男性の性染色体XYが、女性の性染色体XXをカスタマイズしたものだ――というところまで一緒だった。つまり、簡単にいえば女性はこのXXのうち片方の性染色体Xになんらかの異常があったとしても、もうひとつの性染色体Xによって欠損のある遺伝情報がカバーされ、病気の表現型が出ずに済むのに対し、男性の場合はこのカバーがないゆえに表われる遺伝病が存在するということである。
(たとえば、筋ジストロフィーや血友病、赤緑色覚異常などは、多くの場合男性に表われるわけだが……女性の場合で病気の症状が表われるのは、性染色体XXの両方に異常がある場合だけだからな)
特に、血友病はその昔、地球で王室病とも呼ばれていたことで、医学の歴史において今も有名なくらいである(地球発祥型人類が多くを占める惑星の医大では、医学の歴史としてこのあたりのことは多少なりとも一通り教科書で学ぶわけだった)。イギリスのヴィクトリア女王が血友病の症状は表われなかったものの、その変異遺伝子をヘテロ型で持つ保因者であったことから――その病気は娘には同じように保因者として遺伝し、男児には血友病の発症者として現れることがあったというのは有名な話である。同じ王子でも、発症する場合もあればしない場合もあったが、ヴィクトリア女王の場合は、四人いた王子のうち、ひとりの王子(オールバニ公レオポルド)が血友病を発症している。また、ヴィクトリア女王の二女アリスのふたりの王子のうちひとりも血友病を発症。もうひとりの娘ベアトリス王女のふたりの息子は、ふたりとも血友病を発症している。さらにここからスペイン王室に血友病の遺伝子が伝えられ、アリスの娘、イレーネが嫁いだプロシアで、同じくアリスの娘アレクサンドラが嫁いだロシア王室でも血友病を発症した王子が生まれており……ゆえに、これが別名王室病とも呼ばれたゆえんなわけであるが、発症者はすべて男性だったのである。
(とはいえ、その喀血病が男児にのみ症状の表われる遺伝病であったとして……私に何か出来ることがあるわけでもないというのがこの場合、問題なわけだ。とりあえず、ロドリアーナにいるというローリーのことを診た医者に順に話を聞いてみようと思ってはいるが……)
ギベルネスがそのことをロドリゴに伝えると、「あんなヤブ医者どもに話を聞いたところで、なんにもなりませんよ」と彼は鼻でせせら笑っていたものである。また、「ギベルネ先生がわざわざ出向かずとも、伯爵の名によって彼らを呼びだすことだって出来ますよ」とも言われた。だが、ギベルネスは執事ホアキンからそれらの医者の住所リストを手に入れることにしていたわけだった。
こうして、ハムレット一行が川下りをして州都ロドリアーナへ到着した三日後、ギベルネスは軍事会議を失敬することを王子にお許しいただき、さらにはホアキンに馬車を用意してもらい、メモにある住所を御者に順に回ってもらうことにした。六件まわった個人開業医といって良いのだろう医師のうち、五人までが「瀉血を薦めたが、伯爵夫妻はどちらもうんと言わなかった」と言っていたあたりからして――ロドリゴが軽蔑の眼差しでヤブ医者と呼んだのも無理からぬことかもしれない。
(まあ、この時代としては仕方のないことなのだろうな。人が病気になるのは、人体を支配する地・水・火・風のバランスが崩れるせいだといったような精神論があって、さらには星の運行によっても病気の進行具合は変わるとかなんとか……また、具体的な治療法としては、瀉血によって脳溢血や癌、腫瘍その他の病いが癒されると信じられているし、あとは浣腸によって体内の悪いものをすべて出すことによって治癒するかのいずれか――といったような医術の進み具合らしいものな)
