我々が毎日誰よりも親しく付き合っているもの
というのは、考えてみますと、心ではないでしょうか。
朝起きて、さわやかに目覚めることが出来たとか、
あるいは、ちょっと睡眠不足で体がだるいなあとか、
そういうことを感じる。覚知して、そしてくたびれて
いるにしろ何にしろ、起き上がるというのは、
それはやはり気持ちの働き、心の働きであります。
我々はよく自問自答なんてことを申しますけれども、
自分に問うて自分に答えるというのは、毎日毎日
自分で無意識でもやっている訳ですね。自分で考えて、
ああお茶を飲みたい誰かに会いたい、こういう予定が
ある、というのはそれは記憶ということも
あるけれども、それをしたいとかしたくないとか、
面倒くさいなあとか疲れたなあとか、ということも
含めて、それは自分の気持ち、心と対応し続けながら、
毎日肉体を養っている訳であります。
親兄弟というのは絆が深いとか申しますけれど、
私なんかに言わせると、親兄弟よりももっともっと
自分の中で深い関わり合いを持っているのは、自分の
そういう自分自身を覚知する心でありますね。
ところが、いつも申しますように、心というものは
ずっと奥の深いところで神様と繋がっている。
神様の世界なんていうと、この世とあの世という
遠いかけ離れたところのように思う。ある宗教の
信者さんだと、極楽に行くとか地獄に墜ちるとか
墜ちないとかね、あるいは、聖書などでゲヘナの火
とか何とかいうけれども、しかし、そういう何か
想い焦がれるとかいう世界じゃなくて、厳然として、
あの世というか霊界と申しますか、そういう所は
ある訳なんですね。
向こうの世界とこっちの世界というのはずっと
繋がっている。一つづきになっている。だから、
霊界移行という言葉を申しますけど、それは実際に
移っていくのであります。我々自身がこの肉体を
脱ぎ捨てて、向こうの世界に移って、そしてさらに
自分の生命を豊かにしていく。そういう為の
移り住み、それが霊界移行、死なんだと。だから、
この世の誕生と向こうの往生というのは、これは
二大祝賀行事であると私がいつも申しますのは、
そういうことなんですね。
この肉体は食べなきゃ我々は死にます。飢えれば
大変なことになりますね。その為に働かなきゃ
なんない、お金を得なきゃなんない。そういう
想い煩いが霊界に移行すると、一回こうすっと
抜けるもんだから、色々な痛みや煩いがないぶん、
余分なものがなくなって働きやすくなるわけね。
で、働きやすくなるというのはもっと厳密に
いいますと、これは素のまんまになる。素直になる。
その人の本心が現われてくる。そういうこと
なんですね。我々世界人類というのはですね、人間
一人一人というのは神様の御心の分かれなんです。
生命の分かれなんですけれども、その御心と心を
一つにしていく、本当のところをいえばそうですね。
それで生きてる。神様の生命を貰って生きてる。
生命を生き生きとさせる。心をひそめてずっと
自分の心の流れをみていくと、本心に連らなって
いるから、その連らなっている自分自身というものが、
先程も申しました様に、非常に大きく深いもの
なんですね。そうしてその人間の心の流れという
ものは、自分の中の例えば、これが飲みたいとか
あの人に会いたいとか、そういう欲求とかいうもの
だけじゃなしに、もっともっと深い深いところで
繋がっていて、実は、深いところから我々の肉体を
養なう、例えば、暑いとか寒いとかそういう色々な
欲求が出て来る訳ですね。
今こうして世の中で生きる為の、必要に応じた
ものがちょっちょっとこう出てくるけれども、
しかし、本当を言えば、本来心の深いところからの
声というものを聴く、その為に我々は生きている。
あるいは、もっというと、その目に見えない程の
世界、奥の奥の体というのは常にそういう本来の
深い声を聴いてる訳ですから、我々の肉体が覚知
しようがしまいが、その霊の生命を聴いて心を
受けて生きている。そういうものが我々の肉体の
実は養い親になってるし、肉体を養ってる元に
なってるいうことを想いますとね。キリストが
言ったね、「何を食べようかとか何を飲もうかとか
