(※「世界で一番美しい少年」に関してネタばれ☆があります。一応念のため、ご注意くださいませm(_ _)m)
ええと、清水玲子先生との対談で、萩尾先生が「世界で一番美しい少年」のことに触れておられたため……ちょっとこのドキュメンタリーのことについて先に書こうかなって思いました
「ベニスに死す」が公開になった時って、一応わたしまだ生まれてないもので、ルキノ・ヴィスコンティ監督の作品を初めて見たのが確か、「家族の肖像」でしたかね。わたしの記憶違いでなければ、見たのは十代の頃で、今はもうストーリーとか忘れてしまったのですけど(汗)、とにかく映像がすごく綺麗で、ヴィスコンティ監督の他の作品も見てみたい!!と思いつつ、次に「ルートヴィヒ」を見たのがそれから何年もしてだったと思います
それで、「ベニスに死す」を見たのも、それから相当経ってからなので……あの、パッケージなどでよく見かけるダーク・ボガードと並んだ感じの美青年を見ても(わたしにとっては美少年ではなく、二十歳を過ぎた美青年というイメージでした^^;)、特になんとも思ってませんでした。いえ、「よくわからないけど同性愛を扱った映画らしい」とは聞いてましたし、ビョルン・アンドレセンくんが、どうか誘惑するような流し目で中年のおっさん(ダーク・ボガード)を見ていたことから……何かこう、ロリータの美青年版というか、何かそうしたお話なのかと思い込んでいたわけです(いい年したおっさんが、奥さんも子供もいるのに美青年にかどわかされ、社会的地位を失った上、美青年にも捨てられ自殺する――とか、パッケージだけ見て、そこまで妄想してました・笑)。
でも、実際の「ベニスに死す」の映画の内容は全然違います。ダーク・ボガード演じる指揮者アッシェンバッハは、ただひたすらビョルン・アンドレセンくんを熱い眼差しで見つめまくり、それだけで幸せだとばかり、プラトニックな愛だけを抱いて死んでゆくという……それで、ようやく「世界で一番美しい少年」というドキュメンタリーについてなのですが、この言葉はルキノ・ヴィスコンティ自身が語ったもので、エリザベス女王やアン王女も出席したロンドンのプレミア上映でだったでしょうか。そうした場所でビョルン・アンドレセンくんのことを紹介した時に、そんなふうに形容したわけです。
実際のところ、映画の中でビョルンくん演じるタジオはほとんどセリフのようなものもなく、彼はその美貌のみによってアッシェンバッハのことを魅了していたようなのですが……ヴィスコンティにとって一番重要だったのが、ビョルン・アンドレセンくんの「顔」だったらしい。映画のイメージにぴったりくる人材を何年もかけて探し、わざわざ北欧までやって来てオーディションをしていたルキノ・ヴィスコンティ。その甲斐あって、ビョルン・アンドレセンくんという逸材を発掘できたものの――なんと言いますか、映画のワールドプレミアが終わり、高い評価を得たそのあとのことは知らないよ……というのか、ようするにそんな感じだったのだと思います。
とはいえ、このこと自体はおそらく今もよくあることなのかもしれません。ハリウッドなどで、ある俳優さんが抜擢され、その作品が大ヒットを記録する……なんにしても、この俳優としての第一歩を踏みだすのに誰もが四苦八苦するわけですから、ビョルンくんは「ラッキーだった」、「ラッキーなシンデレラボーイだった」と言えるのかもしれません。けれど、もともと性格的に内気で繊細だったビョルンくんは、実はこのことで内心とても傷ついていたわけですよね
「世界で一番美しい少年」は、このビョルン・アンドレセンくんが、「ベニスに死す」以後、「ミッドサマー」に出演するまで、その間彼がどうしていたかを追ったドキュメンタリーなのですが、正直、少し厳しい言い方をしたとすれば、「ドキュメンタリーなのだから、このくらい際どいところまで追わなければ何がドキュメンタリーだ!」と感じるような作品の多い中、「世界で一番美しい少年」はかなりのところ追及が中途半端でぬるいとは思います(^^;)
ええと、わたし自身はそのことが欠点だとかなんとか思うでもなく、これが現在七十歳近くになったビョルン・アンドレセンというひとりの男性の、大体のところの現実ですよ……という部分が描かれているだけで十分満足したのですが、それでも、見た方のおそらく多くが感じるであろう点について、少しばかり追及してみようかなと思ったり。。。
一応、ビョルン・アンドレセンくんが、両親がいない状態で、「ベニスに死す」の撮影などに同行していたのは祖母だといったようなことは、ネット情報などによって前から知ってはいました。他に、この映画撮影のスタッフさんはゲイの方がほとんどで、アンドレセンくんは相当不快な思いをした……といったようにも。ドキュメンタリーのほうでは、ヴィスコンティ監督がこうしたスタッフさんたちに「ビョルンに手を出すなよ」的に厳しく釘を刺していたそうなのですが、映画の撮影さえ終わってしまえば――たぶんあれ、ワールドプレミアの後とかですよね。街のナイトクラブやゲイクラブのような場所へ出かけていってお酒を飲んだり……「何があったかはよく覚えていない。あんな経験をしたことなど一度もなかった。欲望に燃えた貪欲な目、濡れた唇、うねる舌。連中は頭の中で私にフェラしていた。私は飲みまくった、何杯も。その場を忘れようと片端から飲んだ」といったような、現在は老人となったビョルンくんの言葉がドキュメンタリー内にはあります。
