世界人類が平和でありますようにという言葉で
始まる、世界平和の祈りと申しますのは、私が
神様のみ心を受けて、そしてまあ人意的に申し
ますと、私が始めたということになっている、唱導した
ということになっている、祈りでございますけど。
これは、本当に神様のみ心そのものなので
あります。つまり、それは一言で言えば、神様
というものは愛なのだということ。そうして、その
神様の愛であるということを我々に告げ知らせる
為に、守護霊さん守護神さんというものが、もう
絶えることなく働いている。我々は眠ったり自分を
休めたり致しますけど。そういう休息をする暇も
なく、我々のこの肉体生命も奥の生命も、向こうの
世界へ霊界移行しても、もう本当に最後の最後まで
神様の愛というものを本当に知らせる為に、我々
一人一人を支えて、そうして、我々の天命が完う
されるようにもってゆく。これが本当の神様の愛
なので。ですから、この神様の愛というものを
現わした体現した祈りが世界平和の祈りなので
ありまして、そうして、その神様の愛というものが
神様から分かれて来た生命である我々人類の
一人一人に与えられている。そして、与えられて
いるばかりではなくて、我々の体の奥に心の奥に
神様の生命が燃えていて、与えられていて
そうして、その生命によって我々が生きている
ということを私が申し上げた形になっている訳
であります。
しかしながら、五井昌久が始めた祈りであるならば
という言い方をしますとね、五井先生五井先生
と言って、斉藤さんなんかよく唱名ランニングを
しましたけれどもね。ああいう風な形で五井先生
と言ってしまうと、何か五井先生にすがってね、そして
力も無いのに何か救ってもらおうというような、そういう
想いになってしまわないかと。講師の中にはそういう
想いに把われる人もあるやに想います。
例えば、私は前にも、会に来ているね、統一会に
来ている人に、高校生だったかな、その人に
尋ねたことがあるけれども、本にもあると
思いますよ。今、世界人類が平和でありますように
と言えませんと。それで、五井先生と言えるっと
聞いたら、五井先生だったら言えると。じゃあ
五井先生と言いなさい。
五井先生と世界平和の祈りは一緒なんだから
ということを言う。これは、私が始めた祈り
だから、私の名前を言えば世界平和の祈りと私は
同体なんだよ。つまり、五井昌久という個人を
高見の所に持って行って、私を拝めば、御利益的な
ものも現世のものも来世のものも、全部
救われると。救われるというのはそういう風な
ことではないんです。
そういうことではなくて、私は、こうして宗教の
活動をする前まで、何を考えていたかというと
悟る前は、人類の為に私の生命が何か役に
立たないか、人の為に何か役に立たないかと。
そして、神様の事をずっと考えていた。で、主の
祈りを唱えた時期があったりね、癒した時期が
あったり、生長の家にいた時期があったりしながら
ついに合体して、合体してというのは、真実の自己
というものと合体した訳ですよね。私はあそこへ
書いたけれども、つまり、本当の自分の中の本当の
自分というもの、光り輝く自分というものを
その天界に行って見たらば、輝いて輝いてて、私は
それを見た時に、まあ何だか色んなことが
生活の中に起こって来て、人間というのは、絶えず
文句を言ったり悲しんだりするんだけれども
しかし、あれを見ると、どんなことをされても
どんなことを言われても、まあ本当に腹を立てる気にも
ならない。それ程光明燦然とした世界がそこに
あってですね、そして調和した自分がそこに居た。
で、その調和した自分というのは、神体の奥の
奥のね、この世の中で働く為の、一番見えない
所で、眠らされているような所でというか、眠っては
いないけれども、皆の目には見えない所で働いている
その自分と、私はその時に会った訳ですね。そうして
合体した訳なんです。
だから、私はそれから以後、肉体というものは
もっているけれども、仮に食べたり飲んだり
眠ったりする為に、その肉体を養う為には肉体を
使ったけれども、そこからの私の生活という
ものは、結局、神様のみ心に全部委ねようと
決心をした訳です。
色んな霊修行もしましたでしょう。交差点の
車の激しい通りを目をつぶって歩けとか、何とか
言われたりして行こうと思ったけれど、行けなく
なったりとか。そういう無駄なことは、
守護霊さんはね、ささやきで色んなこと言って
ためしてくるけれど、結局、私という人間を
死なせないような形でもってね、神様というのは
一人びとりの天命を果たさせる為には、決して
