「製糸の町を支えた無数の『小路(こうじ)』たち 長野県須坂市」 「道路名の博物館」須坂
(国土交通省関東整備局の機関誌からの資料と思われますが、確かではありません。三木正夫)
○生活路となったまちの細い道
英語では〝みち〟を表わす言葉に「path」(道・小道・歩道)「road」(道路・街道・公道・車道)「lane」(細道・小路・路地)「street」(街路・通り)「way」(道・通路)等があるように、わが国でも、道路を示す言葉に、「径」「道」「路」の漢字などがある。この中で、最も幅員が広い道路にあてられた漢字が「路」だった。
これらの言葉は『中国公路史』(中華人民共和国交通部)によると、今から三千年以上も前から中国にあり、歩行者と牛馬用の小さい路が「径(けい)」、耕作地の間を通る小さな道が「畛(しん)」、車輛1台が通れる道を「涂(と)」、車輛2台が通れる道が「道(どう)」、車輛3台が通れる道が「路(ろ)」だった。「涂」が8尺(1.85メートル)、「道」が16尺(3.70メートル)、「路」が24尺(5.55メートル)だった。倍々で広がっていったのである。40尺あった幹線道路は、これとは別に「野涂(やと)」と呼んだ。
現在、日本では森の中の路などを、「小径」と表現するが、「径」が狭い道をさすことを考えるなら的を得た表現だろう。強調して「小さい径」としている点が、日本的ともいえるかもしれない。広い道である「道」と「路」を合わせて道路と呼ぶのもおもしろい。クラスの高い道が道路なのである。
大きな道路を指した「路」は、日本では町のなかにあって「小」と「大」に区別され、京都の平安京は「大路」と「小路」で構成されていた。「大路」は24メートル級、36メートル級などがあり、「小路」はおよそ12メートルとなっていた。「小路」とはいえ、当時は大きかったのである。
ところが、中世から近世に進むにつれ、道路は狭くなり、「小路」も狭くなった。広すぎて持て余したのである。
このためか、「大路」は根づかなかったが、「小路」は生活路として日本の道路に根を下ろす。
明治時代、製糸産業が勃興した長野県須坂市、この町にも数多くの「小路」がある。「佐久間小路」、「馬場小路」、「水内屋小路」、「七郎衛門小路」と、それぞれ個性的な名前がつけられているが、しかしこれは、江戸時代からの道路ではない。産業の勃興により須坂の人口が増加し、土地利用が変化したために生まれた道路なのである。
○人口増がつくった須坂の小路
江戸時代、須坂にはたくさんの水車が設置されていた。坂の町であった須坂では、用水を勢いよく水が流れ、容易に水車を回せたからであった。これで、精米や菜種油絞りを行い、灯火に、食用にとフル回転し、須坂の地場産業ともなっていたのである。
この水車が、やがて明治に、須坂を発展させる原動力となるのである。水車を動力とした製糸工場が続々と創立されたからである。
製糸業の繁栄は女工を集め、工場建設のための大工や左官などの職人も集め、須坂の人口を膨れ上がらせた。明治八年、2550人だった人口は大正9年には1万4千人にも増加したのである。
人が増えれば住む場所も必要となる。街道に面した商家の後ろには、長屋や工場が建設され、街道からこれらの建物に入る道路として、無数の「小路」が生まれることになった。
○道路がつくるまちづくり
小路は交通の道でもあったが、日常の生活の場であり、交流の場でもあった。だからこそ、「小路」には、身近な建築物や、住んでいる人の名前などがつけられていった。
やがて、小路(浮世小路で幅員2.7~3.3メートル)を広げた広小路(須坂の広小路は幅員7.2メートルから7.7メートル)も生まれる。
新しい道として、新道もつくられた。小路のようなローカルな利用に止まらなかった道には、「病院新道」などのように公共的な機関の名前がつけられていく。
本来、まっすぐな道を意味したのが「通り」だったが、最近はこちらの名前が多くなった。須坂には、劇場通りや中学校通り、銀座通りなどがあり、こちらも公共的な名前が多い。
人口の増加に伴う「新道」の発生、これは17世紀の大都市「江戸」でもおきたことだった。人口の増加により、土地利用が変化し、町裏が開発され、表から長屋などへの道として小路や新道が生まれているのだ。
須坂では、それが明治から大正期におきたのである。
道路はまちの骨格である。「道路名の博物館」とも思えるほど、須坂にはさまざまな道路があるが、それは、「都市」と「人間」と「道路」がいかに密接なものであるのかを我々に教えてくれるのではないだろうか。
まちづくりに道路は欠かせないのである
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