82歳からの旅

私の記録

人生で逃がした幸せはは?

2012年11月29日 20時52分15秒 | 生活
   11月30日   
 私の弟は高校卒業後苦学し乍ら真面目に働きました。退職後年金生活受け間もないのに、痴呆と言う病に侵されて過去を失って終いました。

 父母が今此処に居たらどう対処するか、父も母も自分の事は犠牲にし弟の世話をするそんな両親でした。

 私は弟の痴呆からの回復を目指して、色々と試みましたが無理なようです。優しい塗り絵の本や簡単なパズル、記憶の回復等々色々試みました。簡単な計算や読み書きは可なり出来ますし、興味もあります。しかし簡単なハガキを書くかとや、自分の気持ちを伝える事は無理なようです・・・・?。

 少しは成功もしましたが無理な処もあって、私の力では時間的にも距離の上からも出来そうにありません。弟のこれからの人生が正常でなくなるのは誠に残念なことです。

 優しい弟でしたが神様の悪戯かそれとも、人生をうっかり踏み外したのか。今は心は自由で伸び伸びと・・・・・・・・。だけど自分の意志では何も出来ない。其処で今はグループホームの施設で、暖かい介護を受けて暮らしています。

 そんな弟を見ながら私は、弟の分まで私が幸せに生きて行こう。弟から幸せを譲って貰らおーよと考えて、どの様に世話をして行けば良いのか、私の是からの生き方を必死に模索しているとこらです。

  体力の衰えた80歳を過ぎて、二人分も生きる事は至難な事です。然し残りの人生に命を懸けて,挑戦しようと覚悟を決めました。それが私を育ててくれた両親への,細やかな恩返しであると思うからです。

 こう考えると気持ちはすっきりします、己の生きる儘に精一杯生きることです。今からそれで其の初めとして、出来るだけ弟の居る施設を訪問してあげるのです。下手ながら習いかけのバイオリン片手に、小学唱歌や演歌等慣れない歌でも唄ってあげよう。













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初秋の名月よ

2012年11月28日 10時55分15秒 | 日記
   11月28日水曜日   

 古い記録より 
 こんなに美しい月
 どうして私の心に 響くのか?
 じっと眺めていると 何時までも・・・・
 しばし心で 鑑賞す

 目の前の月に 私は囁いた
 おいでよ おいでよ こちらえ こちらえ

 恥ずかしそうに すぐ眼の前だから・・・
 心の中の月 まばゆいばかりに輝く月に

 過ぎ去った過去の事を 何時までも 何時までも
 楽しかった
 夢の様に去って 遠い日の事を

 今私に語りかけてくる
 楽しい 楽しい思い出を
 一杯持ってくる

 名月を眺めて 幸せを胸に一杯
 はちきれそうだ
 私の胸にこころが

 そうだ此の月をカメラに
 そして・・・・
 













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東本願寺に「母の納骨を」妹と二人で

2012年11月27日 15時34分09秒 | 日記
             11月27日火曜日   
 古い記録より 母の33回忌も終えて、二年の月日が経過した、今年母が生きていたら百年の節目の年である。

 私は母が30歳の時に生まれた子です、今年の5月に古希を迎える歳になります。私は自分の年を数えるときに、30を足して母の歳を数える癖が幼い時からついていた。それは母が30歳の時に、私が生んでくれたからです。こんなに解りやすく産んでくれた、父母に感謝の気持ちで一杯です。本当に生んでくれて有難う。

 そんな思いを込めて、弟妹に出す年賀状に添え書きを一言つけ加えていた。年が明けると妹の一枝から電話があり、その内容は母からの手紙を読み直しながら何か計画しようと言う事だった。

 其のうちに「親鸞聖人御旧跡参拝奉仕団を募集」4月11日~13日真宗本廰(東本願寺)同朋会館主催に・参加しませんか?と電話があった。その折に「母の納骨もしたら如何かね」と言ってきた。
 
 母は熱心な仏教信者で、生涯のうちに京都の本願寺にお参りするのが夢であった。然し小作農家で6人の子供を育てては,とても出来ないことです。その上4人の子供を高校まで、日夜働いて行かせてくれたのです。
 私と妹は生前母が叶えなかった夢を、せめて納骨だけでもと参加する事にしました。「お母さんが京都に行くので、私と妹が一緒に行きますよ・お父さんも一緒に」そんな気持ちで・・・

 いよいよ4月になってから、山口に行って義姉に納骨の話をしました。妹は生前母に十分な事をして上げられなっかったので、私にさせて下さいと言った。「お父さんの納骨は?と言ったので、今回はとりあえず母の納骨のみで話をまためました。父のお骨は、義姉と恭介(兄の長男)と話し合って決めて貰う事にした。
 付け加えその後父の納骨は、私がし妹と一緒に納骨に行きました。
 

 それから墓場に行き先祖の墓にお参りをして、分骨をして妹が持ってきた骨壺に分けて入れた。いよいよ出発の日が迫って来たので、4月9日に妹の家で細部を打ち合わせて参加した。

 本会の奉仕団に参加して見ると、初参加の私にとっては可なり厳しいものでした。100名余りの会員が3日間、共同生活をするのです。北は北海道から南は沖縄までの参加者で、部屋の掃除から炊事の世話までするのです。

 でも何となしに楽しい日日でした、参加に当たって父母の写真を抱いて一緒に来ているからです。父母の供養ではなく父母について、私と妹が本山の奉仕団に参加しているのだから。

