82歳からの旅

私の記録

私の生活の一部を?

2013年10月31日 10時26分48秒 | 生活
           10月【31日 木曜日   
70歳を過ぎてから私の生活は、気のむいた時の野菜づくりでした。その他はバイオリンで簡単な歌の演奏・練習や囲碁をする・近所のブック店に行って本あさり・家でのパソコンあそび等でした。
 
 こんな生活をして来た為に、足腰の衰えがひどく体力が低下して来ました。その結果腰痛がひどくて、毎日整骨院に通っています。

 この頃は畑仕事を止めて、体力増進の為の簡単な運動をしています。朝早く起きて200歩位歩いては、30秒くらい休み又歩くのです。そうして1500歩ばかり歩いた後ブランコを300回位こいでから家に帰るのです。

 帰ってからは庭の草取りをしたり、植木の剪定をしたり高い枝切ったりします。その後に風呂に入ってから
朝食をして、新聞を読み・・・・・・趣味の囲碁・バイオリンで簡単なうたなど・・・・・・読書や時代劇のテレビ・パソコン・・・・・・

 そんな情けない体力ですので、色々と体力作りを自分なりに工夫してしています。後何年持てるか私の体、2年は何とか生きたいものです。

 痴呆になった弟の世話や、父母の50回忌を済ませる。これは私がこの世でする最後の仕事ですから、本当は弟の最後を見届けてから死にたいのです。これは叶わない夢で、欲張りと言う煩悩でしょうが許して下さい神様仏様・・・・・・?。
  
                



   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生活が便利になって、失った物と心

2013年10月29日 19時58分01秒 | 随筆
             10月29日火曜日    
  科学や文明がめざましく進歩して、生活が便利になり増した。そのために多くの良い物や・心使いなどが失われてしまいました。

 若い頃勤め帰りに町で遊んで、遅く帰りました家の者は皆寝ていました。静かに食事をしてから、風呂に入りました。

 すると膝が悪くて寝ていた母が、風呂が「冷めてぬるいやろう。」と言いますので「冷めてない良いので良いよ。」と私が言っても母は「悪い足を引きづりながら、風呂の湯を」暖めてくれました。
 
 現在はどうでしょう。「風呂の中の「スイッチを入れると」すぐに冷めた湯は沸きます。此のスイッチによって、入浴している人への、思いやりの心は必要がなくなりました。

 核家族になって若い夫婦の家庭は、大変気楽な生活が出来て良くなりました。然し反面老人の生活の知恵、を排除したり失ったりしました。

 と言えばこれだけですが、これは日本社会にとって莫大な損失と思います。一家庭の問題ではなく・・・
あらゆる面で現れて来ています。

 子育ての分野で然り・地域社会でよその子に注意をしない・悪いことをしていても、見て見ぬふりをする。こんな事は戦前(昭和30年代頃まで)にはなかった事です。老人をまず家庭から、排除したのです。地域社会に出てまで、しなくなったのだす。

 家族を核家族に、分解してしまったのです。諸々の状況の中で、年寄りが消極的になったのは自然の成りゆきです。

              未完  






   
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和・平成時代になって、無造作に捨てた大切なもの~其の心とは

2013年10月28日 10時02分02秒 | 随筆
           10月28日月曜日  
 私の家に甘柿の木があって、秋になると美味しい甘柿がなります。でも今はそれを食べる人は、私だけです。それで小さい柿が鈴なりに、なっていて熟して畑に落ちて汚いのです。

 田舎に妹がいますが、妹も柿が実って熟して畑に落ちて汚いと言って困っています。

 私達が幼い時は食べ物が有りませんでした、それで柿などは貴重な食べ物でした。それで農家は何処の家も、柿の木の2~3本は植えていました。

 それが過疎化の現象で農村から若者が去り、高いところになっている柿が採れないのです。又消費文化の影響もあるのか、柿は買って食べています。

 売っている柿は実も大きくても少なく、家になった柿よしも綺麗にしています。でも家で出来た柿も食べて見ると、其の味も美味しくて捨てる物でもありません。のに・・・・・・

 私たち戦後の食べ物のなかった時代に育った者にとっては、納得のいかない事です。サツマイモの蔓さえ、食べていたのですから。

 柿の話から・・・昭和の時代まで田舎では、渋柿は皮をむいて干し柿にして軒下につるしていました。むいた皮は干して、それも食料にしていました。

 農家では暑い日中や・寒い日に働いて、作った物に捨てる物などありませんでした。
米で例えると
 米の茎(藁)は ・ 牛の食料に  ・藁葺き屋根の材料に沢山使う 
  ・ 藁細工の原料に 畳 履き物の草履作りの ・田んぼの肥料にする等
 
