いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

千鳥足でつぶやく『映画ばなし』その10:婚活マニュアルを厳守して相手を探す香苗

2012-11-20 22:36:30 | Weblog
しなやかな発想をする内田 けんじ監督の映画「鍵泥棒のメソッド」を観ました。
毎回、プログラムを購入している元気印ですが、600円のプログラムにシナリオを掲載したそれは、稀です。年間数十本しか映画を観ないのですが、数十年に亘って購入した、部屋の片隅にうず高く積んであるプログラムで、シナリオを掲載したものは片手で数えられるから・・・。

映画製作、脚本のノウハウをサンフランシスコ州立大学で習得した、昭和47年生まれの内田監督は今年41歳を迎えるので、中堅監督になるでしょうが、この映画が3作目に当るという。



なにはともあれ、売れない役者で無職の桜井 武史(堺 雅人)は、銭湯で転倒した時、後頭部を強打して記憶喪失する伝説の殺し屋コンドウ(香川 照之)の手から外れたロッカーの鍵を拾い、コンドウに成りすます。先ず、内田監督の着想に口説き落とされます。

記憶喪失後の生活が、桜井の生活環境にはめ込まれてしまうコンドウ。
銭湯番台の老女は、桜井がすり替えたロッカーの鍵からコンドウは桜井である、と証言する。
過去の記憶をすべて喪失したコンドウが、桜井の生活環境の中で過ごさねばならなくなった経緯が語られるところ。

芝居が下手で売れない役者・桜井は、その世界では著名だが、顔の知られていない殺し屋コンドウに依頼された殺人を遂行する。その反面、桜井の生活環境を介して記憶を取り戻そうと必死にもがくコンドウ。

つまり、「鍵泥棒のメソッド」は、貧乏役者・桜井から伝説の殺し屋・コンドウへ変身する堺 雅人、その逆を演じる香川 照之が主役です。いってみれば、二役を演じ分ける堺と香川の芝居を堪能できる映画ですね。

特に、丸めた雑誌をナイフに見立て、意識を取り戻した殺し屋・コンドウに腹を刺された桜井が倒れる時、

「なんだそれ。いいか、突然腹を刺された場合は、そんなに早く身体は反応できない。まず衝撃。それから事態の把握。緊張。それから痛みだ。もう1回いくぞ」

ヤクザの親分・荒川 良々(工藤 純一)に見破られては、コンドウの計画は水の泡。
もう一度同じ動き(芝居)を繰り返す桜井。

「駄目だ。お前は演技の基本ができていない」

コンドウと桜井との掛け合いと、堺の芝居を魅せる内田監督の工夫があります。
この場面で俳優・堺は、芝居が下手くそで売れない、貧乏な役者・桜井を演じる彼の真偽が問われており、堺はそれを存分に楽しんで演じている。

さて、この二人に絡むのが、末広 涼子演じる水嶋 香苗。
雑誌編集者・香苗は、相手もいないのに結婚式の日取りまでのスケジュールをビジネス手帳に書き込み、「私、結婚することに決めました」と、職場で宣言する。

マニフェストで約束したことは、政権をとったら必ず実現できるとTVで公約していた政治家?に酷似する滑稽さ加減に吹き出してしまった。このシーンは映画の冒頭にあり、それ以降、彼女が遭遇する出来事の伏線になっている。

おそらく、元気印を含めた好事家さん達は、そのスケジュールに彼女の行動がどんなエピソードで絡んでくるのか? 
それを期待して話の進展を推し量り、何時それが現れるのかを想像しながら観ている。好奇心をくすぐる出だしですね。

 翔子「結婚相手見つかったの?」
 香苗「まだ。ただ・・・恋をしてもいいかっていう人はいる」
 翔子「ああ・・・。それは無理よ」
 香苗「なんで無理なの」
 翔子「・・・あんた、ちゃんと恋をしてから結婚する気?」
 香苗「当たり前でしょう。ちゃんとその期間は用意してます」
    あきれて笑う翔子。
 香苗「何?」
 翔子「若い頃、胸がキューンてしたでしょう?」
 香苗「何それ?」
 翔子「この辺に・・・キューンていう言葉でしか表現できないような痛みが走るのよ。好きな人のことを考えるだけでキューン、キューンって・・・」
   (シナリオから抜粋)

