青空(神奈川県三浦市)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
エネルギーや情熱、意欲。
いずれも、前に進んだり、物事や関係を強めるために必要なものです。
どんな頑張り方をするにせよ、電気もなしに電車が走れないように、
前に進む力がないと、やりたいことはできません。
しかし。
いつもいつも、都合よくエネルギーなり気持ちなりが出てくるかといえば、そういうこともないでしょう。
誰にだって、疲れもあれば、飽きも退屈もあります。
そしてまた、順調なら順調で、刺激があまりにないと、その刺激だけのために全てを捨ててしまう人すらいるわけです。
刺激こそが、力の源になる側面があるからです。
こんな話をしてしまうと、人間ははかなく脆いものではないか、
力を使い果たした人間は崩れ去っていくだけではないか…というような絶望をしてしまう人も、いるのではないかと思うのですね。
でも、人間の本質は、疲れたぐらいでは揺るがないのが、本当のところです。
時間や課題、意のままにならないことにがんじがらめになると、
その圧倒的な力や余裕のなさから、自分はまるで無力で、心の汚れた人間ではないかと思えてもしまうものです。
しかし、よく考えてみてください。
エネルギーや情熱は、力んだり頭で考えて出るものではないのです。
頑張りたい時にいくらでも頑張れるなら、苦労はありませんし、ペースを考えてエネルギーを守る必要もありません。
しかし、その肝心の力や心がくたびれていると、強引にでも無理をしようとしてしまいがち。
でも、その時たまたま使い果たしていたとしても、力や心は、なくなったわけではないのです。
あえて言うなれば、なくなったんじゃなく、見えなくなっただけなのです。
くたびれていると、力の出し方、心の使い方がわからなくなってしまうこともあります。
そう、いましがた力は出なくても、それは、力や心がなくなったのではなく、
たまたま歯車が狂っただけのことで、誰の中にもきちんと意欲や情熱はあるのです。
必ずまた、エネルギーを使える日が来るのです。
その時の調子や雰囲気だけで、悲観的にならないで下さいね。
どんな時でも、今が全てではありません。
眠ったものは必ず、また目覚める時が来るのです。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
エネルギーや情熱、意欲。
いずれも、前に進んだり、物事や関係を強めるために必要なものです。
どんな頑張り方をするにせよ、電気もなしに電車が走れないように、
前に進む力がないと、やりたいことはできません。
しかし。
いつもいつも、都合よくエネルギーなり気持ちなりが出てくるかといえば、そういうこともないでしょう。
誰にだって、疲れもあれば、飽きも退屈もあります。
そしてまた、順調なら順調で、刺激があまりにないと、その刺激だけのために全てを捨ててしまう人すらいるわけです。
刺激こそが、力の源になる側面があるからです。
こんな話をしてしまうと、人間ははかなく脆いものではないか、
力を使い果たした人間は崩れ去っていくだけではないか…というような絶望をしてしまう人も、いるのではないかと思うのですね。
でも、人間の本質は、疲れたぐらいでは揺るがないのが、本当のところです。
時間や課題、意のままにならないことにがんじがらめになると、
その圧倒的な力や余裕のなさから、自分はまるで無力で、心の汚れた人間ではないかと思えてもしまうものです。
しかし、よく考えてみてください。
エネルギーや情熱は、力んだり頭で考えて出るものではないのです。
頑張りたい時にいくらでも頑張れるなら、苦労はありませんし、ペースを考えてエネルギーを守る必要もありません。
しかし、その肝心の力や心がくたびれていると、強引にでも無理をしようとしてしまいがち。
でも、その時たまたま使い果たしていたとしても、力や心は、なくなったわけではないのです。
あえて言うなれば、なくなったんじゃなく、見えなくなっただけなのです。
くたびれていると、力の出し方、心の使い方がわからなくなってしまうこともあります。
そう、いましがた力は出なくても、それは、力や心がなくなったのではなく、
たまたま歯車が狂っただけのことで、誰の中にもきちんと意欲や情熱はあるのです。
必ずまた、エネルギーを使える日が来るのです。
その時の調子や雰囲気だけで、悲観的にならないで下さいね。
どんな時でも、今が全てではありません。
眠ったものは必ず、また目覚める時が来るのです。
山茶花の花(東京都江東区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
なんでもそうですが、経験が多い人ほど、他人に優しく、また頭が柔らかいものです。
たとえば、文章を書くとき。
人によって、構成から考える人もいれば、書き進めながら全体を仕立てていく人もいますし、
短文を書いて、そこから膨らませていく人もいるわけです。
あるいは、内容によって組み方を変えるとか、書き進め方を変化させることもあるでしょう。