六件目の、ひしめく商店の間にある小さな医院を訪れる頃には、ギベルネスも何やらうんざりして来た。訪ねていった時、偶然臨月の女性が出産しようかというところで、暫く待たされたのだ。だが、相当な難産だったらしく、若い女性の悲鳴に近い呻き声が続くうち、ギベルネスは手を貸すべきでないかという気がしてきた。もう随分前のことにはなるが、医学生時代やインターンの時期などを通し、出産現場には何度も立ち会ったことがある。それで、看護婦らしき女性にラルゴ医師が「角に住んでる産婆のサンドラを呼べ!!」と叫ぶのを聞き、そっと診察室のほうへ入ることにしたわけだった。
「一体なんだあんたはっ!?」
診察台の上の女性はすでに血まみれで、大量に血を吸った布があちこちに散らばっているという有様だった。出産時に無血で女性が出産するということは当然ない。だが、数十~数百ミリリットルであればともかく(多くは五百ミリリットル未満で収まる)、それ以上の千ミリリットルや千五百ミリリットルもの出血ということになると……輸血を考慮に入れる必要性が出てくるに違いない。
(子宮頸管裂傷、外陰血腫・膣壁血腫、子宮内反症、子宮破裂ならびに羊水塞栓症などによる血液凝固異常……)
出産時の多量出血の原因になるものに関して、ギベルネスの脳裏をいくつもの可能性が掠めていった。というのも、一目見るなりただならぬ深刻な状況であるとしか思われなかったからだ。
「彼女は、これが何度目の出産なのですか?」
ギベルネスは二十代のまだ初めくらいに見える娘の、苦痛に歪んだ顔を見つつ、脈拍を測った。頻脈であり、血圧を測る測定器はないにせよ、血液を吸った布の量から推測すれば通常より低くなっているのではないかと思われた。
「これが初産だってよ!さっき吐いたあとで一度失神したんだ。最悪の場合は帝王切開ってことになるだろう。だが、子供の頭が見えている以上……海千山千の産婆のサンドラに見てもらえば、もしかしたらなんとかなるかもしれん」
そう聞いて、ギベルネスは少しほっとした。ラルゴ医師はぼさぼさの黒髪にぼうぼうの髭を生やした、三十代半ばほどの医師であった。また、壁のぐるりには種々雑多な植物を乾燥させたものがぶら下がり、それらの生薬と思しきものが陶器類や瓶類などに様々な形で保存されているのが目につく。他に、植物類の記録を取ってあるのだろう書きつけが本の形で綴じてあり、それが棚に所狭しと並べられている。とはいえ、流石にギベルネスもここが医師の診察室というよりは、魔術師の診療所であるといったようにまでは感じなかった。そしてこの時、ギベルネスの目が注目したのは、何よりただひとつのものだけだったのである。陶器の洗面器から消毒液に似た匂いが強く漂ってきているのだ。
「あれで手を洗っても構いませんか?今まで、何人か赤ん坊を取り上げたことがあるので……手伝います」
「そうかよ!もともと出産ってのは産婆の領域なもんでな、ここらの医者ってのは産前と産後の異常については相談されても、出産そのもの自体は産婆が立ち会うことのほうが多いんだ。帝王切開は俺も何度か経験があるが、母親が助かった試しはない……産褥死の現場ってのはなんとも壮絶なもんだからな。苦しみ呻きつつ死んでいった妊婦ってのが世界誕生以降今まで一体何百人いたかと想像しただけで、まったくゾッとするような話だぜ」
ギベルネスは、一見清潔そうに見えても、滅菌されてないという意味では不潔な布で手を拭き、マスクも白衣も滅菌された手袋もない状態で、妊婦の診察をした。確かに、赤ん坊の頭が正常に下がって来ているのがわかり、ほっとする。最初は(輸血も出来なければ、子宮収縮薬もない……)と絶望的な思いになったものの、若い娘が再びうめきはじめると――ギベルネスはこのことに突然にして希望の芽を感じた。
「まずは一度、呼吸を整えましょう……」