まあわたし、このあたりのこともあまり興味ないんですけど、その後相当時が過ぎてからフランスのテレビのインタビューを受けてるアンドレセン氏とインタビュアーのやりとりを見て思うに(2005年のテレビ番組)……「この作品によって男性との関係にも多少の変化がありましたか」とか「ゲイ・コミュニティがあなたに対して興味を持って近づく」とかいう微妙に曖昧な聞き方をしてるんですけど、ありていに言えば「ルキノ・ヴィスコンティ監督は自身ゲイであると公言しているような人だったし、スタッフにもゲイの人が多かった。あなたは彼らと当時、関係を持ったりしたんですか?」と聞きたかったんじゃないかと思うんですよね。また、そのことをきっかけに(その後女性と結婚したにしても)「男性と交際したり性的関係を持ったりしたことがあったのではありませんか?」といったように、そのあたりのことを詳しく聞きたかったのではないでしょうか。
これはわたし個人の想像ですが、ネット情報なども含めて思うに、「映画のスタッフから視姦されまくって非常に不愉快だった」というのはほぼ間違いないらしいのですが、それ以上のことがあったかどうかは結局、アンドレセン氏ははっきり否定はしてなく、「酔っていて覚えてない」と、ドキュメンタリーでは答えている。でも、あいつらが頭の中で自分に何をしてたかとは知ってると、事実としてわかるのはそこまでなのではないかと思います(ネットで検索してみると、そうしたことも多少あったらしいと読み取れるのですが(その後ゲイ・コミュニティの富裕層とのつきあいがあった等)、そうした真偽に関して「本人の発言として間違いのないところ」がわたしにははっきりわかりませんでしたm(_ _)m)。
また、撮影当時の15~16歳くらいという多感な年齢のことを思うと、ドキュメンタリーに出てくるアンドレセン氏の恋人イェスカさんが「児童虐待よ」と言っていたように、ビョルンくんのおばあちゃんがしたことは、今の価値観でいえばそうなると思うんですよね。ええと、これは映画スタッフのゲイたちのなめるような視線であるとか、そうしたこと以前の問題として、内気で繊細なビョルンくんには笑顔の裏で苦痛だと感じることが多かった。でも、両親がいない状態で、寄宿学校に入れられていたビョルンくんはこの祖母を頼ったことから……なんというか、この年代の方は戦争を体験されてると思うので、「男の子なら、もう十五ともなれば自分で稼がなきゃ」というか、そうした考え方だったんじゃないかという気がしたり(ドキュメンタリーの中には「祖母はビョルンのことを有名にしたがった」、「契約書にも祖母が勝手に名前を書いた」、「ビョルンの祖母は孫に関するビジネスに夢中だった」といった言葉が出てきます)。
それで、ドキュメンタリー見てる側が気になるのがこのあたり――結局、「ベニスに死す」に出演したことで、ビョルンくんには一体どのくらいギャラがあったのか、という。そして、彼のおばあさんはどのくらいのお金を手に入れ、孫のビョルンくんにはどのくらい渡したのか(その後わかりましたが、ギャラのほうはたったの五千ドルだったそうです)……ドキュメンタリーにはそのあたりの話は一切でてきません。ところが、世界中で美少年として大人気となったのだろうビョルンくん、次に「日本で稼いで来なさい」みたいにおばあさんに言われたらしく。というのも、日本からのファンレターが一番すごかったのだとか
いえ、このあたりもビョルンくんには苦痛なことが多かったと思うのですが、わたし、ビョルンくんが実は来日していてCMに出たり歌まで歌っていたともまるで知らなかったため――思わず笑ってしまいました(すみません)。それで、あらためて思ったわけです。「確かに、これは大変だあ……」みたいに。日本人の文化的なものとして「こっちゃあこれだけ金だしてんだからよォ。こんくらいのことはやれよなァ」といったような感じではなかったでしょうけれど、お金に見合う程度のことは努力してやらなければならない――というプレッシャーを、まだ十代の少年が受け止めるのは、今の基準でいえば間違いなく虐待に当たることであり、搾取でもあると思うわけです(また、相当なハードスケジュールで、つらい時には精神の薬まで渡されたとか)。
でもほんと、びっくりですよ。歌のほうも日本語で、演歌ってわけでもないのに、なかなか浪花節についても理解してるかのような歌いっぷりなんですもの
それはさておき、アンドレセン老人、このドキュメンタリーのために来日していて、この時通訳されていた方や、また漫画家の池田理代子先生ともお会いになっておられます。これもわたし、全然知らなかったことなのですが、オスカルのモデルはビョルンくんだったとのことなんですよね。また、当時、何人もの少女漫画家がいかに「ベニスに死す」の中の彼に感銘や影響を受けたか……みたいな話でもあったようで
さて、萩尾先生×清水玲子先生の対談の中で、「西洋の美少年の美しい期間は短い」と言いますか、ビョルンくんもそうだったようだ――的なことが語られているんですけど、確かに、三十くらいになったアンドレセン氏は、かつての世界中で騒がれた美貌のほうは失ってしまっているような印象ではありました。そしてこの頃、アンドレセン氏はスサンナ・ロマンさんと結婚し、長女のロビンちゃんと長男のエルヴィンくんをもうけるのですが、長男のエルヴィンくんが八か月の時、乳幼児突発死症候群によって死亡してしまい、その時ビョルンくんは酔っ払って帰ってきて、まだ赤ん坊の長男くんの隣でぐっすり寝ていたことから……そのことのすべての責任は自分にあるとして、以降鬱とアルコールへ溺れていったといいます。