そう、つまり、文章の作り方は時と場合、そして人によってもそれぞれで、
正解も道筋も、本当は一人ひとり、みんな違って当たり前なんですよね。
これを踏まえれば、やり方や考え方にこだわったり、優劣をつける人は、
総じて、たいして経験を積んだような人は少ないということが、言えるのではないかと思うのですね。
同じ結果を目指すなら、やり方や導き出し方は違っていてもいいし、多少のブレも調整できていいはずです。
もちろん、人のやり方が自分より明らかに非効率だったり、間違っているのなら別です。
しかし、どちらでもいいようなやり方、その人の好みや得意分野に即したやり方に文句をつけるというのは、
つまりは色々な経験がないから、自分が正しいと盲目的になり、
結果として、独りよがりに暴走してしまうことにはならないでしょうか。
経験値とは、言い換えれば「器の大きさ」を指すことと考えても、あながち間違いではないのかもしれません。
物事の進め方に限らず、たとえば人の考え方、言葉や態度の選び方にしたって、
本質を見抜きさえしてしまえば、たとえ予想外のことが起きても、「こういうこともあるよな」と、納得して前に進みやすくもなるものです。
なんにしたって、過去に縛られるのは、経験と呼べるものじゃないのです。
経験を重ねるから、対応できることも増えるし、イレギュラーなことさえも「当たり前」に思えるようになるわけです。
どうしても道筋にこだわらなければ、導き出せないことも、あるにはあるでしょう。
しかし、世の中、正解が一つだけということは少ないし、
たとえ誤りがあっても、長い目で見れば、実はそちらが正解であったということも多くあります。
そう、「なんでもあり」と思えるようになるのが、経験を積む目的の一つにあるのではないでしょうか。
経験は、重ねるもののようでいて、実は広げるものです。
広く考えられるから、心も器も、大きくなるのです。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
なんでもそうですが、経験が多い人ほど、他人に優しく、また頭が柔らかいものです。
たとえば、文章を書くとき。
人によって、構成から考える人もいれば、書き進めながら全体を仕立てていく人もいますし、
短文を書いて、そこから膨らませていく人もいるわけです。
あるいは、内容によって組み方を変えるとか、書き進め方を変化させることもあるでしょう。
そう、つまり、文章の作り方は時と場合、そして人によってもそれぞれで、
正解も道筋も、本当は一人ひとり、みんな違って当たり前なんですよね。
これを踏まえれば、やり方や考え方にこだわったり、優劣をつける人は、
総じて、たいして経験を積んだような人は少ないということが、言えるのではないかと思うのですね。
同じ結果を目指すなら、やり方や導き出し方は違っていてもいいし、多少のブレも調整できていいはずです。
もちろん、人のやり方が自分より明らかに非効率だったり、間違っているのなら別です。
しかし、どちらでもいいようなやり方、その人の好みや得意分野に即したやり方に文句をつけるというのは、
つまりは色々な経験がないから、自分が正しいと盲目的になり、
結果として、独りよがりに暴走してしまうことにはならないでしょうか。
経験値とは、言い換えれば「器の大きさ」を指すことと考えても、あながち間違いではないのかもしれません。
物事の進め方に限らず、たとえば人の考え方、言葉や態度の選び方にしたって、
本質を見抜きさえしてしまえば、たとえ予想外のことが起きても、「こういうこともあるよな」と、納得して前に進みやすくもなるものです。
なんにしたって、過去に縛られるのは、経験と呼べるものじゃないのです。
経験を重ねるから、対応できることも増えるし、イレギュラーなことさえも「当たり前」に思えるようになるわけです。
どうしても道筋にこだわらなければ、導き出せないことも、あるにはあるでしょう。
しかし、世の中、正解が一つだけということは少ないし、
たとえ誤りがあっても、長い目で見れば、実はそちらが正解であったということも多くあります。
そう、「なんでもあり」と思えるようになるのが、経験を積む目的の一つにあるのではないでしょうか。
経験は、重ねるもののようでいて、実は広げるものです。
広く考えられるから、心も器も、大きくなるのです。
山茶花の花(東京都江東区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
どんな時代でも、ドラマは人気があるものです。
ドラマというのは、「非日常」を描いたものです。
たとえば、普通に毎日を送っていれば、周りにおかしな事件が起きたり、目を疑うようなものを見なければ、
良くも悪くも、心を動かすようなこともないわけですよね。
そこを、あえて感動的な流れや刺激的な事件を描くことで、
間接的に、私達の心に刺激や感動を映し出すわけです。
つまり、人は刺激や感動を求めてやまないから、ドラマにそれを求めるのです。
さて。
「刺激や感動」って、本当はそんなに現実離れした、難しい位置にあるものなのでしょうか!?