生命のある間は死なせない。そういう神様の
愛護を、あの時私は知った訳なんですが。
つまり、自分の天命を、あの時に思い知ら
されてですね、そして、私がもう一人の自分
神様の、神界の光り輝いている、自分の生命を
つき動かしている、真実の自己というものに
出会って、それを肉体の奥から取り出して、肉体を
そえものにして、それをあるじにして出来ていった
時にですね、私はみなさんの目には、ちゃんと
話をして、しゃべって、食べるものも食べてね
頭も刈りに行って、散髪もちゃんとして、背広も
普通に着こなすという、五井昌久にちゃんと
なっていたと思いますよ。ちゃんと肉体を、死ぬ
まで可愛いがっていましたからねえ、死ぬまでね。
だけれども、私の本当の所というのは、それは
もう神様と本当に一つになった、朗らかな生命
そのものである自分が、それから以後は働いて
行った訳なんです。だから、五井先生と呼びなさい
という時には、その五井昌久という、小っちゃいね
こういう個性を持ったね、そういう個人を呼んで
どうのこうのじゃなくて、私の真実の自己、誰もが
皆んな持っている真実の自分自身、光り輝いている
迷いようのない疑いようのないね、把われようの
ない自己自身ですね、神様の愛ですよ、その
自分自身を拝みなさいという事なんですよね。
だから、それが私という名前、五井先生という
名前になる。例えば、クリスチャンの人だったら
それがイエス・キリストになる。キリストはね
神様の言葉を語った時には、やっぱり光
そのものになっているんです。あの人の中には
イエスという個人もなければ何にもない。語って
いる時には全く何もなくなって、あの人自体は
肉体を持っているけれど、もう空になって、その時
には光だけになっている。釈迦にしても
そうですね。つまり、そういう場所としての自分は
あるけれど、しかし、奥で何か眠っていた自分を
引きずり出されて、それが自分の主だという事に
気がついて、そこを本当に拝んだらね、本当に
拝んでゆけば、本当に祈りの光が増していって
自分の生命の光が極まっていって、光明燦然
とした世界になって行くんだ、そうして、神様に
一直線につながって行くんだ、その事を私は
体験した訳なんです。
それと同時に、世界人類が平和でありますように、
あの祈りをいただいた訳なんです。
ということは、あれは神様のみ心だけれども
もちろんそうだけれども、あの時に、神様が
本当に愛だ愛だ、神様という方は裁いたり
責めたりね、人間を悩ましたり、本来的
にですよ、本当のところ人間を愛しこそすれ
我々をいじめたりとかね、そういうことは決して
なさらない。そこの底のところで絶対に
肉体人間を理解をして、気持ちを理解して、心を
抱いて下さる、そういう方なんだということをね
あの時に思い知った訳ですよ。だから、そういう
神様のみ心の中に私は飛び込んじゃった訳ね。
だから、世界人類が平和でありますようにという
あの文字に書けば何行かの祈りになるけれども
あの祈り言葉の中にも私自身の本体は輝いて
いるし、そして、五井先生と唱える時にはですね
それは個人のこのちっぽけな男を指して、それを
拝め拝めと言ってる訳ではなくてね。五井先生が、
本当に天の私を見い出してね地上の私と合体させて
そして、朗らかな本当の生命の源、大生命のもと
大宇宙の宇宙神の愛のみ心を、ここで自分のもの
とした、そういう朗らかな人になった、そういう
意味での五井先生を、五井先生と呼ぶ時に、我々は
五井先生を通して神様へ行くんだと。
決して私を個人崇拝するのではなくて、五井先生
という人間が到りついた、一つの極点ですよね。
つまり、神界に自分の本当に朗らかな生命が
働いている、霊界にも働いている、そして
肉体の奥にも働いている、それが燦然となって
合体して、そうして貫いているものが我々を又
つき動かしている。その真理を私は五井先生という
中へ入っている。だから、お釈迦様と言うのと
キリストと言うのと、私と言うのと、どれ呼んでも
一緒なんですよ。で、五井先生と呼びたくなきゃ
他のものを呼んだって、結局、私の所へ連らなって
やって来ます。だから、唱名ランニングの時にね
世界人類が平和でありますようにと言ったって
五井先生五井先生と言ったって、結局一緒なんで
どっちにも私が生きてるしね。私が生きてると
いうことは、神様のみ心の中に私が入ってるし
あなたも入ってるし、あなた方皆一人一人が入って
実は、その皆の愛の想い、皆の光の想い、それが
連らなり合って、そうしてあの祈りになってるんだ。