お米      ・ 日本人の主食として食べる
 玄米を白米にすると、米ぬかができる ・ ぬか漬けの原料に・ 牛の食べ物に
                          ・ 肥料になる
 米がら(出来たお米の皮・籾がら)   ・ 炭を焼く時に使う
                    ・ 芋など冬に保存するときに、寒さを防
                      ぐために使う
                    ・ 腐らせて肥料にする等
 一つだって捨てる物などありませんでした。 

 科学や文化の進歩によって、労働や生活が便利になって来たのはいいことです。然し捨て去った物や、失った物も少なくありません。 

 人類が永い間に苦労して見つけ・作り出した物を、私達は次の世代に継承しなければなりません。言い換えれば文化遺産を次の世代に、継承する義務があるのです。

 戦後にいや核家族になってから、失ったり忘れ去られた物や心の如何に多いことか。勿体ない・勿体ない事よ。       

 人間は土を生かして生き、使った物は土に返して腐らせるのです。私達を支え生かしてくれる、地球をその儘で次の世代に残してあげるのです。鉄は酸化してボロボロになりますが、ビニールや、原発などは汚染水でさえ次の世代には残せません。

 今の生活は便利で比較的に、安くて電気が作られていいのですが受け継いだ子供や孫はどうするでしょうか????・・・・・・地球上にいらない物が、永い年月の間に溢れてくる事は間違い有りません。
 
            私どうしましょうかね    
 
    困り果て頭が狂いそうです・困った困ったよ。nt>
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 甘柿の実への思い

2013年10月27日 15時01分14秒 | 生活
          10月27日 日曜日               昭和の初めの頃の田舎では、何処のおうちにも蜜柑の木や柿の木等の果物の木を植えていました。
  そうしてそれ等のなり果物が、お家の人のおやつの代わりでした。

 ところが私の家には、果物の木はありませんでした。父は母と結婚して姉と兄と私が生まれるまで、伯父の家に同居していました。私の誕生したのを機会の、家を建てて分家したのです。姉や兄は伯父のうちで育ったので、伯父の家の柿や蜜柑などをとって育ったと思います。

 私が小学校生の頃には、伯父さん家は隣のおうちでした。それで柿や・蜜柑や・びわなどの、果物を友達が持っているのが羨ましかった。    

 それで私は家を建ててから、蜜柑の木とグミの木や柿の木を植えました。今その柿の木の実が、沢山なります。悲しいかな私の妻も子供も、甘柿を食べようとはしません。

 柿やくだものは、お店に売っている物と思っているのです。その上に大きく、種が少なくておいしいのです。

 今は消費時代でしかも、おいしい物はいくらでもある。うちの柿は成りすぎて小さい上に、種が多いので食べ憎いのです。それで熟れすぎて畑の中に、踏み場のないほど落ちて汚いのです。

 私にとっては、何ともいえない甘柿です、それでその柿を昭和世代生まれの友達に、上げているのです。妻は「持って行くのを止めなさい」と言います。???・・・・・・・・果たして其の成果は如何に???・・・・・・・・・
     
                 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋の関門海峡クルーズに参加して ・・・・・・その2

2013年10月25日 13時42分45秒 | 随筆
        10月25日 金曜日  
 
 子供についての私の思い私は子供達が此のツアーに、沢山参加した事を大変喜んでいます。その子供達が、門司の歴史や産業や文化などを学ぶ絶好の機会に、参加したことです。

 今度のクルーズ中には、関門海峡の船舶安全通過の為に部崎の灯台作り尽くした、

 「僧 清虚のいわれの灯台や。源平合戦の古戦場(満珠・干寿島)安徳天皇が入水したみもすそ川・宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘した巌流島・豊臣秀吉が朝鮮征伐の時に、関門階級で座礁した場所など」沢山の子供が楽しく】喜んで聞く場所がたくさんあることです。

 まだ他に、地名に大里(内裏)・白木崎・葛葉・百済町等々 その中の一つでも取り入れれば、今度のツアーはより有意義なツアーになったと思う。 こんな事を思いながら、ツアーに参加するのも年のせいだと思った次第です。

 こんな話を聞いて一つでも覚えた子供の笑顔が、見えるようで私まで楽しかったのです。
                

   
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする