宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

心と本心(6)

2023-03-11 09:22:14 | 祈り
     (前日からの続き)
今、白光真宏会が、あなた方は神の子です
と言ってるけど、それは、あなた方の中に
ある神様の深い生命というもの、それを
用いていただく時には遠慮しちゃあいけない
ということです。
それをどう用いて下さるかは向こうが決める
ことであって、我々はそこへ導いて下さるままに、
祈って進んでゆけばいいんです。
ただだまって座っていても構わないんです。
任せてしまえば、向こうがきっちりして下さるん
だから。

ただ、我々の中に、性格というものがある
でしょ、気持ちというものがありますよ。
だから、そんな私なんかとか思うけれども、
そうじゃない。
毎日毎日投げ出して祈ってるんだから、
カラッポになる修行をしているんだから、
ある時に、ものすごい大役がくるかも
しれない。
ある時に、ものすごい辛いことがくるかも
しれない。
いいことも悪いことも来ますよ。
その時に、いざという時に、そうだ神様
と投げ出してね。
今まで投げ出してくる練習をして来ました、
だから、どうか用いて下さい、器にして
下さいって祈ってごらんなさい。
本当に祈りの光でいっぱいになるから。
で、呼んで下さる時には、私はどこでも
行くんですからね。
だから、呼んで呼んで祈って祈ってね、
やって行かなきゃあこの世の中というのは、
辛くて辛くてしょうがないんです。
そのために本心も心もあるんですよ。
あなた方の中に神の宮があるんですよ。
神様とつらなってるんですよ。
そのことを忘れないでね、祈ってやって下さい。
       昭和63年8月26日

心と本心(5)

2023-03-10 09:20:09 | 祈り
      (前日からの続き)
生きるということにしたって死ぬという
ことにしたって時があってね。
我々のこの肉体人間の情から言えば
とてもやりきれないいろんな出来事だって、
それはやはり選びの時なんですね。
向こう側からすれば選びの時なんです。
そうして皆のことを考えてる。
そういう時が与えられる時はね。
だから、ああこれは神様が与えて下すった
ものなんだなと考えることですねえ。
それを目指して、世界平和の祈りという
ものがあり、皆さんの統一というものがあり、
印というものがある。
皆離れてるもんじゃないんですよ。

あなた方の祈り心が深くなって、自分を
深く省みて、自分の中に、そうだ神様からの
宝物を私たちはいただいているんだなと、
そう思える心になった時に、そう思える心が
一瞬間きたら、これはもう大変なことですね。
で、それをずっと続けていって下されば、
それはもう大変なことですよ。
それをできないと思っているのが人間ですよ。
できると思っているのが神様です。

宗教というのは、そのできると思ってる
神様の大きな愛念に、我々全部を預けて
しまうことですね。
生命もすべてね。
投げ出すというのは大変なことだけど、
やってしまえば簡単なんですよ。
なかなか情としては大変だけどね。
やってしまえばと言ったって、
できないですよ先生とくるかも
わからないけれども、あなた方、祈ってる
時は投げ出してるんだよ。
自分たちは分からないけれどね。
世界平和の祈りを祈ってる時は、いろんな
雑念があろうと何していようと、やっぱり
投げ出してるんです。
だから、あなた方は毎日毎日投げ出して、
自分をカラッポにする修行をやっぱり
やってるんですよ。
気がつかない内にさせていただいてるんです。

だから、任せるということは朗らかになる
ことですよ。
神様と一つ生命になるという
ことですよ。
あるいは、神様の愛が私たちの中に流れている
ということを知ることです。
そのために祈りがある。
そのために生きる。
そのために悩むんです。
すべて無駄な事はないんです。
皆必要なんですね。
決まってる事なんです。
必定なんです。
だけども、神様というのは宿命じゃない。
宿命論者じゃないし運命論者じゃない。
だから、運命修正というものができるでしょ。
皆さんの祈りによってできるでしょう。
あるいは、皆さんの愛念によって動いて
いくんですよ。
そこに世の中の人々が言う奇跡というものも
生まれて来るんです。
だから、もうこれは神様事だから神様に
任せなければ仕方がないといって投げ出してね。
投げ出してというのは、放り投げて努力もしない、
ねえ、もうとても私たちの力では及びません
といって投げてしまっちゃあ、こりゃあ
駄目なんです。
やっぱり祈る。
祈って祈って祈って祈りきったところに
光が出てくる。

