コドモの誕生日のプレゼントは1年かけて探すことにしています。
と言えば聞こえはよいですが、誕生日が近くなってあわててどうしようか、と
考えるのではなくて、ずっと誕生日が先であっても、ふらっと立ち寄った先で
良さそうなモノを見つけたら買ってストックしておきます。(つまり、隠しておく)
ホントは、買ってその日に渡してしまうのがよいのでしょうけど。
アンタッチャブル
マスコミ網はもはやどのレベルにも張り巡らされていて、特別な存在、つまり
アンタッチャブルというのは消滅しつつあるようです。
マスコミが増長しているということは、つまりそれを享受している庶民の「知りたい」という
欲求が肥大し、それにマスコミが応えているという図式なのだとは思います。
「知りたい」が加速するとブレーキが利かず、アンタッチャブルだった部分までも
覗こうとするのでしょう。
言い方をかえれば「庶民」を自認していない人達はマスコミとの関係を持とうとして
いないのではないでしょうか。それがメディアリテラシーというものなのでしょうか。
それと、やっかいなことに、マスコミ側にいる人達も、なぜか「庶民」を自認して
いないんですよね。。それは間違っていると思うのですが、マスコミ側まで庶民が
飲み込んでいってしまったら現在の日本の仕組み自体が崩壊してゆくような気もします。
でもそれは改善なのかもしれないですね。
最近はマスコミ側の「余計なおせっかい」が強烈な違和感として自分にふりかかって
きていると感じることが多々あります。怒りとまではいかないまでも、その
「余計なおせっかい」が周到で、「忍び寄ってくる」感じなので、それが違和感と
なるのだと思います。
現代人は忙しいといわれながら、相当、ヒマな時間(マスコミをウォッチする時間)は
増えているという矛盾を感じます。昔々、家からテレビを撤去して数年過ごしたことが
ありましたが、非常にせいせいした記憶があります。
-豊かな社会と豊かな自分
豊かになった社会における自分のミッションというのは、豊かな生活をすること、
なわけですね。
それはコトバを替えれば、「豊かな生活」が一極集中されては困る、ということです。
豊かになった社会、というのは、豊かになった社会「インフラ」ということであって、
各自にとってみれば豊かになるベースが整っているにすぎません。社会が豊かになったから
といって自動的に自分が豊かになるわけではないのです。それは、奇しくもこの日本が戦後、
証明しているのです。
そして、豊かな生活をゲットするにはどうするか。。
お金があればある程度の豊かな生活ができる、という話は大前提で、誰もがうすうす
感じているのは、富が集中しているところに「豊かさ」も集中しているとは限らない、
ということです。なぜならば、豊かさには「幸福度合い」の尺度が絶対的に存在しているからです。
そして、その「幸福度」を上げるためには。。
これは自分は、方法は知っているのですが実践できていない、という。。
まず、「他人の芝生」をみないということ。
次に、自分の身の丈を知り、身の丈にあったゴールラインを(他人やマスコミに惑わされず)
設定すること。何をもって自分が「幸福」を感じるか、というのは、自分でコントロール可能なのです。
これらを、知らないというか、うすうす知っていても目をそむけているヒトは多いですよね。
ここまでである程度の「幸福度」は得られます。庶民レベルの。。
「他人は他人、自分は自分」を徹底して、身の丈にあった生活をしていれば
けっこう幸せなのです。ただし「ヒトはヒト」を徹底していないとすぐに邪念が入ってきます。
それは生活レベルという上での「競争意識」のようなものですね。
その邪念をコントロールするのは、この現代社会ではけっこうたいへんかもしれません。
これらは自分はけっこう以前からわかっていたのですが、これにプラスして最近とみに
考えるのは、「幸福度」を上げるためには自己節制も必要なのだな、ということです。
自分が「豊かな人間」にふさわしいヒトになるべく努力するということです。これが、
次の段階なのでしょうね。
「『豊かな人間』にふさわしいヒト」になるためには、自己節制できるというのは
絶対条件です。それを、わかっているようで、わかっていなかったような気がします。
その「『豊かな人間』にふさわしいヒトになる」手段は、お金を積んで経験を積むとか
海外旅行に行ったりするとかそういう今流行りの「自分を磨く」とは全く異なる
