宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

心と本心(1)

2023-03-06 10:46:04 | 祈り
これも何度も話をしたことですけれどもね。
心というものと本心というものは、これは
違うんですね。
元々から言ってしまうと、本心というものが
あなた方の本来の姿。
光り輝く姿なんです。
どうもね、言葉というものは不自由でねえ、
本心というとその本心というイメージが
湧いてくるでしょう。
自分のイメージに訴えてその像を
つくっちゃうからねえ。
それで、どうにもしょうがなくなっちゃって
把われちゃうんだけれども、なるだけそれを
くだいて言おうと思うとね。
つまり、光明があるところですね。
神様の光が渦巻いているところですよ。
それが本心ですね。
それは、あなた方の肉体のもっと奥の奥の
自由な体の、本当に霊妙で細かな波動の中に、
どこともなくスポッとおさまってる、それが
本心ですね。
その本心というものは、いつも私が申します
ように、全く迷いのない姿。
言葉をかえて言えば、本心というのは、迷いも
疑いも悲しみも悩みも何にもないところで、
ただ神様だけを仰いで、神様と一体になってね、
神様といるということも忘れて、ただその生命を
輝かしている。
そういう場所、そこが本心の座なんですね。
          (つづく)


神の愛念について(7)

2023-03-05 08:09:21 | 祈り
       (前日からの続き)
壇上からこうやって見てますとねえ、この
世の中のいろんな有様が分かる訳ですよ。
そして、あなた方の一人一人の気持ちの
動きも分かるわけ。
だから、一人一人の中へ本当は降りていって、
そうして、辛いね苦しいねと言ってあげたい
ですよね。
本当にそうだよね。
そうだけれども、そこにとどまっちゃあ、
肉体人間のこの限界のところだけに
終っちゃうんですね。

我々の生命というのは、何度も言うけれど、
本当は明るいもんだから、そこを見つめた
人間が言うんだから、これは間違いない
ですよ。
私が全部引き受けたんだから、私の方へ
いろんな煩いをみんな投げてくれれば
いいんです。
ただ焦ったら駄目なんだね。
私も本当に気短かで、悟る前も悟った後も
あんまりいい人間ではなかったけどさ、
やっぱり焦るんですよ。
でも、焦ったら本当に神様が光を出しにくく
なるんだよね。
そのことだけを覚えてね、そうして、
すいませんいろいろな想いが出ますけれども、
よろしくお願いしますという気持ちで統一を
して下さいな。
そうすると、こっちがあなた方のそういうものは
全部分かっているから、悪いようには
しませんよ。
絶対に悪いようにはしませんから、
そこのところを信じるということね、おもいでは
なくて、信仰というのはね、神様が絶対に
我々を悪いようにはしないんだ。
神様は絶対に私たちを愛して下さるんだ。
たとえ明日死んでも私たちは神様の器なんだ。
そのために私たちはここにいるんだ。
そういう自信をもって祈る。
祈って、動く。
それは言葉だけじゃないんです。
そういうふうに一旦思っちゃえば、あなた方の
体というのは、あなた方が自覚するしない
に関わらず、とに角、祈りで一杯になるんですよ。
世界平和の祈りで一杯になる。
あるいは、神様という想いで一杯に
なってるんですよ。
あなた方にはそれは分からないけれども、
こっちから見てるとそうなんですよね。

だから、神様の想いで一杯になって、
神様の祈りで一杯になって、神様と
呼びかける声で一杯になってるあなた方を、
本当にいいように、その場その場でね
用いて下さる。
たとえ、祈りの場所にいなくてもね、
職場であっても、煩わしい人間関係の中で
あっても、あなた方がふっと自分を消して
仕事に勤しむ時に、あるいは、人と話を
する時に、その相手だけじゃなくて、まわりにも
神様の光というものは及ぶんですね。
そんなものなんです。
神様というのは何だかんだ言い訳をしませんよ。
予告もしません。
私だって預言をしたことはないですよね。
預言は嫌いだもの。
預言なんかしたら、それに把われちゃって、
五井先生はああ言ったのにならないじゃ
ないか、という想いに把われるでしょ。
だから預言しません。
預言しないということはね、ある意味で
辛いことがあるけれども、でも、本当に
神様の生命にあなた方を導いていくためには、
あなた方が素直で明るい生命であるということを
知らせていくためには、ただただ私は無心に
祈って、あなた方に光を送る。
それだけなんです。
だから、そのことをよく覚えて、祈りに勤しんで
下さい。
        昭和63年8月26日