そう静かに促すのと同時、きょろきょろともう一度あたりを見回す。天井に、これもまた植物を干すためのものかどうか、釘を曲げたような形の突起があった。ギベルネスはテーブルのひとつに掛かっていたリンネルの布をナイフで裂くと、診察台へ上がり、それを突起物に括りつけた。それにしっかり掴ませるようにさせて、苦しく息をしている女性のことをゆっくり起き上がらせる。
「お、おい……あんた………」
出産といえば、女性が横になって股を開く――といった状態しかラルゴは経験したことがないため、彼はこの時狼狽していた。(そんなことして責任取れないぜ)と焦燥を覚えるのと同時、(なんにせよ、いずれサンドラが来るはずだ)との希望に取り縋り、額の汗をぬぐう。
ネリッサは待合室で待っている間に産気づき、すでにもう一時間が経過しようという頃合いだったが、ギベルネスはそのことを聞くとさらに安心した。初産であれば、もっと時間のかかるのが普通だからだ。
「分娩は、一番楽な姿勢でするのがいいんです。どうですか?座ったままのほうが楽ですか?それとも、四つん這いになったほうが楽だったらそうしてもいいし……順に、その姿勢を探っていきましょう」
ネリッサは言葉もなくうんうん頷いた。出産には、子宮の収縮期と間歇期(胎児の頭が引っこむ)があり、陣痛がきたらその後ずっといきんでばかりいるというわけではない。一度収縮期が過ぎれば、再び休み、次の収縮期に備えたほうがいいのだ。ギベルネスはネリッサの額や頬の汗をぬぐうと、リンネルの布にギュッと摑まる彼女の口にタオルを噛ませた。
「この姿勢が楽なんですね?では、その姿勢のまま分娩しましょう……」
だが、ラルゴが思ったとおり、それではうまくいかなかった。ネリッサは再び横になってみたり、手を貸してもらって起き上がってみたり、あるいは四つん這いになったり――ということを繰り返してのち、再び最初の診察台に座ったままの姿勢となった。
「サンドラのババア、たぶん他に産気づいた女なんかがいて、そっちに行ってんだな。なんてこった……」
それでもラルゴは(何が何人も赤ん坊の出産を経験したことがあるだ!この偽医者め)とは言わなかった。ギベルネスのほうではまるでネリッサの夫だと言わんばかりに彼女に寄り添っており、娘のほうでも全幅の信頼を寄せるように、彼に身を任せきっていたからだ。結局、その後ネリッサは彼女を妊娠させた男でさえも、夜の時にそのような体位を取らせたことはないだろう姿勢によって無事出産し――その赤ん坊の体が完全に出てくるまでの間、どこか官能的ですらある声で呻き続けていたものである。少なくとも、診察室の外の待合室にいた男たちは、ここが医院でなかったとすれば、ラルゴ医師が看護婦相手にでも事に及んでいるかと思ったことだろう。
そして、赤ん坊の「オギャアアアッ!!」という元気な叫び声がするのと同時、診察室にかかっていた壁布がサッと開かれ、顔に縦横無尽に皺の寄った、小柄な灰色の髪の産婆が姿を現したのだった。
「ドルカス、遅かったじゃねえか。一体どこまでこの妖婆を探しに行ってたってんだ!?」
「ふん!!妖婆は余計だよ。ここのヤブ医院に足を踏み入れた途端、赤子の泣き声が聞こえたときたもんじゃないか。こりゃ、あたしの出番はもうないかも知れないね」
ネリッサが「赤ちゃん!わたしの可愛い赤ちゃん……」と、息子を抱く傍らで、ギベルネスは臍の緒を切っていた。これから、さらに後産の処置をしなくてはならない(後産とは、赤ん坊を出産後、暫くしたあとに出てくる胎盤のことである。胎盤が遺残した状態のままだと、のちのち出血の持続や感染症などにより深刻な事態になることがある)。
「ほっ!後産の処置についてもちゃんと知ってるとはね。誰だか知らんけども、ほんとにあたしが来る必要なんぞなかったようだ……」
