人間ドックに行き、今しがた帰ったところだ。朝7時に出かけ、帰ったのは3時近くになった。おおよそは良かったのだが、初のMRI受診には緊張した。ベッドに固定され、耳栓をし、撮影。ごーごー、ガリガリ、ゴゴゴゴゴゴ!という大きな音がする。20分ほどで終了。写真ができて医師の説明を受ける。むっつりとした医師だったので、「脳は若いですか?」とこちらから切り出した。顔が曇ったままだ。「実は・・・・」。びっくりどっきりであったが、年相応の脳であるようだ。梗塞の跡はあるし、動脈硬化はあるし・・・。こういうものを悪化させる「危険因子」がまるでないことが救いであった。メタボリックもなし。もうすこし痩せることぐらいでしょうとのこと。8キロぐらい落としたのに、まだ落とすのか。やれやれ・・・。血管を若くする秘策はあるのだろうか。疲れた一日であった。
この橋から落ちた。恐ろしい記憶は消えない。夜のことだ。蛍でも捕ろうとしたのか橋のたもとからまっさかさまに下に落ちた。幸い、橋の下には草がつんであったらしく、怪我ひとつなく事なきをえた。「おいおい」と泣いていた覚えはある。写真は自分で現場へ行き撮影してきたもの。
夏の行事で「宝探し」というものがあった。昼の間に当たりが書いてある紙を神社の石垣の間などに隠す。夜みんなで探すわけだ。大きな子供や大人に見つけられてしまい、私は一度も見つけることができなかった。この写真を撮りにいったとき、ふと石垣の間に目をやる自分がいた。
この年:「あじゃぱー」ばんじゅんだ!
お年玉つき年賀はがきが始まった。
青い山脈、長崎の鐘、夏の思い出、銀座カンカン娘が流行る。いい歌ばかりではないか。
教員初任給4000円。私はたしか?28900円だ。
思い出は尽きないが、はっきり思い出したら付け足すことにしよう。幼児期の思い出は大切だなあと思う。
*********こうして 故郷を去り 名古屋へ向かうこととなる 訳はわからない********
祖父はいわゆる「馬車引き」であった。今のトラック運送だ。畑や田んぼもやっていたが馬車も引いていた。馬車の一番後ろにひょいと後ろ向きに乗っていくのがとてもうれしかった。小さい子供だったけど乗せてくれた。大人になって聞いたことだが、馬というのはとても利口で、仕事が終わると、おじいさんは馬車の上で寝ているだけで、馬は我が家までひとりで帰っていき厩の前で止まるそうだ。
http://www.fsinet.or.jp/~tomoyasu/newpage162.htm より借りました。
こんな便利な乗り物が!「木炭車」というガソリンの代わりに木炭を燃料とするバスである。このバスに乗って岐阜へ出る中継となる美濃町(現美濃市)の電車の駅まで行った。モクモクと煙を出しながらゆっくりと走る。後に聞いた話だが、坂道になるとバスの馬力が足らないので乗客はみなバスを降りて歩く。あまりにきつい坂道は乗客が協力してバスを押したということだ。都会へ出られる喜びでいっぱいだった。この木炭車の写真はお借りしたものだが、私が乗ったバスはもっと古臭くて、後ろに木が突き刺してあったような思い出がある。 http://www.city.nerima.tokyo.jp/jo_kokai/memory/f11.html練馬区HP
4歳までのことなのだが、色々な風景が浮かんでくる。父は戦後も名古屋へ勤めていた。岐阜の田舎から通勤するのに使っていたのは「自転車」。何時間もかかったであろうと思う。毎週土曜日だと思うのだが、一日だけ帰って来る。私たち子どもが寝ている間に帰ってきて、朝になるともういない。朝になると、私たち子どもがすることは、枕の下あたりの布団をめくることだ。ときには「おみやげ」がしのばせてあるのだ。なにもないと「あ!おとうちゃん来なかったね」と母を困らせたものでした。
母は、押入れの中のおしめの入れてある「柳こおり」 http://takagi.sakura.ne.jp/0502/M-seikatu/mukasi-2/(から、写真を借りました)
そのなかに、お金を入れていたようです。大人になってから聞いたことですが、米びつの底にもいれてあったそうです。何枚ものお札を見た記憶ははっきりとあります。女一人なのでぶっそうだったのでしょう。米びつの中には「柿」が入れてあった。早く食べられるようにならないかと心待ちにしていたものだった。***************************************