神の愛念について(6)

2023-03-04 06:28:44 | 祈り
      (前日からの続き)
我々は、肉体の我々を我々だと思って
いる以上は限界がありますよ。
体力にだって気力にだってね限界がある。
肉体というものはいつか脱がなきゃいけない。
百年生きる人は少ない訳でしょ。
その百年の間たとえ生きたとしても、
生き生きと毎日喜び深くなんて、そんな
ことはなかなか出できにくい訳ですよ。
そうじゃなくて、肉体におもきを
置くんじゃなくてね。
私の生命をつき動かしているものは
神様なんだ、神様の愛なんだ。
私の深いところは神様がみんなご存知なんだ。
だから、今は私は辛いけれども、何だか
分からない程辛いけれども、しかし、神様が
全部抱きとって、祈って、明るい方へ導いて
下さるんだというそこだけ信じることが
できればね、そういうことを思って、
あるいは念じて祈ることができればですね、
そうしたらもうこれは明るい方へ生命の
大元の方へ、皆さんの流れがいくに
決まってるんです。

そうなるように、世界平和の祈りを私が
大神様から受けたんですね。
これでなきゃ救われないんですよ。
皆凡夫なんだから。
皆神様と同じですといったって、この
できそこないの自分のどこが神様
なんだろうかと思ったら、もう苦しくって
辛くってやりきれない。
つき詰めていくと、一日だって生きちゃ
いられないくらいになるね。
そうじゃないんです。
そういう弱さとか辛さとかいうものを
もってて構わない。
この間も言ったけど、そういうものが
人の話を聞く時の財産になるんですよ。
だから、弱いから駄目なんだではなく、
駄目をね押し出すために神様がいる訳
じゃない。
そういう弱さをあなた方はもってるけれど、
もっともっと奥には光をもってるんだと。
光が自分たちの中にある、それをうまく
神様引き出して下さい。
守護霊様守護神様引き出して下さい。
五井先生お願いします。
皆さんお願いしますと言って預けることね。
想いの銀行に預けることですよ。
私に預けること。
それをやっていくことですよ。
そうすると、我々の生命がもういつの間にか
きれいに掃除をされて大生命の中へ
完うされてゆくんです。
私たちの天命が完うされますようにという
祈りがあるでしょ、あれはこれなんですよ。
自分では掃除ができないけれども、神様
お願いしますといって任せてしまえば、
いつの間にか軽くして下さるんです。

ただ人間は、毎日毎日二十四時間という
時間の単位で生きていますからね。
今祈って、早くとって欲しい。
早く早くと想うとそれがやっぱり業になるの。
その早く早くという気持ちは分かるけれども、
早く早くと想えば想う程、こっちは掃除
しにくいんだな。
しにくいから任せる。
そして、任せたんだからあとは神様の方で
よくして下さると思って、こっちへ
呼びかけて下さればね、とに角
やりやすいんだ。
ところが、それを人間というのは
なかなかやりにくいんですよ。
だから、こっちから光を送っていろいろ
やるんだけれどもね、とてもじゃないけど、
やっぱり呼びかける対象祈りの対象がなきゃ
駄目だ。
そうして、その祈りの対象が、ただ神様
というんじゃなくて、世界人類が
平和でありますようにと言って、世界の
人々の、全宇宙人類の真心に向かって
呼びかけることによって、あなた方
一人一人もその真心の中に入っちゃうんです。
そういう大きい深い祈りの中で浄められる
ことによって、神様の愛念が私たちを
つき動かしているということをね、ここで
何ていうかなあ、胸が一杯になっちゃう
けれども、きっちりと覚えていただいて
やって行って欲しいなあと思いますねえ。
          (つづく)




神の愛念について(5)