「いえ、とんでもありません」と、ギベルネスは再び消毒液に手を浸し、可能な限り清潔にしながら、サンドラという名の産婆を敬意の眼差しで見た。「わたしはまだ中途半端な医者に過ぎませんから、一秒でも速くあなたが来てくださらないかと、そのことばかりずっと念じていました。是非、サンドラさんのほうでも彼女のことを診てくださると助かります」
それはギベルネスの本当の気持ちだった。行きがかり上出産に立ち会ってしまったが、今後自分が定期的にネリッサという女性や生まれたばかりの赤ん坊を診察するわけにもいかない以上――かかりつけ医なのだろうラルゴ医師と、産科のベテランらしきサンドラにすべてのことを任せる以外にないからだ。
結局このあと、ギベルネスは血まみれの診察室の掃除まで手伝い、その途中でようやく「そういやあんた、なんの用でここに来たんだっけ?」と、ラルゴ医師から問われていたのだった。赤ん坊の世話のほうはサンドラと看護婦のドルカスのふたりがし、隣の部屋では男の赤子があらん限りの声で母を恋しがり泣き叫んでいたものである。
(不潔な手で出産を手伝ったことで、産後感染症なんてことにならなければいいが……そもそも、医業に衛生概念なるものが根付くまでの間は、医者がただ単に手を洗ってなかったというだけで、産褥熱で死んだ母親の数というのがおそろしく多かったという話だものな)
ラルゴ医師は待合室にいた数名の患者を「今日の診察はもうしめえだ!赤ん坊の難産で俺は疲れ切った!!」と怒鳴って追い返し、掃除しているギベルネスの傍らで丸椅子にどっかと座ると、煙草をぷかぷか吸いはじめていたものである。
(医学に、衛生概念というのを最初に根付かせようとしたのはセンメルヴェイスだったっけ。ところが、医者が洗わない手で次の妊婦を出産させようとしたことが産褥熱の原因だと気づいたセンメルヴェイスだが、他の医者にはせせら笑われ、彼の主張した正しさはなかなか受け容れられぬまま死んだとか……理想の看護師として今でも名前の挙がるナイチンゲールは、クリミア戦争で白衣の天使と呼ばれたらしいが、あの時代、彼女もまた衛生ということを徹底させることで、兵士たちの命を救おうとしたという話だったように記憶している。まあ、医学の教科書の片隅にそんなようなことが書いてあった気がするといったくらいの記憶しか、すでに私にはないとはいえ……)
「そいで?おめえさん、闇医者組合の回し者ってわけでもねえんだろ?俺になんの話をしにきたってんだ?」
妊婦だったネリッサは、敷き直した清潔なシーツごと、別の部屋のほうへ移動させられていた。自分も関係している以上、ギベルネスはあの母と息子が今後も元気かどうか、その経過のほうが気になるとはいえ、とりあえず今は当初の目的について果たすことにした。何やらもう今更、という気もしたが。
「ロットバルト伯爵家の五男、ローリー君のことをお聞きしたかったんです。ラルゴ先生、あなたが与えた薬で一時期持ち直したように見えたと聞いたものですから、それはどのような薬だったのか、薬草の成分のほうをお聞きしたかったのです」
「ははーん。てことはあれだな?あんた、伯爵家付きの新しい侍医ってことかい?俺もなあ、一時期乞われて侍医のひとりになったこともあったが、マリーン・シャンテュイエ城には五人も六人もお抱え医師ってやつがいるだろ?そいで、そいつらはいつでも実りのねえ議論しかしやがらねえくせして、俺にもその主張ってやつを強制してくるもんでよお。おりゃ、そんなのがすっかり嫌になっちまってすぐに辞めたのよ。なんにしても、ローリーお坊ちゃまは不治の病いでもう長くねえと思ったってこともあってな」
「ああ、わかります」
ギベルネスが新しくやって来た医師として、今までの治療について調べていると聞いた時、侍医頭の医師は苦虫を噛み潰したような顔をしていたものだった。きっと彼らは、もし何か斬新な治療法というのをギベルネスが知っていたとしたら、そんなことを決して試させようとはしなかったことだろう。むしろ自分たちの医師としての尊厳に泥を塗られるくらいなら、ローリー・ロットバルトは今後ともずっと病気でいるべきである……何かそう考えている節さえ見受けられたものである。
