宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

宝について

2011-07-10 09:34:08 | 祈り
 私のところへ色んな人が来ます。まあこういう
言い方をすると誤解する人もあるかもしれない
けれども、地位のある人も来るし、お金を持ってる
人も来るし、社会的に名誉をもってる人にも会った
ことはあるし、かと思うと、その日をどうやって
お米代を出そうかといって悩んでる悲しんでる人も
来ましたし、未だに色んな人の姿をこちらから
見ておりますが、つくづく思う事は、余分なものを
持たないことの清しさ。

 ところが、人間というのは余分なものを持ちたく
なる。で又、持ちたいと想う時、持たされている時
というのは、余分なものだとは思わないですね。
 例えば、会社に勤めていて、月給が上がっていく。
 上がっていくことはそれで生活が楽になって
くる事だから、それは安心立命の元なんで、
良かったですね、としか言い様がない。
 普通ならばそうなんだけれども、段々段々
10万円で生活していたものが20万になって
20万円で生活していたんが30万になっていくと
これは、30万の生活に慣れると、今度逆に
20万にする10万にするというのは非常に
難しいんですね。
 今までの生活の習慣といいますか、これだけの
経済でこれだけの事をやっていくというのが、もう
多ければ多いことに慣れているから、それを
減らしてやっていくというのは、何か自分の立場
とか自尊心とか、今までの経歴とかいうものも全部
否定されるような気になる。だから、なかなか
諦めていくということは難しい。経済一つとっても
人間というのはなかなか不自由に出来ているんです。

 たとえば、欲というものは良い欲と悪い欲と
あってですね。悪い欲というととらわれている
みたいだけれども。何が何でもお金が欲しい地位が
欲しい名誉が欲しいというので、ガリガリ亡者の
様に、そういう気持ちでものを求めていって手に
している人というのを見ると、中身がカラッポ
と申しますか、外見だけ色々あるんだけれども
中身が非常に空虚な感じがする。物質的に色々
持っていても何か非常に虚しい。何によって
この人の心は救われていくんだろうかと気になる。
 そういう事をつくづく考えてみると、人間が
どういう時に一番自由になるんだろうか、どういう
時に朗らかになるんだろうかということになると
自分を忘れている時ですね。自分が何処に属していて、
どういう給料をもらっていて、あるいは今どういう
立場で、どういう顔して生きていくか、生きて
いかなきゃいけないか、そういう色んな煩いを
忘れていって、そして、本当に赤児の様な本当の
自分の顔を出してる、その一瞬の時に人間という
のは救われていく訳ですね。

 それは別に、宗教を持ってるもってないに
関わりなくそうなんです。私共はそういう我を
忘れた本来の自分の素顔、ふっと出すその素顔が
5分でも10分でも15分でも長続きをして、自分も
人も良くなっていくように祈っていく。光が
満ちてく様に祈っていく、想いや願いではなく、
そこへ祈りが加わって、ついには祈りによって、
自分も人も皆が救われていくといいますかね、
そういう大きな愛情に包まれる。そこを目指す
訳なんですね。

 だから、実は、そういう風にして空になって
無になって、そこも突き抜けていきますと、本当に
人間というのは、先程から言ってるように、自由に
なって解き放たれる。その時に、人間というのは
何も持っていないようだけれども、実は身も心も
突き抜けて、一番の宝物を持ってることになる
それは何かというと、何ものにも煩わされない
何ものにも強制されない自分自身というのがそこへ
素直に出せる。その時に人間というのは一番安心
するんです。

 それは私の方から言いますと、神様の愛という
ものを知って、神様の自分が子供であるという
ことを知って、神様が全部知って下すってる
そのふるさとへ帰って、ふっと安らぐ時に、人間
というのは一番安心するんです。そいういう風に
人間というのは出来てるもんなんです。
 神様というのは我々のふるさとだから、別に宗教
でなくても、芸術であっても何であってもとに角
人間というのは、そのふるさとを目指して
歩いている旅人みたいなものですから、そこへ
我々は、どんな形であっても、その人達を連れて
行きたいと思う訳です。

 自分の中にある宝というものを持ち腐れに
しないで、その宝を確認して祈ってやっていくと
益々自分自身も張り切ることが出来るし、輝く
ことが出来るし、まわりも喜ぶことが出来る。

 これはもう、自分も他人も両方の成道
なんでしてね。道が成っていくのであります。
 ですから、そこをすべての宗教家は目指し
ましたし、私自身もそれを目指して今までやって
来ている訳だし、これからもやっていく訳
であります。その為に、世界人類が平和で
ありますようにという祈りは、誠に絶大な力を発揮
する訳でありまして、唯無心にこの祈りを唱えて
そうして神様に任せていく。その時に本当に
自分自身が自分自身として生きる。その喜びの瞬間
というものを取り戻すことが出来る。そうして
それがずっと続いていくと、やがて道がついて
いって、自分も知らない間に、あーこんな所まで
来てしまったかというような所まで、神様という
のは連れていって下さる。そういう事を信じて
そうして謙虚になって、この祈りを唱えていきたい
ものだと思います。
             昭和63年6月13日   
 
                  五井 昌久