ディーパック・チョプラ
マハラジャは常日頃から、私たちは神のためにつくられたのではなく、神こそが私たちのためにつくられたのだと言っていました。彼が意味する本質とは、目に見えない存在として、崇拝される存在としての全能の誰かをつくらねばならなかったというのです。
本質は、感じたり、あるいはそれについて考えたりできないものなので、見えない行動をつかさどります。生きているということが、感じることや考えることで成り立っているのだとしたら本質とはいったい何の役に立っているというのでしょうか。
最も表面的なことにおいては、本質は特に役立ってはいないのかもしれません。なぜなら、あなたは「違う」というものにまだ注意を引かれているからです。たとえば、不幸より幸福に、貧しいより豊かに、罪悪より善良になりたいとしましょう。これらの違いのどれ一つとして本質には関係ありません。繰り返しますが、本質はたった三つのことにしか働かないからです。
存在し、意識し、創造する、ということです。
マハラジャは常日頃から、私たちは神のためにつくられたのではなく、神こそが私たちのためにつくられたのだと言っていました。彼が意味する本質とは、目に見えない存在として、崇拝される存在としての全能の誰かをつくらねばならなかったというのです。
本質は、感じたり、あるいはそれについて考えたりできないものなので、見えない行動をつかさどります。生きているということが、感じることや考えることで成り立っているのだとしたら本質とはいったい何の役に立っているというのでしょうか。
最も表面的なことにおいては、本質は特に役立ってはいないのかもしれません。なぜなら、あなたは「違う」というものにまだ注意を引かれているからです。たとえば、不幸より幸福に、貧しいより豊かに、罪悪より善良になりたいとしましょう。これらの違いのどれ一つとして本質には関係ありません。繰り返しますが、本質はたった三つのことにしか働かないからです。
存在し、意識し、創造する、ということです。