10月30日火曜日晴れ
父の背を見て学んだ
私が幼い頃叱られた記憶は沢山あります。何か悪いことをしますと、幼児の時は大黒柱にしばられ、小学時代は戸袋に入れられました、其の様に子供の躾にはとても厳しい父でした
ところが中学生になってからは、叱られた記憶はありません・又お説教された記憶もありません。私は子育ての最中には、此のことに少しも気付きませんでした。
今振り返って見ると、私が作った草野球のチームに入っていた人達は、皆恵まれた家の子供でした。その子供のチームの監督を兼ねて、野球を教えていたのです。戦後の貧しい農村の子供達の、たった一つの娯楽として野球があったのです。 いつか村の祭りに行った時に、野球をした事のない子が私に「武ちゃんは英ちゃんや、秋ちゃんばかり可愛がって、野球を教えていたね。」と・・言われた事がありました。その子達も、野球がしたかったのだと思いました。
そんなつもりでは、なかったのですが、・グローブもミットも買えない時に、「自分で作ったり又買ってもらった子のグローブを」皆で手に付けたりしました。
中学生・高校生の頃は、家の手伝いは殆どしませんでした。近所の子供を集めて野球のチームを作り、其の練習や試合に熱中していました。近所の同年輩の子供は、皆家の仕事を手伝うのが当たり前でした。
今振り返って私の行動を許してくれた、父の考えが不思議で成りません。朝は早くから家を出て牛の餌の草刈をし,田圃の見回りに行く・汗だくだくで帰り、汗を拭き乍朝ご飯を食べる。そんな父でした・・・・
父は子供の時に、知り合いの家に下宿し、その家の雑用の手伝いながら、豊津中学に入学しました。それがきつかったのでしょう、やめて帰って来たのです。其の事が父は生涯悔しくてたまらなかったと思います。
そのことを、父から聞いた事はありませんでしたが、子供には勉強だけは、させたかったのでしょう。お父さん御免なさい・・・・
私の子育ても父のした様に、子供の幼い時は厳しく育てました。中学生からはそんな時に、即刻に私が子供と一緒に出かけて行って、お詫びしました。
父の厳しい躾を補ったのは、母でした。母もお詫びの言えないような悪い事をした時には、伯母が来てお詫びを言ってくれました。
私の家は私が生まれた時に,伯父の家から分家して同じ屋敷内に住んでいました。それまでは同じ家に住んでいて、私は伯父の家で生まれたのです。伯母には子供がいなかったので私を、大変良く可愛がってくれました。
伯母は夕食時には、毎日の様に私の内に来て、私たち兄弟をあやかっていました。それで直に私の家の、中の様子が判ったのでしょう。
父から叱られた時、母と伯母が私に変わって,詫びてくれました。思えば82年間の性格形成には、私が意識してない、多くの人の助け(支え)が有ったのです。恥づかしい話ですが82歳になって、この此のブログを書いて、初めてはっきりと意識しました。
父・母・伯父伯母・そして私を育ててくれた多くの人、それに楽しく遊んだ懐かしい故郷の山や川に、心から感謝致します。
有難うお父さん・お母さん・多くの人よ 有難う我が故郷の山や川よ
厳しいしつけは小さいうちに、、、だったのですね。柱にくくられて泣いて?いらっしゃるお兄さんを想像して、またお父様のりりしいお顔を想像してみました。
私もこの頃父を思うようになりました。明日は命日です。もう30年たっています。ありがたいですね。