宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

統一ということ(3)

2023-03-26 09:02:52 | 祈り
     (前日からの続き)
キリスト教だろうと仏教だろうと、白光
真宏会だろうと何だろうとね、みんな
そうなんですけどね。
我々は、世界人類が平和であります
ようにという、神様のひびきから出た
この大光明の言葉によって、祈りによって、
愛深くならせたまえというその祈りを、
この言葉の中に深く感じとって、そして
祈っていく訳です。
我々はこれを梯子にする訳です。
エレベーターにする訳です。
だから、統一というのはね、何も難しいこと
じゃないんです。
有りのままの自分自身をそのまま持って
来られていいんですよ。
病んでいれば病んでいるまま、疲れて
いれば疲れているまま、言葉が出なきゃあ、
それでいいんです。
別に守護霊さんや守護神さんもいるんだしね。
あなた一人だったら大変だけど、その人たちが
助けてくれるんだし、五井先生もいるんだし、
皆いるんだから。
私がしなければと思っちゃうと、私が私がの我
になっちゃうから。
その時そのまんまの有りのままの、憂い辛い
そのままの気持ちでね。
ただ祈れる時には祈る。
それくらいのつもりで統一会に出て
いただけたらね、ふんわり出来ましょう。

やっぱり、ふんわりしなきゃあ駄目ですよ。
神様と向かい合うのにねえ、カチンコチン
になって緊張してね、もうどうしましょう
なんて思ってると、それだけでこっちは
くたびれるよね。
神様とはふんわりしたもんなのよね。
愛情も深いし、受けとめる器も深く大きいし、
これはもうたいしたもんなんですねえ。
神様自体がふんわりしてらっしゃるんだから、
神様の子どもである流れであるあなた方も、
ふんわりして下さらないと、神様の流れ
というものが、いやにしゃっちょこ張って
こっちに映ってくるんですよね。
こういうふうにいきなければならない
というように映ってしまっちゃあねえ、
統一も何もないんですよ。

だから、テープにあるでしょ。
私は統一できなかったとか、いろいろ
湧いたとかね、何か変なものが見えたり
聞こえたり、雑念が湧いたりすることだけに
皆把われちゃうけれども、そういうのは
みんな通過点なんですよね。
そこを通り過ぎて、その人が意識するしないに
かかわらず、皆それぞれの本心にたどり着く
ように、統一というものはもっていくもの
なんですよ。
それは、神様の側でもっていって下さる
もんなんです。
だから、どういうものが見えても聞こえても、
雑念が浮かんでも構わないんです。
それは本質そのものじゃない。
それは贋物か本物かといわれれば、本物じゃ
ない訳ですからね。
それが神様じゃない訳ですからねえ。
贋物だとは言わないけれど、そこを通り過ぎて
行った時に、やっとといいますかね、
神様のふるさとの、素晴らしい愛に抱かれる
ことが我々はできる。
            (つづく)

統一ということ(2)

2023-03-25 07:41:43 | 祈り
     (前日からの続き)
禅をやってる坊さんたちでも同じことです。
自分の中に仏がいるんだというとね、
皆自力本願になっちゃって、何か傲慢無礼
のように思いますけれどねえ。
あれだって一つの真理でしてね、自分の中に
仏がいるんだってことは、自分は小宇宙なんだ
ということと一緒なんです。
その宇宙というものを自覚して、その宇宙の
広がりといいますか、もっと言葉をやさしく
言えば、自分がその神様からいただいている
宇宙の光でもって、皆さんに少しでも
やわらいでいただくということ。

例えば、自分の笑顔とか、あるいは、
自分の作った料理を食べてもらって喜んで
もらうとか、そういう、要するに人に仕える
ということ、奉仕ということなんです。
奉仕というものは、ただお金を出すとか、
何十万何百万献金するとか、そういうことでは
ないんです。
霊妙なやさしい愛の波動でもって、どれだけ
人に接してゆけるか、それが奉仕であり、
大きく言えば、それが統一なんですね。