ベクトルにあります。そういうところから脱却できていないひとはまず前提である
「『他人の芝生』をみない」というところからやり直しです。そういうヒト、多すぎますよね。
「自分を磨く」は、後工程です。自身が豊かになっていないときのそういう経験は、
所有欲、金銭欲などを膨張させるだけで、ほとんどムダかもしれません。
ある程度の節制がなされ、「豊かな人間」にふさわしいヒトになった後には、有効であり、
黙っていても自分は磨かれてゆくことでしょう。
(子供は別ですよ 子供はわけのわからない段階でのそういう経験は必要かもしれません)
投資の考え方と似ていますよね。。
余裕資金があって精神的に「豊か」であればあるほど、お金は勝手にたまってゆく、という。。
そう、そして、お金の話はまたその後、最後の段階なのです。
自己節制の中には、お金の節約もあるでしょうし、仕事上での節制という考え方も
あるでしょう。そして、そういった節制がある程度なされ、「豊かな人間」にふさわしい
ヒトになってからお金のことを考えてもよい、ということです。「『「豊かな人間』に
ふさわしいヒト」というのはつまり、まだ「豊かな人間」にはなっていないということですね。
ヒトとしてのベースができてから投資等について考えてもぜんぜん遅くないでしょう、と。
むしろ「満を持して」ということで、成功の可能性が高まるのではないかと考えます。
世の中の大多数のヒトが間違っているのは、今自分が書いた3番目をすっとばして
お金のことを考え始めるところです。3番目とは、自己節制のところです。一見、
投資には周り道のように見えるこの「自己節制」が、最も大事になってくるかもしれないのです。
まあでも、その前に。。 大部分のヒトは3番目をすっとばすどころか、その前の
1、2番目すらすっとばしてますけどね。。1、2番目とは
・「他人の芝生」をみない
・自分の身の丈を知る です。
だから政治家などに「庶民」とかいわれてバカにされ、「庶民にはわからんだろう」
とすっとムチャな法案を通されてしまったりするのです。自分はそれが悔しくてたまりません。
他人よりもまず自分、という考え方を利己的だの自己中心的だの非難される時代も
ありました。今はそんな言説は無視できる時代になってきているでしょう。
と言えば聞こえはよいですが、誕生日が近くなってあわててどうしようか、と
考えるのではなくて、ずっと誕生日が先であっても、ふらっと立ち寄った先で
良さそうなモノを見つけたら買ってストックしておきます。(つまり、隠しておく)
ホントは、買ってその日に渡してしまうのがよいのでしょうけど。
アンタッチャブル
マスコミ網はもはやどのレベルにも張り巡らされていて、特別な存在、つまり
アンタッチャブルというのは消滅しつつあるようです。
マスコミが増長しているということは、つまりそれを享受している庶民の「知りたい」という
欲求が肥大し、それにマスコミが応えているという図式なのだとは思います。
「知りたい」が加速するとブレーキが利かず、アンタッチャブルだった部分までも
覗こうとするのでしょう。
言い方をかえれば「庶民」を自認していない人達はマスコミとの関係を持とうとして
いないのではないでしょうか。それがメディアリテラシーというものなのでしょうか。
それと、やっかいなことに、マスコミ側にいる人達も、なぜか「庶民」を自認して
いないんですよね。。それは間違っていると思うのですが、マスコミ側まで庶民が
飲み込んでいってしまったら現在の日本の仕組み自体が崩壊してゆくような気もします。
でもそれは改善なのかもしれないですね。
最近はマスコミ側の「余計なおせっかい」が強烈な違和感として自分にふりかかって
きていると感じることが多々あります。怒りとまではいかないまでも、その
「余計なおせっかい」が周到で、「忍び寄ってくる」感じなので、それが違和感と
なるのだと思います。
現代人は忙しいといわれながら、相当、ヒマな時間(マスコミをウォッチする時間)は
増えているという矛盾を感じます。昔々、家からテレビを撤去して数年過ごしたことが
ありましたが、非常にせいせいした記憶があります。
-豊かな社会と豊かな自分
豊かになった社会における自分のミッションというのは、豊かな生活をすること、
なわけですね。
それはコトバを替えれば、「豊かな生活」が一極集中されては困る、ということです。
豊かになった社会、というのは、豊かになった社会「インフラ」ということであって、
