こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

ピアノと薔薇の日々。-【22】-

2021年05月14日 | ピアノと薔薇の日々。

 

 あ、今回は↓の本文とはまったくなんの関係もない、本の感想です♪

 

 このこと書くのはちょっと恥かしいのですが……実はわたし、萩尾望都先生の代表作である、「ポーの一族」や「トーマの心臓」や「11人いる!」とか……実は読んだことないのです (恥*´艸`) 

 

 でも何故か、その昔、古本屋さんで萩尾望都先生の「思い出を切りぬくとき」というエッセイ本を見かけ、買って読んでいたりするという(すごく面白かったです!)、他の熱烈大ファンの方とは、もしかしたら何かちょっと違った感じかもしれませんww

 

 なんにしても、長くなりますので、本の内容等については密林さんその他のそれを参考にしていただくとして――わたしは萩尾望都先生のこの本の核心的な部分は、漫画家として志しを同じくしていた友人の竹宮惠子先生と、二人の共通のご友人だった増山法恵さんに盗作疑惑をかけられたということだと思いました。

 

 で、ですね。何故そんな50年も昔にあったことが今問題になっているかというと、わたし、まだ竹宮先生のそちらの本は読んでいないのですが(汗)、たぶん竹宮先生の「彼の名はジルベール」という自伝本があって、そちらに自分の嫉妬から萩尾先生にそのようなことをしてしまった……といったことが書かれているようなのです。

 

 以降、萩尾先生の元には「竹宮先生と仲直りしては?」といったことや、対談のお話、あるいは大泉時代のことをドラマ化したい……といったことが舞い込むようになり、そこで、萩尾先生としてはそうした事柄について「一切お断りしたい」といった意向があって、そのためにお書きになった本――ということでした。

 

 当時、竹宮先生と萩尾先生がお住まいになっていた大泉には、たくさんの有望な少女漫画家さんが集っていました。でも最初は、竹宮先生と萩尾先生、それとお二人の共通のご友人である増山さんの三人からはじまった場所のようで、その後、少年愛に強い愛着を持つ増山さんの原案的作品を、竹宮先生が漫画化されたのが『風と木の詩』ということみたいです(すみません。わたし読んだことないので、このことではあれこれ言えません)。

 

 それで、萩尾先生の超有名な代表作『ポーの一族』のエピソードのひとつ、「小鳥の巣」を萩尾先生がお描きになられていた時……その頃にはすでに、萩尾先生は竹宮先生とお住まいを別々にされていたのですが、竹宮先生と増山さんに萩尾先生は呼びだされ――『風と木の詩』との共通点について指摘され、色々言いたいことはあったものの、盗作疑惑をかけられたことがあまりにショックで、はっきり反論も出来ず、ショックを受けて萩尾先生は帰ってこられたそうです。

 

 さらにその後、竹宮先生が萩尾先生の元を訪ねてこられ、「この間あったことは忘れてほしい/なかったことにしてほしい」とおっしゃられたものの、手紙を残していかれたんですね。つまり、「(竹宮先生と増山先生のいる)マンションに来られては困る」、「せっかく別々に暮らしてるのに前より悪くなった」、「書棚の本を読んでほしくない」、「スケッチブックを見てほしくない」、「11月のギムナジウムくらいうまく描かれたら何も言えませんが」……といったことがその手紙には書いてあったそうです。

 

 萩尾先生はあまりにショックで、こののち、心因性の眼の病気になったり、体に蕁麻疹が出たりされたそうです。「前までは仲良くしてもらっていたのに、自分の一体何がいけなかったのだろう?」と悩む萩尾先生。色々とグルグル考えますが、答えは出ません。

 

 このあたりについては、こうした「盗作疑惑」、「才能ある漫画家先生の嫉妬」について、当事者でない本を読む読者のほうがよく理解できる部分があるような気がします。萩尾先生は御自身でもそうおっしゃっているとおり、「嫉妬する」ということが理解できないタイプの天才。一方、竹宮先生は頭がよくて、なんでもテキパキできるタイプの、明るいと同時に優しい性格の方でもある――そんな完璧な人に盗作疑惑をかけられたり、「距離を置きたい」なんて言われたら、しかもその当時、自分よりも「人気売れっ子漫画家」として上をいっているように感じられた竹宮先生が自分に嫉妬しているだなんて、まるで思いつきもしない萩尾先生にとっては……「どうしてこんなことになってしまったのだろう」と、ひたすら自己嫌悪に陥るしかない出来事だったそうです。

 

 ちょっと文字制限に引っかかってしまったので、今回はこのあたりで切り上げるしかなのですが(汗)、また前文に文字数を使えそうな回がまわってきたら、この続きについて書いてみたいと思っていますm(_ _)m

 

 でも、本を読んでとにかく、前までも好きだったとはいえ、前以上にもっとずっととってもすっっごく、萩尾望都先生のことが大・大・大好きになりました!!

 

 それではまた~!!

 

 

       ピアノと薔薇の日々。-【22】-

 

 けれどその後、レオンのほうで計画的にマキにホラー映画を見せたということではなく――彼女の同意を得て、レオンの望みの叶う日が、ほどなくしてやって来た。君貴がロスへの機上の人となってから三週間ほどは、前と同じ日々の繰り返しといったところだった。と言っても、きのうやおとついをコピー&ペーストしたような今日という日の繰り返し……ということではなく、その頃の貴史の成長には目覚しいものがあったといえる。『はっぱ』とか『パパ』と言った翌日には、『ママ』とか『まんま』と言うようになった彼は、レオンがおもちゃのラッパを鳴らすのを聞いて、今度は『らっぱ』という言葉を発したり、おもちゃのピアノをばんばん鳴らしては、「きっとこの子は将来天才ピアニストになるぞ!」とレオンに言わしめたり……あるいは、貴文がハイハイする様子をレオンが飽きもせずえんえんとホームビデオに収める姿を見て――マキの良心は疼いた。

