読書の記録

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塩狩峠 ・ 氷点 ・ 新約聖書入門

2017年07月10日 | 小説・文芸

塩狩峠 ・ 氷点 ・ 新約聖書入門

三浦綾子

小学館

 

たまに昭和の小説を読むと面白い。去年は水上勉の「飢餓海峡」を読んだらめちゃめちゃ面白くてのめりこんだ。もともと名作として誉れ高く、映画にもなった作品だが、平成の今でも十分に鑑賞に耐える話だと思う。湊かなえとか角田光代とか好きな人だったら没入して読めるんじゃないかと思う。

そんなわけで、なんか昭和の小説で面白いのないかなーとKindleのレコメン機能をたどっていると出てきたのが三浦綾子だった。

三浦綾子。もちろん知っている。しかし、あまりちゃんと読んだことがなかった。学校の課題図書などに入っていたりして優等生すぎる先入観が働き、敬遠していたのである。それに僕はキリスト教信者でもない。しかし、評判高いのはよく聞くので、それではというので読んでみることにした。

 

まず、「塩狩峠」は、なにしろ結末がたいへん有名で、そもそも文庫カバー裏のあらすじでもしっかりネタバレしているから、あーこの先、彼は死ぬんだなということを知ったうえで読む。これ、知らずに読んだらどれだけ衝撃的だったろうにと思う。

ただ想像外だったのは、この小説はもっと塩狩峠の事故を中心とした話だと思っていたことである。

違うのね。これは、主人公である永野信夫が幼少期に、不遜な態度をとってしまって父親から鉄槌をくらうところから始まり、彼の成長と、そこで出会う様々な人々が与える彼の心の変遷の物語であり、すべては塩狩峠での殉死へと収斂していくのであった。

そう考えると、この小説「塩狩峠」は聖書の福音書そのものである。福音書を読むとき、この先イエスは十字架に張り付けられて死ぬことを、読み手は知っている。(そのあとイエスは「復活」するわけだが)。だからこそイエスの物言いや彼の行動ひとつひとつがより意味をもって読み手に迫ってくる。

そういうカタルシスがあるためか「塩狩峠」に救済をみた人はたいへん多く、「人生が変わった本」として本書を挙げる例はたいへん多い。中学生でも読める易しい文章だが、人を動かす力がたいへんある作品といえる。

ぼくはひねくれているのでややきれいごとすぎる感にどうしても抵抗してしまうのだが、しかし最後の最後のシーン、許嫁だったふじ子が、晴れ渡った大空の下の塩狩峠で、線路に突っ伏して泣きわめくシーンこそがもっとも心に響いた箇所であった。ふじ子は信夫よりもはやくキリスト教に入信し、その教義を心得た人物だったが、人の心はそうきれいにおさまらない。この最後のシーンこそが、聖書的な路線から外れた、しかし人間がもつ哀しみと肯定の両方を描いた賛歌の描写だと思うのである。

 

 

それに比べると「氷点」は諦観が漂う作品だ。

キリスト教でいうところの「原罪」を扱っている、とよく紹介されており、本書の中心人物となる陽子は、物語の最後に、人間がもつ原罪に気づいて自殺をはかる。

ただ、ぼくとしては陽子の自殺も衝撃的ではあるが、そこに至るまでのそれぞれの登場人物のどうしようもない醜悪なエゴに心底凹まされるのである。陽子の養父母である敬三や夏枝の欺瞞や疑心だけではなく、村井の嫉妬、高木の打算など、我々人間は多かれ少なかれ、こんなケチな執着や逆恨みや自己憐憫や自己正当化をしている。しているということは、相対的に誰かを貶めたり、見下さしたり、罪をなしつけたりしているのだ。刑事事件に問われなくても、あるいは心の中だけでも誰かを卑下し、自分を正当化する。そういう人間の恥部をちくちくとみせつけられる思いがする。

「氷点」には続編もあるようだが、こちらは未読である。ひとまずもう十分という気がする。

 

そこで読んだのが「新約聖書入門」である。サブタイトルは「心の糧を求める人へ」。三浦綾子にこんな作品があるとは知らなかった。

僕は聖書をちゃんと読んだことはない。がんばって4つの福音書までは読み切って、最後のヨハネの黙示録もくらくらしながら読んだが、使徒行伝と書簡集はもう無理だった。

僕にとって聖書のアンチョコにしてきたのは阿刀田高の「新約聖書を知っていますか」である(あと「旧約聖書を知っていますか」も)。

この阿刀田高のはなかなかよくできていて、これ1冊あればイスラエルで聖地めぐりしてもガイドとして耐えられる。阿刀田はキリスト教信者ではないので、いちいちイエス・キリストの奇蹟を額面通りには信じていない。信じていないが、おおよそ人々にそう思わせるようなことがあったのだ、というスタンスで聖書に臨む。最大の奇蹟とされる「復活」についても、すべては計算通りで、イスカリオテのユダあたりも一枚かんでいたのではないか、という小説家らしい着想を得ている。

三浦綾子の「新約聖書入門」は、信者のそれなので、基本的には聖書の記述を受容しており、イエス・キリストのおこした数々の奇蹟も、そういうことだって起こりえるのだ、と一貫した姿勢をつらぬいている。

だからといって信者でない僕がよんで鼻白む思いかというとそうでもなくて、マタイの福音書の20章に出てくるぶどう園の主人の話――夕方まで声がかからずに立ちんぼを余儀なくされた日雇い労働者への気持ちの寄せ方とか、イエスの代わりとして釈放された罪人バラバの意味合いにおける解釈などは、なるほどそんな風に感じ取れるか、とそれはそれで感銘とともに説得力を感じる。いい話をきいたなーと正直に思わせるものがある。

また、福音書に限らず、使徒行伝や書簡集や黙示録に至るまで、新約聖書のすべてが、迫害にさらされた、まさに真っ最中のもとで命をかけて書かれたものだ、それでも書き残したいものとは何かという指摘はなるほどその通りで、阿刀田のにはなかった信者ならではの見解である。

 

というわけで、三浦綾子の作品を立て続けに3作読んだわけである。まだまだ「海嶺」とか「泥流地帯」とか気になる作品もあるのだが、ほかに読みたい本がほっておかれたままになっているので、いったん三浦綾子はここまでとする。

いずれにせよ読んで損はなかった。「塩狩峠」なんかはトロッコ問題が流行って(?)いる今日このころ、その観点からもいまいちど読まれてもよいのではないかと思う。

 


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