結婚した女性の写真などは出てきますが、その後彼女との関係がどうなったかについての詳しい話は語られません。おそらく離婚して、長女のロビンちゃんのことは奥さんが引き取ったということなのかどうか……このドキュメンタリー、六十半ばのアンドレセン氏が出てくるところからはじまって、彼の恋人のイェスカさんと一緒に部屋を掃除するような場面が出発点。アンドレセン氏、相当不潔な枕や毛布などで横になっていたようで、イェスカさんは呆れながら汚いそれらを捨てています。また、ガスをつけっぱなしにして寝ていたり外出していたりといったことで、大家さんから追い出されそうにもなっている様子で……その~、わたし個人の思いとしては、このドキュメンタリー制作によってアンドレセン氏にそれなりに結構な額、お金が入ってきてるといいなと思うのですが、このドキュメンタリー制作をきっかけに、十一年ぶりに自宅で娘さんと再会していたり、妹のアニケさんとも会って話したり――娘さんのことに関しては特に、「それでも父親か!」というのが一般的な世間の声であったとしても……恋人のイェスカさんがアンドレセン氏の性格を「とても複雑だ」と評していたり、その他「あなたのような変わり者の年寄りじゃなく、自分を求めてくれる男性を選んで何が悪いの!?随分尽くしてあげたのに感謝もしない。クソッタレ!」と一度など電話で怒っていたり……あとから再び「元鞘」に戻ったようなのですが、ドキュメンタリーのほうをもし短くまとめたとすれば、「ベニスに死す」に出演する前も出演後も、ビョルン・アンドレセンというひとりの男性の人生は一筋縄ではいかない大変なものだった――ということなのではないでしょうか。。。
ビョルン・アンドレセンくんには、とても芸術方面において才能があり、ディオールでモデルもしていたこともあるようなお母さんがいた。妹とは父親違いになるらしい彼の父親が誰だったかについては最後までわからなかったようなのですが――このお母さんは、彼と妹を置いてある時行方不明になってしまう。そして、はっきりドキュメンタリー内において「自殺」といった言葉は使われてなかったと思うのですが、まだ幼い息子と娘を置いて自殺してしまったらしい……あるいは、何かの事件に巻き込まれて殺されたということなのか、そのあたりについてははっきりしませんが、おそらく自殺だったのではないかと思われます
その後、デンマークの寄宿学校へ入れられたらしいということは、仲が良くて離れていた記憶がないという妹さんとも引き離されたということなのでしょうし、この寄宿学校というのも居心地の悪い場所だったからこそ逃げ出して祖母のことを頼った……ということだったように思われます。とにかく、ドキュメンタリー全体を通して、アンドレセン氏がそんなに色々はっきり語っているような場面は多くなく、なんというか、「もう七十歳近い老人に、そんなに厳しく色々追及するように質問するのもなんだかなあ」という曖昧な感じで、それでもお母さんが生前残したという詩の言葉があって、その言葉はそのまま現在のビョルンくんにも当てはまるような、そんな感じがしたりもするわけです。。。
>>「心穏やかに 厳しい言葉はいらない
私は もう無理よ
どうか泣かないで
消すべき火は もう絶えた
私を見ないで
崩れてしまいそう
砕け散るのよ
こわれゆく私を見ないで
私のために泣かないで
消すべき火は もう絶えた
持てるものはすべて手放した
生きるため 何ひとつ残さず
やがて 私の姿は
見えなくなっていく
でも 死なない
後にあるもの それは扉
心の奥の部屋へ去る
それ以外 何ができるのか
私は死なない
ただ消えるだけ
もしかしたら 不安で
確信と疑惑に
再び目を覚まして
あなたたちを捜しに
戻ってくる」
まあ自分的に、美少年・美青年としてあんなにもてはやされたあの美貌を彼はその後失ったらしいとか、結婚後も息子を乳幼児突発死症候群によって失うなど、自責の念から鬱やアルコールに溺れるようにもなり……ビョルン・アンドレセン氏の人生は不幸だったのかといえば、本人がもし「自分の人生は父が誰かは最後までわからず、母のことも幼くして亡くし、その後も不幸なことが多かった」と語っていたとすれば、そうなのかもしれません。でも、本人がはっきりそう語っているわけではありませんし、彼の人生の中で何が一番幸福なことで不幸なことだったのか、それはビョルン・アンドレセン氏だけがわかっていることで、こうした比較的浅めな掘り下げのドキュメンタリーを一本見た程度のことでは、とりあえずわたし自身には何も言えないし、わからない感じがしました
最後に、アンドレセン氏の人生観を物語るような、彼自身のとても印象的な言葉をふたつほど書き記して、この記事の終わりとさせていただきたいと思いますm(_ _)m
>>人生には――あまり期待しない。
うまく表現できないが、多くを失いすぎると不思議なことに……むしろ生きるのが楽になることがある。
『あれもこれも失ったが、別にいいさ』、『他にも失ってる』と。
>>草の上に寝転んで、宇宙を見ているつもりが実のところ――下界を観察していると想像したことは?