だから、往相がどうのとか、還相がどうのとかね、
そういう問題じゃないんです。往相も還相も
一緒なんです。
我々は毎晩毎晩、前に言いましたように、霊界に
行って霊要素をとって帰って来て、そうして、又
日常のエネルギーにかえて、それで毎日を
生きている訳ですね。眠らないと死んじゃう
というのは、霊要素とらないと死んじゃう訳だから
そうなる訳だから。そうなるんだけれども、しかし
それというのは、やっぱり真実の自己を本当の
意味で養っていく。
真実の自己が何処にあるかを、常に常に自分の
本心に照らして、そうして祈りの中で覚えてゆく。
で、その為にやはり祈りというものがある訳で
そうして、世界人類が平和でありますように
という、世界平和の祈りも、五井先生というのも
みんな連らなって一つであって、何がどうの
こっちが良いとか悪いとか、そういう問題では
ない訳なんです。
だから、仮に私がね、五井昌久という人間
として個性としてね、六十何年かの生涯を生きた
人間としてね、あなた方が入りやすいから。
それでもって、あのイエスの衣のすそをつかんで、
長血の女が癒されたという話があるけれど、それと
同じように、五井先生と呼んだことで、何か子供の
病気が直っちゃったとか、色んな話があるでしょう。
五井先生と呼ぶことで、私を思い浮かべる
ことで、実は、皆さん、神様のそういう極みのない
愛、癒しの御手、そういうものを、光明を
もらうんですよ。私を通してもらうんですよ。
何故かというと、私はその時に、五井昌久
という人間の想いは何もかも消えてしまって
いるから、消してしまっているから、場所に
なっているから、そこで五井先生というんだって
私個人を呼んでいるんじゃなくて、私を通して
神様というものの愛が、直接あなた方の所に
行って、光が直接あなた方の所に行って、そして
あなた方の中にある光が又呼び合って、そうして
それが、天空で地上で一つになって世界を
駆け巡って、平和の気を流してゆく。そういう
仕組みになっている訳です。
だから、往相も還相も一つ。円環なんですよ。円環の
印ってやったでしょう。円環の印なんですよ。だから、
本当に宇宙をぐるぐる廻っている。印の結びなんです。
だから、どういう印だろうと、どういう形を
とろうとね、人間は形をとらないとなかなか人間
というのは弱いんで。何かの形をとらないと
何かの名前を呼ばないと、何か対象を持たないと
やっていけないというのがありましてね。
無目的では何か出来ない。ね、平和のピース塔
だってそうだし、色んな事を目的を持って
やらなければ集まって来ない。だから、〇〇が
ピースポールを何本買ったとかどうとかという
話だって、そういう事をしないと行動が出来ない
という、人間の弱さがあるし、又可愛いさもあって
そういう事をこっちは見抜いているから
そういう風な形にして流してゆくんだけれども。
しかし本当のところは、ピースポールが何十本
どうのとか、どこの支部がどうのこうのとか何だ
とかじゃなくって、どれだけ直接、神様のみ心が
愛だということを信じてね、それが自分のものと
して、そうして難かしいけれども生きてゆけるか
ということなんです。
だから、そこへ行くまでにね、五井先生五井先生
辛いです、すいませんというのは、幾ら言っても
構いませんと、私言いましたでしょう。
言わないとみんな大乗でやって行けないんですよね。
例えば、南無阿弥陀仏でも、あれは光明信仰で
ものすごくいい言葉なんで、南無阿弥陀仏と世界人類が
平和でありますように、あるいは主の祈り、皆
同じだけの救済力がある。同じ事なんですよ。
だけれども、今この現代の中で、世界人類が平和で
ありますようにという方が分かり易いでしょう。
今現在、私たちがこの世界の中に生きていて人類の
一人なんだし、そして、人類が我々が平和であるように、
平和に生きて行けるようにというのは、我々人間の念願
なんだし、本願なんだし、しかし、その本願をつくった
もの念願を生み育てたもの、それが何かというと
それは神様なんですね。やっぱり。
神様の根っこに我々は深く入って行って、そして
そこから生命の声を出して行かないと、祈りの声を
出して行かないとだめなんです。
そういう意味で、私は、世界人類が平和で
ありますようにという、あの世界平和の祈りの中にも、
五井先生と言う唱名ランニングの中にも、それは全部
一つであって、どれを唱えようと唱えまいと、五井先生
というのは、どこをどうとっても五井先生に辿り着くんだ
ということを、この際覚えていただいて置いたら、
大変良かろうと思います。
