宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
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子供はもうたくさんだと想った魂が生まれ変わった時に、子供は授からないのか

2011-07-01 09:48:29 | 祈り
 子供が欲しくない、もう子供はこりごりだと
前生で想ってしまって、そこで生命を終えると
この世の中に出てきた時に子供が出来なく
なると。そういう話を村田さんなんかが言ったり
しているけれども、それは本当にそうなのかと。
 もしそうならば、この世の中で子供が欲しいと
想っている人なんかが、そういう前世との
関わりなんかで、宿命なんかで、出来ないと
いうようなことになってしまうのかという質問が
あったと思いますが。
 まあそこに入る前に、本当に今、子供で苦労
してるお母さんが多いですね。子供の気持ちが
分からなくなっちゃったとかね。それから
これだけ手塩にかけて子供を育てて来たのに
裏切られちゃったとか。何十年育てて来たのに
どうも何か価値観が異なっちゃって親子
でありながら何か意見が合わずに、気持ちが
合わずに悲しい切ない想いをしてるとかですね。
 そういうことが随分私の耳に今も聞こえて
来ますね。昔から何かそれはあるようで。
 そういう苦労というのはおそらく人間が
この世の中に生きていく限り、絶えないん
だろうなあと。そういう苦労を何かの形で
させられるんだろうなあという気も致しますが。
 そこで、前生にそう想わせられてこの世に
出てきた時に、その為に子供を持てなくなる
という人があるかというと、無いことはない
あるんです。それはどういう人があるか
というと、例えば、子供に本当にひどい目に
あって、もう裏切られて裏切られて切ない
想いをして、もう子供なんてものはたくさんだ
もう懲り懲りだ、とんでもないという想いが
出た時、守護霊さんや守護神さん、神様に
神様もう子供は懲り懲りですと申し上げた
時に、向こうの世界では、やっぱり厳正な
審査がある訳です。ただその想いをそのまま
受けとって、ああそうかと子供が出来なくする
訳じゃないんです。その想いが、その人の我、欲
になってないかどうか。子供が出来なくなったら
いいというのは、これも欲の一つなんで、その
欲になってないかどうかね。いわゆる自分の
気持ち感情そのままで訴えてないかどうか。
 そういうことじゃなくて、本当に人間として
辛くなって、これ以上肉体人間として
子供と関わるということがとても辛いと
生きてられない程辛いと。ただし、その時には
その人は、こういうことを想わなきゃいけない
訳ですね。想わせられる訳です。つまり、子供を
与えられることによって苦しみも来るけれども
同時に、子供を与えられることによって、喜びも
慰めも励ましもね、色々なものが来る訳ですよ。
 親が子を持つということはね。そういう望み
希望も一切、将来にわたって私は放棄しますと、
要りませんと。子供の苦労は懲り懲りだけれども
それ以外の苦労ならば私は喜んで致しますと。
 そういう真実の気持ちからの訴えであるならば
向こうの方で色々調べましてね。そして、これは
本当の心から出てる、これ程苦しんだのならば
じゃあ次の世の中は、子供こそ与えないけれども
違うところで人間を見つめ直させようと。
 あるいは、人間の生命(いのち)について
勉強させ直しをしようということになって出て来る
訳なんですね。だから、例えば、我が儘でもって
この人の子供を欲しくないなんて想って産まない
とか、そういう次元で強く想って次の世の中に
という、そういうのじゃないんです。本当に辛い
想いをして、そこで、お願いします、ただし
違うことで役立てて下さいと言って、次の
世の中は違うことをやっていく。そういう人が
やはり何人かはいる訳ですね。
 だけれども、そういう人達はどういう今度
生き方をするかというと、それは様々
ですけれども。例えば、夫婦の間で、他の
子供たちは可愛いのに、自分の御主人との
間の子供はどうしても産みたくないとか。
 そういう風な想いになって出てくる。そして
産みたくないという気持ちと同時に、あるいは
親になりたくない母親になりたくない、父親に
なりたくないという気持ちと同時に、子供が
無いことへの寂しさなり悲しみ、孤独、あるいは
葛藤ですね。そういうものを味わう。そういう
ことによって、子供の生命というもの、人間の
生命というものが何処から来るかとか、それが
無いことがどれ程大変なことかとか、そういう