畏怖すべき感覚だ。星を見上げる時――どの方向を見ているのか、外側を見ているのか、内側か、上を見ているのか、下か。私は今もここにいて座っている。
この世のすべては信仰がないならば――限りなく不確かなものとなる。
(この言葉は、アンドレセン氏がイエス・キリストの生涯に関する、何か論文のようなものを読んだ場面のあと語られたものです……これもわたしの憶測ですが、「そのような運命を与えた神を恨む」という部分と、息子のエルヴィンはきっと天国にいるに違いないと信じるにはやはり信仰が必要になる――というこの矛盾。そして、そんなところも通り越した、達観したところにアンドレセン氏はすでに至っているのではないでしょうか)。
なんにしても、ビョルン・アンドレセン氏が幸福な老後というのを送っておられることを今はただ静かに願うのみといったところです
それではまた~!!
惑星シェイクスピア-第二部【29】-
ギベルネスは地獄の庭園で朝を迎えたその日、レンスブルックが置いていってくれた盆の上のものを食すと、例の喀血病に対する薬だというものを携え、ローリー・ロットバルトの寝室のほうを訪ねた。
見ると、扉のほうは半分開いていて、早朝だというにも関わらず、人の出入りのほうが激しいようだった。中には、先日紹介されたばかりの伯爵家の侍医らがおり、彼らがどうやら瀉血の準備をしているようだと目にすると、ギベルネスは急いでそちらへ駆けつけた。
(しまった……!!きのう、気分が暗く落ち込むあまり、私は一日くらい延びたところでどうということもあるまいとしか思わなかったんだ。私は馬鹿だ。あれからすぐ、なんの疑いの心も起こすことなくローリーにあの薬を与えていれば良かったのに……)
「待ってくださいっ!!私はローリー君のことを診た医師たちに順に話を聞き、薬ほうを調合したんです。先にこの薬のほうを試させていただけませんか!?」
実をいうと、ギベルネスなりにこの点については色々考えていたことがある(それがすぐローリーに薬を服用させなかった理由でもあった)。何分、薬のほうは一包しかないのだ。経験からいってもギベルネスにはただ一度の薬の服用によってある重病――それも難病の類に属するもの――が癒されたという話など、聞いたことがない。そこで、いかにこの薬が霊験あらたかな由来を持つものであるか、まずは物語を作った上、似たような色合いの偽薬を製造する必要性があると考えていたのだ。だが、きのうのギベルネスの精神状態では、とてもそこまでのことをする気力が湧いて来なかったのである。
ユベールに頼んで、<竜血樹>について調べてもらうと(無論、彼はAIクレオパトラに「竜血樹でなんかヒットするもんある?」と聞いただけだが)、過去に惑星学者(言語・民俗学専攻)の論文に、次のような記述があったということだった。『竜血樹とは、エレゼ海の中心に浮かぶ理想郷と信じられているアルティマ島に生える樹木である。そして、その真っ赤な樹液を吸った者はどんな病いもたちまち癒え、不老不死の力を得るという言い伝えが、ロドリアーナ地方を中心に、今も一般に信じられているようである』と。
また、「霊験あらたかな物語を信じる」ことにも、このくらいの文明の発達具合の惑星では、特に強い意味と精神力があるとギベルネスは知っていた。というのも昔、彼がまだ医大生であった頃、教授のひとりがこんな話をしていたのを覚えていたからだ。たとえば、ある聖なる泉に七度浸かれば癒されるという言い伝えがあるとして――そうした場所で奇跡が起きたと言われる例が本当にあるのは何故かといえば、信心による癒し、といったように一般には解される。だが、癒されなかった者は信心がなかった、ということになるかといえば、もっとも科学的な説明として近いものは(あくまでもその教授の話によれば)それは「自己治癒力の解放が起きた」かどうかの差なのだと……。
無論、ギベルネスは眉に唾をしながらこの教授の話を聞いていた。つまり、民間療法などで同じように「眉唾もの」の治療法で癒される人間が仮に若干名であれ本当に現れるのは、そのような人間の精神から肉体への働きかけが無意識レベルで起きるからなのだ、という話なのである。言い方を変えたとすれば、小さな頃から「その錠剤を飲めば必ず頭痛がやむ」とか「腹痛が和らぐ」といったものを持っている人が、その薬が実際に効果を発揮しはじめる前から――その薬をゴクリと飲んだその直後に頭痛や腹痛の止むことがあるが、これがそれに相当する行為だというのである。
ましてや、これだけ神や神々への信心深さが強い文明を持つ惑星でのこと、ギベルネスはこうした「霊験あらたかな物語作り」というのは極めて重要なことだろうと考えていたのである。
「一体なんだね、君は!?」
侍医頭のキルボーン医師がすでにランセット(静脈切開のための細身のメス)を手にしているのを見、ギベルネスは自分でも顔が青ざめるのを感じた。瀉血を受けた人間のうち、助かった人間よりも死亡した人間のほうが多いと――少なくとも過去の地球においては、西暦十九世紀頃に至るまでそうだったと、医学の教科書にあるのを読んだ記憶がある。
