82歳からの旅

私の記録

 ~ 危篤患者の見舞いに同行して ~ 私の心に?・・・

2015年10月30日 06時49分10秒 | 生活

         10月30日金曜日      

 先日家内の従兄弟に当たる人が、危篤と知らせてきました。其処で

私も一緒に病院に駆けつけました。

 患者さんは病院のベッドの上で、目をつぶり肩をゆすって大きく呼吸

をしています。  …人間の生の末期症状か???…

 家内が行くと患者の娘めさんは、患者の母に優しく寄り添い 瞼を両

優しく開き 「和子ちゃんが来たよ」 と耳元で声をかけたのです。

 その娘さんは8年間も母(患者・意識朦朧)を、看病して来たのです。

その結果呼びかける時、母の反応で母の様子が分かるのです。

 呼びかけるときに、母が言っていた言葉で言うのです。そうすると反

があるらしいのです。

 私の長男(56歳)が来ると、寄り添って両指で優しく瞼を開きマー坊

が来たよ。と耳元で囁くように言うのでした。

 そうして娘さんは私達に向かって、「マー坊わかったよ」と言うのでし

 私は娘さんの母に対しての、思いやりの心に感動して涙が出てしま

いました。              ~ 次回に続く ~  

                  

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 ~ 私を育てた故郷の自然と人々 ~  5

2015年10月24日 10時08分13秒 | 生活

         10月24日土曜日  

      第 1 章   私を育み育てた、故郷の自然と人達

      第1節 故郷白川村の自然

 私の生まれた福岡県京都郡白川村山口(現在苅田町)は北九州市

の南にあります。

 北には貫山(621?)があり、その南麓にある小さな盆地の村

です。

其処に20戸から40戸ばかりの、集落が山裾に散在し合わせ

300戸ばかりあります。

 北側山の谷間には頂上近くまで、棚田が重なるように有ります。

又平地には、水田が広がっています。多くの村民は、農業で生計を

立てています。

 春になると田園一面に、蓮華や菜の花が咲き乱れます。周りの山

も一斉に新緑が芽吹きます。初夏になって夕闇が迫るころには、蛍

が飛び交い幻想的な風情がただよいます。

 男の子は昼間は田圃に入り、相撲を取ったり寝転んで遊びます。

女の子は蓮華の花を髪毛にさして、友達と見せあうのです。蛍の出

るころに成ると麦わら蛍籠をつくり、蛍狩りに夢中になって遊びます。

 夏には綺麗に清んだ小川に、ハエや鮒が泳いでいます。学校帰り

の子ども達は、小川に入って魚取りや水遊びに夢中でした。少し深

みの処では、泳いだりしました。

 秋には黄色く実った稲穂が、一面に絨毯を広げた様になります。

周りの山の木も、紅葉してきれいです。でも冬に成ると厳しい北風

が貫山から吹き下ろします。吹雪の日の通学は、大変でした。なに

もない戦時中で草鞋履きで、手を凍えさせて学校に通いました。  

 でも学年末の終業式の日には、出席皆勤賞や出席精勤賞の子供

沢山いました。

 この様な白川村の自然は、毎日が遊園地であり又鍛錬の場でも

りました。

 子供たちは心豊かに伸び伸びと、自然に対しても忍耐強く逞しい

に育ったのでした。

          

 

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 ~ 私を育てた故郷の自然と人達 ~  4

2015年10月23日 12時52分50秒 | 生活

       10月23日 

        ~  一部省略 (退職後の・・・・)~

  平成21年1月弟が交通事故で、横浜の赤十字病院に入院しまし 

た。身寄りのない弟はその後痴呆になり、自活出来ない状況です。

 これは長生きした私に、「神様が下さった試練」だと考えました。

弟を北九州市の介護老人保健施設「桜ヶ丘」に、入所させて面倒を

見ています。

 そうして時々未熟なバイオリン片手に、入所施設を訪問したりし

います。

 ~ 私の生きて来た記録を、子供や孫たちに ~

 私は戦前前後の曲折した時代に、人の道を誤らずに生きた来ま

した。其れが出来たのは、父母や家族・伯父や伯母先生・友達を

めた多くの人達のお蔭です。

 其の時々に「進む道を示し、教え導いて下さった」お蔭で今の私

が有ることに気付いたのです。

 其処で知っている事や、調べて解ったことは書き残したいと思い

ます。

 お世話に成った人々に感謝の気持ちとお礼を、今は亡き父母や

伯父伯母等お詫びもしたいのです。

 整理しまとめていく中で、今まで「知らなかった事が沢山あること

に気づきました。それらを生前の伯父や伯母・父母姉などに、聞い

おけば良かったと残念でなりません。

 其処で私の生きて来た跡を、私の子や孫達に残しておきたいと

思い、[私を育てた故郷の自然と人たち」に纏めて残す決心をした

のです。

              

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 ~ 私を育てた郷土の自然と人達 ~ 3

2015年10月22日 07時12分39秒 | 転居のための準備

      10月22日 木曜日   

                                  それで国 

 も国民も、戦前の自信を喪失しました。      ~ 中略 ~

社会が乱れ …闇市が堂々と・・・生活物資の不足…とくに食料 

が ・・・・ ~

 そんな戦後の世の中で、働く職もない時代でした。勤勉な国民は

食べられそうなものは、なんでも食べ生きてきました。そうして国の

再建復興を短期間で成し遂げ、世界の国々や人々を「アッ」と驚か

せました。

 この様な波乱万丈の時代に、戦前は軍国少年として育ちました。

然し戦後は戦前とは正反対の、自由・民主主義の教育を受けたの

です。戦前の教えの大部分は、墨塗りをした教科書で学びました。 

・ 働く定職もなく、生きる希望もない…貧しい家庭の子が・・                      

  高校を卒業しても、働く定職は有りません 。それで土木や石割

の仕事、住み込みで精米・うどん打ち・代用教員等を2年間転々と

しました。

 代用教員で働くうちに、この仕事が私の天職であると思いました。

 小作農で収入の少ない家庭に、更に負担をかけるのは心苦しいの

です。でも代用教員で生涯勤める思いを辞め、教員養成の学芸大学

受験を決意しました。

 入学試験に無事合格して、卒業し教師となったのです。昭和31

年6月より平成2年3月退職するまでには、様々な曲折がありまし

た。然し生涯の仕事として、全力で全うすることが出来ました。

               ・・・・ 次回に・・・・

            

 

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 ~ 私を育てた故郷の自然と人達 ~

2015年10月21日 06時59分34秒 | 生活

    10月21日水曜日 

 当時の日本は明治維新以来、西洋に追いつけ追い越せの時代でし

た。そうして富国強兵の国策で、国民全体がその政策に追従してい

る状態でした。

 アジアの大国清国(中国)に・続いてロシアとの戦いに勝利し

て間もない時代でした。

 その頃の国の様子は、毎日戦争の戦果のニュースばかりでした。

一方では戦争を謳歌し、日本が世界を制覇すると言う様な風潮で

した。

 然し昭和20年8月15日に無条件降伏と言う、予想もしない無惨

な敗戦でした。その結果は世界の中で、自称1等国から5等国にさ

れたのです。  ・・・続く・・・

         

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