その時に、例えば生き死にの問題で言えばね、
つまり、一人の人に、生命を向こうにもって
いかれるか、まだこっちにいて皆さんの役に
立つか、どちらになるか分からないけれど、
祈って光がパーッと来て、そうして、そうか
それじゃあといって向こうで変更になるかも
わからない。
その辺わからないんです。
ただ分かってる事は、どんなふうな現われ方を
しても、神様というものは絶対に
私たち一人一人を愛しているということ。
憎んだりは絶対しない。
恨んだりも絶対しない。
何故なら、みんな神様の子どもなんだから。
ね、子どもを愛さない親はいないでしょう。
そうでしょう。
絶対みんな子どもは可愛いいですよ。
その何十倍何千倍、神様というものは
一人一人を愛している。
今のあなた方のありのままを愛しているし、
あなた方の中に貫いて流れている深い生命
というものも愛してるし、あなた方全体の、
もう全部を愛してる。
それを引き出して用いようとなすってらっしゃる。
だから、遠慮しちゃあいけないんです。
          (つづく)


心と本心(4)

2023-03-09 12:20:47 | 祈り
      (前日からの続き)      
もう何十回も言ったことだけども、我々の
心の奥底ずっと降りていくと、やっぱり本心
というものがある。
そして、先程申しましたけどね、毎日毎日の
生活の中でいろいろな座がある。
その座に座らせていただいている。
喜びごとがある時には喜びの座に座ってるんです。
悲しみのときには悲しみの座に座ってるんです。
あるいは、孤独の座にも座るんです。
そうして、そういうところへ座らせて
いただきながら、私たちは、神様の大きな愛の座、
本心の座、光の座、神様の座に招かれて、
そこへ進んでゆく訳ですね。
それは何も向こうへ行って修行しなくったって、
毎日毎日がそうなんですよ。
この世と向こうは続いているんだからね。
この常住坐臥の毎日毎瞬が、あなた方が
意識しようとしまいとね、その座が進んで
ゆくかどうか、転落するかしないか、毎日
毎日の想いが修行の場なんです。
霊界だって想いでみんなつくられているでしょ。
だから、物欲の強い人が向こうへ行ったら、
そりゃあもう物欲かたまりの世界ができますよね。
無欲の人が行ったら、何だか小鳥が啼いて
というような清浄な空気のところを歩くと。
みんなイメージなんです。
イメージだけれども、じゃあ霊界がないか
というとそうじゃない。
真実の生命につらなっていく。
そういうものというのは確固としてある。
だから、その本心というものをたずねて
祈ってね、できる限りの消えてゆく姿を
やって、その座が進んでいくように、
そうして、進むも進まないも、もうひとつ
いけば、神様に任せます、いいように
なすって下さいというふうに言えるように
もっていくのが信仰ですねえ。

そして、それを助けるのが五井先生ですね。
世界平和の祈りですね。
決してあなた方だけの力で絶対そんなことは
できませんよ。
だけど、あなた方の祈り心が一人になり
二人になり十人になり三十人にとやって
いけば、それはもう光明波動なんですからね、
人間というのは光なんですから、そりゃあ
すごい力を発揮するんです。
目には見えないけれども、その光がサーッと
全世界にうずまいて、全宇宙に広がってね、
そうして、光明があたりを浄めていくんですね。
そのことを忘れたらいけません。
そのことを忘れて祈りをしたら、これは
ただ単なるご利益の祈りになっちゃう。
そうじゃないんですよ。
南無阿弥陀仏にしても南無妙法蓮華経にしても、
世界平和の祈りにしても主の祈りにしたって、
本当の真実の祈りの奥底にあるものは、何か、
こうして下さい、ああして下さい、運が
よくなりますように、そりゃあ大事ですよ、
みんな生き生きといかなきゃいけないんだから、
やっぱりそういうものはなきゃ困る。
でも本当に目指すものは何かというと、
神様と一体になる我々は生命なんだという、
その喜びに至る。
そこが大事なんです。
それを忘れた祈りはないんです。

神様というものが我々のためにいて
下すってね、神様というものから我々は
分かれてきた分生命、分霊で、そうして、
我々が我々の分に応じて、あるいはそれ
以上の働きを、神様の力によって愛念
によってさせていただくんだということね。
本心と心というものは分かれてるものじゃ
ないんですよ。
本心からずっと光明が出ましてね、
我々の肉体も想いも、想いを出してる心も
浄めていくんです。
祈りがそれを浄めていくんですよ。
だから、世界平和の祈りの中に、あるいは、
南無阿弥陀仏の中に、いろんな祈りの中に
溶け込んで、そうして最後には、自分自身が
役に立つも立たないも、とにかく神様の光
になって無になって動いていく時に、この
世の中というのは光明波動になって
いく訳ですね。
だから、役に立たない生命なんていうのは
この世の中に一つもないんです。
無駄というものも一つもないんです。
             (つづく)


心と本心(3)

2023-03-08 07:54:47 | 祈り
      (前日からの続き)
前も申し上げたかもしれないけれども、
神様というのは人間を裏切らないんです。
人間はしょっちゅう神様を裏切るけれどもね。
何故、こんなことがあるんなら、神様なんて
信じるものかとかね。
たいてい、自分にとって辛いこと苦しいこと
受け入れ難いことが起こってくると、人間
というものはやっぱり神様を否定したくなる。
そうでしょう。
でもそれは、自分の都合の悪いことが起こって
きた時には苦しくなるからそう思うんですね。