 

 君貴であればおそらく、「良心じゃなくて子宮が疼いたの間違いだろ?」としか言わなかったかもしれない。ただ、レオンが完全に自分の同意を得るまでは<待つ>という徹底した紳士的態度を取ったことで……マキは、この状態がこの先も続くのかと思うとつらくなったのだ。禁欲的な生活が、ではなく、完璧な専業主夫にも等しいレオンの優しさをひたすら受け容れるだけで、彼の望みについては一切無視し続けるというそのことが。

 

 もっともマキは知らない。レオンのほうでは、彼女が時折罪悪感に苦しむような顔つきをするのを当然承知しており、(よしよし、きっとあともう一押しだ)などと、ルンルン気分で待っていたということなどは。

 

 きっかけは、マキが体調を崩して仕事を一日だけ休んだ日のことだった。朝起きた時から体がだるく、ふらついて起きてきた彼女に対し、レオンはいつも通り――いや、いつも以上に優しかった。結局、マキはレオンに甘え、薬を飲んでベッドへ横になっていることにしたのだが……美味しいおかゆや卵焼きを作ってくれたり、隣の部屋から「ああ~ん。ああ~ん」と泣く貴史をあやす彼の英語の子守唄を聞くにつけ、マキはなんだか涙が出てきた。

 

(レオンがいなかったらわたし、今どうしてたかしら。この程度だったらやっぱり、無理してでも会社に行ってたわよね。それに、この三か月くらいの間、本当に楽しかった。ほんとに、神さまがわたしに天使を遣わしてくださって、楽をさせてくださったみたいに……レオンがいなくなるのはつらいわ。でも、今のままでずっといるのも、わたしにとってはつらいことだもの。何より、時々レオンが意味ありげにわたしのことを見るのに、それを無視し続けるっていうのが……)

 

 そのことを思うと、マキは自分がずるくて卑怯な人間で、ただレオンのことを都合よく専業主夫として利用しているだけではないかという気がしてきた。その罪悪感と君貴に対する罪悪感とが、マキの中ではせめぎあい続けていたものの――レオンが去っていくのを覚悟の上で彼の望みを叶えたところで何になるのだろう、とはマキにはあまり思えなくなっていた。むしろ、それでレオンがようやく納得してここを出ていくとのだとしたら、それが彼にとっては時間を最小限無駄にせずに済むことなのではないだろうか?そして、そうなれば自分は君貴のことも同時に失うことになる……マキは何よりそのことを怖れていたが、善意の天使にこのまま何も与えずこき使い続けることに対しても――激しいジレンマを感じていたのである。

 

 この日、レオンは貴史が眠ってしまうと、マキの様子を見にきたわけだが、夕食を作る前に彼女の部屋へ行ってみると――マキがベッドに横になったまま、涙を流しているのに気づいた。

 

「どうしたの、マキ?もしかして君貴のこと?」

 

「ううん、違うわ。あなたのことよ、レオン……」

 

 この時レオンはてっきり、自分の不幸な過去のことでも思って、マキが涙を流しているのかと思った。それで、ベッドの上に体を起こしたマキの隣に座ると、ぎゅっと彼女の腰のあたりを抱き、自分のほうへ寄りかからせた。

 

「いいんだよ、僕のことなんてべつに……それより、体の調子はどう?僕もね、だんだんに君貴の言ってた言葉の意味がわかってきたよ。週六日も働かせて、有給休暇もないだなんて――確かに事業主はヤクザのブラック企業としか思えないよ。もちろん、マキが仕事を辞めたくない気持ちもわかるし、だからどうしたらいいかはわからないけど……」

 

「違うわ、レオン。ただわたし、自分のことをなんてひどい人間なんだろうって思ってたの」

 

 マキが何を言わんとしているのか、レオンにはすぐピンと来なかった。勘の鋭い彼にしては、珍しいことである。

 

「そんなことないよ。マキは善い人間だよ。僕はね、マキには心か広くて優しい人間に見えるかもしれない。でもそれは結局、マキがそういう人間だからだよ。逆に僕は、僕のことを利用しようとしてきたり、なんらかの形で搾取しようとしてくるような奴には敏感だからね。一応、表面上はニコニコして、社会的な礼節は守っていたにしても――なんらかの形でうまく意趣返ししてやろうとは絶対に思う。でも、こんなに優しくて穏やかな気持ちでずっといられたのは、今が初めてだ。僕ってこんな人間だったっけって、時々自分でも思っちゃうくらい。僕はね、君貴に対してもこんなに優しくはなかったよ。なんでって、あいつは男と一夜限りとはいえ遊んだりだの、そんなことをしては僕のことを苦しめてきたからさ。でも、そんなことにも慣れて、あいつにとってほんとにそれはただの『遊び(ゲーム)』なんだってわかってからは……まあ、僕だけ特別で、他の男とは本当にただのお遊びなんだって割り切ることにした。だけど、そこに来て今度は女が相手だっていうんだから――そんなの、僕が怒って当たり前のことじゃないか」

 

「そうよね。本当にわたし、なんて言ったらいいか……」

 

 ぐすっと鼻をすするマキに、レオンはティッシュを差し出した。(マキは泣いていてすらセクシーだ)と、彼は思っていた。

 

