祈りというものを
忘れた宗教
それは
もはや
宗教ではありません
祈りというのは
どういうことかと
いいますと
神と人との
和合なのです
もともと一つであった
分かれている(ホントは分かれちゃ
いないんだけれども)いのちが
お互いを確認して
抱き合う
抱き合うのは親と子
つまり
神様と我々人間です
それが
祈りなんです
だからといってね
神様も
人間も
ずーっと別々に離れていた
なんて考えちゃあ
それは間違いなんですよ
とんでもない間違い
神様は離れちゃいないのね
ずっと手を差しのべたまんまですよ
ずっとこう
手を広げてね
大きく広げて
さあいつでも
おいで
抱いてあげると
スタンバイしてる
それが神様なんですよね
ところが
私がいつも言いますように
この波動の粗い
肉体界におりてきて
肉体をまとってね
くらしてくうちに
人間は、霊じゃなくて
肉が自分の主人だと思っちゃった
そうして
この肉体が三千世界だと
おもっちゃったんですね
だから
この肉体がなくなったら
自分はどこに行くんだろうと
思っちゃってね
もう、不安で不安でしょうがない
そういう状態で
ずっと来たわけですよね
本当は
我々のいのちは
神様からきていて
我々が神様を
忘れ果ててる時でも
神様の方では
ちゃんと一人一人を
見守ってね
だからこうして
我々は
生きてられるんだけども
肉体だけと思っちゃった
人間は
そこに神様が
いるなんて思えなくなって
しまったんですよね
それでも
うんと苦しい時に
神様仏様
助けて下さいってよく言いますよね
苦しい時の神頼みね
あれは
神様なんてないと
この想念で思っていましても
私どもの
奥の奥のからだは
神様によって
生かされている
ということを
知ってるわけでして
それで
いよいよ苦しい時には
命の親である
神様をよぶと
こういうわけですよね
必死の思いでよびかける
ところが
祈りというものは
もっと自然な
もっと平安にみちたものでしてね
私と神様との
私と本心の光との
対話ですからね
もうこれは
本来平和の光にみちているわけです
じゃあ、必死のおもいで
神様!ってよぶ
その心はどうなるのかというと
これも
絶対に無駄にはならないんです
なぜかといいますとね
いいですか
人間というのは
先ず
神の光によって生まれたもの
神によって
いのちを吹き込まれた存在です
ですから
どんなになっても
おおもとを忘れかけて
苦しくなった時には
神様をよぶように出来ている
呼ばなきゃ
生きてゆけない
自分がどこからきて
どこへこの生命が
流れてゆくのか
ということをですね
確かめないと
一瞬も
安心出来ない
そういう存在なんですよ
だから
そのおおもとが
ぐらついた時には
神様ってよぶ
よばなきゃいられないんです
それで
自分というものは
どういうものなんだという
ことを
みんなの奥の心が
確かめて
それで
生きてゆけるんです
私はいつも
世界平和の祈りは
エレベターだといってますけど
こうやって
神様って
呼んだ時には
その人は
祈りというエレベーターの中に
緊急避難したようなもんなんです
そこから
あらためて
神様のこと
自分を生かしている生命のこと
なんかを考えてく
それで
ずっとおちついてくると
その人なりの祈りが
口をついて出てくるんです
ですからね
神様助けて下さい‼って
いった時には
もうその人は
神様というチャンネルを
ひねって
実は神様の中に入ってるんです
祈るということは
神様と一緒だ
いつも一緒だと思うこと
同行二人ですよね
けれど
そう思うためには
神様というチャンネルを
ひねらなきゃ
何にもなりませんでしょう
アンテナを神様に合わせないとね
そこから祈りは
深くなってゆくんです
先ず
神様というアンテナ
に合わせること
スイッチをひねって
チャンネルを
合わせて
すべては
そこから始まるんです
ですから
苦しい時の神頼みというのを
私はちっとも
軽べつしません
神様というのはね
何とかして
人間を
抱きとろう抱きとろうと
あらゆるチャンスをつくって
待って下さってるんです
だから
神様助けて下さい
うちの会だと
守護霊さん
守護神さん
助けて下さい
それも大変な時は
五井先生
お願いします
ですよね
そうすると
どうなるかというと
私という空っぽのからだをとおしてね
私をよんだ人にですね