とにかく、翔子が呆れるほど恋には初な香苗。
胸キューンは、香苗の心境の変化を象徴するキーワードになっている。映画の最後を胸キューンで締める用意周到さもあるから、キューンの痛みを胸のあたりに走らせて映画館を後にするのでした。

また、内田監督の遊び心とサービス精神が、胸キューンを見事に勝ち取る二人の女性の対比描写に充満しているから、観なけりゃソン、ソン。

余談です。
邦画の世界でキャステイングは、余り重要視されていないように思います。
洋画では、監督、脚本と同じ扱いでクレジットされていますが、苦労して探さなくてはならないのが邦画ですよ。
ちなみに、「鍵泥棒のメソッド」のキャステイングは、杉野 剛。
かなりの映画本数をキャステイングしていますが、「ステキな金縛り」「トウキョウソナタ」「明日への遺言」そして、「博士の愛した数式」は観ています。元気印の勝手な思い込みですが、どの映画も印象に残るキャステイングでした。








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千鳥足でつぶやく『映画ばなし』その9:女医・綾乃が、尊厳死を選択するとき  

2012-11-15 23:53:44 | 映画
流水のままに流れてゆく落葉を眺める医者と検事との価値観の違いを映画の後半に展開する「終の信託」を観て、世界チャンピオンにまで育てた中年女ボクサーを安楽死させて何処かに去り行く老トレ―ナーの物語「ミリオンダラー・ベイビー」を思い起こしたのです。



後者は、アメリカで公開後、保守派コメンテーター、障害者団体、キリスト教団体などから映画のボイコット運動が起こり話題となったようです。半面、前者に対する日本の諸団体からは、後者のような公の話題として取り上げられていないようです。

「ミリオンダラー・ベイビー」は、クリント・イーストウッド監督・主演の映画であること、第77回アカデミー賞で、作品賞、監督賞、主演女優賞(ヒラリー・スワンク)、助演男優賞(モーガン・フリーマン)の主要4部門を独占したことは、先刻ご存知でしょう。

老トレーナーのフランキー.・ダン(クリント・イーストウッド)は、ウエルター級イギリス人チャンピオンに挑むマギー・フイッツジエラルド(ヒラリー・スワンク)に、緑色のガウンを贈り励ます。世界チャンピオンの座を獲得したマギーは、ガウンの背中に縫いこんである「モ・クシュラ」の意味をフランキーに問い質すのですが、彼は言葉を濁します。

さて、「終の信託」です。
「これが周防流ラブ・ストーリー」と、プログラムは謳っています。



江木 泰三(役所 広司)が好んで歩く散歩道で偶然出会った折井 綾乃(草刈 民代)は、愛車の中に江木を誘い、彼への想いを告げます。
そこで、自分の死期が迫っていることを自覚している江木から、最期の時は早く楽にしてほしい、と依頼されるシーンを撮影中に、これはラブ・ストーリーであると確信した。江木の依頼に対して、貴方がいなくなったら、私はどうしたらいいの、と問い詰める綾乃は、女医としてではなく、女性として愛の告白をしている。このように、周防監督は、プログラムのインタビューで語っています。

さらに、医者だって人間。必ず好きな人、あるいは患者であっても人間的に好きになれない人はいるはず。綾乃も江木に対しては、患者と医者という関係以上の感情を抱いてしまった。周防監督は、それを愛情と解釈している、と続けています。

先の「ミリオンダラー・ベイビー」では、世界チャンピオンという栄光の世界から、完治の見込みがない延命治療を受けるまでに生活環境が激変したマギーは、人生に絶望し自殺を図るが未遂に終わる。そんな中で、彼女はフランキーに生命維持装置を外すように意思表示をする。様々な価値観を熟慮した末、彼女への愛情を選択するフランキー。

ガウンの背中に刺繍した言葉の意味を明かされ微笑みで答えるマギーにフランキーは、彼女にアドレナリンを過剰投与し安楽死を確かめて、娘とも疎遠であった住みなれた町から姿を消す。

冒頭に書いた綾乃と検事・塚原 透(大沢 たかお)との尊厳死を廻っての攻防で、周防監督は女医綾乃を一人の女性・綾乃を強調している。その意図は、世界チャンピオンになったマギーの尊厳を守るために残されたフランキーの選択肢は、安楽死しかなかったと主張し、マギーへの思慕の深さを描いたことに通ずるもの。元気印の勝手気侭な映画話ですから、独断と偏見に満ちた感想は、許容範囲と自負しているので、お気になさらずに・・・。

