宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

世界平和の祈りと五井先生の唱名(8)

2021-09-25 08:05:16 | 祈り
      (前日からの続き)
今現在、私たちがこの世界の中に生きていて、
人類の一人なんだし、そして、人類が我々が
平和であるように、平和に生きて行けるように
というのは、我々人間の念願なんだし、本願
なんだし、しかし、その本願をつくったもの、
念願を生み育てたもの、それが何かというと、
それは神様なんですね。やっぱり。

神様の根っこに我々は深く入って行って、
そして、そこから生命の声を出して行かないと、
祈りの声を出して行かないとだめなんです。

そういう意味で、私は、世界人類が平和で
ありますようにという、あの世界平和の祈りの
中にも、五井先生と言う唱名ランニングの
中にも、それは全部一つであって、どれを
唱えようと唱えまいと、五井先生というのは、
どこをどうとっても五井先生に辿り着くんだ
ということを、この際覚えていただいて
置いたら、大変良かろうと思います。
   昭和63年7月22日

世界平和の祈りと五井先生の唱名(7)

2021-09-24 05:23:38 | 祈り
   (前日からの続き)
だから、往相も還相も一つ。
円環なんですよ。
円環の印ってやったでしょう。
円環の印なんですよ。
だから、本当に宇宙をぐるぐる廻っている。
印の結びなんです。

だから、どういう印だろうと、どういう形を
とろうとね、人間は形をとらないとなかなか
人間というのは弱いんで。
何かの形をとらないと、何かの名前を
呼ばないと、何か対象を持たないと
やっていけないというのがありましてね。

無目的では何も出来ない。
ね、平和のピース塔だってそうだし、
いろんな事を目的を持ってやらなければ
集まって来ない。
だから、〇〇がピースポールを何本買ったとか
どうとかという話だって、そういう事を
しないと行動が出来ないという、人間の弱さが
あるし、また可愛いさもあって、そういう事を
こっちは見抜いているから、そういう風な
形にして流してゆくんだけれども。

しかし本当のところは、ピースポールが
何十本どうのとか、どこの支部がどうのこうの
とか何だとかじゃなくって、どれだけ直接、
神様のみ心が愛だということを信じてね、
それが自分のものとして、そうして
難かしいけれども生きてゆけるかということ
なんです。

だから、そこへ行くまでにね、五井先生、
五井先生辛いです、すいませんというのは、
幾ら言っても構いませんと、私
言いましたでしょう。

言わないとみんな大乗でやって行けないん
ですよね。
例えば、南無阿弥陀仏でも、あれは光明真言で
ものすごくいい言葉なんで、南無阿弥陀仏と
世界人類が平和でありますように、あるいは
主の祈り、皆同じだけの救済力がある。
同じ事なんですよ。

だけれども、今この現代の中で、世界人類が
平和でありますようにという方が分かり易い
でしょう。
           (つづく)

世界平和の祈りと五井先生の唱名(6)

2021-09-23 10:15:45 | 祈り
     (前日からの続き)
我々は毎晩毎晩、前に言いましたように、
霊界に行って霊要素をとって帰って来て、
そうして、また日常のエネルギーにかえて、
それで毎日を生きている訳ですね。
眠らないと死んじゃうというのは、霊要素
とらないと死んじゃう訳だから、そうなる
訳だから。
そうなるんだけれども、しかし、それという
のは、やっぱり真実の自己を本当の意味で
養っていく。
真実の自己が何処にあるかを、常に常に
自分の本心に照らして、そうして祈りの中で
覚えてゆく。

で、その為にやはり祈りというものが
ある訳で、そうして、世界人類が平和で
ありますようにという、世界平和の祈りも、
五井先生というのも、みんな連らなって一つ
であって、何がどうの、こっちが良いとか
悪いとか、そういう問題ではない訳なんです。

だから、仮に私がね、五井昌久という人間
として個性としてね、六十何年かの生涯を
生きた人間としてね、あなた方が
入りやすいから。

それでもって、あのイエスの衣のすそを
つかんで、長血の女が癒されたという話が
あるけれど、それと同じように、五井先生と
呼んだことで、何か子どもの病気が
治っちゃったとか、いろんな話があるでしょう。
五井先生と呼ぶことで、私を思い浮かべる
ことで、実は、皆さん、神様のそういう極みの
ない愛、癒しの御手、そういうものを、光明を
もらうんですよ。
私を通してもらうんですよ。

