武本比登志ポルトガルスケッチ&油彩

ポルトガル在住絵描きのポルトガル淡彩スケッチ日記と油彩

1469.タヴィラの町角

2018-06-05 16:26:35 | ポルトガル淡彩スケッチ

2018年6月5日(火曜日)晴れ時々曇り。22℃~12℃。降水確率30%。湿度74%。雲が多いものの晴れ。風は爽やか。

家でコーヒーを飲んでから修理工場のローディーに行ったが、今週は一杯で何も出来ないとのこと。アトランティックシティのロルーアウトにも行ってクルマを預け歩いてジュンボに行き、途中、空き地に様々な花が咲いていたがゴミが多くてなかなか写真に出来ない。ジュンボの屋上でコーヒーを飲む。コーヒーx2=1,30€。1時間半時間を潰す。結局ここでは出来ないと言われ、新たな修理工場を教えてもらい行ったが、コントロラートも通り過ぎてしまい引き返す。途中小さな修理工場が寄り集まった場所があったので、開いていた1軒で尋ねてみると、エアコンなら隣だけれど2時半ころにならなければ開かないだろう。とのことだったので、職安の近くまで引き返し食堂に入り、昼食。殆ど満席だったが丁度2人分が空いていた。バカラウ・ゴメス。ポルコ・アサード。バタータ・フリット、アロス。ノンアルコールビールx2。サラダ・デ・フルータx2。デスカフェイナードx2。合計=15,80€。次から次にお客が来て流行っている店だが、この辺りに食堂が少ない。再び2時過ぎに修理工場に行く。受付の女性が出てきて、エンジニアはまだ帰ってこないのでちょっと待って、とのこと、少し待っていると帰って来てすぐにエアコンを見てもらったが、ガス注入だけでは駄目で、修理をしなければならないが今週は一杯で来週月曜日に来てくれ。とのこと。来週月曜日朝9時に行くことにする。

『昨夜の映画』は

グローリー』(Glory)1989年。アメリカ映画。122分。監督:エドワード・ズウィック。アメリカ南北戦争において実在したアメリカ合衆国初の黒人部隊を描く戦争映画。1862年、アンティータムの戦いを生き延びた若き北軍大尉ロバート・グールド・ショーマシュー・ブロデリック)は、帰郷先のボストンで奴隷解放運動家の父の紹介で北軍初の正規編成された黒人連隊の隊長就任を依頼され、友人フォーブス(ケイリー・エルウィス)と共にそれを受諾する。しかし、黒人部隊第54マサチューセッツ志願歩兵連隊の隊長となったショーは、敵である南軍よりも先に、味方であるはずの北軍内での差別や無理解と戦う事になる。「黒人の兵士など役に立つわけがない」という周りの声を尻目に、やがて来たる実戦で戦える兵士を育てるためにショーは黒人兵士達(モーガン・フリーマンデンゼル・ワシントンアンドレ・ブラウアー。他)に厳しい訓練を施す。そのあまりの厳しさに副官であり友人のフォーブスとさえ対立することになる。だが、ショーの行動は全て第54連隊を思っての事だった。物資の横流しをしていた補給将校から第54連隊に支給されるはずだった軍靴を取り戻し、「黒人兵であるから」という不当な理由で下げられた給料の受け取りを兵士達と共に拒否したショーは彼らの信頼を勝ち取る。第54連隊はボストンでマサチューセッツ州知事(アラン・ノース)やフレデリック・ダグラス(レイモンド・サン・ジャック)、そしてボストン市民の前で観閲行進を行い、戦地へと赴く。ところが、戦地で待ち受けていた「戦い」は、彼らの予想する物とは大きく異なっていた。ショーの上司である旅団長モンゴメリー大佐(クリフ・デ・ヤング)が逃亡奴隷部隊を率いて行っていたのは、戦いとは名ばかりの略奪・破壊行為だったのだ。指揮下の部隊を「子猿の群れ」と嘲りながら略奪を命じるモンゴメリー大佐は、襲った町を第54連隊に焼き払わせるようショーに命令する。にべもなく拒否するショーだが、軍法会議と指揮権剥奪を仄めかされ、渋々命令に従い連隊の将兵に松明を用意させ、町を焼き払う。それからと言うもの、第54連隊には肉体労働の任務ばかりが回される。部隊の士気は下がり続け、撤退する白人部隊との喧嘩騒ぎまで起こってしまう。事態を打開するため、ショーは父やマサチューセッツ州知事に手紙を出しリンカーン大統領から第54連隊を実戦へ出す命令が出せないか交渉していたが、彼はついに最終手段に出る。モンゴメリー大佐とハーカー将軍(ボブ・ガントン)によって行われた略奪品の横領や着服を指摘し、第54連隊を前線へ出さなければこれらを陸軍省に報告すると脅しをかけたのだ。そして、ショーの行動の甲斐あって第54連隊は初の実戦に出る事になる。それはワグナー要塞攻略戦に係るただの小競り合いだったが、確実に勝利を掴み、自信を得た第54連隊の兵士達にとっては大きな意義のある戦いだった。その数日後、ショーは難攻不落の要塞、ワグナー要塞攻略の先頭部隊を志願する。ワグナー要塞は大砲十数門に加え守備隊千人を擁する強固な陣地だったが、その侵入路は狭く一度に一個連隊しか通ることが出来ず、先頭部隊が大損害を被るのは必至だった。それでもショーは第54連隊の実力を信じ、またそれを示すため志願したのだった。戦いの前夜、黒人兵達は霊歌に乗せて各々の心情を吐露する。1863年7月18日。ワグナー要塞へと行進する第54連隊に、以前喧嘩騒ぎを起こした白人兵士が激励の言葉をかける。彼の言葉が呼び声となり、第54連隊は歓呼の声で送られていく。ショーは兵士に着剣を命じ、ワグナー要塞への突撃が開始された。第54連隊は要塞からの激しい攻撃に遭い、夜陰に乗じて突撃するため砂浜で日が暮れるまで待機する事となる。そして夜間、ついに要塞への本攻撃が開始されるが、攻撃の先頭に立ったショーは銃弾に倒れてしまう。部隊長の死を目の当たりにした第54連隊の将兵達は、怒りに身を震わせ死に物狂いで要塞内部へ突入するが、勇戦敵わず、攻撃は失敗に終わる。第54連隊は隊の半数の兵士を失い、後続の白人部隊も大損害を受け、ワグナー要塞攻略戦は失敗した。しかし、54連隊の武功は連邦議会に伝わり、議会は 連邦軍有色人部隊の設立を制式に認可。終戦までに18万人の黒人が南北戦争に従軍した。その後リンカーン大統領は、南北戦争における北軍の戦局を逆転し、その勝利に多大な貢献があったと彼らを讃えた。(Wikipediaより)

 

 

 

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