ことをずっと考えさせられていく訳ですよね。
 そういう形で、神様、守護霊さん守護神さん
というのは、やっぱり学ばせていくんですね。
 そうかそうかで、そっちの方の苦労を
させないよと放りっぱなしにしない訳ね。決して
放りっぱなしにしませんね。
 そして、もう一つ言っとかなきゃいけないのは
我々は前生もあるし前々生もあるし、色々な
もう前々々生もあるんだけれども、霊界から
この世の中に親子になって降りて来る時に
この人が親ですよ、あなたはこの両親の間に
生まれて来るんですよという時に、我々は
素直に向こうから来る時は、はいと言って
そうだと想って降りて来る訳ね。で、それと
同時に記憶が消えるんですね。つまり、そういう
記憶があっちゃあ、この世の中で光明体として
神の器として生きていく、本当の意味で
修行していく為に、そういう記憶は邪魔になって
くる訳ですよ。色んなものがあったら困る。
 だから、ごく少数の人をのぞいてはね、前生に
自分は何してたとか、男であったとか女であった
とか、色んな記憶を消しちゃう。そうして
もちろん霊界からの記憶も消しちゃう。
 だから、我々というのは、何かこうやって
ここに移住してる時には、この今の家族と
両親と兄弟とか、妻とか子供とか夫とか、そういう
関わりの中で、会社にいったり、何か商売したり
とか、そういう今の関わりを絶対のものだと思って
毎日を過ごしてゆくけれども、しかし、本当はそう
じゃない。ずっとその積み重なりがあって、前の
世の中で公務員だった、前の世の中では武士
だった。ずっとある訳ですよ。だけどそれを
消しとかなかったら、邪魔でしょうがないから
消すけれど。本当のこと言えば、この世の中だけの
生命じゃないから、例えば、この世の中で子供が
授からないとしても、それは前生がそうだったから
というんじゃなくって、そういう風に誓いをたてた
人が、子供は授からないけれど、その代わりに
考えさせられる。で、その人は未来永劫子供が
出来ないかというと、そうではない。
 生命というのは、ずっと私が申しております
ように、ずっと続いてまいりますから、その次の
世の中で、やっぱり子供というものはいいもんだな
というか、必要なもんだなと、人類にとってはね。
 子供が出来なきゃ光が絶えてゆく訳ですよ。
 我々は神の光の生命なんだからね。光の一筋
なんだから。その種が絶えるということは光の種が
絶えるということであって、光の種蒔が出来ない
ということなんですね。だから、人類が絶える
ということはあり得ないし、核戦争だとか色々
不安はあるけれども、皆が平和な方向へ平和な
方向へと、今イランやイラクでもそういう風な
方向へ行くでしょう。というのは、やっぱり
この人類の種を根絶やしにしちゃあいけない。その
根絶やしにしちゃあいけないという想いの奥には
我々は神様の分生命(わけいのち)の分霊(わけ
みたま)の神から流れて来た生命なんだから、その
大元の神様のみ心の、大愛一杯のその気持ちを
根絶やしにするなんてことはありえないし、又
出来ないんです。
 だから、その人類的な本能がね、結局それを
くい止めるというところへ働く訳ですよね。だから
子供というものに対して、ただ単に自分の子供が
どうのこうのじゃなくて、人間にとって人類に
とって子供というものは要るんだなという学習を
その人はその人の持ち場で、素直にあるいは
苦しみながら経験する。次の世の中で要らないと
想って生まれ変わって、子供について生命について
学習し終った時に、じゃああらためて、あなたの
子供としてこういう子供が産まれますよというのは
又次の世の中で出て来る訳なんです。
 だから、未来永劫ね、そういう誓いをたてた人に
子供は授からないかというと、そういう訳
じゃない。やはり生命は、その人の子孫は
出てくる訳なんですよ。
 と同時にですね、この人間が生きていくという
ことの中には、様々な苦しみが伴なってく訳
ですよ。例えば、仕事にしろ家庭生活にしろ、結婚
生活にしろすべてのことについて、悩み苦しみが
ある訳なんですよね。つまり、私が先っき
申しましたように、何故人類を根絶やしに
出来ないかといったら、神様の光の生命だから。
 それは事実根絶やしになりようがないし、又
それはしちゃあいけないんです。でも、それは
大目的だけれども、例えば、私達が神様のことを
語る時に、神様というのは愛ですよという
時にですね、何も苦労もしない人が、何の挫折も
悩みも味わって来ない人が、神様は愛ですよと
言ったって、説得力がありますか。説得力
ありませんよ。何にもありませんよ。
 例えば、ここに10人、人がいると
