宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

神の子について(8)

2023-03-21 09:33:56 | 祈り
      (前日からの続き)
本心の座というものは、そういうもんじゃ
ない。
本心の座というものは、そこも全部
つき抜けて、空になって溶けてね、解放
されて、明るくなる、そういう座が本心の座
ですね。
それをやっぱり思わなければ。
それを修行してゆくのがこの世の中の修行です。
そこを目指してゆくのが祈りですね。
さっきも言ったように、だから、祈りと
いうのはね、何でも放り込んでも
いいんですよ。
いろいろ言ってもいいんですよ。
あれが欲しいこれが欲しいと、いろいろ
言っても構わない。
ただ構わないけど、絶対に、神様がそれを
どんなふうに叶えるかというのは、
そこのところは任せてしまわないと。
私たちの想い描いたことからは、うんと
かけ離れた答えが返ってくる時が
やっぱりあるんですね。

その時に、どうしたら神様から離れないで、
祈ってゆけるかというのが、これが人間に
とってはものすごい難題なんです。
私と神様の祈りだけじゃあ、とてもじゃ
ないけどやっていけない。
だから、世界平和の祈りがあって、神の子
人間というね、生長の家のああいうものを
ずっと噛み砕いて、そうして、いい所だけを、
透き通った所だけをとって、無理のないように、
背伸びのないように、本質だけをとってね
皆に教えた。
その平和の祈りがあるんですよ。

だから、業だって我だってね、いろんな
人間が出していく余分な想いだって、否定は
しません。
だけども、そのいろんな我の上にあぐらをかいて、
業の上にあぐらをかいて、弱いから仕方が
ないんだじゃあやっぱりね、精進ということは
できないんです。
釈迦が死ぬ時に、汝ら比丘よ精進せよと
言ったでしょ。
我々は我々の本質を知って、その本心の座に
近づくように、光に近づくように、一瞬間でも
長く光になるために、我々自身のためにも、
他の人たちのためにも、光になって動くことが
できるように、はたを楽にすることが
できるように、働くということはそういうこと
ですよね。
愛をもってはたを楽にする。
そのために祈るんです。
そのために光を望むんです。

その事をおもい間違えしないで。
決して変な選民意識が神の子じゃ
ありません。
皆平等に神の子なんです。
だから、神の子が神の子に呼びかけるん
ですよ。
例えどんなに腹立つ相手だって神の子
なんです。
あなた方が道で会って、ああこの人は
本当にいやだと思えば、ちょっと道を
さけて会わないようにしようと思いますよ。
だけども、そこを押してね、相手が
知らん顔をしても何をしても、やっぱり、
おはようございますといって、それをずっと
続けてごらんなさいな。
やっぱりむこうもおはようございますと
言うから。
そこをね、いやな人だから挨拶するのを
やめようとか、この子はいじわるそうだから
ちょっとさけて通ろうとか、そう思っちゃうとね、
もういじわるなその子どもしか見えてこない。
その人しか見えてこない。
それは、自分の中で勝手にその人の生命を
判断して測ってやってることですよね。
そんなもんじゃないんです。
それがその人の本質だと思ったら
大間違いですね。

それは、祈りによってそういう想いという
のは消していただけるんだから、出たら、
ああ消えてゆく姿だと思いながらね、非難
されてもね、中傷されても意地悪されても、
明るい生命の源である神様が我々を
受けとって下さるんだからということを
信じて、信じ抜いてですね、私たちは生きて
ゆかないと、とても自分を狭くしてゆく
ことになる。
世界平和の祈りが、自分だけの
平和の祈りになっちゃう。
           (つづく)

神の子について(7)

2023-03-20 10:41:08 | 祈り
     (前日からの続き)
決してね、才能とか力とか個性とか、
そういうものを否定はしません。
それは神様から送られて来た贈り物
なんだから、それはそれでいいんです。
だけれども、自分の力でもってこれができた
とかね、あの人の我を押さえつけるのに
往生したとか、そう想っちゃうと後で苦しく
なりますよ。
皆同じ生命なんですね。
だから、さっき言ったけども、悪口言われて、
やっぱりありがとうございます。
足を踏まれてありがとうございます。
と言えるところまで自分を精進させていく。
できるできないは問題じゃないんです。
そういうふうに言える自分をいつか出して
下さい。
何生かかっても出して下さい。
そのために祈らせて下さい。
そういうふうに想うこと。
そういうふうに祈ること。
それを目指すことね。
それが我々の領土を広くしてゆく。
神の子の光を深くしてゆく。
輝かしていくということなんですね。
皆に仕えるんですよ。
皆に奉仕するんです。
我々の生命というものはね、我々だけの
もんじゃない。
皆のもんですよ。
世界人類の、人のためのもんでしょ。