「ただ、何もしなければ確かにローリー君は喀血病で死ぬかもしれない。私も、何かとびきりの奇跡的治療法を自分が思いつくなどとは夢にも思っていません。そのことで伯爵家に恩を売って金を得たいということでもなく……ただ、あんな可愛らしい子が病気で苦しみながら死ぬのを見ていられない。出来ることならなんとかしてやりたいという、ただそれだけなんです」
「ふう~ん。そっか……」
ラルゴは胡散臭いものを何も感じなかったわけではないが、伯爵家の五男ローリー・ロットバルトに処方した薬の成分についてメモを書き、ギベルネスに渡してくれた。
「俺が出したのは二種類で、ひとつ目が咳止め、ふたつ目が肺の炎症を抑えるためのものだ。これは喉頭炎なんかにも効くといわれる薬で、イピカックという植物の根を煎じて作っている。肺の炎症を抑える薬のほうは、虎の尾と呼ばれる黄色と黒の麦みたいな草から採って作るんだ。ちょっと縁起の悪ィような見た目の植物だからな、患者には聞かれてもあんまりはっきりとは言わんようにしとるのさ。患者というやつはまったく不思議なもんでな、そこらでよく見られるような草花よりも、内苑州の一部にしか生えん珍しい花の根茎を煎じて作っただの言ったほうが――霊験あらたかな薬だってえわけで、そんなことでほんとに病気が治っちまうことさえある。ロットバルト伯爵のご子息の場合で言えばな、ありゃ医者の力なんかじゃねえ。家族がみんな団結して、あの可愛い末の弟をどうしてでも死なせたくねえってんで、みんながみんな、あらゆることをやっとるんだわな。ほら、海の洞窟にある海竜リヴァイアサンを祀った祠に、こっそり詣でて祈祷するなんてことをさ……そこまで行くのにも結構危険なんだぜ。満潮時にはその洞窟自体水でいっぱいになるって話でな、それでも兄弟姉妹交替で、干潮時を選んでそんなことまでしてるらしい」
「そうですね……わかります」
ギベルネスは一礼して、ラルゴ医師からメモ紙を受け取り、それを懐に入れた。ラルゴはギベルネスが何を「わかった」のか曖昧であったが、特にそれ以上言及はしなかった。隣の部屋の間仕切りの向こうでは、ネリッサがまだ眠っている。ギベルネスは彼女のことが気になったが、そのまま込み合った商店街にある医院のほうを出た。馬車のほうは港湾の倉庫街にある停車場のほうへ待たせておいた。商店の並ぶこのあたりは、ロドリアーナを形成する重要な大通りのひとつであり、食糧雑貨店や服飾雑貨店、レストラン、海産物の見本市のような商店、青果店その他、種々雑多な店が隙間なく通りには並んでいる。
立錐の余地がない、というほどではないにせよ、それでも商店の品物を見るよりは人の姿や頭を見るためだけにそのゴドゥーリア通りには人がひしめいているのではないか――というくらい、ギベルネスは移動するのに難儀したものである。帯にぶら下げた巾着のほうは懐の内側へしまい込み、ここへやって来る前から、彼はスリや泥棒の類には気をつけていた。昔映画で見た、主人公に「盗んだのはあいつだ!」と罪をなすりつけられた気の毒な脇役のことが一瞬脳裏をよぎっていく。
(そうなんだよな……私は、自分はよくいる運の悪い脇役クラスの人間なのだと、割合小さな頃からそんなふうに自覚して生きてきたつもりなんだ。だから、いつなん時そんな不運が降りかかってきても不思議はないのだと。だが、こんな文明の発達していない惑星で、よもや遭難するだなどとは――流石に思ってもみなかった……)