しましょうかね。10人いるとして、仕事が
なくなって明日からどうやって食べて行こうか
明日のお米を買うお金も無いというところまで
追いつめられた人がいるとしますよ。で、それを
迎える神様のことを語る人が、順境で育って来てね
物質も愛情も一杯受けて育って来たその人が
そんなこと言ったって、神様は愛ですと言ったって
説得力が無いことおびただしいじゃありませんか。
 だから、神様の愛というのは、人間の我々
一人一人の、人類一人一人の個性、性格、良い所
とか悪い所とかね、どういう所で苦しんで
どういう生き方を送って、今何がこの人の悲しみ
なのかというのは、皆知ってる訳なんです。知って
いて、それで抱きしめてね、今あなたがこれを
欲しがってるのはよく分かっている、だけど今は
あげられないけれどもといって、泣きながら光を
送っている。それが神様の愛なんですね。だから
そういう神様の愛というのは生半のもんじゃ
なくてね。その生半でない神様の愛を伝える
少なくとも言葉にして伝える時には、何かその人の
人生の中でね、離婚なり別れ、お金が無いこと
だとか、子供を失なったとかね、死別の悲しみ
とか、色々なこの世の中の苦というものを
いくつかですよ、無いにこしたことはない
けれどもね、個人的に言えば、だけど神様の
愛を語る時には、やはり何か一つか二つか
この人生の山を越えて谷を越えて、そうして
自分も塗炭の苦しみを味わってね、もうこんな
神様なんかあるかしらという所から這い上って
きて、それで尚かつ唇から出てきた言葉が、それが
神様という言葉だったと。ね、やっぱり神様、私は
あなたが忘れられませんと。そういう経験を
した人が神様を語る時にはね、やはり説得力が
あるんです。ただ単に、ここにこう書いて
あります。白光のテキストにこう書いて
ありますから。それじゃあどうにもなりません。
 テキストというのはやっぱりテキストなんです。
 私は色々神様のことをやさしく説くというのは
そのやさしくというのはね、話を難かしくする
ことは幾らでも出来るんです。だけど、子供からね
70 80 90になるおじいちゃんおばあちゃん
まで、皆悲しみも苦しみも喜びも持ってますよ。
 そういう心に持ってる人たちに神様の話を
する時に、神様の愛について語る時に、こちらの
そういう心の糧になるようなね、苦しみなどの
財産の一つや二つは、やっぱりなきゃ
うそなんですよ。
 だからね、この世の中から、平和の祈りを
していれば苦しみがなくなってゆく筈なのに、業は
消えてゆく筈なのに、業というものは消えて
いかない。何故なんだろう。業というのは人間が
つくるんです。業というのは神様がつくるんじゃ
ない。業というのは、この肉体をかぶって
生きざるを得ない、この地球世界で生きざるを
得ない肉体人間のね、痛みや辛さや色々な想い
ですよね、そういうものから離れたいと思って
把われないでおこうと思いながら、つい深みに
はまっちゃって、苦しいから助けてという想いで
神様を呼んだりする。それが呼べば呼ぶ程、何か
絡まっちゃって、どうにもならなくなっている。
 こっちから観ていると、みんな離れよう離れよう
と思いながら神様を呼ぶんだけれども、その苦の
中に座り込んで、へたり込んでね、はまり込んで
何か自分からその苦の中へ入ってゆくような、離れ
たいと思いながら実はしがみついてるような姿が
こっちから観るとみえるんですよ。
 そうではないんです。苦というのはやっぱり
離れていかなきゃいけないです。苦は
引き寄せちゃあいけないですよ。業も
引き寄せちゃあいけないんですよ。
 非常に難かしいけれどもね。例えば、杖の話を
しましょうか。杖というのは、足を悪くした
人なんか良く分かると思いますけど。坂道や
自動車なんか来る時あぶないですよね。その
あぶないという時に皆杖にすがっちゃうんですよ。
 すがると全体重をかけちゃって、それで余計に
転んで怪我してあぶなくなっちゃう。左足が
悪かったのに、余計に右足も悪くしたなんて話を
聞きますけど。これは何かというと、あぶない
と思ったら、その苦しみの渦からすっと
逃げちゃえばいいんです。柔道じゃないけど
あっとその杖をはなして、その苦しみを離れて
後ろ向きにひっくり返って、ちょっと離れりゃあ
いいんです。離れたら苦というのは、すっと
抜いて、そこへさっと光がさすんですよ。こっちも
光をむこうへ差し出しやすいんです。ところが
その時に、あっと想って、その杖にしがみ
ついちゃうでしょ。だから、苦をふっと
引き寄せるのと一緒でね。
 離れたい離れたいと思いながら、皆さん