「べつに、マキは何も悪くないよ。それに今は、結局のところ何もかもこれで良かったんだ。君貴の奴、マキとつきあいはじめた最初の頃、こう言ってたことがある。『自分にとってこのことがどういう意味を持つのか見極めたい』って。その時僕が思ったのはね、相手の女性が君貴がのちにゲイだとわかったらどうするのかってことだった。そんなふうにその子のことも僕のことも傷つけて、あいつだけがいい思いをするのか――なんて、思ったりもした。まあ、でも今はね、わかるんだ。僕だって、酔っ払ってもしマキとそんな関係になったとして……そしたらやっぱり思うと思う。自分は女性は駄目だと思ってたけど、本当にそうなのかとか、色々ね。もっとも、君貴の場合はもともとは異性愛者だったわけだから、なんの不思議もない。その上、子供まで出来たら――言ってやりたくなるよね。『これがおまえが最初に言ってた、どういう意味を持っているかの意味ってやつなんじゃないの』って。それなのに、子供が出来たら今度は『ガキなんか嫌いだ』だって!?ほんと、信じられないよ。その上、貴史はあんなに可愛いっていうのに……」

 

「レオン、わたし、もういいわ……」

 

 マキは目尻の涙をティッシュで拭うと、それをぽいと屑篭に捨ててそう言った。

 

「ええっ!?何がいいのさ。君貴の奴はほんとにわかってないよ。もし僕が今ここにこうして来てなかったら、あいつはほんとにマキと貴史のことをほっぽっておくつもりだったんだ。こんなタワマンの最上階を与える程度のことで、父親として何かした気にでもなってるんだかどうなんだか……」

 

 いつもは驚くほど勘のいいレオンが、さっぱりわかってないらしいとわかり、マキは彼の首に両手で抱きつき――そして、自分からかなり強引にキスした。レオンにも、今度ばかりは流石に意味が通じたようだった。

 

「マキ……嬉しいけど、急にどうしたの?」

 

「急にってわけじゃないわ。前からずっと考えてはいたの。でも結局、レオンほど才能のある人をここにこのまま縛りつけておくのも心苦しいし、あなたがわたしにがっかりすることはわかりきってるけど……レオンほどの人にただの専業主夫でい続けてもらうっていうのも、やっぱりそれはそれでつらいのよ。それで、そうしたほうがむしろ、あなたにとって自由になる時の来るのが早まるんじゃないかってことに、最近気づいたの」

 

「そっか。じゃ、べつに僕の男としての魅力にめろめろだとかって理由じゃないんだね。それは残念だけど、別の意味では嬉しいよ。というより、最初の動機なんてなんでもいいんだ。僕は女性に対してこんな気持ちになったのは生まれて初めてだから……僕の童貞をマキがもらってくれるとしたら、すごく嬉しい」

 

「ううん。わたしはもうずっと前からあなたにめろめろよ。それに、相手がわたしじゃなくても、レオンの童貞を欲しがる女の人は、軽く五百メートルは行列が出来るくらいいるんじゃないかしら」

 

(やられた!)と思ったレオンは、このあとかなり激しくマキにキスし、彼女のほうでも彼の情熱に応えてくれた。レオンは、この機会を逃してしまい、一時間も時が経過したら、またマキの気が変わってしまうのではないかと怖れるあまり――発情期のライオンが激しく雌ライオンに襲いかかる時のように、そのままマキのことをベッドの上へ押し倒していた。

 

 この時、マキが心の奥深くで怖れていたことは起きなかったし、そして同時にレオンが怖れていたことも起きなかった。つまりは、彼は心の望みのものを手に入れ、マキのほうではただ、レオンの情熱的な愛撫に身を任せていればよかったのである。

 

「嬉しい……マキ。たぶん、僕のほうでマキのことを愛しすぎてて、好きすぎるせいだね。こんなにセックスがいいものだなんて思ったこと、僕はなかった気がする」

 

「君貴さんのことは別でしょ?いいのよ、わたしにそんなに気を遣わなくて……」

 

 情事のあとも、レオンはマキの肩やら背中やら、あちこちにキスし続けるのをやめないくらいだった。マキのほうでは、君貴がどうこういうより以前に、今はただ恥かしい気持ちのほうが勝っていたといえる。ある意味、君貴に初めて抱かれて処女を喪ったあの夜よりも……まったくの素面であるレオンに「愛してる」とか「本当に好きなんだ、マキ」といったように何度も囁かれつつ、心のこもった優しい愛撫を受け続けることのほうが――まったく別の意味で耐えがたかったかもしれない。

 

(たぶんきっと、こういう時のためにお酒の力っていうのは必要なのよ。そしたら、なんとなく色々なことを誤魔化せるから……)

 

 けれど、そう思うのと同時に、レオンの純粋な気持ちがマキは嬉しくもあった。お互いに、そのことをはっきり口にしたわけではなかったものの、ふたりの間で君貴のことは問題にならなかった。レオンはレオンで、彼のことをマキとはまた別の心の領域で深く愛し、それは彼女にしてもまったく同じなのだということが――ふたりにとっては、わかりすぎるほど理解できることだったからである。

 

「気なんかまるで遣ってないよ」

 

 レオンは十代の少年が、年上の恋人に対し腹を立てる時のように怒って言った。

 

「でも、もしかしたらその『わかってない』っていうことが、マキのいいところなのかもしれないね。そもそも、マキはたぶんヨーロッパやアメリカあたりでのほうが、絶対もてると思うな。なんだっけ。君貴も言ってたことがある。日本の男は『カワイイ文化』にやられてるとかって話。そしたら、カールもそうだって言ってたよ。本当の意味で自分より知的で教養があったりすると、そんな女は脅威だし、ましてや背が自分より高かったり、レスリングなんかやってたらまったくもって論外だというような、ある種の傾向だね。君貴曰く、それは深層心理における支配欲の問題だってことだった。日本ではね、いわゆる<人間はわかりあえる>っていう性善説が信じられてるけど、欧米人は逆なんだよ。<我々はわかりあえない>、<でもだからこそ、わかりあう努力をしなければいけない>っていうね。だけど、その恋愛論でいくとどうなる?可愛くて自分にとってわかりやすい、支配しやすい女と結婚したいってことになるんじゃないのか……っていうような話」

 

「君貴さんらしい分析ねえ」

 