「ギベルネ先生、あなたはきのう、他に何か方策があるかもしれないだとか息巻いておられましたが、今となってはそれも最早意味なきことと思われますな……」
キルボーンを手伝うべく、他にも四人ばかりもの医師がベッドのまわりを取り囲んでいる。ひとりはゼイゼイと苦しそうな呼吸のローリーのことを起こし、その背中や腰に枕をいくつも入れていた。また他のふたりはローリーの体を押さえつける役であるように思われる。
「そのような薬など……!!」と、キルボーンは鼻でせせら笑った。彼は四十手前ほどの年齢だが、医師の中では最年長であるように思われた。身に着けているものや、若干太って見えるところから、結構な俸給を伯爵家から得ているに違いない。「根本的な解決にはなりませんよ。おそらくはせいぜいのところを言って、一時的に咳止めの役割を果たすか、症状が回復したように見せかける程度のものに過ぎない。ははーん、お宅、あれでしょうな?あのヤブのラルゴ医師から、そのような薬の調合法を教わったのではありませんか?ロドリゴ伯爵、このようなよそ者の言うこと、ペテンに過ぎませぬ。さあさ、おわかりになったらみなさま方、部屋から出ていってくださりませ。本物の医者の治療の邪魔になりますのでな」
「いや、キルボーン先生。やはり、瀉血はまた今度ということに……」
隣にいた妻のローリエから縋るような眼差しで見つめられ、ロドリゴは苦渋の表情でそう言った。ローリーの部屋には他に、三男のロキルス、四男のロマンド、他に娘たち五人が全員顔を揃えていたが、家族はその全員が父親のこの決断にほっとしたような顔をしてばかりいる。
「またそのようなことを、伯爵さま!」と、キルボーンはなおも引き下がらなかった。他のヤブ医者であればともかく、自分が瀉血をするからには必ず成功するのだと、そう信じ切っているような口振りだった。「いついつまでもそのように決断なさるのをグズグス先延ばしにしていると、その分ローリーさまが苦しむことになるのですぞ。そう思し召して、次に発作が起きた時にはと、あれほど約束したではございませぬか。それを……」
「ギ、ギベルネ先生……」
ローリーは、苦しい息の合間合間に、訴えかけるような必死な眼差しで言った。
「ぼ、ぼくは……先生を信じます………!!瀉血なんて、怖いもの……」
末の息子がはっきり不安と恐怖を口にすると、医師たちを押しのけるようにして、ローリエ夫人や五人の娘たちがすぐ彼のことを抱きしめたり、足や体の一部を涙ぐみながら必死に撫でさすった。
「その薬とやらは、本当に効くのでしょうな」
キルボーンが疑わし気にそう言うのを、ギベルネスは首を振って無視した。(わからない)というジェスチャーではなく、(この場にいる誰よりそう思っているのは、この私ですよ)と心の底で感じていることを――誰にも気取られないためであった。
「発作がはじまったのは、いつ頃からですか?」
ギベルネスはテーブルの上にあった水飲みに薬を入れると、ピッチャーから水を注いで溶かした。このほうが飲みやすいと思ってのことである。
「今朝方からですが……バーナビーがローリーの異変をすぐに私たちに知らせにやって来たのですよ」
ギベルネスの調合した薬が、真紅に近い真紫をしているのを見、ロドリゴはその不吉な色に眉根を寄せた。(本当に大丈夫なのだろうか?)という、彼の不安をコピーしたような顔を、家族の全員が浮かべているのがはっきりわかる。まるで、毒でも調合されたとでも思っているかのようだ。
「この薬の原料は、竜血樹の樹液から採取したものです」
仕方ないと思い、ギベルネスはそう言った。不思議なことに『そんな証拠など、一体どこにある!?』といったような疑問は誰からも投げかけられなかった。ギベルネスは血を吐いたのであろう痕の残る枕からローリーのことを抱え起こすと、彼のことをしっかり抱いたまま、水飲みを口許まで持っていった。
「少しずつでいいですよ……いきなりいっぺんにすべて、というよりも、何度かに分けてで構いません。ゆっくり無理せず飲んでください」
ローリーは一度だけ噎せ込んだが、残りはすんなりすべてごくごく飲み干していった。それから最後に「はあっ」と、苦し気とも、満足気にも聞こえるような吐息のあと、再び枕に頭を就けた。今度は「ふーっ」と、肺の奥深くから空気を吐きだすような溜息を着いている。
「先生、ぼく、眠いの……寝てもいい?」
「ええ。もちろんそのほうがいいです。むしろ、薬の効いてきた証拠ですからね」
ギベルネスは自分がとんでもないペテン師になったような気分だった。(こんなもの、本当に効くのか?)と思っているのは、誰より彼自身であるにも関わらず――それでもギベルネスは(いや)と、唯一自分を肯定できることがあるにはあった。とにかく、あんないい加減としか思えぬ瀉血法に頼るよりは、プラシーボ効果があるやもしれぬ薬に頼ったほうがまだしもマシだということである。
