4月19日土曜日
此の頃の生活に、若い頃はなかった事が起こっています。
先日目覚まし時計を、買いに行きました。めぼしい夜光時計を
見付け、その時計の説明を聞いてから買いました。
帰ってから説明書を読んで、セットして夜寝ました。電灯を
スモール灯にして見ると、数字がよく見えません。
其処で翌日其れを持って、店に行き、もう一度説明を聞きま
した。時計の裏側にあるスイッチを押せばよいと言うのです。
其れで又家でセットして、見ましたが、スイッチはおした儘で
無いと豆球は灯ってはくれません。其のスイッチは、目さまし
のベルを,止めるスイッチなのです。
良く説明書を読むと夜光時計で,必ず見えるはずと言いました。
そうして店員さんは、暗くしてみて「見えますよ」と言いました。
其れでも私は家で2回も,夜テストして駄目だったので「私は要り
ません」と返品しました。
店に取っては、大変困ったお客様です。でも老人家族が,夜見え
ない夜光時計は要らないのです。
こんな事をするから老人は嫌われる,解って要るけど「是が後期
高齢者」の実情なのです。
恥ずかしい事ですが、「説明を十分に理解しないで,納得する」
事やその場で,自分で一度試す事を怠るのです。
老人で「呆けが始まったのかもしれないのです。」こんな事を
繰り返さないようにしないと「本物の呆け・痴呆」も間近です。
此の頃の私の生活の、近況です。
4月12日 土曜日
横浜赤十字病院を、平成21年4月9日に退院させた。私と妹の一枝の二人と
一枝の孫娘と其の彼が転院のためにを手伝ってくれた。
転院させる前に、弟の家の中を一週間ほどかけて整理や掃除をした。その間私
は木更津市の弟の家から、横浜の赤十字病院に、何回も高速バスで見舞いに行った。
又家のガス会社・新聞社市役所などの手続き・家庭裁判所等の諸手続きに
奔走しました。
是が大変困難な事でした。弟本人で無いと出来ない事ばかりでした。不慣れな
土地で探して行くのにバス乗り場を探し、降りる停留所・・其れから会社や役所の
ある場所などなど
身分を証明するには私と弟の戸籍抄本が必要です、・ 妹は家の整理やカード
会社からの請求書等を整理したり、送られて来た品物を必要も無いので断るのに
苦労した。
その間弟は病院の生活に精神的に混乱して頭が少し可笑しくなったようである。
退院したいが身元引受人がいないので退院できないのです。兄の私は北九州に住
んでいて、急に弟の世話などは出来ないのです。
其れで横浜赤十字病院と北九州に住んでいる私は、何回も電話で繰り返し話し
合いをしました。
弟も速く病院を出て自分の家に、帰りたいのです。何とか病院を抜け出そうと
して,夜中にトイレに行く振りをして病室を抜け出そうとするのです。
でも弟の部屋には扉もなく、ナースの部屋のすぐ前です。
其の時の弟の気持ちを思うと,私も気が狂いそうになります。弟からは毎日の様
に兄貴何とかならないかと、督促の葉書が来るのです。
けれども私の承認が無いと、病院では処置が出来ないのです。私だって今すぐ
弟を転院させるには,横浜にするのか,北九州にするのか? どんな施設が良いのか
も解らないのです。その上にお金がどれくらいかかるかも解りません。
更には弟の金がどの様になっているのかも,はっきりと調べ無ければ成りません。
其れで中々転院の,決断出来なかったのです。
処がたまたま末の妹が弟の病院に見舞いに行った時に,病院から言われて妹は断り
切れずに承認する事になったのです。妹には詳しい事情等は、良く解らないのです。
千葉県の木更津市の家の近くにすれば、後が大変です。弟の面倒を見る事が出来
ません、其処で北九州市小倉北区にある、蒲生病院にとりあえず転院させました。後は
どうにかなるだろうと決断したのです。
こんな世話の出来るのも、歳を重ねた人でないと出来ない勲章です。そう思う
と心も軽くなって来るのです。
一番の心配は私の年齢です、私の年齢が・・・あまりにも残りが少ないのです.
でも天命ですので、其れに任せるしか無いのです。
まあ遊び心で(弟と幼い時から仲良く遊んで来たので、死ぬまで仲良く遊ぶか?)