だけども、なかなかそういうふうには、
人間は聖人じゃないから、なりにくいでしょ。
だから、統一会とか実践会とかいろいろな
会の名前をつけますけどね、勉強会とか、
何とか道場といってそこへ行くのは、自分の
中の本来の心の朗らかな所へ降りて、そこで
光を出して洗ってもらってね、そうして
高められてまた帰る。

これは、言葉で言ってますからね、こんな
ご大層な言葉になるけれども、やはり、我々
というのは何で存在できてるかというと、
神様のひびきによって存在できてる。
そのひびきというものは何かというと、
神様の愛である。
だから、愛深い人になるということが
一番大事なんです。
この世の中に生きていくためには、
知識・知恵も要ります。
常識も良識も要りますが、一番大事なのは
愛ですね。
多少礼儀がどうだこうだ言っても、そこに
本当に労わりの気持ちというものがない
ことにはね、これは宗教も祈りも何にも
あったもんじゃないんです。
例えどこの宗教に入っていてもいなくてもね、
愛深く人に接することができた時に、その人は
本当にやさしく強い神様に愛される人
なんですよ。
おろがむ心といいますかね、
天地万象拝む心、そういうものがその人には
もう備わってるんですね。
備わるというのは、何も天性というものでは
なくって、その人が、自然な自分の心の流れに
従って生きていった結果、そうなる。
だから、その人だけにできることじゃなくって、
皆そこを目指して祈っていくでしょう。
             (つづく)

統一ということ(1)

2023-03-24 06:40:31 | 祈り
統一会や祈りの会とか、支部でも集会でも、
今ではWPPMもありますしね。(講演会当時)
世界中に世界平和の祈りが広がっていって、
だんだん大がかりになっていってる。

統一ということも、なかなか難しい。
本質を言えば非常に難しいんですね。
けれどもまた、あんまり難しく考えすぎてもね、
統一というものの姿が見えなくなっていく
ということはありますね。
統一ということは何かというと、言葉は何でも
いいんですが、神様に寄りそって神様を呼んで、
そうして、神様の愛と一体になっていく
ということですね。

言葉で言うと非常に難しいんだけれども。
さっき申しましたように、私の柏手とか
口笛とか印だとかいうもので、流れという
ものを引き出すといいますかしらね。
皆様が、私に唱和して、世界人類が平和で
ありますようにと祈って下さる。
その瞬間から、皆様の中の神の子としての、
光の子どもとしての、そういう光の流れ
というものが出てまいりましてね。
そして、私の柏手のひびきと一体となって、
あるいは、五井先生の祈りそのものと一体に
なって、神様の方へずっと昇ってゆく。

その流れというものは、普段日常の中で
ゴタゴタ動いている時には、なかなかねえ、
そこへ波動はいかないんです。
霊妙な細かな波動というものはずっとあるんです。
あるんですよ。
だけどもそれに気がつかないようになってる。
何時に電話しなきゃなんない、何時に人が来る、
誰と会う、誰と契約する、どういう仕事をする、
今日は飲み会だとか。
そんな時に、神様とおもう、何かそういう
ゆとりが人間にないでしょう。
で、祈る場所も祈る対象もね、一緒に祈る人も
会場も、そういう設営といいますかしらねえ、
そういう場づくりをして、自分の中にずっと
流れてるんだけれども、普段はなかなか
そこまで降りてゆきにくい。
そういう霊妙な波動の中に自分を放り込んでね、
本来の(自分の)明るい自分の発見というものを、
祈りの中でしてゆくと。
それが統一ということですね。
               (つづく)

神の子について(10)