想い煩うな」というのがありますよね。「あの空の
鳥をみるがよい」という風なことを言いますね。
それは何かというと、黙ってても棚ボタにお金が
入ってくるとかじゃないんです。
人間の生命というのは、神様の霊的なそういう
健やかなところからの流れが来ないと
止まっちゃうんです。生命というのはね、神様の
分かれだから。だから、神様の方で、この人間を
何かの形でまだまだ生かして、器として動かして
ゆかなきゃと思うかぎり、我々は死にたいと
想ったって生きていかなきゃいけない。死ぬことを
許されないわけなんですね。霊界移行をかってに
できないようになっている。
例えば、お金がない、明日からどうしようという
所までいっても、そこで、あれっと思うところで
道が開けてくる。神様なんだから、お金でも何でも
自分の思うままに湧かせることが出来るんじゃないか
とか、色々あるんですけれどもね。ただ人間の生命
というのは前生も前々生も生きてここにこうして存在
しておりますから、色んな借金がえしがありますね。
その借金返しを済ませるというのは大変な
ことなんです。何が大変かといったら、人間にはまず
欲があるんですね。欲が絡んで人間関係が拗れるとか
というのは、これは一番やっかいな訳ね。
例えば、前の世の中で喧嘩別れして、もう絶交だ
とかあるいは生命のやりとりをやったとかね。
あんまり穏やかではない話だけれども、そういう
相手ともう一回、守護の神霊が後でくっつけて、
それで何とかこの世の中でしようと思ったって、
相手が猛烈な金持ちでこっちがそれ程お金持って
ないなんていう、そういう極端な環境の中で合わせた
としたら、これはなかなかねー。僻み根性と
いうんですかね。例えば、片っぽが1000万
持ってる、片っぽは50万位しか持ってない。
50万対1000万じゃね。この世の中で
パッと見はですね、1000万の方が多いから、
50万の方は萎縮しちゃうわけね。
ですけれど、その50万をどう生かすか
なんですね。今手許にあるものをどう生かすか、
自分の生命をどう生かすか、ね。それによって
お金というのは増えもするし、減りもするんです。
その1000万というのは、私から言わせますとね、
つまり、その人の努力の賜物でもあるかも
しれないけれども、前の世の中からずっと積善を
しましてね、陰徳積んで貯金を増やして来て、それで
現われてきた環境の中の1000万かもしれない。
そうしますと、その1000万の上にあぐらを
かくと、1000万なんてお金はたちまちに消えて
なくなる。
なくなった時にどうするかというのは、その人の
心の現われになる訳なんです。
そこで本心を輝き出させるということがこれは
並大抵の事じゃないんです。人間生きていかなきゃ
いけませんので、なかなかそれが大変なんです
けれども、でも出来るだけ素直にね、任せ切る
なんていうことはなかなか出来ることじゃない
けれども、でも、「すいませんよろしくお願い
します」と言ってしまって、祈って祈って祈って
いきますとね、そうするといつの間にか、ああ
こういうお金が入ってきたなあとか、ああこういう
人に会って助けられることになったなあとか、
そういう何か援助がね、まわりについて
くるんですよね。その辺が、自分には1000万
あるから大丈夫だと思ってあぐらをかいてしまって
何にもしない人。しない人というのは、いわゆる
心やさしくまわりに対しても自分に対しても
気配りをしない人。それでこの世の中を渡ろうと
してしまう。欲で渡ろうとしてしまうと、これが
一番駄目なことなんですね。
私に言わせれば、さっき言ったように、人間の
生命というのは神様の分生命(わけいのち)
ですから、神様の光を一瞬でも滞らせちゃったら、
これは生きていけないんです。人間というのは。
だから、器としてどういう風に用いられるか
分からないけれども、その用い方は皆違うんだ
けれども、しかし、この人間はまだこの世に用が
あるという場合は絶対に御用済みにならない。今日
目覚めて、そして生きてるということがわかったら、
あーこれは生かして下さってるんだ、生きてるん
じゃない、生かして下すってるんだと。