ギベルネスは蓄積された疲労ということもあってか、この時久方ぶりに自分の運命を悲観した。人の波に半ば逆らうようにして道を進み、誰かにぶつかるたび「すみません(ドゥッセン)」という言葉を口にする。そして彼が、(何故私は、「ぶつかったがどうした」というような、そういう堂々とした態度であることが出来ないんだろう……)と、そんなことに対してまで自己嫌悪を覚えはじめていた時のことだった。商店と商店の一角に、紫の天幕のかかった小さな狭い場所があった。普段、ギベルネスは占いの類といったものについては信じない。妹や恋人のクローディアが星占いや相性占いといったものを見てきゃっきゃと騒ぐのを――(女というやつは、まったく無邪気で馬鹿だな)と思っていたようなことさえある。けれどこの時、ギベルネスはそこで立ち止まった。店内には右の棚にも左の棚にも、美しい石が綺麗に並べてあった。そして、石と石の間には何かのアクセントのように、小さな貝や虹色の貝殻などが置いてあるのだった。
(これは、翡翠の原石だろうか?こちらはいわゆるトルコ石だし、こちらはラピスラズリ……値札はついてないようだが、おそらくそれは交渉次第ということなのだろうな)
今まで、どこの城砦都市においても『値切り文化』というものがあるらしいとギベルネスは感じていた。商店主は大抵の場合、値札通りの金を払おうとすると「あんた、頭おかしいのか?」といったような、どこか不満そうな顔をし、そのことをはっきり口で言ってくることさえよくあったものである。
「恋人に対する贈り物としてどうだね?」
イエロートパーズの石をギベルネスがじっと見ていると、クッションの上にのった水晶の前に座っていた老女が、そう声をかけてくる。
「いえ……恋人なんていませんからね。こんな高価な宝石、私には必要のないものです。そんなにお金のほうも持ち合わせがありませんし」
「そうかい?あんたは――どうやら随分と遠い惑星に、その恋人とやらを置き去りにしてきたようだ」
ギベルネスは一瞬ギクリとした。天幕と同じ、紫のローブを目深に被った初老の女は、両方の目が完全に白く濁っていた。(白内障だろうか)とギベルネスは一瞬思ったが、女性のほうでは目がまったく見えないというわけでもないらしい。
「いや、違いますよ。私は、その女性に振られたんです。きっと今ごろは私でない別の男性と結婚し、子供もいて、幸せに暮らしていることでしょう……」
(私のように、こんな何十億光年も離れた場所で惨めに遭難するよりも、遥かに幸せで充実した人生を送っているはずですよ)と、ギベルネスはそうも思ったが、当然口には出さなかった。
「いや、その女は結婚なぞしていないね。それで、何故あんたと結婚しなかったのかと、今も後悔しながら泣き暮らしているのさ。ちょうど今あんたが、何故その女と結婚しなかったかと後悔しているようにね……」
ギベルネスは、流石に占い師のこの言葉にムッとした。最初の言葉にしても、(随分遠い惑星だって?何故そんなことがわかるんだ)と思いはした。そして、あらためて気づく。自分がクローディア・リメスの幸福を想像することでいかに自己満足し、自己憐憫の傷をなめることで動かしようのない運命に対し、いかに納得しようとしてきたかということを。
ギベルネスはすぐ、この小さな占いの館を出ようとした。(この女はただ当てずっぽうを言っているにすぎない)と、そう思うことで久方ぶりに感じた深刻な不快感を払拭しようとしたのだ。
「ふふん。お兄さん、まあそこへ座りなよ。近いうち、あんたにこの惑星の上に浮かぶ、あのカエサルとかいう忌々しい場所から……連絡が入ることだろう。だが、我々にはその前に、あんたに是が非でも協力してもらいたいことがある」
「なんだって……ッ!!」
ギベルネスは振り返った。手がわなわなと震えてさえいた。咄嗟に、この白髪頭の女の首を絞めて殺してやりたいような衝動にさえ駆られる。彼はまったく訳がわからなかった。自分は見も知らぬ老女に殺意を覚えねばならぬほど、今そんなに切羽詰まって疲れているのだろうか?