ところが、神様というのはものすごい大愛
でね。
それで、あなた方にずっと愛の光を
送ってるから、そういう叫びだとか恨みごと
だとかいろんなものが来てもね、そういう
涙顔を見ても、可哀想になあと思いながら、
本当のところはずっと光を与え続けて
いるんですね。
そういう絶え間のない光、それが本心ですよね。

そして、いつも申しますように、あなた方が
神様からの分霊(わけみたま)であり
分生命(わけいのち)なんだから、その本心
の光というものは神様から流れてくるだけ
じゃない。
見えないけれども、あなた方の奥の体の中に
どこともなく入っている。
光そのもの、本心。
あなた方の中にある訳だから、その本心と
神様の宇宙神の大御心とが交流し合って、
この世の中というものは息づいているんです。
あるいは、植物でも鉱物でも動物たちでもね。
そういう交流がなかったら生命というものは
すぐに枯れてしまいますよ。
そういう素晴らしい宝を我々は神様から
いただいているんだねえ。

ところが、心というものがあってね、
あるいは、感情と言った方がいいかも
わからない。
恨みごとだとか、もう勘弁してほしいとか、
いやだとか、そういうものというのは
ここから出るんですね。
肉体にまとわりついてくる我というものも
ここなんですよね。
ここにからみついてるんです。
だから、これを自分自身だ、私の心だと
思ってしまうと、思いまちがいする訳ですね。
           (つづく)


心と本心(2)

2023-03-07 09:50:33 | 祈り
      (前日からの続き)
我々は、本当はいろいろな座にいるんです。
それは、特に統一しなくてもね。
日常の世界の中でもね。
例えば、遊びに行ったり食事をしたりとか、
そういう信仰のことを離れても、
その時その時いろんな座にいるんですね。
それはどういうことかというと、やっぱり
気持ちのいい人と会えば自然に心が和んでね、
言葉もやわらかになって、いろんな話も
弾みますでしょ。
そういう時には心が喜んでくるんですねえ。
そうして、いろいろな煩いを一時忘れて、
子どものように素直になって、その時には、
私たちは素直という座にいますね。
そういう自覚をもたなくても、そういう
ところへ導いて下さるのが守護霊さん
であり守護神さんですね。
我々の生命とか生き方とかいうものは、
もちろんこの世の中においても向こうに
行っても努力が必要ですが、しかし、
知らず知らずの間に守護霊さんとか守護神
さんが、きっちりと我々を行くべきところへ
導いて下すってる。
自分も気がつかない内に、いつの間にか、
悩みとか悲しみとかいうものを少なくして
下すってる。
その座というものは、あなた方のあるいは
我々の気持ちによって、上がったり下がったり
するんですよ。

向こうへ霊界移行するでしょう。
霊界移行したばかりの人たちというのはね、
やっぱりこっちの世の中の想いとかありますよね。
早く死んじゃって、(残してきた)子どもが
小さいのにとか、ありますでしょ。
そうすると、向こうは素直というのを貫いて
修行するんですよ。
さっき申しましたね。
神様の愛念というものは、生き死にを貫いて、
そういうものをとっ払っちゃってあなた方を
愛してるんだということを申しましたね。
だから、そこのところを深く信じる。
難しいけれども深く信じる。
任せてしまう。
それを向こうへ行ってもやるんです。
座禅したりね、いろいろありますよ。
いろんな修行の仕方があるけれども、
あなた方にもさせたけれどもね。
だけど、それは何のためか。
すっきり自分の生命が神様の方に
抱きとられているということを喜ぶための
修行なんですね。
そうでなきゃあ、苦しむための修行だったら
何もならない。
けれども、向こうへ移行したばかりの
霊(こっちへ来たての霊)たちというのは、
残してきた人のことがやっぱり気になるでしょ。
それはやっぱり、肉体の我といいますかね、
肉体の想いの座に転落しちゃうのね。
でまた、一からやり直す。
そりゃあ厳しいですよ。
この世の中で、子どものためにとか
孫のためにとかね、あるいは、この人の
ためにとかやってる方がよっぽどやりやすい。
そのくらい厳しい。
よく、ひとおもいに向こうへ行ったらと
想うけれども、そうもいかないんですね。

やはり、人間のこういう日々の営みの中で、
いろいろなおもいを経験して、そうしてそれを
乗り越えてね、叫んで呻いて怒って、そういう
いろんなところを通り過ぎて、祈りという
ところへ行くんでしょ。
ですから、その祈りというのはただ祈ればいい
というもんじゃない。
神様へ呼びかける。
こんな私ですけれどもといって呼びかける。
その時に、神様というのは、ああいいよ
といってあなた方に答えて下さる。
         (つづく)