 マキはそう言って笑った。お互い、情事のあとでさえ、君貴の名前が邪魔になるようなことはこれから先もないだろうというのは――マキにとっても少し、不思議な感じのすることだった。

 

「まあ、確かに君貴さんは195センチあってわたしよりも背が高いし、レオンだって185センチもあるんだものね。テレビとか、DVDの映像で見てた時はわたし、レオンってそんなに背が高いと感じてなかったんだけど……そういえば、ラフマニノフは身長が二メートル近くもあったんだっけ。手も大きかったから、ドから一オクターブ上のソまで左手で押さえることが出来たとかって……」

 

「羨ましい話だよね。ピアノ協奏曲の第2番の最初のほう、僕もちょっと指が届かないから、そのあたりは誤魔化すしかないんだよ。リストも指が長くて、12度の音程を軽々押さえることが出来たってことだけど、でもリストの場合は小さい頃から指を伸ばす訓練をしてたってことだからねえ。天与の恵まれた体の条件と、幼少時からの訓練と……なんにしても、ピアニストっていうのは恐ろしい生き物だよ。なんの保障も保険もなく、たったこの十本の指だけを頼りに生きていくだなんて、僕には気違い沙汰のようにしか今も思われないね」

 

 マキはここでくるりと振り返ると、レオンのことを抱きしめた。リスト以降、彼のようなピアニストは決して生まれないということだったが、コンサート中やコンサート後に女性が失神するなど、彼はフランツ・リストの再来ではないかと、以前はよく騒がれていたものである。

 

「本当に、綺麗な手……むしろ、女のわたしの手のほうが、よっぽど無骨でみっともないわ。ピアニストをやめるんだったら、手タレになるっていう手もレオンにはあるんじゃない?」

 

「僕は、マキの手がすごく好きだよ」

 

 そう言って、レオンは握りしめたマキの手に何度もキスした。

 

「なんでかわかんないけど、僕は苦労してるってわかる女の人の手のほうがずっと好きだ。皺ひとつなくて、マニキュアを塗ってるみたいな感じの人の手よりもね。そういえば、君貴は12度ギリギリ届くんだよ。ほんと、あいつこそピアニストになるべきだったんじゃないかな。もっとも、君貴に言わせると、この世で一番尊いのはピアニストの指じゃなくて、外科医の指ってことらしいけど。何しろ、人の命を救う手だものな」

 

「なんとも君貴さんらしい言い種ね」

 

 このあと、マキとレオンはお互い、ほぼ同時に同じ調子で笑いだしていた。

 

「僕たち、あいつのこと以外話すことないのかな」

 

「ほんとよね。せっかくレオンがこんなにロマンティックに抱いてくれたのに……わたしたち、絶対おかしいわよね」

 

 この時、隣から貴史の泣く声が聞こえて、マキはベッドから抜けだそうとした。下着は身に着けず、ただワンピースを頭から被って着る。

 

「僕がいくよ」

 

「いいのよ。わたし、今日ずっと寝てたんですもの。薬を飲んだのと、レオンの愛ですっかり元気になったわ。だから、今度はあなたが休んでて」

 

 チュッと頬にキスされて、レオンはすっかりダウンしたようにもう一度枕に頭を着けた。枕からは、マキ愛用のネロリの精油シャンプーと、ユーカリのサシェの香りがする。レオンは今、幸せだった。なんにしても、一度目の緊張の頂点を越え……お互いの愛情を確かめあえたことが、彼にとって何より嬉しくてならないことだった。

 

 そして、この日この時、この瞬間から――マキとレオンはほとんど新婚生活を送る夫婦にも等しく、毎日意味もなくベタベタしては甘い言葉をレオンが囁き、しょっちゅうキスばかりするような関係性になった。とはいえ、ふたりの間で君貴のことはよく話題に上ったし、彼が再び仕事の忙しさの合間を縫って東京へやって来てくれることは……彼らにとってまるで気まずいことではなく、むしろ心待ちにしているような出来事だったといえる。

 

『あっ、君貴?今、電話とかして大丈夫?』

 

「ああ。ちょうど今、会議が終わったところだ。ニューヨークの事務所の自分の部屋だよ。だから、まあ暫くの間なら大丈夫だ」

 

 ニューヨーク、と聞いて、レオンは何故か胸の奥が疼いた。君貴がニューヨークにいる時は、自分も出来る限りスケジュールを合わせ、自分のペントハウスか彼の部屋で会うのが慣例だったというのに……。

 

『僕さ、マキと寝た』

 

「そうか。俺のほうでは報告御苦労とでも言えばいいのか?」

 

 君貴の声は、レオンの耳にどこか、愉快そうな響きをもって聞こえた。むしろ、そうなるのが当然だろう、とでもいうような。

 

「どうした?まさか、俺がそう聞いて不機嫌になるとでも思ったわけじゃあるまい?」

 

『う、うん……そりゃそうなんだけどさ。もう今僕たち、ベッタベタの甘々な関係なんだ。信じられる?僕は自分は一生、女性となんて寝ることはないって思ってたのに……』

 

「たぶんおまえは、カールやモリスみたいに、最初から男以外は恋愛対象じゃないっていうタイプのゲイってわけじゃなかったんだろうな。自分でも異性愛者なのか、それとも同性愛者なのかもわからないうちから――男のほうにそういう性向へ持っていかれたというだけのことだったんじゃないか?」

 

『だから僕もさ、正直今もびっくりしてる。というか、君貴に対しても驚いてる。こんな言い方したら、おまえは笑うだろうけど……今や僕にとってマキは性の女神なんだ。彼女、たまに「何もわたしじゃなくても、女なら他にも」どうこうって言ったりすることがあるんだけど――他の女性にまで幅を広げてどうこうなんてまるっきり考えられないくらい、僕はマキのことが本当に好きなんだ』

 

