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先週世間を大いに騒がせた安倍前総理の「桜を見る会」前夜祭の費用補塡問題についての国会での言い訳には、気が遠くなりそうな嫌悪感を感じていました。
その時、私の意識に浮かんできたものが、33年前に愛読していた石橋湛山の数々の文章でした。私が学部を卒業して3年目の頃で20代後半を迎えた頃でした。石橋湛山(1884年~1973年)は、戦前は主に東洋経済新報社のジャーナリストとして活躍し、戦後は自由民主党第二代総裁、第55代内閣総理大臣として有名です。私の母校早稲田大学出身者として初の首相となった人物です。戦前は、日本の韓国併合などの植民地政策、中国への対華21箇条の侵略政策を徹底的に批判し、国内近代産業の振興と科学立国こそが日本の進むべき道であることを強く主張しました。対華21箇条(1915年 大正4年)については、この政策を強行した大隈重信首相に対しても容赦なく批判を行い、この中国への誤った政策によって日本は将来破滅に陥いり、今後100年にわたって日本官民を悩ます禍の源となるとまで主張しています。その後の日中間の歴史を考えますと、この主張は背筋が寒くなるほど的中していることに感嘆しました。それと早稲田大学の創立者である大隈重信にも少しも臆することなく言うべきことを言うという石橋の姿にも感銘を覚えました。私の大先輩でもあるし、自分自身は50年後の自分の後輩に感銘を与えるようなこんな仕事ができるだろうかと痛切に感じた思い出があります。
さて、その石橋ですが1930年(昭和4年)11月に東京駅構内で暴漢の銃撃を受け重傷を負い議会への出席が叶わなくなった浜口雄幸首相に対して、議会運営に支障をきたさないよう潔く退陣すべしとする社説を書きました。その26年後の1956年(昭和31年)12月に石橋は内閣総理大臣に就任するのですが、1か月もたたない翌年1月25日に脳梗塞で倒れてしまい(最初は風邪だと思われたようです)、医師から2か月の絶対安静を言い渡されます。すると、かつて浜口首相に対して主張したことは、当然自分にも当てはまるとして「国会運営に支障をきたさない」ために首相を辞任します。この言行一致の潔さは多くの人々に感銘を与えましたが、潔すぎて、そのあとに岸信介内閣ができたことで批判も招いています。
今回の安倍前総理が責任を取って議員辞職もしないという姿と、かつての石橋湛山の姿とを比較すると、これが同じ自民党の総理大臣なのかと、そのあまりの違いに嘆息せざるを得ません。