昭和63年7月22日
始まる、世界平和の祈りと申しますのは、私が
神様のみ心を受けて、そしてまあ人意的に申し
ますと、私が始めたということになっている、唱導した
ということになっている、祈りでございますけど。
これは、本当に神様のみ心そのものなので
あります。つまり、それは一言で言えば、神様
というものは愛なのだということ。そうして、その
神様の愛であるということを我々に告げ知らせる
為に、守護霊さん守護神さんというものが、もう
絶えることなく働いている。我々は眠ったり自分を
休めたり致しますけど。そういう休息をする暇も
なく、我々のこの肉体生命も奥の生命も、向こうの
世界へ霊界移行しても、もう本当に最後の最後まで
神様の愛というものを本当に知らせる為に、我々
一人一人を支えて、そうして、我々の天命が完う
されるようにもってゆく。これが本当の神様の愛
なので。ですから、この神様の愛というものを
現わした体現した祈りが世界平和の祈りなので
ありまして、そうして、その神様の愛というものが
神様から分かれて来た生命である我々人類の
一人一人に与えられている。そして、与えられて
いるばかりではなくて、我々の体の奥に心の奥に
神様の生命が燃えていて、与えられていて
そうして、その生命によって我々が生きている
ということを私が申し上げた形になっている訳
であります。
しかしながら、五井昌久が始めた祈りであるならば
という言い方をしますとね、五井先生五井先生
と言って、斉藤さんなんかよく唱名ランニングを
しましたけれどもね。ああいう風な形で五井先生
と言ってしまうと、何か五井先生にすがってね、そして
力も無いのに何か救ってもらおうというような、そういう
想いになってしまわないかと。講師の中にはそういう
想いに把われる人もあるやに想います。
例えば、私は前にも、会に来ているね、統一会に
来ている人に、高校生だったかな、その人に
尋ねたことがあるけれども、本にもあると
思いますよ。今、世界人類が平和でありますように
と言えませんと。それで、五井先生と言えるっと
聞いたら、五井先生だったら言えると。じゃあ
五井先生と言いなさい。
五井先生と世界平和の祈りは一緒なんだから
ということを言う。これは、私が始めた祈り
だから、私の名前を言えば世界平和の祈りと私は
同体なんだよ。つまり、五井昌久という個人を
高見の所に持って行って、私を拝めば、御利益的な
ものも現世のものも来世のものも、全部
救われると。救われるというのはそういう風な
ことではないんです。
そういうことではなくて、私は、こうして宗教の
活動をする前まで、何を考えていたかというと
悟る前は、人類の為に私の生命が何か役に
立たないか、人の為に何か役に立たないかと。
そして、神様の事をずっと考えていた。で、主の
祈りを唱えた時期があったりね、癒した時期が
あったり、生長の家にいた時期があったりしながら
ついに合体して、合体してというのは、真実の自己
というものと合体した訳ですよね。私はあそこへ
書いたけれども、つまり、本当の自分の中の本当の
自分というもの、光り輝く自分というものを
その天界に行って見たらば、輝いて輝いてて、私は
それを見た時に、まあ何だか色んなことが
生活の中に起こって来て、人間というのは、絶えず
文句を言ったり悲しんだりするんだけれども
しかし、あれを見ると、どんなことをされても
どんなことを言われても、まあ本当に腹を立てる気にも
ならない。それ程光明燦然とした世界がそこに
あってですね、そして調和した自分がそこに居た。
で、その調和した自分というのは、神体の奥の
奥のね、この世の中で働く為の、一番見えない
所で、眠らされているような所でというか、眠っては
いないけれども、皆の目には見えない所で働いている
その自分と、私はその時に会った訳ですね。そうして
合体した訳なんです。
だから、私はそれから以後、肉体というものは
もっているけれども、仮に食べたり飲んだり
眠ったりする為に、その肉体を養う為には肉体を
使ったけれども、そこからの私の生活という
ものは、結局、神様のみ心に全部委ねようと
決心をした訳です。
色んな霊修行もしましたでしょう。交差点の
車の激しい通りを目をつぶって歩けとか、何とか
言われたりして行こうと思ったけれど、行けなく
なったりとか。そういう無駄なことは、
守護霊さんはね、ささやきで色んなこと言って
ためしてくるけれど、結局、私という人間を
死なせないような形でもってね、神様というのは
一人びとりの天命を果たさせる為には、決して
