宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

光について

2023-11-25 10:30:23 | 祈り
みなさんおはようございます。
今日は光について、よく、光明光明と私が
申し上げておりますが、そういうことについて、
ひらたくお話をしてみたいとおもいます。

そこで光というのは、どんな性質を持って
いるかというと、一口にいえば、闇を消して
しまうという性質を持っているのであります。
太陽が沈んで、夕ぐれになり、かすかな光も
消えて、夜になりますと、私どもは電気を
つけますね、電燈をつける。
何だ五井先生あたり前のこといって
なんて思ってきかないのよ。
あたり前の質問を、じゃあこちらからしますが、
では、どうして電燈をつけるんでしょう、明るく
なるからですね。

みんな、電気をつければ明るいということは
知ってる、けれども、じゃ、その電気、電流が
ながれてるところというのは、みたことない
筈です。

みていなくても、スイッチを入れれば、
電気がついて、明るくなるということを、
何の不思議もなく、私たちは納得している
のであります。

私の申し上げている光、光明ということも、
実はそのとおりでありまして、人間は本来闇
ではなく、光そのものなんだということを、
申し上げているわけであります。

神の愛という本当に真実無償の光が、この
私たちのからだを生かし、心を生かしている
のであります。

生命の源をたどってゆけば、霊妙な神秘、
神の世界にゆきつく他はないといった科学者が
おります。

夜の闇が辺りをおおった時に、電気を用いて
明るくするという科学を、うたがわない私たちの
心を、もう一つ奥の深い生命というひびきに
合わせて、私たちに真に生かしめているものが
光であることを、神の愛であることを知り、
祈りを深めてゆくべきであります。
   昭和61年7月31日
      五井 昌久

神のひびき

2023-11-24 09:07:38 | 祈り
神のひびきというものは霊妙である。
我々のおもいも、肉体も、すべては
波動から出来上がっているが、神のひびき、
神様のひびきは、おもいをはるかに超えた
愛そのものなのだ。
我々は、そのひびきを、この身にも、心にも
受けて生きているのである。

本当のことをいえば、我々一人一人のなかに、
愛である神のひびき(生命の流れ、神の
こころ)は流れ込んでいるのである。

このひびきに気付くには、世界平和の祈りを
祈り抜くことである。

祈る内に、自分の本心があらわれ、守護霊、
守護神と一体の自分を感じられるようになる。

そして、祈っていることも忘れて、いつの間にか
神様を呼んでいる─という真の祈りに入る時、
神とともにいる自分、神のひびき、大愛のなかに
つつまれている自分を、観じることが
出来るのである。

神のひびきは、あなたがたの中にすでに
あるのであって、心をすみ切らせ、そのひびきと
一体になる為の助力を、守護霊様、守護神様が
して下さるのである。

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様
守護神様
ありがとうございます
という世界平和の祈りは、神のひびき、愛と
調和のなかに、あなた方がそのまま
溶け込む祈りなのである。

心を澄ませて、それぞれに、神のひびきの
ままなる生活へと入ってゆきたいものである。
      昭和61年7月23日
         五井 昌久

神 の 心(2)

2023-11-23 10:27:49 | 祈り
実際、想念というものが、すべてのものの
源になっているのである。

速い汽車があればいいというおもいが、今、
新幹線を走らせている。
これも、人間のおもいを受けた科学が、
結実した結果であります。
これを、神様の方に移しますと、神様は、
もう愛のおもいで宇宙をつくり、地球という
星をつくり、人間、私たちをつくられたのである。

だから、私たちの中には、神の愛と光が
流れ込んでいるのであります。
どんなことが起ころうと、その愛と光は、
誰もとりのぞくことが出来ないのであります。

いつも申しますように、私たちの生命
というものは、ずっとつづいて参ります。
神のみこころ、みふところ深く、天命を
完うするまで、この生命は、かがやいて神
と共にあるのであります。

いわゆる不幸とみえることは、その人の
過去世の業、-本来光であることに
気づかずに、犯した過ち-が消えてゆく瞬間
であると同時に、その人の魂の成長のために、
その人が、そのことを経験することによって、
一層神様とつながって、光をかがやかすために、
神様が、守護霊、守護神に命じてなさること
でもあるのです。

