9月の三連休を利用して、福島・宮城に行ってきました。
新幹線で仙台に行ったら、そこからバスで福島・相馬市へ。
なんで?と思っていたら、それしか交通がないんですね。
震災から三年半たっても、まだまだ不便な生活が続いているんですね。
高速道路を挟んで右と左の景色が全然違うことにおどろきました。
右の田んぼにはたわわに実った稲がきれいに並んでいます。
一方、左側はきれいに区画されているものの背の高い雑草に覆われていました。
高速道路が堤防となって、被害を逃れた地区とそうでない地区との差でした。
テレビなどで見て知っているつもりでしたが、実際に見てみることで
改めて感じるところが大きくありました。
新地町の町役場の屋上から町全体を見てみました。
土曜日だというのに、たくさんのトラック、ブルドーザーが動いています。
津波でかなりの土が持っていかれてしまったので、津波後のがれきを
細かくして土に混ぜたものや、神奈川県から運んだ土を使って盛り土を
しているそうです。
昼食後、バスで南相馬市へ。
鹿島区から原町区、小高区へと進んでいくと徐々に街の雰囲気が変わってきます。
なんて言ったらいいんでしょう。
人の気配がない、生活している空気の流れが感じられない、そんな感じ。
全く手つかずの家の割れた窓の奥に、津波で荒れたままになっている
部屋が見えたり、曲がったままのドアや屋根の奥に日常の道具が
たぶん3年半前のまま置き去りにされていたり。
「住んでいる人がいないから、商店なども開けない。商店がないから
人が住めない」南相馬市の職員の方が話していました。
それでも、昼間しかいられない、夜の宿泊ができない状態が、
この連休からしばらくは解除されるそうで、少しは活気が出てきそうです。
小高区役所の向かいのあるボランティアセンターには人が集まっていて
復興へ向かう明るさを感じました。
宿泊は相馬市の松川浦。住宅や商店のすぐそばにある海。
穏やかで明るいこの海が恐ろしい被害をもたらしたなんて
なんだかうまくつながりません。
でも、工事中の道路の脇は崩れ落ちて海へと続いていました。
こんなにすぐ近くに海がある暮らしがどんなものか想像がつきませんが
住んでいる人々にとっては、なくてはならない大切なものだったんでしょうね。
海と共に生きていくことと、安全な暮らし、上手に両立するには
どうしたらいいんでしょう。
翌日は海岸でゴミ拾いをしました。
ボランティアってこの程度のことでいいの?と思っていましたが、
侮っていましたね。とにかく、人手と時間がかかる作業。
ゴミを集めては砂浜を往復するという作業がけっこうきつかったです。
3年半もたっているのに、海の底からはまだまだいろんなものが流れつきます。
ゴミ拾いをした海岸には少し登ったところに慰霊碑があり、その近くには
太い鉄の柱がぐにゃりと曲がったブランコなどの遊具がありました。
すっかり海水につかったのに、生き残ってきれいに花を咲かせている
藤の花もありました。(私が見たのは実だけですが)
堤防の上の、どこまでもつながって倒れているガードレールみたいなもの。
堤防のすぐ下の、だだっ広い草はらが実は住宅地だったことを示すお風呂の後。
まだまだ、たくさん、やることがありそうです。
3年半たって初めて訪れた福島の地。
がれきの山こそもうないけれど、そのかわり、どこまでも続く雑草の生えた
広い大地がありました。草刈りをして、塩を抜き、再び畑や田んぼとして
機能するようにするのは気の遠くなるような作業です。
現地の人がそこで働き、子どもを育て、生活していくことを望むなら、
ほんの小さな手ですが、お手伝いができたらいいなと思います。
大事なのは継続していくこと。忘れずにいること。心に留めておくこと。
今回の旅で、震災時の話やその後のつらい経験を話してくださった方々。
つらい記憶を話してくださり、ありがとうございます。
大切なお話しを、私も伝えていきます。
この1回で満足することなく、また訪れて何かできたらいいな。
っていうか、また来ます!!
