読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

現在知 Vol.1 郊外 その危機と再生

2013年05月21日 | 東京論

現在知 Vol.1 郊外 その危機と再生

三浦展・藤村龍至 編

 

 本書のテーマはタイトルのごとく、団地に代表される少子高齢化における郊外の縮退と、その再生のありかたである。
 本書は、論文集なので、ひとつひとつはバラバラなのだが、一冊読むと、やはり通底するものがある。

 

 それは、団地とかニュータウンとかにみられる「均質性の罠」である。


 最近は都市学でも社会学でも、あるいは生態学でも「多様性」こそが持続可能性のカギであることが言われているだが、にもかかわらず、人間というのは、なぜかくも均質性のほうに行こうとするのだろうか。
生存本能としてはむしろこれは致死遺伝子というしかない欠陥ともいえる。


 都心部が多様性に特徴を求め、かつてここから逃れるようにユートピアのニュータウンをつくっていったということは、人は本能的に均質性を志向するとしか言いようがない。なぜ人が、右にならえとか、同調圧力のほうになびくのかは、ゲーム理論的にはあきらかなのだそうだが、均質性というのは究極の部分最適なのだろうと思う。


 団地やニュータウンにおける均質性が部分最適というのは、ぶっちゃけていえば、「自分さえよければよい」ということである。
この「自分」に入ってなかったのが実は「子ども」である。その「子ども」がニュータウンから退出していっているのである。


 いや、当時入居した当人にはそのつもりはなかったのだろう。「子育ては、緑豊かな郊外がよい。都心なんてまっぴらである」というテーゼは根強い。

 だが、実際のところどうであろう。
 “緑豊かな郊外こそ子育てに最適な環境”とは、単に、「自分が子どもだったときは、まわりは緑だらけだった」という、自分自身のエピゴーネンにすぎないのではないか?

 これ自身も、自分と同じ「均質性」を子どもにあてはめる一種の罠である。


 ちなみに僕自身は、埼玉県のニュータウンに育ったクチであり、その限界というか、ぶっちゃけそりゃあ黄昏るわなというのがよくわかる。
 たしかに緑は多かったが、それ以上に人と人の社会空間の不気味なまでの閉塞性のほうがよっぽどトラウマになっているといってよい。
本書では浜崎洋介氏が、神戸の西神ニュータウンにおける生活を、例の酒鬼薔薇事件とリンクさせて述懐しているが、この感じよくわかるのである。


 そういう意味では、僕は幸いにも郊外から脱出できたし、そういう人は多い。
 これこそが、今のニュータウンの黄昏の原因である。

 つまり、ニュータウンは、当座の世代のみが満足するようにできており、次の世代もここに住むという配慮がなかった。よく言われるように世代移転の考えに及んでいないのである。世代移転のことまで含めて、人は物件を選んだり、買ったりしないということもである。

 

 脱出した人はいいとして、残されたニュータウン、そこに住む高齢者、あるいは脱出できなかった人をどうするか。

 

 ここに、ニュータウン世代の次世代のひとつ下の世代が、ニュータウンに新たな可能性を見出している。
僕自身は、上に述べたごとく、もはや団地やニュータウンは悪い記憶しかないのだが、その下の世代は、ここに新たな可能性をみる。

 これはどういうことだろうか。

 俗に東日本大震災以降人とのつながりが再確認されたとか、コミュニティって大事だよね、という見方が浮上したといわれる。
それはそうかもしれないが、もっと根本的なことは、バブル崩壊以降に生まれ、育った人は、本能的に日本の企業における利益集団、社会学でいうところのゲゼルシャフトにうそ寒さを感じているのだろうと思う。
 東日本大震災は、それを明快にしたと言える。

 ゲゼルシャフトを機能させるのは、共通の利益目的が必要である。
 だが、縮退と成熟のこの時代、互いに相反するような情報が錯綜するこの時代に、上の世代が設定する利益目的に、心底共感するのはもはや難しいといってよい。保身のために同調することはあっても、熱狂的に企業の利益目的に同化するのはなかなか難しいだろう。

 そのときにある種の地縁である団地やニュータウンの人々のありようは、脱利益集団としてのユートピアをみるのかもしれない。
かつて、均質性の温床だったところに、むしろ多様性の土壌を築こうとしているのである。


 なぜ、そんなまさかの大逆転が起こりえたか。

 つまり、はじめて人は(というか日本人は、というべきか)、本能的レベルで、均質性を忌避し、多様性を模索し始めたと言えるのである。
 これだけ、空気を読むとか、SNSでのいいね!の押し合いとかありながら、あくまでそれは社会上の礼儀であって、本能的には多様性のほうがよい、ということに気付き始めたのである。

 なぜかというと、かつては、みんなと同じであることがステイタスであったし、消費の欲望はそれを駆り立てていた。「みんなと同じでいよう」ということがストレスや苦痛であるよりは、それを達成することの喜びのほうが上回っていた。

 今はもはやそうではない。みんなと同じあることは苦痛だし、達成したところで徒労や虚しさしか出てこない。
 これは、共通の欲望や夢に、強固なものがなくなったからででもある。


 ならば、自分の思うようにしたい。自分と気のあったもの同士でつながりたい。エゴイズムを超えたつながりでありたい。
 そのとき、ニュータウンは、「自分らしさ」を発揮できる場所として再生したのである。

 「郊外」が、「都市化」する時代がようやく訪れたのである。


 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 知の逆転 | トップ | いで湯暮らし »