私は、違うと思うんです。
なんでもそうですが、物事がすんなり計算通りにいくことは、むしろ稀なことです。
人間のやることですから、計画がズレたり、転びが起きて意外な早さで夢が叶うことのほうが、むしろ大半な気がしませんか。
その「計算通りにいかないこと」にこそ、実は、ドラマのように捉え、味わうことはできないでしょうか。
私達は、多くの夢を持っています。
「夢」というと大袈裟なようですが、「目標」や「欲求」と言い換えればわかりやすいでしょうか。
そして、そんな夢や目標、欲求を叶えようとすれば、
必ず実現までの過程、タイムラグが出来ますよね。
その過程の中で起こることの中にこそ、ドラマが潜んでいるのではないでしょうか。
平坦な道など、実はどこにも存在しません。
平凡というのは外からの見てくれだけの話で、一人ひとりの前には、重荷もあれば、懸命さもある、
これが、皆さんも経験されている現実ではないでしょうか。
わざわざ刺激を求めなくても、ドラマは存在するのです。
それなのに、ドラマを求めてやまないのは、
これまでを考えれば、つまりは「夢」なり「目標」なりが、あまりないからということにはならないでしょうか。
非日常は日常の一部にあり、その日常を漫然と過ごすのではなく、ワクワクする未来を描くことが、
非日常を創り出すのです。
まずは、恥ずかしく思う気持ちを捨てて、夢や目標を捕らえてみましょう。
小さくてもいい、その目指す姿勢が、ドラマを生み出すきっかけにはならないでしょうか。
ドラマは、人に作ってもらうより、自分自身で作るほうがいい。
なぜならそれは、自分の独壇で、目指す結末を決められるからです。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
どんな時代でも、ドラマは人気があるものです。
ドラマというのは、「非日常」を描いたものです。
たとえば、普通に毎日を送っていれば、周りにおかしな事件が起きたり、目を疑うようなものを見なければ、
良くも悪くも、心を動かすようなこともないわけですよね。
そこを、あえて感動的な流れや刺激的な事件を描くことで、
間接的に、私達の心に刺激や感動を映し出すわけです。
つまり、人は刺激や感動を求めてやまないから、ドラマにそれを求めるのです。
さて。
「刺激や感動」って、本当はそんなに現実離れした、難しい位置にあるものなのでしょうか!?
