宇宙(そら)は家

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五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
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神 の 愛(5)

2023-11-12 14:48:18 | 祈り
     (前日からの続き)
はじめは、やり場のないかなしみや、
苦しみが、自己をとらえ、しばり、むしろ
不自由ななかで、神に向かっての叫びを
挙げるのでありますが、何にしろ、絶対の神に
向けられる(人のまなざしが)ということが、
光の源である神にとっては、むしろ、その
一人一人の運命と愛念をおくりやすく
なるわけで、この辺りが、痛み、苦しみ、
苦労を、ただのがれたいともがき、神に
むかって、恨みつらみをいう私ども人間の
計算では、計ることのできない神のみ心
なのであります。
いつも説いておりますように、神という
ものは、絶対の愛でありまして、人間
一人一人はその神の愛し児であり、神の
分生命(わけいのち)なのでありますが、
その人の生まれた環境、また、育ち方、
それぞれによりまして、天から与えられた賜物
とは別に、前に述べました、思いグセが、
その人の個性の中に、一見深く喰い込んで、
なかなかこれがやっかいなものなのであります。

神様は、そうした人間一人一人のクセを全て
御存知で、み心のなかに、その人の天命が
溶け入り溶け込み、遂に大神様のふところに
いだかれて、一体となるまでには、何を
のぞかなければならないか、また、どこで、
いわゆる運命の修正をさせる為に、修行を
させ、人と会わせ、よろこびや、かなしみを
与えて、その霊なる命が成長してゆくように
仕向けなければならないかということなどを、
全て御存知なのであります。
しかも、人一人の天命が完うされるというのは、
一生や二生のことではなく、何百生をかけての
ことであって、そこを全て御覧になった上での
愛念の発揮であり、それを助けるものが祈り
であって、その祈りが生きるためには、時々に、
神に対して恨みの声を挙げることをも、御承知の
上でのことであることを知る必要があります。
恨みや、そねみが、一時的にその人をとらえ、
業想念がその人をとりまいたとしても、永遠の
真理の眼からみれば、それは、真の祈りに
昇華させ目覚めさせるための第一段階
であるのであります。

そこで、実相は今私が申し上げたとおり
なのですが、かっての古代の人々のように、
神様と二人というような純朴な信仰心、
神への眼を、科学が発達し、人間に与えられた
理性を、過度に信頼し、遂に、信仰するにまで
至っている今日の社会に生きる人々に、
こうした往相と還相とをむずかしい言葉で
説いたところで、それは、一つの哲学
としてのみ心に消化されるのが精一杯
なのであります。
         (つづく)