2023-03-03 11:54:20 | 祈り
     (前日からの続き)
何度も言うけれども、やっぱり毎日の
こと、煩いとか何だとかやって過ごして
ゆくと、とてもそんなこと思えない
でしょ。
だから、その思えないなあ、とても
そうじゃあないなあというのを、
もう死ぬまでね、何百回何千回思ったって
構わない。
そうは思えない、そこまでは私はいかない、
そこまでは俺はそんなとてもじゃないけど、
五井先生が言うようなところまでいかない
と思って構わないから、とに角、祈りの中へ
入っちゃいなさいよ。
入っちゃったら後は、守護霊さん守護神さんや
私だとか皆で、洗ってきれいにして、そうして、
また明日やっていく力をこっちから与えて
あげるんだからね。
ただ、私がするんだと思えば苦しくって
しょうがないんです。
それはさせていただくということなんです。
そのさせていただくというのが皆間違うのはね、
いい事をさせていただくのならば、こりゃあ皆
気持ちいいですよ。
ところがね、この世の中人間関係です絶対にね。
そうしますと、こっちがいくら真心をこめて
誠実を尽くしてやっても、ある時とても辛い
ことがやってきたり、悪口雑言がきたりね。
あるいは、集会なんかなすってますと、いろんな
中傷が来たりね、つまんない我が出てきますでしょ。

しかし、そういうことを勉強して、そうして、
荷を負わせていただいて、で、悪口を言われると、
やっぱりそれもありがとうなんですよ。
それだって、私が受けさせていただきますなんです。
だから、あの人はこんなこと言って、こんな
考え方をしてけしからんというのは、やっぱり
消えてゆく姿なんだね。
けしからんという想いは辛いけれども、それで
過去世のあなた方の何か業というものが
一つずつ消えるんですよ。
だから、カッと腹が立った時に、あっと
思ってね、反省するだけじゃなくて、ああ
これで消えたんだなあ、ありがとうございます
と思えたら、そこで光が入るんですね。
そこで、たとえあなた方が思えなくても、
その時にさあっと守護霊さんや守護神さんや
私の方から光が行くんですよ。
そこを信じるということが任せるということ
なんです。
          (つづく)


神の愛念について(4)

2023-03-02 10:22:06 | 祈り
     (前日からの続き)
ところが、やっぱり人間というのは弱い
でしょう。
斉藤さんが、おれがおれがという
そのがを取ってと書いたでしょ。
そのが(我)を取ってというけども、
なかなか我というものはなくならないん
ですよ。
だから、世界平和の祈りがある。
その我をもって、すいません任せ切れ
ない私ですけれども、どうぞ世界平和の
祈りの中で、祈りのエレベーターの中で、
五井先生の柏手によって口笛によって、
あるいは霊団の皆さんの光によって、
神様の愛によって、そうして、この我を
少しでも少なくして下さい、消して下さい
と言って祈る。
その時には、少なくして欲しいと想って
祈っていても、こっちから見ていれば、
もう空っぽになってるんです、皆さんは。
だけども、皆私なんてとか私なんかが
祈ったってとか、そういう想いが
しみついちゃってるからね、だから
できないんですよね。
空っぽになっていると想えないんですね。

昌美とか裕夫君とか真宏会が今一所懸命
やっている、それというのは、皆がね、
空っぽになってる、つまり、任せて
しまうと器になれるんだということね。
それは、私がやってるとか何とか想って
しまうと、苦しくってなれないんですね。
肉体の人間というものは、余分なものを
地球上に降りてから一杯くっつけちゃった
から、その肉体の人間を自分自身だと
思っている以上はね。
自分の感情の動き快不快だけを自分だと
思ってる以上は、そこへとどまっちゃうんですよ。
それが自分だと思っちゃう。
ところが、神様というのはそうじゃない。
あなた方の生き方とかおもい方とかね、
それから、過去の苦しみとか、全部、歴史
というものはご存知の上でね、しかし、
あなた方の中に貫いている、明るい生命
そのものを引っぱり出そう引っぱり出そう
と思ってる訳ね。
で、素直にさせよう素直にさせようとね。
苦しいけども行ったらこうなるよという
ことを示しながら、何とか明るい方へ
明るい方へというのが神様なんですよ。
何故かというと、あなた方の元の生命
というのは明るいんだから。
神様が明るい方へ明るい方へ、光明の方へ
光明の方へ、光の方へ光の方へなんです。
だから皆が光の子なんです。
          (つづく)