 君貴は無言で頷いた。なんというのだろう、レオンとマキは身持ちが堅いという意味で、真面目なところがよく似ていた。彼は君貴の度重なる浮気にも関わらず、自分も同じように苦しめてやろうなどとはせず、ただ嫉妬の情と怒りだけを向けてきたものだった。

 

「性の女神か」

 

 そう言って君貴はあえて茶化した。

 

「そういやレオン、マキの部屋にあるゲイに関する本なんかを読んだと言ってたよな?俺も二冊くらい読んだが、その本におまえにそっくりな男が出てくるのに気づかなかったか?」

 

『どういう意味?』

 

 レオンのほうでも、まったく不機嫌になることなく、むしろ面白がっているような口調で聞いた。彼らの間でも、同じ女性をシェアする結果になったからといって――前まであった恋人同士の親しみが薄れるようなことはまったくなかったといえる。

 

「つまりさ、ゲイの男の人生パターンとして……誰かひとりくらい、大体いる場合が多いんだよ。『彼女となら、自分はいいパートナーになれるんじゃないか』みたいな相手がさ。何分、昔はゲイといえば精神異常者の烙印を社会から押されて終わりという存在だったから、俺たちより一世代くらい前のゲイ連中というのは社会から抹殺されぬよう、自分の性向についてはひた隠しに隠さなければならなかった。だから、必死で探すからなのかどうか、ひとりくらいは誰かそうした相手が見つかって、結婚したりする場合も多い。だがまあ、本人の性向はもともとゲイなのを誤魔化してるわけだから、女性のほうで物足りなくなって浮気するとか、今度は何かそうした問題が出てくるわけだ」

 

『…………………』

 

 レオンは一度黙り込んだ。彼はもしかして、自分もそうだと言いたいのだろうか?

 

「ああ、誤解するなよ。そういう意味じゃない。レオンとマキの間にもそうした問題が出てくるだろうなんて俺は言ってるんじゃない。むしろ、貴史っていう赤ん坊を挟んで、お互い生活の垢にまみれた姿を見せあってるっていうのに……セックスだけはなしだなんて、俺は絶対ありえないと思ってた。ただ、ゲイであることを隠したり誤魔化したりしてる奴が社会的体面もあって女性と交際した場合、そんな中で見つかった結婚相手っていうのは、ほとんど救世主だってことなんだ。その救いの女神って部分と、レオンの言う性の女神っていうのが似通ってるって言いたかっただけさ」

 

『だからさ、僕が言いたかったのは――つまりはこういうことだよ。おまえ、よく我慢できるねってことを僕は言いたかったわけ。そりゃ、妊娠中は仕方ないよ。だけど、僕が君貴の立場だったら、赤ん坊が生まれた翌日には襲いかかってるかもなって思ったもんだからさ』

 

「例の膣締め体操とやらは、効果絶大だったらしいな」

 

 そう言って君貴は笑った。

 

「まあ、簡単にいえば、俺の場合は貴史が生まれたことで、性の女神の『性』って部分がなくなって、マキはただの母性あふれる女神になってしまったわけだ。確かに俺は、出産直前のマキにつきそって、子宮から子供の頭が出てくるところを見たってわけじゃない。だが、マキが貴史のことを抱いて授乳してるところを見て以来……何かこう、手を合わせて拝みたいような、神聖な気持ちになっちまったんだよ。あんなに神々しくて美しいと感じる何かを、自分がいつか女から与えられようとは思ってなかっただけにな」

 

 今度はレオンが笑う番だった。

 

『そっか、なるほどな。だんだんわかってきた……あのさ、むしろ逆に今度は僕がおまえに言いたいよ。マキの持ってたゲイ関連の本には、おまえにそっくりな男が出てくるからね。ほら、妻とは正常位でしか寝たことがないっていうのに、金で買った男娼に対してはありとあらゆる破廉恥な行為を行えるってタイプの男さ』

 

(やられた!)と思い、君貴は愉快そうに大きな声で笑った。

 

「確かにな。その言葉だけで俺にも、レオンが何を言いたいのかが説明されなくてもよくわかるよ」

 

『もちろん、僕だっておまえと同じく、変な意味で言ってるんじゃない。ただ、マキとの関係において君貴は、自分にもこんなに純粋な部分が残ってたのかというくらい……極紳士的に接したってことなんだろうなって思った。そのことは彼女のことを抱いててすぐわかったよ。それに、マキはいちいち反応が可愛いから、それだけでも男として愉しめるってこともよくわかる。だけど、おまえのためも考えて、少し調教しておいた』

 

「調教って、おまえ……」

 

 君貴とレオンはともにふたりとも、SM好きだった。だが、君貴のほうではそうした性向が自分にあるということを、マキに見せたことはほとんどない。

 

『大丈夫だよ。次にもしうちへ来ることがあったら――うちなんて言っても、もちろんおまえが買ったうちって意味だけど、マキとデートがてらホテルにでも行ってきなよ。前にも言ったとおり、貴史のことは僕が見てるし、何も問題ない。僕たち三人の間ではね』

 

「…………………」

 

 君貴が黙り込んだままでいるので、レオンは言葉が足りなかったかと思い、重ねて言った。

 

『むしろ僕は、感動したよ。君貴がまさかそんなにマキのことを大切にしてたとは思わなかったし……つまり、おまえの中では汚い性欲処理なんてことは、世界中の、そうしたゲイの溜まり場にいる男にでもさせていたらいいのであって――女性が相手ってことになると、むしろちょっと畏まっちゃうってことなんじゃないの?まあ、マキは確かにもう子供もいて、そういう意味では処女じゃなかったにしても……精神的にはヴァージンっぽいんだよね。そこがまたマキの可愛いところではあるにしても、そういえばマキ、変なこと言ってたよ。僕と君貴が今後とも、そういう関係であったとしても自分は気にしないって。というのもさ、そもそもマキには男同士が愛しあうっていうのがどういうことか、あまり具体的に想像できないらしい。だから、男色行為のことを肛門交接者のまぐわいといったようには考えないで、『竜の舞踏』だのって考えるんだね。マキ曰く、『世界の果てで二匹の竜が求愛の舞踏を演じていても、たまに地震を感じるくらいしか、わたしには理解できないと思う』ってことだったんだ。でね、それがマキが僕らの関係を気にしないってことの理由らしいよ』

 

「なるほどな。まあ、なんともマキらしい意見ではある」

 

 君貴はこの時、少しばかり感心した。いや、マキはもともと自分のわからないことについてはそんなふうに理解する傾向が強いとはわかっていた。だが、他に比喩もあろうに、ゲイ同士のセックスを『竜の舞踏』とは!

