亡き父が一億玉砕、根こそぎ動員で中国戦線へ出征したのは私が母の胎内にいる時だった。船舶は殆ど失い補給を断たれ弾薬食料が尽きはて、日本は連合国軍に降伏した 終戦で復員して来ると待ってたら、1年2カ月後に戦争栄養失調死との冷酷な死亡告知書が母の元に届いた。
満洲で応召された叔父も21歳の若さで同じ告知書だった。二人とも遺骨の代わり骨壺には石ころ2つだけだったそう。我が子の遺骨を抱く事も出来ない祖父母の嘆き悲しみは言語に絶する限りだ、気丈な祖父は恨み言も云わず「死んだ者より今生きている生き神さまが大事だ」と弔慰金で墓石を作らず生活費に充て、土饅頭のままだった。夕には少しの焼酎でその悲しみをこらえ愚痴は聞かせなかった。
夫を亡くした母と縁組した義父と、後年社会人になった私とで約20年後建立した佐藤家の墓に戦死した父等の碑名は刻まれた。
死生観のなかに、人は2度死ぬとあり、最初は生物学的死で、2度目は世間から忘れ去られた時にこそ、完全な死が訪れるのだと言われる。
我子を亡くしながら、遺骨の無い骨壺の無念さ悔しさを想い、異国で望郷の念に耐えながら息を引き取った父等の無念さを忘れないためにも形あるもので残し、永く語り継がれるよう、父と叔父の兄弟慰霊像を建立し記憶を残してゆきたい。
台石上にこのような兄弟の像を載せてとイメージしている