観ていると、人間というのは離れたいという想いは
強いのに、体の方は心の方は苦の方に引き寄せ
られてしまっていて、業の中へ波の中へ自分を
引き寄せていってしまってる。それが観える。
 だから、離れたいと思いながら離れられない
というのは、これは人間の習性ですから。私は
責めてるんじゃないんです。そういう想いが
あるというのは分かる。それが習慣になってる
というのは分かる。その習慣というのは、ずっと
続けてゆけばそれは業を引き寄せるんです。
 それは、一回は想って、二回目はパッと
切り換えてね。そして、それを光の想いに
変えていく。それには何をすればいいか
というと、それは祈らなきゃ駄目です。祈って
祈ってね、この辛いなら辛い、苦しいなら
苦しいでかまいませんから、五井先生何とか
して下さい、何とかしろでもかまいません。だから
その時に、五井先生すいません、離れたいと
思いますのでよろしくお願いしますと。すっと何か
ある空間をね、真空の想いをパッとそこへつくって
くれたら、こっちだってさっと光を差し入れ
られるんです。
 で結局ね、色んな所へ話がいってる
ようですが、つまり、そういう苦というものが、
やっぱり神様を語る時にはなきゃあ、そして、
神様の愛を色々な人にしみ渡らせる為には、
とってもじゃないけど、やはり説得力がなくなる
という話でしたね。しかし、それだけの為に苦を
味わうのかといったら、そうじゃない。その人の
魂が光り輝いていく為、その人の本心が
輝いていく為にもちろんそれは
あるんですけれどもね。
 だから、子供が出来る出来ないという問題
にしたって、もう子供は要らないから次には
絶対中絶しても子供をつくらないようにすると。
 例えばずっと念じたとしますよ。念じたと
したら、先っきの、この人の子供を産みたくない
という話じゃないけれども、やっぱりその念という
ものが次の世界の中に現われてきて、それは業
ですけどね。そうして、くり返しになるけれども
そこで人間の生命のことを考える、色々なことを
考えさせられる訳なんです。先っき私は念と
申しましたけど、前生で想い込んだ念が通って
仮りに現れてきたとする。ところが、守護霊さん
とか守護神さんとかは、とても公平なのでね。何が
公平かというと、そういう念すらもね、やはり
利用するんです。何に利用するかというと、何に
よって人間が生きてるのか生かされているのか。
 我々の生命が何処から来たのか。我々は何処へ
連れていかれるのか。ね、どうしたって、神様
というのは悪くしっこないんです。ね、最後には
明るい所へ絶対連れていく訳なのね。
 ところが、色々なことがあって、今苦しい所に
いるとか、悲しい所にいるとか、色々なことが
あるんですがね。その時に、自分の想いの
切り換えをする。皆が離れたいと思いながら
その苦の中に業の中に枠をつくって、その中へ
入り込むんじゃなくって、あ、これは消えてゆく姿
なんだなということを想って、ありがとう
ございますと言えなくてもかまいません。五井先生
と呼んで下すったらいいんです。そこで
世界人類が平和でありますようにと出来なくても
かまわない。出来る人はしてもいいけどね。
 そういう風にして呼んで下さればいいんです。
 ついでに言うと、その祈りの中で、過去世の
誤まてる想念がとありましょ。あの消えてゆく姿
というのも、我々の方から言いますとね、深い
ところを一つ言うとね、この現われの今あなた方が
生きてる世界の中で、色んな現実的な悩みや苦を
とる、軽くしていく消していく、消えてゆく姿も
あるけれども、その現われが前生の念で現象界に
出てきたとするならば、その過去世にさかのぼって
その念も消していくというのがあるんですよ。
 だから、人間の生命の本体のね、本心の洗い浄め
といいますかね、掃除といいましょうかね。ずっと
さかのぼって、何十世代何百世代にもわたる
何十代何百代にもわたる生き通しの生命の掃除を
する訳です。それぞれのですよ。それが神様の愛
なんですよ。もちろん、今の生活が安楽で
ある方がいいし、平和である方がいいし、皆と
仲良く出来る方がいいに決まってます。ね、
だけども、神様の愛というのは、その毎日の
積み重ねも大事に思って下さるけれども、それを
通して、遠い将来ね、我々が死んで又生き返って
その時には今のような記憶はないかも分からない
けれども、その遠い遠いところにまで、遙か
彼方にまでつながっていく連らなっていく永遠の
生命というものに対する、永世というものに対する
祝福と喜びと、魂の浄めと、そういうものを神様が
下さるんですよね。そういう神様の愛なんです。