福島 相馬市・南相馬市
新幹線で仙台に行ったら、そこからバスで福島・相馬市へ。
なんで?と思っていたら、それしか交通がないんですね。
震災から三年半たっても、まだまだ不便な生活が続いているんですね。
高速道路を挟んで右と左の景色が全然違うことにおどろきました。
右の田んぼにはたわわに実った稲がきれいに並んでいます。
一方、左側はきれいに区画されているものの背の高い雑草に覆われていました。
高速道路が堤防となって、被害を逃れた地区とそうでない地区との差でした。
テレビなどで見て知っているつもりでしたが、実際に見てみることで
改めて感じるところが大きくありました。
新地町の町役場の屋上から町全体を見てみました。
土曜日だというのに、たくさんのトラック、ブルドーザーが動いています。
津波でかなりの土が持っていかれてしまったので、津波後のがれきを
細かくして土に混ぜたものや、神奈川県から運んだ土を使って盛り土を
しているそうです。
昼食後、バスで南相馬市へ。
鹿島区から原町区、小高区へと進んでいくと徐々に街の雰囲気が変わってきます。
なんて言ったらいいんでしょう。
人の気配がない、生活している空気の流れが感じられない、そんな感じ。
全く手つかずの家の割れた窓の奥に、津波で荒れたままになっている
部屋が見えたり、曲がったままのドアや屋根の奥に日常の道具が
たぶん3年半前のまま置き去りにされていたり。
「住んでいる人がいないから、商店なども開けない。商店がないから
人が住めない」南相馬市の職員の方が話していました。
それでも、昼間しかいられない、夜の宿泊ができない状態が、
この連休からしばらくは解除されるそうで、少しは活気が出てきそうです。
小高区役所の向かいのあるボランティアセンターには人が集まっていて
復興へ向かう明るさを感じました。
宿泊は相馬市の松川浦。住宅や商店のすぐそばにある海。
穏やかで明るいこの海が恐ろしい被害をもたらしたなんて
なんだかうまくつながりません。
でも、工事中の道路の脇は崩れ落ちて海へと続いていました。
こんなにすぐ近くに海がある暮らしがどんなものか想像がつきませんが
住んでいる人々にとっては、なくてはならない大切なものだったんでしょうね。
海と共に生きていくことと、安全な暮らし、上手に両立するには
どうしたらいいんでしょう。
翌日は海岸でゴミ拾いをしました。
ボランティアってこの程度のことでいいの?と思っていましたが、
侮っていましたね。とにかく、人手と時間がかかる作業。
ゴミを集めては砂浜を往復するという作業がけっこうきつかったです。
3年半もたっているのに、海の底からはまだまだいろんなものが流れつきます。
ゴミ拾いをした海岸には少し登ったところに慰霊碑があり、その近くには
太い鉄の柱がぐにゃりと曲がったブランコなどの遊具がありました。
すっかり海水につかったのに、生き残ってきれいに花を咲かせている
藤の花もありました。(私が見たのは実だけですが)
堤防の上の、どこまでもつながって倒れているガードレールみたいなもの。
堤防のすぐ下の、だだっ広い草はらが実は住宅地だったことを示すお風呂の後。
まだまだ、たくさん、やることがありそうです。
3年半たって初めて訪れた福島の地。
がれきの山こそもうないけれど、そのかわり、どこまでも続く雑草の生えた
広い大地がありました。草刈りをして、塩を抜き、再び畑や田んぼとして
機能するようにするのは気の遠くなるような作業です。
現地の人がそこで働き、子どもを育て、生活していくことを望むなら、
ほんの小さな手ですが、お手伝いができたらいいなと思います。
大事なのは継続していくこと。忘れずにいること。心に留めておくこと。
今回の旅で、震災時の話やその後のつらい経験を話してくださった方々。
つらい記憶を話してくださり、ありがとうございます。
大切なお話しを、私も伝えていきます。
この1回で満足することなく、また訪れて何かできたらいいな。
っていうか、また来ます!!
福島 相馬市・南相馬市