神様の愛念がパーッと行くわけですよ
瞬間にゆくわけ
それは
とっても
はやいんです
呼んだ瞬間に
こっちにすりゃあ
呼ばれた瞬間に
その人を
光で愛でおおっている
神様が愛で抱きとってるんです
すごいですよ
神様の愛というのはね
それでもって
さあおちついたかい
それじゃあ
あなたの知ってる祈りを
やってごらんと
こうなるわけですよ
人間というものは
一たん
愛で抱きとられて
激しくないて
訴えて
おちついてくると
今度は
神様との
会話を
始めるんです
それが祈りです
会話してゆく内に
段々
我がうすれてきて
ただ
神様と話すことが
嬉しくなって
そのうちに
我というものがなくなっちゃって
ただもう
神様神様と
おもっちゃう
こうなると
その人は
どこもかしこも
光ってるんです
光でいっぱいになっている
そうして
元々の人間の本来
神の光明体
光のからだを
あらわしてゆくんです
もうその頃になると
自分で光ろうなんて
思ってない
光ってるとも思わない
ただ
神様と話すのが
嬉しくて
嬉しくて
しようがない
自分というものが
なくなっちゃってるんです
自分というものを忘れてる
ねっ
それでもってただ嬉しいわけ
その嬉しいというのは
あなた方の本心が
あなたをつくってる
元々が嬉しがるわけですよ
こうやって
祈りっていうのは
どこまでも
どこまでも
自分を昇華して
澄み清めて
すきとおった
純な心になって
遂に光そのものになるまで
つづいてゆくんです
ね、
人間っていうのは
いつでも祈ってんですよ
みんな気付かないけれど
絶えず祈っている
15分
統一して
これで今日のお祈りはおわり
なんてそんな
ちゃちなものじゃないんです
もう
どんな時でも
祈っている
祈りつづけている
全身全霊
未来永劫
人間というのは
祈りのかたまりです
その祈りは
神様とともにあるというよろこび
自(おの)ずから
自分の光に
気付いてゆくよろこび
自分のいのちが
光っていることに気付くよろこび
これなんです
あなた方が祈る時
そこは光になります
なぜならみんな
神様の子ども光の子
だからです
祈りは光、光そのものなのです
昭和62年3月5日
忘れた宗教
それは
もはや
宗教ではありません
祈りというのは
どういうことかと
いいますと
神と人との
和合なのです
もともと一つであった
分かれている(ホントは分かれちゃ
いないんだけれども)いのちが
お互いを確認して
抱き合う
抱き合うのは親と子
つまり
神様と我々人間です
それが
祈りなんです
だからといってね
神様も
人間も
ずーっと別々に離れていた
なんて考えちゃあ
それは間違いなんですよ
とんでもない間違い
神様は離れちゃいないのね
ずっと手を差しのべたまんまですよ
ずっとこう
手を広げてね
大きく広げて
さあいつでも
おいで
抱いてあげると
スタンバイしてる
それが神様なんですよね
ところが
私がいつも言いますように
この波動の粗い
肉体界におりてきて
肉体をまとってね
くらしてくうちに
人間は、霊じゃなくて
肉が自分の主人だと思っちゃった
そうして
この肉体が三千世界だと
おもっちゃったんですね
だから
この肉体がなくなったら
自分はどこに行くんだろうと
思っちゃってね
もう、不安で不安でしょうがない
そういう状態で
ずっと来たわけですよね
本当は
我々のいのちは
神様からきていて
我々が神様を
忘れ果ててる時でも
神様の方では
ちゃんと一人一人を
見守ってね
だからこうして
我々は
生きてられるんだけども
肉体だけと思っちゃった
人間は
そこに神様が
いるなんて思えなくなって
しまったんですよね
それでも
うんと苦しい時に
神様仏様
助けて下さいってよく言いますよね
苦しい時の神頼みね
あれは
神様なんてないと
この想念で思っていましても
私どもの
奥の奥のからだは
神様によって
生かされている
ということを
知ってるわけでして
それで
いよいよ苦しい時には
命の親である
神様をよぶと
こういうわけですよね
必死の思いでよびかける
ところが
祈りというものは
もっと自然な
もっと平安にみちたものでしてね
私と神様との
私と本心の光との
対話ですからね
もうこれは
本来平和の光にみちているわけです
じゃあ、必死のおもいで
神様!ってよぶ
その心はどうなるのかというと
これも