そんな軽い気持で・・・十分な世話は出来ないけれども? 弟よつまらぬ兄を許してくれよ・・・
s
4月9日 水曜日
弟が痴呆になって、あれこれ5年も成るのです。その間兄のわたしは,弟の
保護者として面倒を見ています。
弟は離婚して、子供や妻に見放され千葉県木更津市で一人暮らしをしていた
のです。
平成21年1月交通事故で、横浜の赤十字病院に入院して以来です。
兄の私としては弟が不憫で放っておけず、高齢にもかかわらず弟の面倒を見て
いるのです。
其処で弟と私の2人分を、生きると言う事です。今回はその一部分を」紹介致
します。
1 交通事故の処理 是は突然に,横浜の赤十字病院よりの電話の知らせで知
る。
有無を言わせずに,私に病院に来る様に知らせる。知らん振りも出来ず・・・
2 赤十字病院(救急病院)から,適当な施設への転院の処置について,速く・
3 病院や交通事故に伴う、金銭の支払いの処置・・・
事実として、先ずお金を精算して後で何とかする事で解決・・未解決・・・
上の三つは大変でした。北九州に住んでいて,突然な事でした。こんな事は
予告 して起こる事など有るはずもない…鳩の豆鉄砲とは此の事か?・・・
此の解決は困難の連続でした。その一つ 本人でないと、出来ない事ばか
りでした。銀行のお金の処置・市役所での手続は全て本人弟有ることの証明
が必要です,本人からの依頼であれば依頼書を。
兄で有ることの証明を,北九州市に帰って証明を貰ってこいと言うので
すか?
行政は規則ずくめです・・・これもわからないでもないが状況に応じて
判断出来ないのか?,是が政治と言うのですよ。
市長を呼んで話をしたいと頼んだが・市民課の参与とでははなしでも
無駄でした。
、
私は、何とか解決しました。が私の子供は何でお父さんがしなければ
成らないの?と言うのです。
でも東京にいた末娘は,横浜にあった,事故車の廃車処理を黙ってして
くれました。
先ずはこれ位にして又の機会に
4月6日日曜日
姉の17回忌の法要を、5月の18日に営むとの案内を姪から受けました。
其れで私は今姉の76年間の生涯の中で、私と生活した中の一部をコンパクトに纏めています。
父と母の50回忌(今年の3月9日に実施)の時に,父母の生い立ちや結婚後に今の田家を
どの様に作り現在迄維持して来たかを纏めてしおりを作りました。
3歳で父を亡くした3男の父は、27歳で20歳の母と結婚し伯父の家で10年間同居して生活
していました。
37歳の時に家を建て・姉・兄・私の誕生と共に伯父の家から分家しました。その後は小作人と
して父母共に協力して良く働き、現在の家を守り6人の子供を育て来たのです。
その上に働いたお金で,田地を少し宛買って田畑を増やしたのです。
さらに私を含めて、4人の弟妹を高校迄学ばせたのです。大変な苦労だったと思います。
其の為に姉は小さい時から私の守をさせられると共に、家の手伝いもして育てられたのです。
其の姉の苦労の一部、私を子守した時の事や、私に勉強を教えてくれた優しい等等を中心にし
て纏めています。
その一つ・・・ 泣きながら御飯を炊いた「私の優しい姉ちゃん」の思い出
姉ちゃんが5年生か6年生の時 私は5歳か6歳の時 の思い出です。
晩秋の稲の取り入れ時の夕方、姉ちゃんはお釜で御飯を炊いていました,するとお釜から
水がポトポトと漏っているのです.お釜に「ヒビが入っているのです。」お釜に割れ目が出
来て其処から水が少し宛もれるのです。
姉はどうしたら良いのか解らず、泣きながら御飯を炊いていました。が途中で止めて泣い
ていました。
其処へ父と母が遅くに,お腹をすかせて帰って来ました。姉は父と母を見て急に大きな声で
泣きだしました,私も一緒に泣きました。 父も母もどうする事も出来ませんでした。
此の様な思い出を幾つか纏めて、シオリにして子供や孫達に知らせて上げたいのです。又
今の私を育て,助けてくれた御礼も込めて仏前に供えたいと思います。
姉ちゃん私を一任前になるように,良く守をしたり,勉強を教えてくれたりして有り難う。
有り難う。浄土で優しい父や母と一緒に待っていてね,私も後でいくからね。
4月5日土曜日
体がだるい為に,今日一日休養した。バイオリンで簡単な童謡や小学唱歌、演歌などを弾いた。
1つのフレーズを、何回も繰り返し弾くのです。そうして毎日繰り返して,弾くのです。そうしないと
幾ら弾いても,うたのイメージが上手くわかないのです。
時々盆踊りの曲を歌いながら,弾いて見ると良く解ります。例えば木曽節など弾いて見ると、よく解かります。
其れで体の調子の良くないとき等に、バイオリンを弾くと心も体も浮かれて来るのです。
心に唄がある事はとても良いことです,其れが例え高尚な音楽で無くても?その人にとって唄心があることが
素晴らしいのです。