上の写真は、昨日御紹介した「何遠亭」の由来が書かれた看板です。七卿のうち、この何遠亭に滞在したのは一行のリーダーの三条実美で、他のお公家さんたちは、少し離れた氷上山真光院というお寺に滞在したそうです。一行の中の澤宣嘉という公家は、福岡久留米出身の討幕運動の志士平野国臣らの但馬国(現在の兵庫県)生野代官所襲撃計画に誘われて一行からは離れたそうです。この澤という人物はかなり過激な人だったようです。明治維新後は長崎でキリシタン弾圧を行うなど、ろくでもないことをしている一方で、外務卿(現在の外務大臣に相当)に就任し欧州諸国との国交締結を行ったりしています。その後、ロシア公使に任命されロシアに出国する直前に38歳の若さで病没しています。何だか個人的に興味を惹かれる人でした。
何遠亭の命名の由来は、三条の秘書加藤有隣が「論語」の中の「何の遠きか之有らん」から命名したということで「いつか必ず(追い出された)京都に復帰するのだ」という決意を表したものだそうです。
昨日の記事の補足ですが、この建物のある場所は、厳密には井上馨宅ではなく、馨の実兄の井上五郎三郎の自宅だそうで、訂正いたします。