ローリーは一度瞳を閉じると、すーっとどこか遠く、夢の世界にでも吸い込まれるように眠りに落ちていった。呼吸音のほうも静かであり、脈のほうも落ち着いていた。ロドリゴ伯爵から許可を得ると、心臓と肺の音を聴いてもみたが、その間もやはりローリーは目覚めるような気配を一切見せなかったものである。
「大丈夫ですよ。みなさん、まだ朝食のほうもまだなのでしょう?ローリー君には私がついていますし……ご心配なく、まずは食事のほうをお済ませになってください」
「ギベルネ先生、心から感謝致します……!!」
ロドリゴ伯爵はギベルネスの肩に額をつけると、そのように感謝の言葉を述べ、一度息子の寝室から出ていった。彼は城主として、今は客人が宿泊中ということもあり、執事や従者らと朝から話し合うべきことがたくさんあったからである。部屋のほうには結局、ローリエ夫人と五人の娘たち全員が残った。ロキルスとロマンドは「ローリー、本当に大丈夫なんだよね?」と確認し、それぞれの部屋のほうへ一度戻っていった。可愛い弟が、発作が過ぎ去った時いつもそうであるように、長い眠りに就いたように思われたからである。
だが、そのことを知らなかったギベルネスはある意味不幸であった。というのも、具体的に自分が何を患者に飲ませたのか、正確にその成分について何も知らぬ彼は、俄かに心配になってきたわけである。(このままもしローリーが目を覚まさなかったら?)ということもそうであるし、次にもし重篤な発作が起きた場合、自分には瀉血法に勝るような治療法を何も提示できないからでもあった。
「ギベルネ先生も少し、お休みになってはいかがかしら……?」
娘たちが交代で出たり入ったりするにも関わらず、ギベルネスが変わらず、犬の相手をしつつベッドの傍らに居るのを見かねて、ローリエが気遣わしげに言った。彼は夫人の口からローリーの病歴についてあらためて聞き、末の娘のロザリンドが「ねえ、竜血樹の樹液ってことは、先生、アルティマ島まで行ったことがあるの?」といった疑問に答えることになっていた。「いえ、ありません」と、ギベルネスは正直に言った。「ですが、信頼できる薬種商から手に入れたものですから、効果はあるはずです」と、(もしなかったら困る)と思いながら話していたわけである。
他にも、五人の娘たちの好奇心を満たすためだけの質問にも答えていたが、彼女たちはどうやら、ハムレットやタイス、カドールやランスロットに恋人はいるのかどうかなど、随分個人的なことを知りたく思っているようだった。無論、そのようなことを上流階級の女性が食事の席であれどこであれ、訊ねたりするのははしたないことであるとされている。だが、おそらくギベルネスに(余計なことは黙っていてくれそうな人)という雰囲気が備わっていたからであろう、彼女たちは随分不躾なことまで彼に聞いていたものである。
「ごめんなさいね、あの子たちったら……気の許せる男の人との会話というのが楽しいというそれだけなんですわ。貴族同士のパーティや何かだと、つまらないしきたりがあったりなんだりで、結局のところ気取った会話しか出来なかったりしますものね」
「あら、お母さま。お言葉ですけどわたしたち、ハムレットさまやタイスさまのような素敵な殿方と、貴族のパーティで出会ったことなんて一度もありませんことよ」
次女のロマーナがそう言った。五人の娘たちは「ローリーが発作を起こした」と聞かされた時、最初はそれぞれ部屋着の上に軽くガウンを羽織り、急いで末の弟の寝室までやって来た。だが、ギベルネスが薬を飲ませてローリーが深い眠りに就くと、それぞれ交替で着替えたり、髪の毛も梳かすなど、身だしなみのほうを整えてから再び順に戻って来たというわけなのである。
「そうそう!」と、三女のロリアンナ。「わたしたち、難しいことはわからないけど、とにかくこれで内苑州の貴族のどなたかだの、あるいはここロットバルト州の貴族の誰かと――もうそんなに無理して結婚したりとか、そんなこともしなくていいのでしょう?お母さま、わたしたち、あれから色々話したりしていたのよ。もし誰とでも自由に……恋愛したり結婚したりしてもいいのだったら、ハムレットさまやタイスさまがお相手でもいいのかしら、といったようなことをね」
「あなたたちったら……」ローリエは呆れたようでもあったが、同時に悪戯っぽく微笑んでいる様子でもあった。「まあ、気持ちはわからなくもありませんけどね。けれどまあ、ロリアンナ、あなたが憧れていたような家庭教師のサザーランド先生とか、ご無理な方はいらっしゃいますからね。とにかく、暫くの間あなたたちの縁談話のほうはストップするというのは確かですよ」
ここで、長女のロレインと次女のロマーナが「きゃあっ!」と叫んで抱きあい、互いの手のひらを握り合わせて喜んだ。実をいうと彼女たちはふたりとも、内苑州の有力貴族との縁談話が水面下で進んでおり、ほとんど婚約寸前というところまでいっていたからだ。三女のロリアンナはまだ良かった。ここ、ロットバルト州の貴族とそうした話はあったにせよ、それはまず上の姉ふたりが片付いてから――ということになっていたからである。