2023-03-23 23:12:00 | 祈り
      (前日からの続き)
信ずるということは、ただあなた任せじゃ
ないんです。
私の信仰は駄目だけど、あの人の信仰は
すごいから、あの人の信仰の話を聞いたら
少しは私の信仰がって、そりゃあ確かに
そうだけど、その人にいつまでも引っぱって
もらってる信仰じゃないんですよ。
その人に開いてもらって、そして、自分でも
驚くような力が出て、神様ありがとうございます
と言えた時に、あなた方が輝くんだよね。
その辺のことをね、きっちりと腹の中に入れて、
そうして、五井先生のことも神様のことも、
向こうの世界のこともこの世のことも、
いろんなことを思って、説いて、祈って
やっていかなきゃ。
我々の中の本心開いて下さるのは神様なんです。
我々じゃないんです。
だから、任せるというのは、私がさっき
あなた任せと言ったのはね、人に頼っちゃ
いかんということです。
人に頼る前に神様に頼らなきゃ。

人というものはね、自分も含めて我が
ありますよ。
想いがありますよ。
都合の悪いことはやっぱり避けて通りたい
想いがある。
皆そうでしょう。
だから、そういう人を頼んだって、
頼みきれるもんじゃないんです。
皆弱いんだから。
信頼関係をこわせというんじゃないんですよ。
皆合い和して生きていかなきゃならないの。
生命を尊敬していかなきゃならないの。
けれども、そういう意味じゃない。

やはり、朽ちることのない生命というのは
神様にしかない。
裏切られない愛というものも神様にしか
ないんです。
我々はそこから愛情をもらってる、光を
もらってる訳でしょ。
だから、そこへ帰っていかなきゃどうするん
ですか。
そこへ信をおいて初めて深く祈ることが出来る。
そこを基盤にしなかったら、誰々先生の
言うことを基盤にしたら駄目なんです。
私だって、私が喋ってると思ってない。
私は場所なんだとさっきも言ったけども、
本当に私が喋ってるんじゃないんです。
神様の流れのその光が来て、奥深いところから
光が来て、私が喋らせてもらってるんですよ。
五井先生が偉いとか何とかと言うけれども、
そうじゃないんですよ。
本当は、大きな深い働きというものは、
底知れない神様の愛と祈りと調和と、そういう
皆を平等に愛する心、そこから出るんです。
みんなその宝を持ってるんです。
だからしっかりして下さい。
       昭和63年8月26日

神の子について(9)

2023-03-22 07:29:33 | 祈り
      (前日からの続き)
平和というのは、ただ単に事なかれ主義
ではないんですよ。
イエスが言ったでしょ、私がこの地上に
来たのは、兄弟を分かれさせて家を分かれ
させて、争いを起こさせるためだ、剣を
投じるために地上に来たんだというふうな
ことを言います。
何という言葉だと皆思いますよ。
肉体もってる人はね。
イエスがそんな人だったらついていけない
と想いますよ。
でもそうじゃないんです。
いろんな事が起こるんです。
本当に真理に従おうとすれば。
だけど、私たちは神様に任せてるんだからね、
お願いしてあるんだから、預けてるんだから、
そこからの祈りであれば、絶対に私たちは
間違った方向へ行きっこないんだ、そういう想い、
信仰、そういうものをもって進んでゆく時に、
いつの間にか分かれた家が握手するんですよ。
気の合わなかった人と挨拶ができるように
なるんですよ。
一旦分かれさせるかもしれないよ。
一旦辛いことをね、神様というのは降ろすかも
しれないよ。
だけども、決して分かれさせたままとか、
喧嘩をさせたままとかね、そういうことは
絶対にないんです。
どこかで結んで下さるんです。

光を結ぶのが神様なんですからね。
闇を降ろすのが神様じゃないんだから。
闇の問屋じゃないんです。
光の問屋なんだよ。
神様というのはね。
だから、そこに信をおかなきゃ
何をおくんですか。
そこへ深く入ってかなきゃ何に入って
いくんですか。
そこを信じてもらって、そうして道を
説いてもらわないことには、神様の光が
途中で止まっちゃいますよ。
           (つづく)