だから、自分がどういう風に器となっていくか
分からないけれども、全身でですね、お任せします、
宜敷くお願いしますと言って、守護霊さん守護神
さんに言い続けてごらんなさい。あるいは、
五井先生に言い続けてごらんなさい。そうすると、
実際に、食べる為に着る為にあるいは住む為にね、
仕事でもお金でも入ってきますよ。肉体を
養うにはね。
何故かといったら、霊の生命だけじゃこの世の中は
やっていけないから。この世の中で、神様の為に
働かせる為に、神様が必要であれば生かしていく
ということは、肉体を養っていかないと生かして
ゆけない訳だから。そうすると、この人間には何が
必要であるか何が必要でないかというのは、
向こうの方でよくご存知ですから、そこで、絶対に
自分が生かされていくんだという、そういう
ことですね。
私は何にも取柄がなかったけれども、とに角
任せてしまったね。そうして、何もかもゼロ以下に
なって、それでも、人間というのは神様が養なって
下さるから生きてゆけると、その位の素直さだけ
持てた。そうしたら、貧乏にもならずに何とか
この世の中生きて、子供も授かって孫も授かって
ゆけた。その時その時、私はこうして下さいと
言って望みはしなかったんですね。色んな夢とか
希望とかいうのは別にして、是非ともこう
ならなくては困りますという風には望まなかった。
そうすると、自分が想い描くよりも、もっと
以上のものを神様は与えて下すった。そういう
ことなんです。
つまり、自分の本心の中へ、自分の本心の中へ
というのは、神様の心の中へですね。その心の中に
一致して、一致させて祈り言をいってゆくと、
世界人類が平和でありますようにとずっと
祈りつづけてゆくと、そこで神様というのは、その
一人一人の人間にとって一番大事なものを下さる
訳なんです。ですから、そこを信じて私共は
世界平和の祈りを成し続けてゆきたいと思いますし、
又成し続けていらっしゃるように、私はこちらから
光を送り続けてまいりたいと思っています。
昭和63年6月13日(月)
五井 昌久
というのは、考えてみますと、心ではないでしょうか。
朝起きて、さわやかに目覚めることが出来たとか、
あるいは、ちょっと睡眠不足で体がだるいなあとか、
そういうことを感じる。覚知して、そしてくたびれて
いるにしろ何にしろ、起き上がるというのは、
それはやはり気持ちの働き、心の働きであります。
我々はよく自問自答なんてことを申しますけれども、
自分に問うて自分に答えるというのは、毎日毎日
自分で無意識でもやっている訳ですね。自分で考えて、
ああお茶を飲みたい誰かに会いたい、こういう予定が
ある、というのはそれは記憶ということも
あるけれども、それをしたいとかしたくないとか、
面倒くさいなあとか疲れたなあとか、ということも
含めて、それは自分の気持ち、心と対応し続けながら、
毎日肉体を養っている訳であります。
親兄弟というのは絆が深いとか申しますけれど、
私なんかに言わせると、親兄弟よりももっともっと
自分の中で深い関わり合いを持っているのは、自分の
そういう自分自身を覚知する心でありますね。
ところが、いつも申しますように、心というものは
ずっと奥の深いところで神様と繋がっている。
神様の世界なんていうと、この世とあの世という
遠いかけ離れたところのように思う。ある宗教の
信者さんだと、極楽に行くとか地獄に墜ちるとか
墜ちないとかね、あるいは、聖書などでゲヘナの火
とか何とかいうけれども、しかし、そういう何か
想い焦がれるとかいう世界じゃなくて、厳然として、
あの世というか霊界と申しますか、そういう所は
ある訳なんですね。
向こうの世界とこっちの世界というのはずっと
繋がっている。一つづきになっている。だから、
霊界移行という言葉を申しますけど、それは実際に
移っていくのであります。我々自身がこの肉体を
脱ぎ捨てて、向こうの世界に移って、そしてさらに
自分の生命を豊かにしていく。そういう為の
移り住み、それが霊界移行、死なんだと。だから、
この世の誕生と向こうの往生というのは、これは