私は、違うと思うんです。
なんでもそうですが、物事がすんなり計算通りにいくことは、むしろ稀なことです。
人間のやることですから、計画がズレたり、転びが起きて意外な早さで夢が叶うことのほうが、むしろ大半な気がしませんか。
その「計算通りにいかないこと」にこそ、実は、ドラマのように捉え、味わうことはできないでしょうか。
私達は、多くの夢を持っています。
「夢」というと大袈裟なようですが、「目標」や「欲求」と言い換えればわかりやすいでしょうか。
そして、そんな夢や目標、欲求を叶えようとすれば、
必ず実現までの過程、タイムラグが出来ますよね。
その過程の中で起こることの中にこそ、ドラマが潜んでいるのではないでしょうか。
平坦な道など、実はどこにも存在しません。
平凡というのは外からの見てくれだけの話で、一人ひとりの前には、重荷もあれば、懸命さもある、
これが、皆さんも経験されている現実ではないでしょうか。
わざわざ刺激を求めなくても、ドラマは存在するのです。
それなのに、ドラマを求めてやまないのは、
これまでを考えれば、つまりは「夢」なり「目標」なりが、あまりないからということにはならないでしょうか。
非日常は日常の一部にあり、その日常を漫然と過ごすのではなく、ワクワクする未来を描くことが、
非日常を創り出すのです。
まずは、恥ずかしく思う気持ちを捨てて、夢や目標を捕らえてみましょう。
小さくてもいい、その目指す姿勢が、ドラマを生み出すきっかけにはならないでしょうか。
ドラマは、人に作ってもらうより、自分自身で作るほうがいい。
なぜならそれは、自分の独壇で、目指す結末を決められるからです。
のぞみ号(東京都千代田区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
基本的に、遠慮は美徳です。
考えてもみて下さい。
人への尊敬の念もないような図々しい人ほど、醜く見えるものはないと思いませんか。
自分が偉くて当たり前とか、人は利用するものだとか考える、つまりは、自己中心的な人と関わっていると、
心も荒んで(すさんで)しまいますよね。
お互いへの思いやりをベースに繋がりを築くのが、人間にとっては自然な流れだと、私は思うのです。
しかし。
「それでは、思いやればなんでもいいのか」というと、それがまた、単純にはいかないのも現実だったりします。
たとえば、「毎日挨拶したい」という人と、「挨拶がなくたって、気が通っていればいいじゃない」という人がいたとします。
そうすると、挨拶をするような場面になるたび、この二人には壁ができてしまいます。
挨拶をしたい側から、挨拶を重視しない側に声をかけることになりますが、
「いやいや、挨拶なんか要りませんから」と言われると、どんなに善意があっても、挨拶を言うことそのものが「悪い」とされてしまうわけですよね。
つまり、です。
遠慮をするというのは、「してはいけない線を引く」ことと同じ意味になってしまうのです。
せっかくいいことをしようとしても、「いやいや、いいですよ」と突き返すということは、
逆に言えば、「親切ではなくて、迷惑に思う」と、
相手の価値観をそのまま否定することになるからです。
さて、困りましたよね(笑)
遠慮をしないと、図々しくなる。
さりとて、遠慮をすると、相手を萎縮させてしまったり、自分の側こそ相手に善意や好意を差し出せなくなる。
これでは、どちらがいいのか、わからなくなってしまいます。
では、どうするか。
私が思うに、「遠慮」の使い方は、得てして意識が「自分の側」にしか向いていない時に間違えるのだと思うのです。
相手の気持ちを信じられるかどうか、ここが、ポイントです。
相手が、見返りを求めない、純粋な気持ちの人かどうか。
この一点です。
もちろん、私達は人間ですから、下心やプライドは、完全に消し去ることはできません。
でも、悪質商法を見るまでもなく、下心があればあるほど、
遠慮をしたほうが正解にはなる。
その代わり、純粋な心なり善意なり、愛情なるがあればあるほど、
むしろ、受け取るほうが、相手の気持ちを大事にしたことになります。
しかも、そのほうが、こちらからも気持ちを差し出しやすくなるのです。
遠慮の多さは、壁の厚さです。
遠慮をしなければ、こちらからの気持ちも、むしろ、受けとってもらいやすくなるのではないでしょうか。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