そして、これから先起きる戦争のことを思うと、ローリエ夫人にしても気が重くなるのであったが、娘たちの行く末のことを思うと心が明るくなるのもまた事実であった。一度内苑州のいずこかの州に嫁いでしまえば、どんなに心配であっても年に数回行き来できるかどうかといったところだったろう。そう思うと、ローリエはほっとした。実際のところ、娘たちと同じように結婚相手の侯爵家の息子たちについては、身分が高いという以外、彼女自身あまり好きになれなかったというのがその理由である。
「ギベルネ先生は、結婚されていないの?」
五女のロザリンドが無邪気にそう聞くと、ギベルネスは「ええ、してませんよ」と、ローリーの脈を取ってからそう答えた。彼は今、ステンレス製のようでもなかった穿刺針のことを思いだし、同じように医療器具を作ることが可能なのではないかと考えているところだった。
「ふう~ん。ねえ、お母さま。わたし、結婚するとしたらギベルネ先生のような人がいいわ。それでね、先生のお医者さんとしてのお仕事を手伝って、あちこちを転々として暮らすのよ!」
「まあ、ロザリー、あなたまで!」と、ローリエはえくぼをへこませて優しく微笑んだ。「でもきっと、先生にはすでに心をお決めになった方がいらっしゃるでしょうよ。それに、あなたもまだ十四だし、一人前の立派なレディになるにはお勉強しなくちゃいけないことがまだたんといっぱいありますものね」
「先生、それ、ほんと?」
(この六人の女性たちは、何故ずっとここにいるのだろう……)ギベルネスはそう思いはじめてさえいたが、何分追い出すことも出来ない。そこで、溜息を着きたいのを堪えつつ、「本当というのは?」と聞き返した。
「心に決めた方がいらっしゃるって、お母さまが言ったこと!!」
「ええと、そうですね……いるといえばいるような………」
「ロザリー!先生を困らせたりしないの」
四女のロスティンが妹の額を指で弾いて言う。
「姉さまたちもよ。カドールさまもランスロットさまも、そりゃとても素敵な方だけれど、今婚約されてる方がいらっしゃらなくても、意中の方がおられるとか、恋人を故郷に残してきたとか、きっと誰かいらっしゃるのじゃなくて?」
「もう、あんたはわたしたちより年下のくせして、現実主義者なんだから!」と、長女のロレインが呆れたように言う。「聖ウルスラ騎士団の騎士さま方も素敵だけれど、ローゼンクランツ騎士団の方々はもっと素敵な印象だわ。我がロットバルト騎士団だって、騎士としての風格や腕前といった点では負けないでしょうけれど、女性のことに関していえばあまりいい噂を聞かないものね。騎士団長のヴィヴィアン・ロイスにしてからが、女癖が悪いって評判なのですもの」
「色男だし、颯爽としていて格好いいことは認めるけれど」と、次女のロマーナ。「わたし、どちらかというと同じ騎士でも妹のブランカ・ロイスとなら結婚してもいいわ。そこらの軟弱な男どもなどより、よほど腕が立って頼り甲斐がありますもの」
「ほんと、ほーんと」と、三女のロリアンナ。「でもこのままいくと、わたしたち五人姉妹のうち、誰かがあのヴィヴィアンと婚約するってことになるのよ。何より、威光輝くロットバルト騎士団の騎士団長さまなんですもの。形式的にせよ、そんなふうにしなくちゃいけないってことなんでしょ?」
「そうよねえ」と、四女のロスティン。「わたしも、ブランカみたいに騎士になってたら良かったわ。もちろん、お父さまもお母さまもそんなの、大反対なさったでしょうけど……ギネビアさまのあの凛々しいお姿を見たら、ブランカと同じように女だって騎士になろうと思えば出来るんだって思っちゃう」
「わたし、ギベルネ先生に誰か他に女の人がいるんなら、ギネビアさまとだったら結婚した~いっ!!」
五女のロザリーが最後にそう叫ぶと、「あら、そんなこと言ったらわたしだって」と、ロレインとロマーナがほとんど同時に言い、みな顔を見合わせて笑った。ローリエ夫人は困り顔をして、ギベルネスのほうへ戸惑ったような視線を投げた。(この子たちのこと、許してやってくださいね。ちょっとした冗談ごとなんですのよ)とでもいうように。
そしてこの時、ドアが二度ほどノックされ、「少し、よろしいですか?」という声がした。ハムレットだった。途端、五人姉妹の笑いさざめく声がぴたりとやむ。
「ええ、どうぞ」
そう答えたのは、ローリエ夫人である。ハムレットは後ろにタイスだけを連れ、そっと気遣うように入室した。この時、長女と次女はぱっと顔を赤らめると、「それじゃあ、わたしたちはそろそろ……」と小さな声で囁くように言い、ふたりの男と入れ違いになるようにして退出していった。
(不思議なものだな)と、ギベルネスは妙に感心してしまう。(ふたりとも末の弟が大丈夫そうだとわかるなり、一度部屋へ引っ込み、まずはある程度身だしなみのほうを整えてきた。そしてさらにその後、気合の入ったドレスに着替え、髪型のほうも凝ったものにしてきたのは……今この瞬間のためだったのだろうに、いざ本人が来たとなるなり、すぐさま退散してしまうとは)