各自にとってみれば豊かになるベースが整っているにすぎません。社会が豊かになったから
といって自動的に自分が豊かになるわけではないのです。それは、奇しくもこの日本が戦後、
証明しているのです。
そして、豊かな生活をゲットするにはどうするか。。
お金があればある程度の豊かな生活ができる、という話は大前提で、誰もがうすうす
感じているのは、富が集中しているところに「豊かさ」も集中しているとは限らない、
ということです。なぜならば、豊かさには「幸福度合い」の尺度が絶対的に存在しているからです。
そして、その「幸福度」を上げるためには。。
これは自分は、方法は知っているのですが実践できていない、という。。
まず、「他人の芝生」をみないということ。
次に、自分の身の丈を知り、身の丈にあったゴールラインを(他人やマスコミに惑わされず)
設定すること。何をもって自分が「幸福」を感じるか、というのは、自分でコントロール可能なのです。
これらを、知らないというか、うすうす知っていても目をそむけているヒトは多いですよね。
ここまでである程度の「幸福度」は得られます。庶民レベルの。。
「他人は他人、自分は自分」を徹底して、身の丈にあった生活をしていれば
けっこう幸せなのです。ただし「ヒトはヒト」を徹底していないとすぐに邪念が入ってきます。
それは生活レベルという上での「競争意識」のようなものですね。
その邪念をコントロールするのは、この現代社会ではけっこうたいへんかもしれません。
これらは自分はけっこう以前からわかっていたのですが、これにプラスして最近とみに
考えるのは、「幸福度」を上げるためには自己節制も必要なのだな、ということです。
自分が「豊かな人間」にふさわしいヒトになるべく努力するということです。これが、
次の段階なのでしょうね。
「『豊かな人間』にふさわしいヒト」になるためには、自己節制できるというのは
絶対条件です。それを、わかっているようで、わかっていなかったような気がします。
その「『豊かな人間』にふさわしいヒトになる」手段は、お金を積んで経験を積むとか
海外旅行に行ったりするとかそういう今流行りの「自分を磨く」とは全く異なる
ベクトルにあります。そういうところから脱却できていないひとはまず前提である
「『他人の芝生』をみない」というところからやり直しです。そういうヒト、多すぎますよね。
「自分を磨く」は、後工程です。自身が豊かになっていないときのそういう経験は、
所有欲、金銭欲などを膨張させるだけで、ほとんどムダかもしれません。
ある程度の節制がなされ、「豊かな人間」にふさわしいヒトになった後には、有効であり、
黙っていても自分は磨かれてゆくことでしょう。
(子供は別ですよ 子供はわけのわからない段階でのそういう経験は必要かもしれません)
投資の考え方と似ていますよね。。
余裕資金があって精神的に「豊か」であればあるほど、お金は勝手にたまってゆく、という。。
そう、そして、お金の話はまたその後、最後の段階なのです。
自己節制の中には、お金の節約もあるでしょうし、仕事上での節制という考え方も
あるでしょう。そして、そういった節制がある程度なされ、「豊かな人間」にふさわしい
ヒトになってからお金のことを考えてもよい、ということです。「『「豊かな人間』に
ふさわしいヒト」というのはつまり、まだ「豊かな人間」にはなっていないということですね。
ヒトとしてのベースができてから投資等について考えてもぜんぜん遅くないでしょう、と。
むしろ「満を持して」ということで、成功の可能性が高まるのではないかと考えます。
世の中の大多数のヒトが間違っているのは、今自分が書いた3番目をすっとばして
お金のことを考え始めるところです。3番目とは、自己節制のところです。一見、
投資には周り道のように見えるこの「自己節制」が、最も大事になってくるかもしれないのです。
まあでも、その前に。。 大部分のヒトは3番目をすっとばすどころか、その前の
1、2番目すらすっとばしてますけどね。。1、2番目とは
・「他人の芝生」をみない
・自分の身の丈を知る です。
だから政治家などに「庶民」とかいわれてバカにされ、「庶民にはわからんだろう」
とすっとムチャな法案を通されてしまったりするのです。自分はそれが悔しくてたまりません。
他人よりもまず自分、という考え方を利己的だの自己中心的だの非難される時代も
ありました。今はそんな言説は無視できる時代になってきているでしょう。