その神様のみこころは、どこをどう
のぞいてみても愛なのです。
暗い所や、闇のところなんぞ、これっぽっちも
ありゃしないんです。
ですから、いろいろなことにぶつかっても、
ああこれで消えるんだな、と思って、どうぞ
世界平和の祈り一念、愛の祈り一念の生活を
つづけていって下さい。

それでは今日はこれでおわります。
どうもありがとうございました。
     五井 昌久
  昭和61年7月22日夜

神 の 心(1)

2023-11-22 07:02:51 | 祈り
神の心、神様の心というのはどんなものか。
この世の中には、不幸なことが絶えないと
みんなおもっている。
事実、病気になる、貧乏になる、こんなに
一生懸命やっているのに、ちっともよくない。
そこで神様なんているのかしらというおもいに
とらわれちゃう。

神様がいるとしたら、神様はこういう現実を
みて、みながら、どう思ってるんだろう
と考える。
果ては、神様に心なんてあるのかと
思ってしまう。

しかし、ここで、わたくしははっきり
申し上げますが、神様の心というものは、ただ
もう人間を愛する愛一元、光一元の心
なのであります。
この世的にみれば、病気になった、あるいは
貧乏になったということはあります。
そういうことは出てきます。
しかし、それは、一つのあらわれであって、
いつもわたくしが申しておりますように、
過去世の業が、今、消えてゆくためのあらわれ、
消えてゆく姿なのである。

神様というものには、全く、愛以外のものは
ないのであります。
宇宙は、神の深い深い愛によって成り立って
おり、この地球も、また、私たち、地球人類の
一人一人も、愛によって、この世に押し出され、
役目をおびて生まれてきた存在なのであります。
その役目は、一人一人が神の光を、この世に
ふりまいてゆく、光と光をつなぎ、光を結ぶ
という役割でありますが、波動の粗い肉体を
まとって生きるうちに、人間は、本来
持っておりました自由自在心を失い、その粗い
波動の中から生まれてくるおそれや、
かなしみや、やり切れなさ、あるいは欲
といった業想念を自分自身だと思いまちがえて、
今日に至っているのであります。
どの世界に行ってもそうでありますが、
一体、天災や、不幸といわれるものが、
どこから生まれてくるかというと、それは、
我々人間一人一人の想い、こうなるにちがい
ない、こうなったらどうしようという
とらわれの心に満ちた想念から生み出されて
きたものであります。
                  (つづく)

生命の流れについて(3)

2023-11-21 09:08:03 | 祈り
      (前日からの続き)
で、その生命の本体というのは、もう素直な
素直な神様の光なんです。
いいですか、生命というのは、本来、けがれも
しなけりゃ、傷もつかない、まっ白な、純白な、
かがやきつづけている神様の光なんです。
それが、みなさんのからだの中、肉体も、
幽体も、神体もずっとつらぬいて、宇宙神の
み心にまでずっとつながってるわけなんです。

人間は、みんな、そういうすごい生命を
一人一人持ってるんです。

私からみると、そういう何物にも痛まない、
傷つかない、神様の生命を持っているという
ことに気付いた人間は、かがやいています。
業というものが、人間の出すおもいという
ものが、辺りをおおっちゃって、それが自分
だと思いまちがいをしている間、私たちは
とっても苦しいんだけれど、実は、人間を
突き動かしている生命というものは
かがやいていて、まっすぐに、すなおに神様に
つながってるものなんだということなんです、
私は、それをいうために、生まれてきた
人間です。

そして、もっと突きつめていくと、肉体を
はなれても、この生命は光を放し、光を失う
ことはない。

なぜなら、肉体は器、入れ物なんです。
みなさんは、今、この世での役目を
果たすために、肉体をまとっていますけれど、
みなさんを生かしている生命の光は、永遠の
ものなんです。

いいかえると、生命の流れというものは、
尽きることなく、神の世界にむかって
流れている、悠々と流れている。

このことを知って、どうか、素直に、私は
明るい、私の生命はかがやいていると思って、
祈りの生活をつづけて下さい。

それでは、ありがとうございました。
          五井 昌久
   昭和61年7月21日夕方 自宅にて