謹賀昭和100年
海外で一人で正月を迎えたことがあったが、国内ではカミさんと別々に年を越したのは初めてだった。しかし、子供たちが来てくれて、にぎやかに新年を迎えることができた。初挑戦の雑煮づくりも何とかクリアーし、屠蘇で乾杯した。
ところで、今年は昭和100年に当たるとのこと、2025年から1925年を引くと確かに100年になる。わたしはこのうちのほぼ90%を生きてきた。
昭和が64年まであったせいか、「平成」や「令和」に比べて、「昭和」と和暦で言うのは身についている。昭和時代に起きたことは和暦でも西暦でもいうことができるが、平成・令和になると、例えば東日本大地震にしても和暦で何年だったかあやふやになり、昭和まで引っ返して数えることになる。
平成や令和が昭和に比べてわたしの中で影が薄いのは、現在の日本の起点が昭和にあって、そこから発する放射の中に平成と令和が包み込まれているように感じるからかも知れない。
子どものころ『昭和の子供』(久保田宵二作詞、佐々木すぐる作曲)という歌を歌っていた。今だに歌詞も曲も覚えている。
僕たちは昭和の子供だ。心も姿も富士山のようにキリリとしている。日本晴れのような明るい心に大きな望みをもっていて、鷹のような元気な体に力がみなぎっている。
昭和初期に期待されていた児童像である。これが昭和10年代には「小国民」として成長し、兵隊の予備軍とされていく。
わたしがこれと対照的に思い浮かべるのは、1970年代に歌われた『戦争を知らない子供たち』(北山修作詞、杉田二郎作曲)である。
戦争が終わってから生まれ、戦争を知らずに育った子供たちが、大人になって歩き始める。「戦争を知らない子供たち」という名前を覚えて欲しい。そう戦後生まれの若者が主張している。
小国民だったわたしは、この歌を聴いた時、とても新鮮な感じを受けた。
『昭和の子供』、『戦争を知らない子供たち』、この二つの歌はわたしにとって昭和という時代を象徴している。
今年は昭和100年である。
逝ってしまったのかT・M君
新年早々弔辞を書くのは残念であるが、やはり書き残しておきたい。
暮れの31日に、ご子息からT・M君が亡くなったとの電話を受けた。12月の東大農学科同級会の出欠を確かめる電話で声を聞いてから10日しか経っていない。しっかり話していたのにと、呆然とした。
彼とは農学部に進学してから知り合った。背が高く、俳優のような端正な顔立ちで、話す言葉にどことなく威厳があった。土佐出身の例にもれず、斗酒なお辞さずの酒豪だった。
囲碁・将棋とも学生時代から有段の実力で、会社に勤めてからは、社内にブリッジのチームを育成して大会に出ていたという話を聞いた。
友達付き合いがよく、透析を行うようになってからも同級会には出席していた。わたしがコカリナのコンサートに出演した時は、不自由な体を押して、花束を持ってきてくれたのには感激した。
大病から生還した2021年の8月から『老いのつぶやき』と題するショート・エッセイを書き始め、ある程度まとまると送ってくれた。国内外の政治経済情勢についての寸評、故郷高知県の思い出、地元サッカーチーム浦和レッズの試合評、競馬G1レースの予想と結果評等々多岐にわたる話題で、読むのが楽しみだった。
去年5月にもらったのが絶筆になったろうか。もう仲間の集まりには出ることができなくなったという趣旨が記されていた。
無理だと分かっていても、もう1回会いたかったと心残りである。
心からご冥福をお祈りする。
雪 山 ?
雲の重なりです
STOP WAR!
10日前に話をしたT・Mさんが亡くなられ寂しいですね。陰ながらご冥福をお祈りします。
「雲の重なり」は雪山にみえますね!良い写真です!
天野さん
おめでとうございます。早々のコメントありがとうございます。今年もよろしくお願いします。
親しい人がいなくなるのは寂しいですが、残されたものせいぜい楽しんでいきたいですね。お互い「昭和の子供」ペースで。