最近の調査によると、携帯メールの利用時間の長さと、小中学生の学業成績が反比例しているという事を朝のラジオ番組で聴いた。これは我々世代には、さもありなんと説得力のある話題であった。
一日に何時間もメールに費やして、本来の勉強に役立つことがどの程あるだろうか、どうせ、たわいのない日常会話の類ではないか。ただ、多感な世代での、大人には理解できない、自我意識の芽生えとの葛藤などから、仲間をより強く求めたがる傾向あり、そのコミュニケーション手段として、便利さから携帯電話利用によるメールが、格好のアイテムとなったのだろう事は想像に難くない。
しかし、最もコミュニケーション能力を養わなければならない青少年期に、デジタルを媒体とする、体温のぬくもりを感じられない効率化優先、自己優先のメール依存では良いはずがないと考える。
こうした、子供たちをはじめ若者達の間では、メールへの返信は5分以内というルールがあるらしく、授業中でも、「無視された」との反応におびえ、こっそりと返信作業をする子も少なくないらしい。
自分が送信者の場合、相手から返信が来ないと、事情も聴かずに、無視されたとその相手を非難したり、勝手に落ち込んだり、メールゆえの弊害が大きく、いじめの糸口となっており、最近はWEB上に日記風文章を公開するブログや、個人のプロフィールを公開するぷろふなどが犯罪の温床化となりつつあり警戒しなければならない。しかし、危険予知能力の備わっていない世代は無防備状態である。
未成熟期のある青少年が、WEB上で展開される、バーチャル世界の裏の真実や、危険を察知しろといっても、無理がある。友人同士のコミュニケーションであれば、なにも携帯メールで頻繁にやり取りする必要はあるまい。使える技術は必要だが、敢えて必要最小限にとどめる節度を持たせるべきであると考える。
子供達の要求に簡単に屈することなく、また、IT産業の思惑に乗せられることなく、保護者である親達や、教育者の毅然とした態度に期待したい。
ここで、こうした電気信号を媒体とした、コミュニケーションの弊害について考えてみた。電話が普及して久しいが、昔から言われていることは、大事な用件を電話で済ますことなどもってのほか、たとえ電話で事前に大方纏まっても、必ず顔をあわせて、直に意思確認をしたものだった。それは、電話の電気信号化された音声では分からない感情や表情、場の空気といったアナログな感覚が、人間同士の意思疎通では最も大事だからではなかったろうか。
私は社員時代、お客様申し出の対応、(一般には苦情ともいう)ものの窓口責任者をしていた時代がある。電話によるクレームで、いくら電話で説明しても理解してもらえず、かえって相手を逆上させるケースが多いので、今行きますからと、必ず出向いて、直接会ってお互いの顔を見ながら話をして、すんなりと解決した。こんなことは常識だが、会って見ると、以前の剣幕は何処へやら、「会社は好きになれないが、お前が気に入った」と言われたことが、度々ある。私の処世訓は、誠意は必ずや通ずるである。
電子メールの欠点は、面と向かって言いにくくても、何でも抵抗無く、感情の趣くままに一気に書き上げた文章を、送信ボタンを押すと瞬時に相手に届くことにある。私も送信してから悔やんだメールや、親しくしていた人からの、後は付き合いをやめようと思ったメールの苦い経験がある。
手紙などの場合、書いてから投函するまでの時間があるから、一時の感情で書いた文章を、少しの間冷静になって、書き直すか、出すのをやめようかなど考える余裕があるから救われる。
人は、直接会って話せば、大概どんな人物か分かる、如何にITが普及しても何百回のメールや、電話より、ただ1回のお互いの顔を見合っての話に勝るものはないと考えるが如何であろうか。
これほどまでに普及したことだし、実際、優れた点はこうした欠点を補って余りあるのは世の認めるところである、するなとは言わない、ただ節度を持ってそれ以外のコミュニケーション手段も上手に活用して欲しいと願うものである。