運命と出会う瞬間

映画・小説・音楽・・なんでもありの気ままな感想

アポカリプトと鎮魂

2007年06月23日 00時09分13秒 | Weblog
その昔『テキーラ・サンライズ』や『燃え尽きるまで』なんかのメル・ギブソンに恋していたことがあった。オーストラリア版加山雄三という感じの陽性の笑顔の中に、知性と幼児性が共存してるようで・・・。そんなあっけらかんとし感じの彼が監督を手がけると、これでもかこれでもか、と執拗なリアリストぶりの作品になり、その真意を汲み取りきれない。正直言って好きなタイプの映画ではないはずなのだが、重いのにひきつけられて観てしまっては後味のざらつき感をもてあます。
『パッション』、もそうだったけれど、今度の『アポカリプト』にいたっては、うわー、勘弁、という場面も本当に多かった。あれは人間の真実であり、一つの側面であるから、それを徹底して描くことは今回大変意義があったのだが、マヤ文明に惹きつけられていて、それで観ようと思った方は、これを描くために、わざわざマヤが舞台である必要はないのではないかと複雑な思いになるのではないか。
 しかし、深いものはあった。いやというほど、人間としての殺戮の繰り返しや、過去生では他人事ではなく当事者であったこともあるのだということや、現在だって、すべての人間のしていること、想念の生み出すことに、つながっているのだという責任というか、それらすべてふくめて全部自分だということを突きつけられ、本当に償っていかなくてはならないからいまこの時代に生まれているのだと感じた。あの映画を観て、考えられない行為のシーンに、あれは私だ、私のかつての姿だ、いまの世界の一端だ、そう肝に銘じて己のあり方を正すことは、今度太陽が暗くなる前に必要なことなのではないだろうか。
 
巷はアリガトウが根付いてきてよいことだが、ゴメンナサイを踏まえたアリガトウ
にならなければ自己満足になってしまうのだ、メル・ギブソンの連作は、みんな、私たちに自分の『ゴメンナサイ』を気づかせるためにあんなに執拗に、制作費を投じてがんばっているんだろうかと思ったりした。
帰りに、フェアトレードの店で見つけた携帯用の箸を家族分買った。とりあえずはそんなことでもせずにおれないのだった。そんなことしかできないジレンマを感じながら。