(前日からの続き)
さて、そこで一旦我々の眼から覆わされた救い
救われ(この世的には、災難・苦難・突然死など
理不尽にみえるもの)は、それぞれ生命に必要な
時期を選んで現われて参りますが、人間の
眼からはこれがそういうものだとわかるのに、
時間がかかるようになっておりますので、十分に
この世の波と闘う用意もでき、またその備えとして
先回申しました「拠り所」、道というものが準備
されているわけなのです。
光に変えるための生命の修行といっても、
目に見えないこれらのものを肉体をまとった人間が
ただちに行じ、行うにはこの世の構造は何段階にも
分かれているわけで、また、そうでなくては
新しく生まれてくる生命、また、この世を去って
三界に新たに生命を吹き込む人々を、送ることは
とてもできないのであります。
このための道であり、生命であり、これを支える拠り所
であるわけです。
つまり道は、救い、救われを補助するもの
として、我々人間に与えられているものだと理解
されると一番わかりが早いわけです。
この道一つにしましても、一人一人の生命
によって全く違う現われをするのが、神様の芸の
細かい所でありまして、我々はこの神の働きの
細密さに助けられて、真理への道を歩いていると
いっていいのであります。
さて、そこで一旦我々の眼から覆わされた救い
救われ(この世的には、災難・苦難・突然死など
理不尽にみえるもの)は、それぞれ生命に必要な
時期を選んで現われて参りますが、人間の
眼からはこれがそういうものだとわかるのに、
時間がかかるようになっておりますので、十分に
この世の波と闘う用意もでき、またその備えとして
先回申しました「拠り所」、道というものが準備
されているわけなのです。
光に変えるための生命の修行といっても、
目に見えないこれらのものを肉体をまとった人間が
ただちに行じ、行うにはこの世の構造は何段階にも
分かれているわけで、また、そうでなくては
新しく生まれてくる生命、また、この世を去って
三界に新たに生命を吹き込む人々を、送ることは
とてもできないのであります。
このための道であり、生命であり、これを支える拠り所
であるわけです。
つまり道は、救い、救われを補助するもの
として、我々人間に与えられているものだと理解
されると一番わかりが早いわけです。
この道一つにしましても、一人一人の生命
によって全く違う現われをするのが、神様の芸の
細かい所でありまして、我々はこの神の働きの
細密さに助けられて、真理への道を歩いていると
いっていいのであります。