二大祝賀行事であると私がいつも申しますのは、
そういうことなんですね。
この肉体は食べなきゃ我々は死にます。飢えれば
大変なことになりますね。その為に働かなきゃ
なんない、お金を得なきゃなんない。そういう
想い煩いが霊界に移行すると、一回こうすっと
抜けるもんだから、色々な痛みや煩いがないぶん、
余分なものがなくなって働きやすくなるわけね。
で、働きやすくなるというのはもっと厳密に
いいますと、これは素のまんまになる。素直になる。
その人の本心が現われてくる。そういうこと
なんですね。我々世界人類というのはですね、人間
一人一人というのは神様の御心の分かれなんです。
生命の分かれなんですけれども、その御心と心を
一つにしていく、本当のところをいえばそうですね。
それで生きてる。神様の生命を貰って生きてる。
生命を生き生きとさせる。心をひそめてずっと
自分の心の流れをみていくと、本心に連らなって
いるから、その連らなっている自分自身というものが、
先程も申しました様に、非常に大きく深いもの
なんですね。そうしてその人間の心の流れという
ものは、自分の中の例えば、これが飲みたいとか
あの人に会いたいとか、そういう欲求とかいうもの
だけじゃなしに、もっともっと深い深いところで
繋がっていて、実は、深いところから我々の肉体を
養なう、例えば、暑いとか寒いとかそういう色々な
欲求が出て来る訳ですね。
今こうして世の中で生きる為の、必要に応じた
ものがちょっちょっとこう出てくるけれども、
しかし、本当を言えば、本来心の深いところからの
声というものを聴く、その為に我々は生きている。
あるいは、もっというと、その目に見えない程の
世界、奥の奥の体というのは常にそういう本来の
深い声を聴いてる訳ですから、我々の肉体が覚知
しようがしまいが、その霊の生命を聴いて心を
受けて生きている。そういうものが我々の肉体の
実は養い親になってるし、肉体を養ってる元に
なってるいうことを想いますとね。キリストが
言ったね、「何を食べようかとか何を飲もうかとか
想い煩うな」というのがありますよね。「あの空の
鳥をみるがよい」という風なことを言いますね。
それは何かというと、黙ってても棚ボタにお金が
入ってくるとかじゃないんです。
人間の生命というのは、神様の霊的なそういう
健やかなところからの流れが来ないと
止まっちゃうんです。生命というのはね、神様の
分かれだから。だから、神様の方で、この人間を
何かの形でまだまだ生かして、器として動かして
ゆかなきゃと思うかぎり、我々は死にたいと
想ったって生きていかなきゃいけない。死ぬことを
許されないわけなんですね。霊界移行をかってに
できないようになっている。
例えば、お金がない、明日からどうしようという
所までいっても、そこで、あれっと思うところで
道が開けてくる。神様なんだから、お金でも何でも
自分の思うままに湧かせることが出来るんじゃないか
とか、色々あるんですけれどもね。ただ人間の生命
というのは前生も前々生も生きてここにこうして存在
しておりますから、色んな借金がえしがありますね。
その借金返しを済ませるというのは大変な
ことなんです。何が大変かといったら、人間にはまず
欲があるんですね。欲が絡んで人間関係が拗れるとか
というのは、これは一番やっかいな訳ね。
例えば、前の世の中で喧嘩別れして、もう絶交だ
とかあるいは生命のやりとりをやったとかね。
あんまり穏やかではない話だけれども、そういう
相手ともう一回、守護の神霊が後でくっつけて、
それで何とかこの世の中でしようと思ったって、
相手が猛烈な金持ちでこっちがそれ程お金持って
ないなんていう、そういう極端な環境の中で合わせた
としたら、これはなかなかねー。僻み根性と
いうんですかね。例えば、片っぽが1000万
持ってる、片っぽは50万位しか持ってない。
50万対1000万じゃね。この世の中で
パッと見はですね、1000万の方が多いから、
50万の方は萎縮しちゃうわけね。
ですけれど、その50万をどう生かすか
なんですね。今手許にあるものをどう生かすか、
自分の生命をどう生かすか、ね。それによって