 だから、子供が出来る出来ないというのはね
前生で想い込んだから、子供は絶対に出てこないか
というと、そうじゃない。ある選ばれた特定の人
だけがね、真実私は子供の苦労はけっこうです
もうこれ以上すると肉体がバラバラに
なりそうです。だけども、他のことならばどんな
ことでも致しますと。肉体がそう叫ばなくったって
霊体の方でそう悟っちゃって、神様の方に訴えて
駆け込んで、駆け込み寺みたいに駆け込んで
守護霊さんと守護神さんが神界でお願いしたと
したら、やっぱり、そういう一生をその次の生で
送らせて下さるかも分からない。だけども、先程も
申しましたように、じゃあその人の生命がずっと
連らなって、何生も未来永劫子供が持てないかと
いうとそうではないんです。やっぱり持ててゆく。
 子供だけではない、人類というものの生命の
根っこを見つめていく時に、光そのものに
なっていく、我々のその生命の根元なんだ
ということまで悟った時にですね、念の世界
ではない、祈りの世界になっていって、自分の
心の内を浄める。そうして、その想いがまわりを
浄めていく。その事が一番、世界平和の中で
大事になっていくし、自分の持ち場持ち場で
そんな大きなこと思わなくったって、自分の
明るい運命といいますか、明るいこの生命を
呼ぶ為のものになっていく訳なんです。
 呼ばなきゃ駄目なんですよ。そして、信じなきゃ
駄目なんです。任せなきゃ駄目なんです。
 神様これ何とかして下さいというのは
分かりますよ。私も人間だったんだからね。
 だけども、何とかして下さい、苦しくって
たまりませんというのをね、もう本当に大変だろう
けれども、その想いを出来るだけ短くしてね
すいません私はもう考えられません。考えられ
ませんから、守護霊さん守護神さん神様よろしく
五井先生よろしくお願いしますと言って、もう
想えなきゃあ、それだけを想ってスイッチを
切り換えて下さいな。そうでないと、こちら側はね
この人とこの人をこういう風にくっつけて
あるいは別れさせてとか、ね、まあこれは冗談
だけども、この辺でこういう商売をさせてとか
こういうコースを歩ませてとか、守護霊さん守護神
さんとね、我々の方でちゃんとそのコースをね
神様の方で決定しているのに、何かその辺でぐっと
すがられちゃってね、すがるのは悪いというんじゃ
ないんですよ。すがって下すっていいんだけど
そのどうしょうもない苦というものに
入り込んじゃって、そこではまり込んで、そこから
声を出してしまわれるとね、せっかく浄めて、もう
半年したらこの苦が終わるなとか、ああもう3ヵ月
したらと、刑務者じゃないんだけどさ、そういう
期間の短い長いがあって、その短いのが、段々
人間の方で我でくっついてね、何故だろうとか
どうしてこうならないんだろうとか、私はどうして
こうなんだろうとか、何でこれがうまくいかないん
だろうと。ずっとその中にいると、それは我の
把われなんですよね。だから、その把われを、辛い
けれども私は把われてます、だからよろしくお願い
しますと言ってしまって、さっと杖じゃ
ないけれども、その場からちょっと身を引いて
神様の方へ五井先生の方へ、五井先生と言って
くれていいですよ。そうしたら、あなた自身が
どんなに悩んでいようとも、その時あなたは光に
なって、光明の中へすっと入っちゃうんだから。
 光に対して闇は勝たないんです。そういう訳で
我々はすうっと光を通しやすい。光を通すという
ことは、あなた達の運命修正をしやすいんです。
 だから、あなた達がくよくよ考えてね、どうにか
して下さい。もうどうなるんだろう。もうそういう
嘆きがね、本当に沢山の人のが聞こえて来るけど
やっぱりそれはね、祈れば何とかなる。ご利益
みたいだけれど、そうではなくて、本当に真実に
預けて祈っていったら、自分が光になっちゃって
そうして、本当に真実の一本のね、光り輝く光体に
なって、人連らなりの生命になるんです。光明体に
なるんです。だから、その事だけを素直に無邪気に
信じて、そうして、何もかもね、五井先生に文句も
いう。文句を言うけども任せもするという生活を
していただいたらね、そうしたら皆が平和になって
いくし、子供が出来る出来ないという問題も、ただ
単に念だけの問題じゃない。念すらも神様は
ちゃんとあずかって、それをいいように消して
下さる。前の前の世の中の分まで消して下さる。
 そして、未来に向かっていいようにして下さる。
 ということをあなた方は覚えて、ちゃんと記憶を
して、その上で、素直に無邪気に祈って
いただければと思います。
               昭和63年7月22日