「フッ……まあ、しょうがないさね。おまえたち地球発祥型人類は精神攻撃というのに弱いというのか、攻撃を受けているともわからないほど鈍いようだからね。さっきあんたは、あのラルゴ医院とかいう医者の元をでて、こっちへ向かってきたろう。わたしたちは嗅覚が鋭いからね……あんたは笑うだろうけど、言うなれば霊的嗅覚というやつさ。わたしたちにはこの惑星の人間に混ざって、姿や形はいくら似て見えたにせよ、地球発祥型人類というやつの匂いがブタの糞か何かのようにぷんぷん匂ってくるのがわかる。それで、あんたがこのわたしの店で足を留めるよう仕向けたわけさ」
「一体、どういうことですか?カエサルから連絡が入るって……」
(私にとっては、それが一番重要なことだ……)ギベルネスはこめかみのあたりが突然ズキズキ痛みだすのを感じた。もしかして、通りを歩いている時ずっと感じていた落ち込みは、彼女のいう精神攻撃というやつだったのだろうか?
「そうだよ――確かに肝心なのはそのことさね。だけど、注意してようくお聞き。わたしたちには、あんたとカエサルにいるあんたのお仲間との通信を妨害し、邪魔することだって出来る。それに、ただであんたと取引しようというのでもない。もし私たちの頼みごとに対して『うん』と言ってもらえるならね、あんたにこいつをただでやろう」
「なんですか、それは?」
女は、紫の小さな紙の包みに入った何かを、ギベルネスの前にちらつかせた。精神攻撃だかなんだか知らないが、ギベルネスはやはりイライラした。両手で額のあたりを押さえ、こめかみのあたりをしきりと揉んだ。まともに系統立ててものを考えることさえ出来なくなってきている……もし仮にこの老女が不利な取引を仕掛けてきても、間違って『うん』と頷いてしまいそうなほどに。
「ロドリゴ・ロットバルトが喉から手が出るほど欲しがっている、息子の病気を治すための薬さ。あんたが少しばかりカエサルに帰るのを遅らせて、わたしたちの頼みを聞いてくれたら……最終的にすべては丸く収まるという寸法なわけだ」
「その保証は……?」
ギベルネスは目を開けていられなくなってきた。自分は木製の椅子に座り、目の前には気味の悪い老婆が存在したはずだ。だが、いまや彼には地面に足を着けているという感覚すら覚束なくなってきている。
「保証だって?まったくくだらんことを……ッ!!だからおまえたち地球発祥型人類というやつはおぞましい存在だというのだ。わたしたちはね、一度約束したことは必ず守る。おまえたち、嘘つきの人間どもとは違ってね……これは、おまえにとっても有益な取引となるはずだよ。何故といって最終的におまえが<神の人>としての役割をまっとうすることが出来ることとも繋がるからだよ。とにかく、信じられなくてもおまえは我々のことを信じるしかない――何故なら、結局のところそれ以外に最良にして最善の道はないからだ」
「待ってください……ずっと、不思議だったんです。惑星学者のひとりが遭難したのに、カエサルから連絡がないだなんて……絶対ありえないことだと。もしかして、それはあなたたちが通信を妨害していたからなのですか?」