だから、どこでどんなふうに私たちは
使われてゆくか分からないんです。
使ってもらえるか分からないんです。
それをね、私はこういうふうに
生きたいんです。
こういうふうに叶えて下さいと、そりゃあ
幾分かありますよ。
全部神様事で、神様の言うまんまなんて
いったら、もう皆パニックになっちゃう
からね。
そこのところはちゃあんと守護霊さんだって
守護神さんだって、きっちりと分かってます。
ちゃんとその辺は、採算がとれてるんですね。

だけど、決しておもい間違いをしては
いけないのは、我々の生命というものは、
神様から分かれて来ているけれども、しかし、
だからといって、高慢になって、我々は
神様が付いているから、何を言ったって業は
消えるんだ、何をしたって我は受けとって
もらえるんだと思って、努力するという
ことを忘れたら、これはもうとてつもない
ことなんです。
           (つづく)

神の子について(6)

2023-03-19 08:19:19 | 祈り
     (前日からの続き)
もう今日はね、何とか速く喋ろうと
いうのをね、ゆっくり喋ってね。
でないと聴きとれないでしょ。
原稿にもできないから、ゆっくり喋って
ますけどね。
あんまり速くってね、私のいつもの喋り方は
迷惑かけてるからね。
これの倍くらいの、あるいは3倍くらいの
速さで若い時喋ったと思いますね。
5倍かな?高橋君なんか聴きとれ
なくってね、いらいらして、本当にあの頃は
録音技術も悪かったしねえ。
私も言いたかったしねえ。
そしたら、五井先生聞き取れませんとかね。
何言ってるんだか分からなかったけど、
先生の情熱だけ分かったとかね。
後で言われてがっかりしたりして、そういう
ことがありましたけどね。
だけど、今私はゆったりしてますよ。
向こうの世界というものは、本当にもう
何の不安もないでしょ。
安心だけでしょ。
そういう意味でゆったりしてる。
大安心の中へ帰ってきてる。
その大安心というものは、こっちへ来ようと
来まいと皆の中にあるんだから、その
大安心の中に抱かれた時に、ふっと皆
神の子になる。

その神の子というのは、もひとつ言えば、
意識しようとしまいと、皆神の子なんだから。
神の子というのは、特別に選ばれたとか、
そういうものじゃありませんよ。
偉くなったとか、そういうことじゃないんですよ。
心を素直にして、祈り心で神様を呼んで、
そうして毎日気持ちを豊かにして、明るく
生きる。
その時に皆神の子になるんです。

私たちは、特別なんだとか、私たちは
五井先生に抱かれてるんだとか、神様の
大愛の中にいるんだとか、だから、私たちは
他の人よりも、もっともっと祈りを
知ってるんだとか、そういうものを高慢と
いいます。
遜(へりくだ)らなければいけません。
遜るところがないとね、人間というのは
どうにもなってゆかないんです。
それこそさっき言った座からね落ちて
しまいます。
遜って、そうして自分を低くして。
ただ神様だけが絶対の愛でしょう。
そこへ任せて生きてゆかないとね。
そのことによって、あなた方の中にある
眠ってる、とてつもない力もエネルギーも、
可能性も出てくるんですよ。
そのことによってのみ出てくるんです。
分かりますか。
それ以外に出てくるものは我なんですよ。
         (つづく)

神の子について(5)

2023-03-18 10:17:10 | 祈り
       (前日からの続き)
人間というものは、いつも言いますようにね、
この肉体の五尺何寸の体だけじゃないんですね。
いつも言いますでしょ。
宇宙のように大きくもなれば、針のように
小っちゃくもなる。
もう融通無碍(ゆうづうむげ)、それが
人間の生命の本来なんですね。
それが神様に抱きとられている。
神の子の本質はそういうものなんです。
無碍なんです。
ゆるしですね。
そういうものを我々はいただいて毎日を生きてる。
だから、この真理というものは、本当に悟って
明るくなった人ならば、私でなくったって
どんな人でも言いますよ。
誰だって言います。
キリストだって釈迦だってこれを言ったしね。
あるいは、今生きてる宗教者で明るい所へ行ってる人
というのは、絶対にここを言いますね。
ここへ向かって皆がゆけるんですよ。
何故ならば、皆が神様の器だから、神様の子どもだから。
                 (つづく)