基本的に、遠慮は美徳です。
考えてもみて下さい。
人への尊敬の念もないような図々しい人ほど、醜く見えるものはないと思いませんか。
自分が偉くて当たり前とか、人は利用するものだとか考える、つまりは、自己中心的な人と関わっていると、
心も荒んで(すさんで)しまいますよね。
お互いへの思いやりをベースに繋がりを築くのが、人間にとっては自然な流れだと、私は思うのです。
しかし。
「それでは、思いやればなんでもいいのか」というと、それがまた、単純にはいかないのも現実だったりします。
たとえば、「毎日挨拶したい」という人と、「挨拶がなくたって、気が通っていればいいじゃない」という人がいたとします。
そうすると、挨拶をするような場面になるたび、この二人には壁ができてしまいます。
挨拶をしたい側から、挨拶を重視しない側に声をかけることになりますが、
「いやいや、挨拶なんか要りませんから」と言われると、どんなに善意があっても、挨拶を言うことそのものが「悪い」とされてしまうわけですよね。
つまり、です。
遠慮をするというのは、「してはいけない線を引く」ことと同じ意味になってしまうのです。
せっかくいいことをしようとしても、「いやいや、いいですよ」と突き返すということは、
逆に言えば、「親切ではなくて、迷惑に思う」と、
相手の価値観をそのまま否定することになるからです。
さて、困りましたよね(笑)
遠慮をしないと、図々しくなる。
さりとて、遠慮をすると、相手を萎縮させてしまったり、自分の側こそ相手に善意や好意を差し出せなくなる。
これでは、どちらがいいのか、わからなくなってしまいます。
では、どうするか。
私が思うに、「遠慮」の使い方は、得てして意識が「自分の側」にしか向いていない時に間違えるのだと思うのです。
相手の気持ちを信じられるかどうか、ここが、ポイントです。
相手が、見返りを求めない、純粋な気持ちの人かどうか。
この一点です。
もちろん、私達は人間ですから、下心やプライドは、完全に消し去ることはできません。
でも、悪質商法を見るまでもなく、下心があればあるほど、
遠慮をしたほうが正解にはなる。
その代わり、純粋な心なり善意なり、愛情なるがあればあるほど、
むしろ、受け取るほうが、相手の気持ちを大事にしたことになります。
しかも、そのほうが、こちらからも気持ちを差し出しやすくなるのです。
遠慮の多さは、壁の厚さです。
遠慮をしなければ、こちらからの気持ちも、むしろ、受けとってもらいやすくなるのではないでしょうか。
こんばんは。
今日も一日、お疲れ様でした!
職場に向かうとき、これを聴いて目がウルウルしてしまいました。
トレイン(PV) ケツメイシ
私の幸せを祈ってくれている人達のためにも、走り出していきます。
見ていて下さい!!
今日も一日、お疲れ様でした!
職場に向かうとき、これを聴いて目がウルウルしてしまいました。
トレイン(PV) ケツメイシ
私の幸せを祈ってくれている人達のためにも、走り出していきます。
見ていて下さい!!
山茶花の花(東京都江東区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
若干、宗教じみた話で、すみません。
善意や良心、思いやり。
こんな心がある人は、素敵ですよね。
そしてまた、そんな素敵な人がいればこそ、自分の中にも、そんな美しい心があると思いたくなるかもしれません。
しかし。
「美しい気持ち」というのは、全て自分が生み出すものなのでしょうか。
「人を思いやる心」は、全部自分が作り出すようなものでしょうか。
「心」というのは、授かり物だと思ったことはありますか。
優しくしたい。
愛情を注ぎ込みたい。
大切にしたい。
頑張りたい。
希望を持ち続けたい。
こんな気持ちになれるのは、人間に心や感情があるからですよね。
いくら私は人に対してどうこうしているからと言って、美しい気持ちを持てているのは、心や感情というものを神様から頂いているからです。
心がなかったら、誰に対しても優しい気持ちにはなれないし、
人のために、気持ちを使うこともできないはずです。
だから、粗末な気持ちの使い方をしてはいけないのです。
人にいただいたものを粗末にすることはないように、
美しい気持ちも作り出せる原料である心を、粗末な気持ちを作り出す方向に向けることはありません。
たしかに、心は自分のものかもしれないし、性格だって、磨けばこそ、自分が頑張って手に入れたものと思いたくなるかもしれない。