何故かというと、私はその時に、五井昌久
という人間の想いは何もかも消えてしまって
いるから、消してしまっているから、場所に
なっているから、そこで五井先生と
いうんだって私個人を呼んでいるんじゃ
なくて、私を通して神様というものの愛が、
直接あなた方の所に行って、光が直接
あなた方の所に行って、そして、あなた方の
中にある光がまた呼び合って、そうして
それが、天空で地上で一つになって世界を
駆け巡って、平和の気を流してゆく。
そういう仕組みになっている訳です。
          (つづく)

世界平和の祈りと五井先生の唱名(5)

2021-09-22 05:33:52 | 祈り
     (前日からの続き)
決して私を個人崇拝するのではなくて、
五井先生という人間が到りついた、一つの極点
ですよね。
つまり、神界に自分の本当に朗らかな生命が
働いている、霊界にも働いている、そして、
肉体の奥にも働いている、それが燦然となって
合体して、そうして貫いているものが我々をまた
つき動かしている。
その真理を私は五井先生という中へ入っている。
だから、お釈迦様と言うのと、キリストと
言うのと、私と言うのと、どれ呼んでも一緒
なんですよ。
で、五井先生と呼びたくなきゃ、他のものを
呼んだって、結局、私の所へ連らなって
やって来ます。
だから、唱名ランニングの時にね、世界人類が
平和でありますようにと言ったって、五井先生
五井先生と言ったって、結局一緒なんで、どっち
にも私が生きてるしね。
私が生きてるということは、神様のみ心の中に
私が入ってるし、あなたも入ってるし、あなた方
皆一人一人が入って、実は、その皆の愛の想い、
皆の光の想い、それが連らなり合って、そうして
あの祈りになってるんだ。
だから、往相がどうのとか、還相がどうのとかね、
そういう問題じゃないんです。
往相も還相も一緒なんです。
               (つづく)

世界平和の祈りと五井先生の唱名(4)

2021-09-21 11:23:25 | 祈り
     (前日からの続き)
だけれども、私の本当の所というのは、
それはもう神様と本当に一つになった、
朗らかな生命そのものである自分が、
それから以後は働いて行った訳なんです。
だから、五井先生と呼びなさいという時には、
その五井昌久という、小っちゃいね、
こういう個性を持ったね、そういう個人を
呼んでどうのこうのじゃなくて、
私の真実の自己、誰もがみんな持っている
真実の自分自身、光り輝いている
迷いようのない疑いようのないね、
把われようのない自己自身ですね、
神様の愛ですよ、その自分自身を拝みなさい
という事なんですよね。
だから、それが私という名前、五井先生
という名前になる。
例えば、クリスチャンの人だったら、それが
イエス・キリストになる。
キリストはね、神様の言葉を語った時には、
やっぱり光そのものになっているんです。
あの人の中にはイエスという個人もなければ
何にもない。
語っている時には全く何もなくなって、
あの人自体は肉体を持っているけれど、もう
空になって、その時には光だけになっている。
釈迦にしてもそうですね。
つまり、そういう場所としての自分は
あるけれど、しかし、奥で何か眠っていた
自分を引きずり出されて、それが自分の主だ
という事に気がついて、そこを本当に
拝んだらね、本当に拝んでゆけば、本当に
祈りの光が増していって、自分の生命の
光が極まっていって、光明燦然とした世界に
なって行くんだ、そうして、神様に一直線に
つながって行くんだ、その事を私は体験した
訳なんです。

それと同時に、世界人類が平和であります
ように、あの祈りをいただいた訳なんです。
ということは、あれは神様のみ心だけれども、
もちろんそうだけれども、あの時に、神様が
本当に愛だ愛だ、神様という方は裁いたり
責めたりね、人間を悩ましたり、本来的
にですよ、本当のところ人間を愛しこそすれ、
我々をいじめたりとかね、そういうことは
決してなさらない。
そこの底のところで絶対に肉体人間を理解を
して、気持ちを理解して、心を抱いて下さる、
そういう方なんだということをね、あの時に
思い知った訳ですよ。
だから、そういう神様のみ心の中に私は
飛び込んじゃった訳ね。
だから、世界人類が平和でありますように
という、あの文字に書けば何行かの祈りに
なるけれども、あの祈り言葉の中にも私自身の
本体は輝いているし、そして、五井先生と
唱える時にはですね、それは個人の
このちっぽけな男を指して、それを拝め拝め
と言ってる訳ではなくてね。
五井先生が、本当に天の私を見い出してね
地上の私と合体させて、そして、朗らかな
本当の生命の源、大生命のもと、大宇宙の
宇宙神の愛のみ心を、ここで自分のもの
とした、そういう朗らかな人になった、
そういう意味での五井先生を、五井先生と
呼ぶ時に、我々は五井先生を通して神様へ
行くんだと。
          (つづく)