読書の記録

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宝島

2022年01月06日 | 小説・文芸
宝島
 
真藤順丈
講談社
 
 まだ20代のころ、沖縄に関わる仕事をしたことがあった。相手は沖縄県の地元企業である。当時の僕は沖縄といえば南国の観光リゾートという認識、そしてかつての太平洋戦争の沖縄戦について本で読んだくらいのことしか知らなかった。この仕事も出張のひとつでもできたらラッキーだなくらいの感覚で引き受けた。
 で、先方とやりとりして大ケガをしたのである。自分ではそのつもりななくても何か言うたびに、何かひとつするたびに相手の感情を逆なでしてしまうようだった。ほうほうの体でこの仕事は退散した。
 沖縄県民の本土に対して抱いているアンビバレントな感情とその歴史的背景に対し、僕があまりに無頓着だったのだ。
 
 知識としては知っている。沖縄はもともとは琉球王国という日本とは別の国で、中国の朝貢国のひとつだった。本土で言うところの江戸時代に薩摩藩に攻め入られて実効支配され、その後「琉球処分」として明治日本政府に組み入れられた。太平洋戦争では鉄の暴風と形容される地上戦の舞台となり、悲惨極まりない犠牲を強いられた。戦後はアメリカの占領地となった。日本に復帰したのは1972年。
 
 そう。知識としては知っている。だけれど、そういう歴史的経緯をもつ沖縄県民が本土の人間に対してどのような感情を持つか、まなざしをむけるかー―一過性の観光客ならともかく、ビジネスの相手となったときに何を期待し、何を要求し、何を心の底で思っているか。これについて僕はまったく想像が及んでいなかったのだ。
 
 それ以来、沖縄のことは敬遠してきた。とても背負いきれるものではない。観光に行くことはあっても仕事で縁を持ちたいとは思わなくなった。
 
 
 今年は沖縄の本土復帰50周年になる。「復帰」も「50周年」も、一聴すれば明るそうな話題だが、はっきり言って単なる慶事でも周年でもない。うかつにおめでとうでも言おうものなら、相手によってはぶっとばされそうだ。本土と沖縄は、まったく違う歴史を歩んで今日に至っている。したがって見えている景色が全く異なっていると言ってよい。
 
 復帰50周年に先駆けてか、本小説が文庫化されていたので読んでみた。アメリカ占領時代の沖縄が舞台だ。この時代の沖縄の様子は、沖縄戦以上に語られていないように思う。Amazonで検索しても、沖縄戦については専門書から一般書まで様々なものが出てくるし。漫画も絵本だってあるのだが、アメリカ占領時代のことをあつかった本となると専門書がごくわずかヒットするだけだ。
 
 僕だってあいかわらずほとんど認識がない。それゆえに本小説の内容は知らないことだらけだった。戦後しばらくの究極の貧困状態、米軍からの盗品や収奪品で村に物品をばらまく戦果アギヤーという存在、与那国島の密貿易団の話、基地をめぐっての土地の強制収容、アメリカの思想統制、民族闘争とよんでよい島ぐるみの反米運動など。
 アメリカ基地の存在がしばしば事故や事件を引き起こすことは知っていたがそれがどのような具合の事故や事件なのか、それも朝鮮戦争やベトナム戦争真っただ中のアメリカ占領下時代ならばどういうことになるのかは、アメリカ中から沖縄に集められた兵たちのメンタリティとはどのようなものか。
 知識としては知っていたつもりでも、あらためて小説の描写から見えてくるものは神も仏もない救いの無さである。あまりのことに読書が進まなくなる。大日本帝国もアメリカも、沖縄を重視していたのはその地政学上の位置なのであって、そこに存在する住民や文化は保護の対象でも尊重すべきものでもなんでもなかったのだなということに改めて思う。
 むしろ沖縄にとって不幸だったのはその「場所」だったということになる。
 
 小説のあらすじそのものは戦果アギヤーの仲間だったおさなじみ3人を中心としたおよそ30年間のクロニクルだ。一人はヤクザに、一人は警官に、一人は教員になる。アメリカの占領下、この3人はそれぞれの立場で沖縄のアイデンティティを追いかける。直木賞受賞にふさわしい重厚的なミステリーとバイオレンスを伴ったものだけれど、この小説のなにより大きな特色はアメリカ占領下時代の沖縄の空気ーー容赦なき不条理下の苦しみと怒り、不屈の魂を描いたその筆致だろう。

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