 

『マキって面白いし、ほんと可愛いよね。マキの勤めてる花屋って結構変人が多いなって僕は聞いてて思うんだけど……彼女が人の悪口を言ってるのを僕、ほとんど聞いたことがないよ。でね、君貴が言ってたマキが清らかだなんだのって話、今ならよくわかる気がする。どういうことかっていうと、マキと一緒にいると、自分の性格の汚いところなんかが浄化されてくっていうのかな。なんかそういう作用があるみたいなんだ。僕、これからもマキと一緒にいる限り、いい人間でいられるんじゃないかって時々錯覚しちゃうくらいなんだよ。もちろん、この場所から一歩外に出たら、世間様の汚いものとも色々対応しなきゃいけないし、そしたら僕の性格の嫌なところとか悪いところなんていくらでも出てくるのはわかりきってる。だけど、またここへ戻ってきてマキと過ごせば……『ああ、そうだ。こんなことじゃいけないんだった』みたいになれると思うんだ』

 

「なるほどな。もうおまえもすっかり、マキ教の信者か」

 

 君貴は軽い調子でそう言ったが、どうやらレオンが相当重度の信者らしいことはわかっていた。微かに胸の奥に痛みを覚えるものの、彼との交際中、自分は不実な恋人であったわけだし、一度はマキのことよりもレオンを選んだ自分が――ふたりの関係性についてとやこう言っていいことではない。

 

『そうだね。ただ困ったことにはさ……そろそろ僕、例のチャリティ・コンサートがあるもんで、ピアノの練習しなきゃならないんだよ。曲目のほうは自分の好きなのっていうか、特に得意なのを選べばいいとしても――ダメなんだよな、僕。とにかくコンサートの前はそれがチャリティでもなんでも、自分が納得出来るまで練習しきらないと人前に出る気になんてなれない。もちろん、そのことで不機嫌になってマキや貴史に当たるってことはないにしても……マキは仕事で疲れて帰ってくるし、僕はその日によるにしても、トータルで一日八時間ピアノを弾くってこともあるから。まあ、間に食事含め休みは当然挟むけど、そういう時間の過ごし方をしてからじゃないと、コンサート会場へ向かう気持ちにはとてもなれない。それでね、君貴。僕の望みとしては……その間もマキにずっとそばにいて欲しいんだ。練習してる間も、ちょっと隣の部屋にいけばマキと貴史がいるっていうのが理想。それで、出来ればコンサート会場にもついて来て欲しいんだ。でもやっぱりこれって、ただの僕の我が儘だよね?』

 

「難しいところだな。マキは有給休暇もろくに取れないヤクザな会社にやたら固執してるところがあるから……それに、公の場で貴史を連れてレオンのそばにいるっていうのも、おそらく遠慮しようとするだろう。何より、おまえに迷惑がかかるんじゃないかっていう心配の気持ちからな。だが、言うだけのことはマキに言ってみてもいいんじゃないか?片時も離れていたくないから、そばにいて欲しいみたいに」

 

『言えないよ、そんなこと!!』

 

 レオンが重い溜息を着いているらしいと知り、君貴は少しばかり驚いた。彼はどこまでも本気なのだと思った。

 

『ううん。言うだけ言うってことなら簡単だけど、とにかく僕はね、マキのことを悩ませたくないんだよ。それに、確かにそりゃそうだよね。僕、マキのそばにいて意味ありげにベタベタしないでいる自信ないっていうか、マスコミの目があるからちょっと距離を置いて冷たくしようとか、そんなこと絶対出来ない。だけど、それじゃどうしよう……とりあえずさ、マキには仕事があって、僕はピアノの練習しなきゃなんないって間、貴史のことはマキの会社の専務の娘か、それが無理だったら託児所へ預けて迎えにいくってことになると思うんだ。だけど僕、ほんとはそんなことも嫌なんだよ。自分の目のない間、貴史が何か少しでも嫌な思いしてないかとか、そんなことも心配だし』

 

「貴史は一応俺とマキの子なのに、なんか悪いな。よく考えたら、今レオンが悩んだりしてることは、本来なら俺が悩まねばならんことなのにな。それで、チャリティ・コンサートの日時のほうは?」

 

 この段に来て、君貴も流石に良心が痛んできた。正直、レオンが時々自分の息子の写真や映像を送ってくれることで――そんなにレオンが可愛がってくれるのなら、俺はもう父親卒業だな……などと、呑気に構えていたところが彼にはある。とはいえ、仮に日本へ飛んで帰れたところで、君貴は子育ての即戦力にはなれない自分をよく知っていた。

 

『ええとね、来月の23日。ヴァイオリニストのヨセフ・ヨヴァンテツィッリとは、こっちが他のチャリティで呼んで来てもらったりしてるから、彼の頼みはどうしても断れない。もちろん、ヨセフがいつもそうあろうとしているように、僕も最高の演奏をしたいと思ってるし……場所のほうがロンドンなんだけど、その頃、おまえヨーロッパあたりになんていたりする?』

 

