数あるクラシックの中でも最も有名な曲のひとつであろう、交響曲第5番『運命』はベートーヴェンが38歳の時に発表した交響曲だが、彼は20代後半から聴覚障害を自覚するようになり、日増しに悪化の一途をたどり、作曲家に聴覚障害は致命的である。そのために音楽活動がかりか、人とのつきあいも避けるようになった生活をおくっていたようである。
さまざまな治療を試みたが一向に改善の兆しが見えず、不治の病と悟った彼は絶望のあまり死を選ぼうとしたと、手紙で語っている。しかし、「芸術がそれをひきとめた」と語るように、芸術に生きる決心をすることでこの危機を乗り越えた。
『運命』の4つの楽章で、第1楽章は障害による絶望。第2樂章は時間の経過とともに気持ちが安定してきた状態、、第3は前向きになっている状態、第4楽章は、聴覚障害による困難をくぐり抜け『英雄』という傑作を生みだすことができたという、爆発するような喜びを表していると解釈することもできるであろう。
『運命』はベートーヴェンが自ら体験した障害の受容過程が象徴的な形で示されていつように思われ、そこに、多くの人達に愛される秘密があるのではないか。
夏目漱石は49歳の生涯のうち、3度の「神経衰弱」に罹っている。20代後半の第1病期では周りの人たちが自分のことを、常に見張ったり詮索していると被害妄想に陥り、逃れるかのように、松山へ行く。
第2期では、前回と同じ状況を認めつつも、病的な体験を、戦うという戦闘的な姿勢に変わったのである。この時期に書かれたのが『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』で、周囲の人間と闘う姿勢が顕著である。
そして、第3病期の寛容をいう具合に変化してゆく。それまでの長くつらかった病気との闘いを通じての洞察の深まりや、人間的な成長をみることができる。
両者は病や障害によって苦悩の人生を歩んだことは事実である。しかしその一方で、彼らは病にもかかわらずというよりは、病あるがゆえに、それが好運に作用して、傑出した作品を世に出すことができたも言えまいか。
齋藤高雅 放送大学教授 編著「心の健康と病理」の中から 高橋正雄 筑波大学教授の「病みながら生きるということ」を参考にさせていただきました。