神の子について(4)

2023-03-17 06:57:27 | 祈り
      (前日からの続き)
私は、天の私と地の私と合体した時にと
よくいいましたけれど、本当の自分自身
というものを見たら、これはもう安心する
より他しようがないんです。
輝いてるから。
皆輝いてますよ。
輝いてますよといって皆にそれを見せて
あげたいけれども、まだそこまで時が来て
なかったから。
カラッポになってニコニコしてる五井先生
というものを通して、皆ここへゆけるんだな、
ここを通して神様のみ許に行けるんだな、そばに
行けるんだな、一緒なんだなということを
勉強してほしい。
そう思いましたよね。
みんな私が引き連れて引き受けて、自信が
なかったら出来ませんよ。
神の子であるというそういう自信がなきゃあ、
そんなことは喋べれない。
五井先生そんなこと言ったってと思う。
そういう想いもいっぱい受ける。
だけども、私はまちがいのない神様の愛という
ものを知ってしまってるから、その中に
いるから、それは皆が行ける場所だから、
だから、自信をもって、皆の中に神様の流れが
入ってるんだよ、皆一人一人が平等に
神様の子どもなんだよ、あなた方は光なんだよ、
ということをずっと言ってきたし、今も
言ってるし、これからも言っていくんですけどね。

でも、私がというのを消したら気持ちが
いいんですよ。
もう大安心ですねえ。
神様しか残らないでしょ。
もう委ねちゃったら、何と言ったらいいかしら、
非常に生き生きしてくるのね。
自分が疲れていても、別の体力がふっと
ちがう所から出てくるんです。
私がお浄めしますでしょ、してましたね。
ああいうお浄めでも、我とか業とかいっぱい
来るんだから、肉体人間だったらとっくに私は
死んでますよね。
あの時に私はそこにいないんですよ。
あの時神様の心の中にすっと入っちゃってるから。
だから、私がやってるお浄めじゃないでしょ。
神様の神界の流れの方から流れてくる光ですよね。
そりゃあ肉体人間ですからね、叩きながら
痛みが来ますよね、想いも来ます、寄って
来ます。
でもそれを上まわって倍して、神様が私たちを愛して
下さるということを思ってるから恐くも何ともない。
痛みなんて何でもないですよ。
痛みというのは、私は皆さんからのプレゼントだと
思ってるね。
だからね、晩年にいろいろ痛んで痛んで、自分の
奥さんだけには本当に、痛いよ痛いよと言いましたけどさ、
まあ声あげなきゃしょうがなかったけども、でも痛いから
恨むということじゃないですね。
それよりもっと深いところで、私が神様に愛して
いただいてる。
で、皆さんも神様に愛してもらってる同じ生命だ
ということが分かってるから、恨みっこないですよ。
痛みなんてものはね、受けてしまってそれを浄めて
ゆけば、上がっていってね、光になっちゃうんです。
業というものもそうなんですね。

ただ、人間というのは、肉体というものといっしょに
暮らしてますからね。
狭い箱なんだけども肉体というのは。
だけど、肉体もって生きる以上は、やっぱりそれを大事に
してやらなきゃいけないというところもあるでしょ。
可愛がってやらなきゃいけないというとこありますよね。
だから、養いながら、また、そこに把われないというのもね、
非常に難しいことなんです。
私が言いましたでしょ、いいことにも悪いことにも
把われるなというのはね、それは真理なんだけど、そういう
気持ちで祈ってゆけば、私がという気持ちを向こうに
受けとってもらって、神様に受けとってもらって、そして、
ただただ神様の器になるべき光だけが入ってくる。
どういう働きが自分にできるんだろうかとか、私は
これだけしかできないとか、いろいろ自分を限定してやって
いくと、もう本当にほんの小っちゃな働きしかできないけども、
そうではなく、神様に預けてしまって何でもやらせて
いただきますと言うと、あの人がこんなことができる
かなあというようなことができますよ。
それがね神様の不思議なところ。
神様の奇跡というのは本当はそういうことですねえ。
神様の奇跡というものを、皆いやしというものに
求めるけれども、本当は、人間の中に限りのない神様の
エネルギーがあって、そのエネルギーに動かされて、喜んで、
あるいは無意識に動いていく時に、我々の生命という
ものは喜んで、深くなって、大きくなって、いつの間にか
すごいところにいたとか、いつの間にかすごい事をやらせて
いただいたとか、それこそ奇跡でしょうね。
           (つづく)