でも、誰のおかけで美しい心を持てるのか、その大元を考えれば、
いい加減な思考はできなくなるはずです。
ここまで読んで、「神様」という語句にうさんくささや引っ掛かりを感じる皆さん。
「神様」という考え方が嫌なら、「神様」という部分を、「自分を支えてくれている人達」に置き換えて、改めて考えてみて下さい。
美しい心は、人と触れることでも芽生えるのです。
その芽生えた苗を枯らすのも、さらに発達させて、美しい花を咲かせるのも、
つまり、いただいた心の使い道は、結局は自分次第なのです。
自分の心や性格は、頂き物でもあるんだ、
そう思うと、どんどん人間性を磨きたくなりませんか。
自分の持ち物は自分の努力ではなく、頂き物なんだと感謝できればこそ、さらに大事にしていけるようになる側面はないでしょうか。
この世に生まれ、私と出会ってくださった全ての人に感謝しています。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
若干、宗教じみた話で、すみません。
善意や良心、思いやり。
こんな心がある人は、素敵ですよね。
そしてまた、そんな素敵な人がいればこそ、自分の中にも、そんな美しい心があると思いたくなるかもしれません。
しかし。
「美しい気持ち」というのは、全て自分が生み出すものなのでしょうか。
「人を思いやる心」は、全部自分が作り出すようなものでしょうか。
「心」というのは、授かり物だと思ったことはありますか。
優しくしたい。
愛情を注ぎ込みたい。
大切にしたい。
頑張りたい。
希望を持ち続けたい。
こんな気持ちになれるのは、人間に心や感情があるからですよね。
いくら私は人に対してどうこうしているからと言って、美しい気持ちを持てているのは、心や感情というものを神様から頂いているからです。
心がなかったら、誰に対しても優しい気持ちにはなれないし、
人のために、気持ちを使うこともできないはずです。
だから、粗末な気持ちの使い方をしてはいけないのです。
人にいただいたものを粗末にすることはないように、
美しい気持ちも作り出せる原料である心を、粗末な気持ちを作り出す方向に向けることはありません。
たしかに、心は自分のものかもしれないし、性格だって、磨けばこそ、自分が頑張って手に入れたものと思いたくなるかもしれない。
でも、誰のおかけで美しい心を持てるのか、その大元を考えれば、
いい加減な思考はできなくなるはずです。
ここまで読んで、「神様」という語句にうさんくささや引っ掛かりを感じる皆さん。
「神様」という考え方が嫌なら、「神様」という部分を、「自分を支えてくれている人達」に置き換えて、改めて考えてみて下さい。
美しい心は、人と触れることでも芽生えるのです。
その芽生えた苗を枯らすのも、さらに発達させて、美しい花を咲かせるのも、
つまり、いただいた心の使い道は、結局は自分次第なのです。
自分の心や性格は、頂き物でもあるんだ、
そう思うと、どんどん人間性を磨きたくなりませんか。
自分の持ち物は自分の努力ではなく、頂き物なんだと感謝できればこそ、さらに大事にしていけるようになる側面はないでしょうか。
この世に生まれ、私と出会ってくださった全ての人に感謝しています。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
私が産まれた日の東京は、初雪でした。
今日はそんな記念日です。
言葉にならないつらい経験もしてきたし、両親の期待にも応えられなかった。
でも。
素敵な経験や素晴らしい出会い、
私が産まれた意味があるのだとすれば、こんなあったかい経験に触れられたところにあるのかもしれない、
そう思うと、感謝しかありません。
私に力を与えてくださる皆様に、心からお礼をする意味で、
思いやりや強さを貫く人生を送っていければと思っています。
ありがとうございます。
今日も皆様、ありがとうございます。
私が産まれた日の東京は、初雪でした。
今日はそんな記念日です。
言葉にならないつらい経験もしてきたし、両親の期待にも応えられなかった。
でも。
素敵な経験や素晴らしい出会い、
私が産まれた意味があるのだとすれば、こんなあったかい経験に触れられたところにあるのかもしれない、
そう思うと、感謝しかありません。
私に力を与えてくださる皆様に、心からお礼をする意味で、
思いやりや強さを貫く人生を送っていければと思っています。
ありがとうございます。