 父母が死別して35年も経っている今、私と妹の胸に抱かれて本願寺の、奉仕団で奉仕しているのです父母は本当に喜んでいると思います。  
 「武ちゃん足の悪い母ちゃんまで,連れて来てくれて済まんねえ、お金もだいぶんかかったでしょうに」 

 「あんた嫁さんには何も言わんで、京都まで行かせてくれたんかね」帰ったら嫁さんに私から済まんと言っていたと忘れんように言っとくれよ」「良いかね分かったかね、良いかね。」

 分かった 分かったよ・・妹の一枝がお金を出してくれたので、心配せんでもいいのよ。「本当かねでも嫁さんにはちゃんとお礼を言っとくれよ良いかね武ちゃん」こんな会話を何回も、何回も繰り返し繰り返しして今日本願寺まで辿りついたのよ。

 有難いこと 有難いこと 私はこんな良い子を持って、勿体ない・もったいない罰が当たる、なあ武ちゃん済まんねえ、嫁さんにはちゃんとお礼を忘れんように言っとくれよ。そんなことを言わんでも分かっとるけもう言いなさんな。

 「武ちゃん朽網の姉ちゃんは元気にしとるかね、姉ちゃんは元気だから心配戦でもいいよ。」と 本当は「おと年の五月に病気で、亡くなったのです.」兄も亡くなりましたが知らせませんでした。

 死ぬ前の日の夕方病院にお見舞いに行って、姉ちゃんと話もしたんよ。登美子は何歳まで生きていたかね「姉ちゃんは死ぬ前の日に山口の実家に行った夢を見たそうです、家の前には一杯きれいな花が咲いてとてもきれいだったそうです、と嬉しそうに私に話してくれました。その話をした次の日の朝急に悪くなって私も病院まで行きました。そうして少し話しましたよ。兄の信ちゃんは・・こんな事を母は聞いたと思ます・・・
     ・・・・・中略・・・・・
12年前の古いノートの記録にあったのをブログに、こんなことを書くのは悪いかなとも思いながら・・















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小学校に入学の頃の思い出

2012年11月26日 17時05分34秒 | 生活
             11月26日月曜日   

             お返事の出来ない一年生    
 小学校に入学する頃、今から75年も前のことです。入学式が近づくと伯父や伯母父母姉たちから、学校でのお返事の練習をさせられました。「田 武義さん」と呼ばれたら、「ハイ」と返事をするのです。と教えられ、何回も練習しました。

 それが出来ないのです、日頃の返事は「アイ」と言うのです。それで名前を呼ばれたら、反射的に「アイ」と答えるのです。何回も何回も練習し、伯父伯母に父母も「これなら大丈夫」としました。
 
 いよいよ入学式の当日,「田 武義さん」呼ばれるや大きな声で「アイ」と言ってしまいました。言った後は如何することもできません、バツの悪い事が暫らくは気になって仕方がありませんでした。

 村の後ろにはUの字型に山が囲み、其処に300戸余りの民家がありました。清流が流れ鮒や鮎ハエ等が泳ぎ、周りには緑がいっぱいのとても長閑で静かな村です。帰りには小川に入って魚取りもしました。
 
 担任の先生は「杉下先生」と言って色の白い細顔の、優しい先生でした。休み時間に私が「流行り唄ならおいらののどよ、上方下りは瓦版…」流行りの唄を唄っていると、先生が傍に来て「田さん唄がとっても上手ね」でもそんな歌は「学校では唄ってはいけないのよ」と言ってやめさせました。

 そうして先生は「勉強がすんだら先生にも聞かせてね」、と言った事を覚えています。でも其の先生は途中で変わりました。二年の先生の組に先生の子供がいた為に、変えられたのですとても残念でした。

 三学期に学芸会がありましたが、題は「桃太郎の鬼退治の劇でした」。私は桃太郎の家来の犬でした、桃太郎が出てくると、私(いぬ)が「ワンワン」と出てきて「お腰に付けたキビダンゴ一つ下さいと言うと」「家来に成るならあげますよ」と桃太郎が言うのです・・・それから私の「アダナは犬」と付けられて、しばらく犬犬と上級生から言われました。それがとても悔しかったです。
















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従兄弟のお見舞いに行って

2012年11月24日 17時13分14秒 | 生活
             11月24日土曜日  

 私の母方の従兄弟のお見舞いに行った。脳梗塞で入院してそれが転移して、胃がんになっている様です。食べ物も食べられず、栄養剤の点滴をしていました。話言葉も中々通じないので、見舞いの間中目と目を合わせて、手を握りあって励ますくらいです。

 それで見舞いと言っても、そう永い事傍にいることも出来ないのです。妹との2人兄弟で私の1つ年上なので子供の頃、私が一緒に遊んだりしていました。又泊まって一緒に寝ることも屡あって、其れも楽しみの一つでした。何か話すと感激して、必死でそれを抑えようとしています。

 私は話す言葉がなくて困りました、それで心の持ち方について話をしました。敏夫(とっちゃん)貴方には三人の子供が皆立派に成長し、そのことはとても幸せな事ですよ。家にはお嫁さんが、田や家を守って立派にしていることも幸せですよ。貴方は一つも心配はいりませんよ、こんな恵まれた事は幸せですよ。と言いました。自分の体の悪い事をくよくよ考えて悩んでも、どうにもなりませんよ。

 天運という言葉があります、病気の事は医者と天に任せましょう。悪い事は考えないで、幸せな事を考え一日一日を生きて行きましょうね。そのように話してから、後ろ髪ひかれる思いで病院を後にしました。

 今度行くときは筆談の用意をして,行こうと思います。それまで元気でいてね 。















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