ハムレットやタイスと、せめても一言か二言でも話したかったのは、彼女たちの口振りからいっても間違いなさそうだった(ふたりに恋人がいないかどうかと熱心に聞いてきたのは、特に長女のロレインと次女のロマーナだったのだから)。けれど、せっかく彼らのために趣味の良いドレスに着替え、髪型も凝ったものを侍女に編ませたのだろうに――その甲斐もなく、ロレインもロマーナもすぐさまいなくなってしまったのである。
「変なのー!」その点、五女のロザリーは生まれついての天然だった。「お姉ちゃんたち、きのうからハムレットさまがどうこうとか、タイスさまがどうこうとかくっちゃべってた割に、実際にふたりが来たらどっか行っちゃうんだもの」
四女のロスティンが妹の口許をむぐっとばかり押さえつける。けれど、ハムレットもタイスも何も気づかなかった振りで、ギベルネスの隣にそれぞれ座った。
「ローリー君のお加減のほうはどうですか?」と、ハムレット。タイスは目礼ののち、気遣わしげにロットバルト家の末の弟のことをじっと見つめた。
「ギベルネ先生がお薬をくださいましてね」と、ローリエ。「そのあと、ずっと安らかに眠っております。先ほども先生にお伝えしたのですけれど、明らかにいつもとは違いますわ。いつも、大きな発作のあとは眠ってしまうんですけど、それでも自分の咳で起こされたりと、そんなことを繰り返すものですから……本当に、ハムレットさまにはいいお医者さまをご紹介いただいて、どう感謝してよいものやらわかりません」
「先生、ローリーのほうはどうですか?」
(このまま治りそうですか)と、そう聞かれているようにハムレットの眼差しから感じ、ギベルネスは溜息を着きたくなる。
「おそらくは……このままいけば大丈夫でしょう」
ギベルネスは彼自身、自分の言っている言葉が信じられなかった。だが、この場合他にどう答えればいいのかわからなかったのである。無論、再び悪化したとすれば、ギベルネスにしても責任の取りようもない。ぬか喜びさせたこの場にいる全員に対して、詫びる言葉もないという状況へ追い込まれることになるだろう。
「おお、ローリー!ほんとに、本当に……」
ローリエは可愛い息子の手をぎゅっと握りしめると、それを自分の額にまで持っていき、静かに涙を流しはじめた。三女のロリアンナと四女のロスティンも瞳に涙を滲ませていたが、ただ、五女のロザリーだけが「わたし、ギべルネ先生が治してくれるって知ってたもん!!」と、どこか誇らしげに満面笑顔だったものである。
「良かった、ローリー……」
ハムレットもまた、ほっとしたようにロットバルト家の末の弟の手を祈るように握りしめた。ローリーがハムレットと会って話したのち、どんなことを聞かせてくださったか、事細かく嬉しげな報告を受けていた五人の娘たちは――(見目麗しいというだけでなく、心までお優しい方なのだわ)などと、暫くぼうっとしてしまったほどである。
「その、ハムレット王子……実はお話があるのですが………」
ローリー・ロットバルトは熱もなく、呼吸のほうも規則正しく、脈のほうも正常に打っていた。そこで、一時席を外しても大丈夫だろうと、ギベルネスはそう判断したわけだった。
「そうですわ、先生!」と、ローリエはハムレットが何か答える前に言った。「食堂へでも行ってお食事して、少しお休みになってくださいませ。もしローリーが目を覚ましたら、すぐに誰か、従者が知らせるために走りますからね」
「ええ、すみません。そんなに長くかかる話でもありませんし、もし何かあればすぐお知らせください」
ハムレットと一緒に、タイスが側近として当たり前のようについて来たが、暗殺者等が襲ってきた場合、彼には王子の身代わりとなって死ぬ覚悟があるからだとわかっている。ゆえに、ギベルネスは気にしなかった。それに、タイスに聞かれて困るような話でもない。
「ロドリゴ伯爵からも、泣いて感謝されたのですよ」
廊下を並んで歩いてゆきながら、ハムレットは少し困ったような顔をして言った。
「それで、我々はすぐにピンと来たわけです」と、タイス。「きっとあなたが医師として、もっと言うなら<神の人>として、何かしてくださったに違いないと……」
「ハムレット王子、その件に関してなのですが」と、ギベルネスは慎重に言葉を選ぼうとした。三人はハムレットとタイスの居室のほうへ向かう途中だった。「私はこれから……<東王朝>のほうへ向かわねばなりません」
「なんだって!!」
そう叫んだのは、ハムレットとタイス、ほぼ同時だった。廊下を行き来していた侍従や侍女、それに窓のあたりでおしゃべりしていたウルフィンやキリオンが、ほとんど同時にこちらを振り返る。
「い、いや、詳しい話のほうは、部屋のほうで聞こう……」
自分たちの聞き間違いを信じてでもいるように、タイスとハムレットは視線を見交わしている。ギベルネスとしては想定していた反応ではあったが、廊下の端にディオルグの姿を認めた時、ふと不思議にはなった。果たして彼は、『一緒に来て欲しい』とはっきり意思表示しなかったとしても――自ら同行することをハムレット王子に本当に願いでるものだろうか、ということを……。
>>続く。