(前日からの続き)
目は口ほどにものをいうということは、我々が
日常に経験していることであります。
こういうときには、我々は、言葉よりも、
直接に、相手の心にじかに、自分の心を
ぶつけてゆくことになるのです。
無言であっても、その無言であることが、
百万言をついやすよりも、その人の心を
あらわしているということです。
私ども、宗教にたずさわります者は、
こうした心、言葉を超えた人間の心
というものに敏感でなければなりません。
心というものを言葉でおおうことは
出来ません。
言葉を心でおおうことを、むしろ、
私たちは心がけるべきであります。
そして、自分の心と、人の心を大事にして、
ともに祈りの座につきながら、愛という、
人間の言葉を超えた神の心に、すなおに
溶け込んで参りましょう。
昭和61年8月29日
五井 昌久
目は口ほどにものをいうということは、我々が
日常に経験していることであります。
こういうときには、我々は、言葉よりも、
直接に、相手の心にじかに、自分の心を
ぶつけてゆくことになるのです。
無言であっても、その無言であることが、
百万言をついやすよりも、その人の心を
あらわしているということです。
私ども、宗教にたずさわります者は、
こうした心、言葉を超えた人間の心
というものに敏感でなければなりません。
心というものを言葉でおおうことは
出来ません。
言葉を心でおおうことを、むしろ、
私たちは心がけるべきであります。
そして、自分の心と、人の心を大事にして、
ともに祈りの座につきながら、愛という、
人間の言葉を超えた神の心に、すなおに
溶け込んで参りましょう。
昭和61年8月29日
五井 昌久