生命のある間は死なせない。そういう神様の
愛護を、あの時私は知った訳なんですが。
つまり、自分の天命を、あの時に思い知ら
されてですね、そして、私がもう一人の自分
神様の、神界の光り輝いている、自分の生命を
つき動かしている、真実の自己というものに
出会って、それを肉体の奥から取り出して、肉体を
そえものにして、それをあるじにして出来ていった
時にですね、私はみなさんの目には、ちゃんと
話をして、しゃべって、食べるものも食べてね
頭も刈りに行って、散髪もちゃんとして、背広も
普通に着こなすという、五井昌久にちゃんと
なっていたと思いますよ。ちゃんと肉体を、死ぬ
まで可愛いがっていましたからねえ、死ぬまでね。
だけれども、私の本当の所というのは、それは
もう神様と本当に一つになった、朗らかな生命
そのものである自分が、それから以後は働いて
行った訳なんです。だから、五井先生と呼びなさい
という時には、その五井昌久という、小っちゃいね
こういう個性を持ったね、そういう個人を呼んで
どうのこうのじゃなくて、私の真実の自己、誰もが
皆んな持っている真実の自分自身、光り輝いている
迷いようのない疑いようのないね、把われようの
ない自己自身ですね、神様の愛ですよ、その
自分自身を拝みなさいという事なんですよね。
だから、それが私という名前、五井先生という
名前になる。例えば、クリスチャンの人だったら
それがイエス・キリストになる。キリストはね
神様の言葉を語った時には、やっぱり光
そのものになっているんです。あの人の中には
イエスという個人もなければ何にもない。語って
いる時には全く何もなくなって、あの人自体は
肉体を持っているけれど、もう空になって、その時
には光だけになっている。釈迦にしても
そうですね。つまり、そういう場所としての自分は
あるけれど、しかし、奥で何か眠っていた自分を
引きずり出されて、それが自分の主だという事に
気がついて、そこを本当に拝んだらね、本当に
拝んでゆけば、本当に祈りの光が増していって
自分の生命の光が極まっていって、光明燦然
とした世界になって行くんだ、そうして、神様に
一直線につながって行くんだ、その事を私は
体験した訳なんです。
それと同時に、世界人類が平和でありますように、
あの祈りをいただいた訳なんです。
ということは、あれは神様のみ心だけれども
もちろんそうだけれども、あの時に、神様が
本当に愛だ愛だ、神様という方は裁いたり
責めたりね、人間を悩ましたり、本来的
にですよ、本当のところ人間を愛しこそすれ
我々をいじめたりとかね、そういうことは決して
なさらない。そこの底のところで絶対に
肉体人間を理解をして、気持ちを理解して、心を
抱いて下さる、そういう方なんだということをね
あの時に思い知った訳ですよ。だから、そういう
神様のみ心の中に私は飛び込んじゃった訳ね。
だから、世界人類が平和でありますようにという
あの文字に書けば何行かの祈りになるけれども
あの祈り言葉の中にも私自身の本体は輝いて
いるし、そして、五井先生と唱える時にはですね
それは個人のこのちっぽけな男を指して、それを
拝め拝めと言ってる訳ではなくてね。五井先生が、
本当に天の私を見い出してね地上の私と合体させて
そして、朗らかな本当の生命の源、大生命のもと
大宇宙の宇宙神の愛のみ心を、ここで自分のもの
とした、そういう朗らかな人になった、そういう
意味での五井先生を、五井先生と呼ぶ時に、我々は
五井先生を通して神様へ行くんだと。
決して私を個人崇拝するのではなくて、五井先生
という人間が到りついた、一つの極点ですよね。
つまり、神界に自分の本当に朗らかな生命が
働いている、霊界にも働いている、そして
肉体の奥にも働いている、それが燦然となって
合体して、そうして貫いているものが我々を又
つき動かしている。その真理を私は五井先生という
中へ入っている。だから、お釈迦様と言うのと
キリストと言うのと、私と言うのと、どれ呼んでも
一緒なんですよ。で、五井先生と呼びたくなきゃ
他のものを呼んだって、結局、私の所へ連らなって
やって来ます。だから、唱名ランニングの時にね
世界人類が平和でありますようにと言ったって
五井先生五井先生と言ったって、結局一緒なんで
どっちにも私が生きてるしね。私が生きてると
いうことは、神様のみ心の中に私が入ってるし
あなたも入ってるし、あなた方皆一人一人が入って
実は、その皆の愛の想い、皆の光の想い、それが
連らなり合って、そうしてあの祈りになってるんだ。
だから、往相がどうのとか、還相がどうのとかね、