絶対に無駄にはならないんです
なぜかといいますとね
いいですか
人間というのは
先ず
神の光によって生まれたもの
神によって
いのちを吹き込まれた存在です
ですから
どんなになっても
おおもとを忘れかけて
苦しくなった時には
神様をよぶように出来ている
呼ばなきゃ
生きてゆけない
自分がどこからきて
どこへこの生命が
流れてゆくのか
ということをですね
確かめないと
一瞬も
安心出来ない
そういう存在なんですよ
だから
そのおおもとが
ぐらついた時には
神様ってよぶ
よばなきゃいられないんです
それで
自分というものは
どういうものなんだという
ことを
みんなの奥の心が
確かめて
それで
生きてゆけるんです
私はいつも
世界平和の祈りは
エレベターだといってますけど
こうやって
神様って
呼んだ時には
その人は
祈りというエレベーターの中に
緊急避難したようなもんなんです
そこから
あらためて
神様のこと
自分を生かしている生命のこと
なんかを考えてく
それで
ずっとおちついてくると
その人なりの祈りが
口をついて出てくるんです
ですからね
神様助けて下さい‼って
いった時には
もうその人は
神様というチャンネルを
ひねって
実は神様の中に入ってるんです
祈るということは
神様と一緒だ
いつも一緒だと思うこと
同行二人ですよね
けれど
そう思うためには
神様というチャンネルを
ひねらなきゃ
何にもなりませんでしょう
アンテナを神様に合わせないとね
そこから祈りは
深くなってゆくんです
先ず
神様というアンテナ
に合わせること
スイッチをひねって
チャンネルを
合わせて
すべては
そこから始まるんです
ですから
苦しい時の神頼みというのを
私はちっとも
軽べつしません
神様というのはね
何とかして
人間を
抱きとろう抱きとろうと
あらゆるチャンスをつくって
待って下さってるんです
だから
神様助けて下さい
うちの会だと
守護霊さん
守護神さん
助けて下さい
それも大変な時は
五井先生
お願いします
ですよね
そうすると
どうなるかというと
私という空っぽのからだをとおしてね
私をよんだ人にですね
神様の愛念がパーッと行くわけですよ
瞬間にゆくわけ
それは
とっても
はやいんです
呼んだ瞬間に
こっちにすりゃあ
呼ばれた瞬間に
その人を
光で愛でおおっている
神様が愛で抱きとってるんです
すごいですよ
神様の愛というのはね
それでもって
さあおちついたかい
それじゃあ
あなたの知ってる祈りを
やってごらんと
こうなるわけですよ
人間というものは
一たん
愛で抱きとられて
激しくないて
訴えて
おちついてくると
今度は
神様との
会話を
始めるんです
それが祈りです
会話してゆく内に
段々
我がうすれてきて
ただ
神様と話すことが
嬉しくなって
そのうちに
我というものがなくなっちゃって
ただもう
神様神様と
おもっちゃう
こうなると
その人は
どこもかしこも
光ってるんです
光でいっぱいになっている
そうして
元々の人間の本来
神の光明体
光のからだを
あらわしてゆくんです
もうその頃になると
自分で光ろうなんて
思ってない
光ってるとも思わない
ただ
神様と話すのが
嬉しくて
嬉しくて
しようがない
自分というものが
なくなっちゃってるんです
自分というものを忘れてる
ねっ
それでもってただ嬉しいわけ
その嬉しいというのは
あなた方の本心が
あなたをつくってる
元々が嬉しがるわけですよ
こうやって
祈りっていうのは
どこまでも
どこまでも
自分を昇華して
澄み清めて
すきとおった
純な心になって
遂に光そのものになるまで
つづいてゆくんです
ね、
人間っていうのは
いつでも祈ってんですよ
みんな気付かないけれど
絶えず祈っている
15分
統一して
これで今日のお祈りはおわり
なんてそんな
ちゃちなものじゃないんです
もう
どんな時でも
祈っている
祈りつづけている
全身全霊
未来永劫
人間というのは
祈りのかたまりです
その祈りは
神様とともにあるというよろこび
自(おの)ずから
自分の光に
気付いてゆくよろこび
自分のいのちが
光っていることに気付くよろこび
これなんです
あなた方が祈る時
そこは光になります
なぜならみんな
神様の子ども光の子
だからです
祈りは光、光そのものなのです
昭和62年3月5日