「さてね。とにかく、その答えについてもいずれわかる時が来るさ。まず、おまえがこれからしなければならないことについて教えてやろう……ギベルネス・リジェッロ。この紫の包みの中には竜血樹から採取した、ローリー・ロットバルトの喀血病の治る薬が入っている。正確にはね、問題はこの薬が本当に効くか効かないかじゃない。薬を飲むという行為は、ただの儀式的所作に相応するだけのものだ。とにかく、あの少年にはこの薬を与えておあげ。そうすれば、我々があの少年にかかっている呪いを解いてあげよう……正確にはロットバルト家にかかった呪いは、とっくの昔に解けてはいるのだ。だが、罪の贖いというものは、贖われるだけでは不十分で、贖いを受け取ること、罪が贖われたと信じ続ける必要があるのだよ……あの家の祖先はそのことを怠ったのだ。まあ、おまえには我々が何を言っているのか、さっぱり理解できまい。それはさておき、その時おまえは<神の人>としてこう言わねばならない。『ハムレット王子、私はこれから<東王朝>へ向かわねばなりません。そちらでしなければならない仕事があるのです。そこには<死の谷>とも呼ばれるらい者たちの暮らす場所があって、そこで困っている人たちを助けてからこちらへ戻ってきます。おそらく、戦争がはじまる直前かそのくらいまでには必ず戻って来れるでしょう。ゆえに、このまま準備のほうは進めてください。あなた方の軍勢は必ず勝ちます。そのことはすでに決まっていることで、それが星神・星母の意志である以上絶対間違いありません』とね」
「<東王朝>って……」
ギベルネスは舌の呂律が回らなくなってきた。いや、頭の中では色々なことを考えてはいる。だが、脳とそこで考えたことを舌を使ってしゃべる回線に何か不都合でも生じたように、うまくしゃべることが出来ない。
「そうだ。案内のほうは、<東王朝>出身のディオルグにでも頼め。いや、違うな……おまえは何もしなくていい。むしろ、ディオルグのほうからそのように申し出てくることだろう。そうしたらおまえは、それが自分に与えられた運命のしるしだとでも思えばいい。カエサルのほうから通信連絡が入ったら、すぐに帰るなどとはあいつに答えるな。ハムレット王子が勝利するためには絶対に自分の力が必要だから、今はまだ帰れないが、こちらで成すべきことを無事に完了させたら戻ると、そう答えるのだ……もちろん、我々は構わんがね。もしおまえがこのまま<神の人>として、死ぬまでこの国でちやほやされたいというのであれば、そのように取り計らってやっても良いという、これはそうした意味だ」
『待ってください……っ!!私は、なるべく早く帰りたいんです。本来自分がいるべき場所にっ。でも確かに、ハムレット王子が無事戦争に勝利してこの国の王になれるかどうかは気になるし、協力したいとも思っています……それに、ローリーの病気が治るためならなんでもしたいという気持ちもある。ですが、一度連絡がついたら、ここに長居することは許されないでしょう。遭難中に私がやむなくした法律違反については、おそらくは目を瞑ってもらえるかもしれない。ですが……』
ギベルネスはこの言葉を、口に出してしゃべってはいなかった。おそらくは向こうで自分の言いたいことを、心の内側にある言葉を読み取ったに違いなかった。
『大丈夫だよ。カエサルにはカエサルの事情がある……おまえらがホーリツとかいうくだらぬもののことを常に問題にする習慣があることは知ってるよ。が、まあ心配するんじゃない。かくかくしかじかのすぐに帰れない事情があると言えば、向こうでも「じゃ、そのまま遭難してるんだね。サイナラ」となることだけはないからね。そのことにしても、次期おまえにはわかることさ、ギベルネス……』
足許から空間が消失し、自分の存在が螺旋階段ようにぐるぐると回りはじめたように感じた次の瞬間――ギベルネスはハッとした。彼は元いた雑踏の中で立ち尽くしており、誰かに肩をドカッと押され、「すみません(ドゥッセン)」と若い男にあやまられていた。「こちらこそ(ドゥアーナ)……」と返事をし、ギベルネスは先の道を急いだ。先ほど、商店と商店の間にあるとばかり思った占い師の店は、今はもうどこにもなくなっていたからだ。
>>続く。