そういう問題じゃないんです。往相も還相も
一緒なんです。
我々は毎晩毎晩、前に言いましたように、霊界に
行って霊要素をとって帰って来て、そうして、又
日常のエネルギーにかえて、それで毎日を
生きている訳ですね。眠らないと死んじゃう
というのは、霊要素とらないと死んじゃう訳だから
そうなる訳だから。そうなるんだけれども、しかし
それというのは、やっぱり真実の自己を本当の
意味で養っていく。
真実の自己が何処にあるかを、常に常に自分の
本心に照らして、そうして祈りの中で覚えてゆく。
で、その為にやはり祈りというものがある訳で
そうして、世界人類が平和でありますように
という、世界平和の祈りも、五井先生というのも
みんな連らなって一つであって、何がどうの
こっちが良いとか悪いとか、そういう問題では
ない訳なんです。
だから、仮に私がね、五井昌久という人間
として個性としてね、六十何年かの生涯を生きた
人間としてね、あなた方が入りやすいから。
それでもって、あのイエスの衣のすそをつかんで、
長血の女が癒されたという話があるけれど、それと
同じように、五井先生と呼んだことで、何か子供の
病気が直っちゃったとか、色んな話があるでしょう。
五井先生と呼ぶことで、私を思い浮かべる
ことで、実は、皆さん、神様のそういう極みのない
愛、癒しの御手、そういうものを、光明を
もらうんですよ。私を通してもらうんですよ。
何故かというと、私はその時に、五井昌久
という人間の想いは何もかも消えてしまって
いるから、消してしまっているから、場所に
なっているから、そこで五井先生というんだって
私個人を呼んでいるんじゃなくて、私を通して
神様というものの愛が、直接あなた方の所に
行って、光が直接あなた方の所に行って、そして
あなた方の中にある光が又呼び合って、そうして
それが、天空で地上で一つになって世界を
駆け巡って、平和の気を流してゆく。そういう
仕組みになっている訳です。
だから、往相も還相も一つ。円環なんですよ。円環の
印ってやったでしょう。円環の印なんですよ。だから、
本当に宇宙をぐるぐる廻っている。印の結びなんです。
だから、どういう印だろうと、どういう形を
とろうとね、人間は形をとらないとなかなか人間
というのは弱いんで。何かの形をとらないと
何かの名前を呼ばないと、何か対象を持たないと
やっていけないというのがありましてね。
無目的では何か出来ない。ね、平和のピース塔
だってそうだし、色んな事を目的を持って
やらなければ集まって来ない。だから、〇〇が
ピースポールを何本買ったとかどうとかという
話だって、そういう事をしないと行動が出来ない
という、人間の弱さがあるし、又可愛いさもあって
そういう事をこっちは見抜いているから
そういう風な形にして流してゆくんだけれども。
しかし本当のところは、ピースポールが何十本
どうのとか、どこの支部がどうのこうのとか何だ
とかじゃなくって、どれだけ直接、神様のみ心が
愛だということを信じてね、それが自分のものと
して、そうして難かしいけれども生きてゆけるか
ということなんです。
だから、そこへ行くまでにね、五井先生五井先生
辛いです、すいませんというのは、幾ら言っても
構いませんと、私言いましたでしょう。
言わないとみんな大乗でやって行けないんですよね。
例えば、南無阿弥陀仏でも、あれは光明信仰で
ものすごくいい言葉なんで、南無阿弥陀仏と世界人類が
平和でありますように、あるいは主の祈り、皆
同じだけの救済力がある。同じ事なんですよ。
だけれども、今この現代の中で、世界人類が平和で
ありますようにという方が分かり易いでしょう。
今現在、私たちがこの世界の中に生きていて人類の
一人なんだし、そして、人類が我々が平和であるように、
平和に生きて行けるようにというのは、我々人間の念願
なんだし、本願なんだし、しかし、その本願をつくった
もの念願を生み育てたもの、それが何かというと
それは神様なんですね。やっぱり。
神様の根っこに我々は深く入って行って、そして
そこから生命の声を出して行かないと、祈りの声を
出して行かないとだめなんです。
そういう意味で、私は、世界人類が平和で
ありますようにという、あの世界平和の祈りの中にも、
五井先生と言う唱名ランニングの中にも、それは全部
一つであって、どれを唱えようと唱えまいと、五井先生
というのは、どこをどうとっても五井先生に辿り着くんだ
ということを、この際覚えていただいて置いたら、
大変良かろうと思います。
昭和63年7月22日