インカメ越しのネット世界
りょかち
幻冬舎
ネットで紹介されて興味を持ったので、Kindleでダウンロードして読んでみた。
著者いわく、"私を蚊帳の外にして、昔のインターネットを語って仲良くしている人たちを見ながら、「安易に懐古主義してればいいじゃん、ばーかばーか」”というその対象とは"初期のWEBサイトやインターネット上のコミュニティでの青春を語れる30歳のおじさん”。
30歳どころか40歳代の自分としてはへこむばかりだ。うっかりMosaicというブラウザーがあってさ、などと話を始めてしまわないよう気をつけなければ。
僕のように、10代はまだWebのない世界に生きてきて、その後Webの世界が始まっていったパターンの人間から見ると、メインがリアル、サブがバーチャルという世の中の見立てがどうしてもあって、それはなかなかぬぐえなかったりするのだが、物心ついたころからWebがある世代であれば、たしかにリアルとバーチャルは等価に受容できるのだろう。
また、Webも初期のころは、そこでできるコミュニケーションはテキストを中心とした制約の多いものだったから(当時はそれが当然と思っていて制約とさえ感じていなかったが、今からふりかえると制約だったのだ)、リアルのコミュニケーションとバーチャルのコミュニケーションは別物だった。バーチャルのコミュニケーションは、あくまでリアルの補助だった。
が、現在のように、バーチャル上でもこれだけ細かいコミュニケーションの「あや」が使い分けられるようになると、リアルもバーチャルもすべてはコミュニケーションの元に統括されているのであり、もはやリアルとバーチャルという「二元論」さえ融解しているとも言える。ここのところを僕ら世代はよく理解しないといけないようだ。
とはいえ、本書を読んでなんとなく思ったのは、ヒトとしての普遍的な欲望は、根本的にはかわらないのであって、そこに道具立てとしてのSNSの各サービスが、ヒトの欲望の細かいところまで応じられるようになってきている、ということなのかなあ、ということだ。もちろん僕が学生のころには、スノーもsnapchatもなかったわけだけど、もしあったら、やっぱりこんな使い方をして、こんな風に盛り上がったり、あせったりしたんだろうなあと思う。
というのは、やっぱりヒトは大きな欲望として、誰かと仲良くしたい、認められたい、褒められたい、私のこと見てほしい、誰かの保証が欲しい、この人に見せたい、あの人には見せたくない、というのがあるのであって、それを支援してくれるサービスがあればそれには乗るんだよな。必要は発明の母とはこういうことかと思う。
だから、もうひとつの注目すべきところは、ノンバーバル領域のコミュニケ―ションを支える技術や発想が、次々開発されてローンチされてくるこの時代の加速だろう。スタンプでコミュニケーションさせるLINEも、当初はびっくりしたが、見事に定着した。刹那的な動画でコミュニケーション、エフェクトかけた自撮りでコミュニケーション、といった脱テキストによるコミュニケーションは、これからもどんどん出てくるように思う。
ところで、著者のりょかちさん。本書を読みながら思ったのだが、けっこう頭いい人だ。コトバ選びや文章センスがかなり成熟している。ノンバーバル万歳とうそぶいているようで、実はバーバルの使い手としてもけっこうやり手っぽい。