「そうだな……ちょっと待ってくれ。スケジュールを見てみるから」

 

 いつもなら、すぐに秘書の岡田を呼ぶところだが、君貴は設計途中のプログラムを閉じると、自分のスケジュール表をクリックした。偶然だが、その頃は君貴もロンドンの事務所のほうにいる。

 

「そうだな。その前後、俺は大体ロンドンの自分の事務所にいる予定になってるよ。だが、俺が考えてたのはこういうことなんだ。俺のほうでスケジュールを合わせて日本へ行って……まあ、おまえと違って俺には、自分の息子だというのに面倒を見るだけの能力がない。とはいえ、多少そんなことでもしないことには、おまえにもマキに対しても、何か悪い気がしてきた。どうしたもんだろうな」

 

『君貴がロンドンにいるんなら、絶対会いたいよ。だけど、貴史のことやマキとのノロケ話を聞かせたいってわけじゃないんだ。っていうか、おまえ一度東京の自分の家へ来いよ。そしたら、マキも僕もしょっちゅう君貴のことばっかり話してて、次あいつ、いつここへやって来るんだろう……なんて話してるのが何故なのかがわかる。マキは今もおまえのことを愛してるし、そんなの、僕だってそうだ。だから、僕たち三人の間ではこれからも何も問題ないっていうことは――おまえも直接会えば絶対わかるよ』

 

(本当にそうだろうか?)と、君貴としては疑問だった。マキとレオンがうまくいったのなら、自分はすでに邪魔な不要分子であるようにしか、彼には感じられない。

 

『ほら、確かにおまえは僕に不実だったし、マキのことに関していえば、自分の息子に関心を持てないことで罪悪感を持ってるかもしれない。その結果がこれだ……みたいに思ってるかもしれない。だけど、そうじゃないんだ。僕はもう過去のことをあれこれ持ちだして、おまえのことを遠まわしに刺したりもしない。マキもね、貴史に関心を持てないのはおまえ自身のせいじゃないみたいに言ってるよ。ただ、本当に心から好きな男との間に子供を持てただけで幸せだって。それに、僕だって君貴とマキの子供だと思うからこんなに――目に入れても痛くないってくらい可愛いんだよ。とにかくまあ、また何かあったら事後報告するよ。あと、君貴も東京へ来れそうな時には出来るだけ来てマキと会うようにして欲しい。それと、来月ロンドンにいるんだったら、絶対僕とも会ってよ!!』

 

「ああ。今からじゃおそらく、コンサートのチケットは取れないだろうが……そのあたりについては、いくらでもレオンの都合に合わせるよ。だが、確かに俺とおまえの間で状況のほうは間違いなく変わったな。前までは、こんなふうにスケジュールがお互い合ったりした時には――色々計画立てたりするのがあんなに楽しかったのにな」

 

『僕は今だって、そのことが楽しいし嬉しいよ。それに、君貴に抱かれたいとも思ってる。あと、それはマキも同じだってことの意味、次に会う時までよく考えておくといいよ!!』

 

 ここで、レオンからの電話は切れた。おそらく、電話でなどいくら話したところで、これ以上のことは説明不能だと思ってのことだろう。

 

(間抜けな間男にだけは、なりたくないものですな)

 

 ケン・イリエにそう言われた時、君貴が腹を立てたのは、『間抜けな間男』という点に対してではなかった。だが、今にして思うと彼の言ったことは当たっていたのではないだろうか?

 

 君貴はこの時、設計の仕事の続きをする気になれず、ぬるくなったコーヒーを一口飲むと、回転椅子を窓のほうへ向けた。そこからは、ブラインド越しにマンハッタンの高層ビル群が見える……何故かこの時、君貴はレオンといつだったかした会話のことが突然にして思い出されてきた。場所は、彼のセントラル・パークを見渡すことの出来るペントハウスでのことだったように記憶している。

 

『9.11の時、ワールドトレードセンターに突っ込んだあいつな、女は自分の遺体のチンポコに触れるなって、遺書に書き残してたらしいぞ。やっぱりちょっと、頭のおかしい奴だったんだろう』

 

『あいつって、モハメド・アタのこと?』

 

 その時、9.11が起きてから、相当の年月が経っていたとはいえ……レオンも君貴も、お互い大切な友人を亡くしていたから、その痛みはいくら歳月が経とうとも忘れられるものではなかった。

 

『そうそう、そいつだ。あれからあの犯人どもの経歴や、犯行前の行動についてとか、細かく調査したものを読んだりしたが……ようするにアラブ人……いや、アラブ人とは限らんか。アラブ系の容貌をしたイスラム教徒っていうのは、ヨーロッパやアメリカで理解されない、受け容れてもらえないっていう孤独を抱えるものらしいな。職場でも差別を受けたり、難癖つけられて突然クビにされたり……そしてそんな孤独を感じる彼らも、モスクへ行けば志しを同じくする友と出会えるわけだ。テロ友ってところが、なんとも笑えんところではあるがな』

 

『ねえ、君貴知ってる?おまえがいくつもホテルや高層ビルなんかをデザインしたドバイ……あそこに、世界一高い建物のブルジュ・ハリファってのがあるだろ?あのあたりを支配するアラブ系のイスラム教徒の人たちっていうのは、なんでも『世界一』ってことを強調したがるよね。世界一大きな人工島、世界一広い屋内遊園地、世界一の敷地面積を誇るショッピングセンター……なんでもかんでも世界一だ。でもそれは、そうでもしないと欧米の人たちが自分たちに振り向いてくれないってことへのコンプレックスの現れなんじゃないかな。あのなんでも世界一に拘る姿勢っていうのは』

 