お金というのは増えもするし、減りもするんです。
その1000万というのは、私から言わせますとね、
つまり、その人の努力の賜物でもあるかも
しれないけれども、前の世の中からずっと積善を
しましてね、陰徳積んで貯金を増やして来て、それで
現われてきた環境の中の1000万かもしれない。
そうしますと、その1000万の上にあぐらを
かくと、1000万なんてお金はたちまちに消えて
なくなる。
なくなった時にどうするかというのは、その人の
心の現われになる訳なんです。
そこで本心を輝き出させるということがこれは
並大抵の事じゃないんです。人間生きていかなきゃ
いけませんので、なかなかそれが大変なんです
けれども、でも出来るだけ素直にね、任せ切る
なんていうことはなかなか出来ることじゃない
けれども、でも、「すいませんよろしくお願い
します」と言ってしまって、祈って祈って祈って
いきますとね、そうするといつの間にか、ああ
こういうお金が入ってきたなあとか、ああこういう
人に会って助けられることになったなあとか、
そういう何か援助がね、まわりについて
くるんですよね。その辺が、自分には1000万
あるから大丈夫だと思ってあぐらをかいてしまって
何にもしない人。しない人というのは、いわゆる
心やさしくまわりに対しても自分に対しても
気配りをしない人。それでこの世の中を渡ろうと
してしまう。欲で渡ろうとしてしまうと、これが
一番駄目なことなんですね。
私に言わせれば、さっき言ったように、人間の
生命というのは神様の分生命(わけいのち)
ですから、神様の光を一瞬でも滞らせちゃったら、
これは生きていけないんです。人間というのは。
だから、器としてどういう風に用いられるか
分からないけれども、その用い方は皆違うんだ
けれども、しかし、この人間はまだこの世に用が
あるという場合は絶対に御用済みにならない。今日
目覚めて、そして生きてるということがわかったら、
あーこれは生かして下さってるんだ、生きてるん
じゃない、生かして下すってるんだと。
だから、自分がどういう風に器となっていくか
分からないけれども、全身でですね、お任せします、
宜敷くお願いしますと言って、守護霊さん守護神
さんに言い続けてごらんなさい。あるいは、
五井先生に言い続けてごらんなさい。そうすると、
実際に、食べる為に着る為にあるいは住む為にね、
仕事でもお金でも入ってきますよ。肉体を
養うにはね。
何故かといったら、霊の生命だけじゃこの世の中は
やっていけないから。この世の中で、神様の為に
働かせる為に、神様が必要であれば生かしていく
ということは、肉体を養っていかないと生かして
ゆけない訳だから。そうすると、この人間には何が
必要であるか何が必要でないかというのは、
向こうの方でよくご存知ですから、そこで、絶対に
自分が生かされていくんだという、そういう
ことですね。
私は何にも取柄がなかったけれども、とに角
任せてしまったね。そうして、何もかもゼロ以下に
なって、それでも、人間というのは神様が養なって
下さるから生きてゆけると、その位の素直さだけ
持てた。そうしたら、貧乏にもならずに何とか
この世の中生きて、子供も授かって孫も授かって
ゆけた。その時その時、私はこうして下さいと
言って望みはしなかったんですね。色んな夢とか
希望とかいうのは別にして、是非ともこう
ならなくては困りますという風には望まなかった。
そうすると、自分が想い描くよりも、もっと
以上のものを神様は与えて下すった。そういう
ことなんです。
つまり、自分の本心の中へ、自分の本心の中へ
というのは、神様の心の中へですね。その心の中に
一致して、一致させて祈り言をいってゆくと、
世界人類が平和でありますようにとずっと
祈りつづけてゆくと、そこで神様というのは、その
一人一人の人間にとって一番大事なものを下さる
訳なんです。ですから、そこを信じて私共は
世界平和の祈りを成し続けてゆきたいと思いますし、
又成し続けていらっしゃるように、私はこちらから
光を送り続けてまいりたいと思っています。
昭和63年6月13日(月)
五井 昌久