運命と出会う瞬間

映画・小説・音楽・・なんでもありの気ままな感想

ペリーの黒船とホクレア号

2007年07月31日 17時34分17秒 | Weblog
その昔『地球交響曲第3番』で知ったホクレア号。星の動きをたよりに海図も計器も無しに目的地に行く古代の太平洋族のあいだにあった航海術。
見えない島を見失わずに見続けることが、航海を成功させるためにもっとも大切なんだ、という、すべての人生に通ずる真理に魂が震えた。
あれから、2000年に日本にそのホクレアがやってくるかもしれない!?そう情報も流れていて、みな心待ちにしていたが、諸事情から、なかなかホクレアの日本訪問は実現しなかった。
それが、2007年、やってきた。もちろん、古代の航海術をたよりに、ホクレアスピリットにあふれるクルーたちと共に。
沖縄から九州、宇和島、静岡のあと、横浜に来るその姿を一目見たい、と思った。
が、残念ながら、行けなかった。これが歳月か、いいんだ、ホクレア号も、船長のナイノアも、その道を行きながら歳を重ねている。あの頃、映画のホクレア号を見ながら、古代ハワイの文化の復活に古代日本の文化の復活を重ね合わせて胸震わせて熱く語っていた、自主上映の仲間たちも、みんなそれぞれに引越したり、仕事に追われたり、なかなか集まれなくなったが、それでもいつもどこかで繫がっているもの。そう自分に言い聞かせた。

 ところが・・・会えた!!!ホクレア号は帰ってしまったけれど、その後、二週間後の、ホクレア号が日本に来た意味を考えるシンポジウム、というのが東京であるのを知って駆けつけたら、クルー達に。
しかも、最後までいられずに帰ろうと抜け出した休憩時間に突然の雷雨が起こり、傘もないので、仕方なく、すでに次の部が始まってしまった会場に戻ったら、入り口のそばに、なんとあのナイノアが立っていた。
関係者が二人ほど、写真を撮ったり握手していた・・・どうしよう・・ふだんなら
こうして、思いがけなく会えた、それだけで満足する私だが、天からのメッセージが聴こえた。
大切なのは勇気、それがホクレアが教えること、と。
気がついたらナイノアと握手していた。そしてアロハーーーとハグも。
なんとも、大きなやさしさの、ウェルカムのあふれたハグだった。
ナイノアと、というより、ハワイそのものとハグしているような感じでジーンとなった。

ホクレア・スピリット・・それは、だれもがつながっている、みんな大切な存在、というアロハスピリットに加えて、どんなことがあってもぶれない勇気、だ。
四方八方何も見えない嵐のあとの海上で、自分たちの進路をどこに向けたら本当にめざす方に着くのか。その決断には、おおいなるものと、自己への絶対なる信頼と共に、なおかつクルーの誰一人を危険な目に遭わせない配慮と、すべてに自分が責任をもち遂行する精神力とが必要なのだ。
600年前に途絶えていた航海術をホクレア号で復活させて以来、ずっとそのクルーのキャプテンの役を果たしてきたナイノア・トンプソンはあの時、まだ若くて、当時売れっ子だったケビン・コスナーに似た風貌だった。
あれから10年、自分に厳しく生きてきたのがわかるように、精悍さ、鋭さが増し、かつての甘いルックスは姿を消し、白髪も増えて、ナイノアも青年ではなくなっていたが、褐色のその手足はますます堅固でいてしなやかな枝のように光っていた。

時はいま、地球の環境問題も、日本のすさんだ教育や家庭問題も、当時予想していたよりずっと厳しく緊迫している。
そんなときに、やってきたホクレア号が、わたしたちに伝えようとしていることは
ひとりひとりの真の勇気を開きなさい、ということだ。
ホクレアの姿とクルーを見ただけで、自分が変わったという高校生や中学生たちの涙ながらの発言や、小学校や中学校でのクルーとの交流の映像などもシンポジウムで見た。こどもたちは、確実に、独自に、そこに『ほんもの』を見出して変わっていく。
ペリーの黒船がかつて力で開国を迫ったが、ホクレアはまったくちがう形で、私達にめざめをうながしている。

 余談だが、今朝、このブログのテンプレートをはじめて変えた。
ご覧のように、海と島だ。新しいテンプレートが増えましたというので衝動的に
そろそろ一年だし、とたいして根拠もなしにその新作に変えたのだ。
そして、いまさっき、この更新記事を書き終えて、画像を何か、つけなくちゃ、ホクレアの写真でもと思いながら探す時間もないので、前回のピンクの絵を描いたときに何か余分にもうひとつお絵かきをして保存してあったはず、どんなんだけ?と見たら海系の絵だったので、これならさほど話題とも離れないかと、それを使用するとクリックした。
 で、ブログをあけてみた・・ら・・テンプレートの写真と、そのお絵かきの構図が・・に、似ている・・と思いませんか??