『確かに、レオンの言うことは当たってるよ。あれだけの巨万の富を持ってる人たちでも、金では決して買えもしなければ、手に入れられないものがあるってことなんだろうな。たとえば、俺やカールはフランス人やドイツ人やイギリス人……あるいはユダヤ人なんかの民族的特徴を捉えて悪口を言うのが好きだ。だけどそれは、ある意味彼らに親しみを覚えるからこそ、『イタ野郎はまったく好色だ』だの、『スペ公の奴は手に負えない淫獣だ』だの、笑ってからかえるわけだよ。ところがアラブ人やらペルシャ人ときたらどうだ?政治的なこと以外で俺たちが彼らに触れることはほとんどない。つまりな、少しくらい知ってる奴のことなら、何か冗談として話せるネタもあるが――彼らについてはテロ以外でしゃべるようなことが何もないんだよ。向こうがこっちの欧米諸国のことを驚くほどよく知ってるのとは違って、こっちではあいつらのことをほとんどよく知らないし、興味を持ちもしない……というのが、一番問題なんだろうな』

 

 この時、レオンはリビングのソファで何かの本を読んでおり、君貴はその脇でゴルフのパット練習をしていた。そして、レオンは本を不意に閉じると、突然笑いだしたのだった。

 

『そういやさ、イスラム教では、信者の男たちは死んだらひとりにつき七十二人の処女と交わえるって話じゃないか。だけどそんな天国、僕らゲイにははっきり言って用なしの天国だと思わないか?』

 

『まったくだな』

 

 そう言って君貴も笑った。

 

『確か、ラマダンで断食した日の数と、善行を行った数だけ彼女たちと歓を交えることが出来るんだったか?前々から思ってたんだがな、この場合、女が天国で七十二人の童貞に囲まれていてもちっとも嬉しくないだろうと思うのは、俺の気のせいなんだろうか?もちろん、レオンのような美青年にばかり七十二人も囲まれてたら、そりゃもちろん嬉しいのかもしれないが……』

 

『どうなんだろうねえ。僕が知る限り、イスラム教はどう考えてもおかしい点が多すぎる気がするんだよね。何より、男性が立場的に優位なのは、ユダヤ教でもキリスト教でも同じにしても……さらにそのあとに勃興してきたイスラム教がその傾向が一番ひどいだなんて、どうかしてるとしか思えない。先のふたつの宗教の信者が堕落したから、彼らの神であるアッラーは、最後にマホメットにコーランを与えたわけだろ?自分たちの兄貴分であるユダヤ教とキリスト教についてしっかり勉強さえすれば、自分たちの信じてることがおかしいって気づきそうなもんだけど――それでも僕だって、イスラム圏の国に生まれて、毎日メッカの方角に五度も礼拝する生活だったら、そもそも疑問にも何も感じないんだろうなっていうのは一応わかるんだけどね』

 

『そりゃ、日本でだって同じだ。俺はキリスト教やユダヤ教、イスラム教のみならず、日本の神社仏閣のすべてすらも信じてない。あれはな、生まれた時から家に神棚だの仏壇だのがあって、習慣として拝んだりしてるってだけのしろもんだ。だが、他の国の宗教事情にでも詳しくならない限り、「自分が何を拝んでいるのか」、「それは本当に神なのか」なんて、日本人はこれからも考えすらしないだろう。大体そこにいるのはな、マホメットに啓示を与えたというジブリール(ガブリエル)にも似た霊的存在か、あるいはそれよりも遥かに劣るか弱いかする精霊的存在なんだろうよ。まあ、一応俺も仏教は思想としては優れてると思っているが、とはいえ、仏陀の生涯を偉大と感じはしても、神として崇拝しようとまでは思わんしな』

 

 ――君貴とレオンは、会うたびに色々なことを話した。大抵はお互いの近況から始まることが多かったが、何故今こんな昔に交わした会話が思いだされたのだろう?けれど、レオンとマキがうまくいった今、今までは『当たり前のようにあった』そんな休日の過ごし方もなくなってしまうことになるのだろう。

 

 マキとも、君貴は自分が貴史のことを父親として心から『可愛い』と思えない限り、彼女との間には溝が出来てしまうのではないかと考えていた。ゆえに今、最愛の恋人からも愛人からも遠く引き離されてしまったように感じ、君貴はこれまでの人生であまり感じたことのない<孤独>ということを思った。また、彼は滅多なことで(寂しい)と感じたこともなかったが、やがて陽も暮れゆこうとする夕陽色に染まった高層ビル群が――この日は訳もなく無性に彼の心を虚無感によって締めつけてきた。

 

 イースト・マンハッタンの七十階にオフィスを構えていたところで、それが果たして本当に成功者としての証しなのだろうか?毎日、ただ世界中のあちこちを飛び回って、莫大な金のかかった建築物を巡るあれこれに頭を悩ませるという人生……君貴は仕事をしてさえいれば、大抵の個人的な悩みや苦しみについては忘れられたが、それでも今回受けた心理的ダメージについては、彼をして暫くの間引きずりそうであった。

 

 また、レオンが言っていた言葉を思い返すにつけ、君貴は訳がわからなくもあった。ふたりがうまくいったのならば、自分は当分の間は東京のあの場所へ立ち寄るのは控えることにしよう……彼としてはそのような考えでいたものの、来月レオンがロンドンのほうへ来る前に、一度マキに会っておきたかった。決して、彼女が自分とレオンの間でどのような態度を示すのかを知りたかったからではない。どちらかというと、レオンのいない時にマキとふたりきりで会い、彼女の本当の気持ちを聞いておきたかった。レオンとこの上もなくうまくいっているから、自分がいると気まずい……それがマキの本心なら、君貴としても今後、そのような行動を心がけようと思ってのことである。

 

 そしてこの時、君貴は自分の本心がどこにあるのかに、あらためてはっきり気づいていた。自分はレオンとマキのうち、どちらとの絆も断ち難く、ふたりのうちどちらも失いたくないと思っている、そのことに……。

 

 

 

 >>続く。

 

 

 

 

 


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