喘息患者・江木に寄せていた女医・綾乃の心境を端的に表せば、落花流水(らっかりゅすい)です。
安楽死とはこういう状態である、尊厳死とは云々、生前意志表示(リビング・ウイル)はカンヌンなどなど、女医・綾乃が江木に施した行為は、司法が規定する価値観の枠内で判定すると殺人罪である、と執拗に追詰める塚原との攻防戦は、この映画のクライマックスです。この場面で、ダンサー草刈 民代が一皮剥けた演技をしています。

その昔、「Wの悲劇」で薬師丸ひろ子が、劇団の看板女優の醜聞の身代わりになって記者会見する場面では、切羽詰る演技で乗切り女優に脱皮したように、ダンサーのイメージが強い草刈から、「終の信託」で綾乃を演じた女優に変身したことを印象付けられるシーンでした。そして、周防監督は、江木を殺したことを綾乃に認めさせます。

女医・綾乃が検事の塚原に、「あなたは、自分の患者である江木さんを殺したのですね」と念を押され「私が殺しました」と答える台詞に、アドレナリンの投与に決断を下したフランキーの姿が重なったのです。

尊厳死を軸に据えて主人公の生き様をドラマテイックに表した監督・クリントと周防は、マギーや江木が信頼する相手に殺させる行為に社会人としての矜持を、フランキー、綾乃が安楽死させた相手に抱いている愛情の刹那さ、信頼の厚さを、濃淡を込めて主張している。そこには、医学や司法や宗教がもたらす倫理観、世間が喧伝する価値観などよりも勝るものがあるとする、両監督の見識を窺い知った映画でした。

「おまえは、私の親愛なる者、お前は私の血」

フランクは、アドレナリンを過剰投与され意識朦朧とするマギーに「モ・クシュラ」の意味を囁き、緑色のガウンに縫いこんだ彼の心根を伝えます。

「私が江木さんを殺しました」

と検事に言い切った綾乃の江木に対する思慕の念も、「モ・クシュラ」だった。

検事と綾乃との尊厳死に対する攻防戦を後半に設定した周防監督の狙いは、主治医でありながら喘息患者の江木に抱いた綾乃の女心を描き切ることであった。同僚の医師に失恋し自殺を試みるが未遂に終り、失意のどん底にあった綾乃を信頼する江木に心の癒しを求めた一人の女性として、彼が熱望した安楽死を叶える。

「その心は、水面に浮かぶ落花が、流水のままに流れていく晩秋の情景ですか。そのように勝手に決め込んでいる元気印さん、日米の映画監督に、モ・クシュラ、ですね」

ボケ封じ観音さまが、本稿を締めてくれました。

注記
11月17日、旧タイトル「ラブ・ストーリーは、落花流水がいい!!」を変更しました。
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千鳥足でつぶやく『 映画ばなし 』 その8:大滝 秀治の演技に涙した高倉 健

2012-10-27 14:56:23 | 映画
富山刑務所で定年を迎えた倉島 英二(高倉 健、以下、健さん)は、嘱託として木工専門の作業技官に雇用され3年目に入っていた。それまで地味だと信じてきた仕事を「あなたの転職ね」と自分のように喜び、刺激のない平凡な暮らしを「これこそが幸せ」といって微笑み、口下手という短所を「沈黙は金なのよ」と励ましてくれた愛妻・洋子(田中 裕子)との15年間の結婚生活は、洋子に取り付いた悪性リンパ腫に終止符を打たれてしまう。

癌による余命宣告をなされ、53歳を迎えた年に還らぬ人となった洋子は、自分の遺言をNPO法人遺言サポートに託していた。

それは2通の封書に入れられていた。
1通は、英二が受け取ったときに開封すること。洋子の遺言を英二に伝えた後、遺言サポートが投函するようにと言い残していた2通目は、長崎県平戸市鏡川町薄香(かがみがわちょう・うすか)郵便局留めになっている。

ハガキ大の1通目の遺言書には、中央下に描かれている燈台を雀が左上側から見下ろしている図柄で、右上には「あなへ」。
燈台と雀の間の余白に、

わたしの遺骨は、故郷の海にまいてください

と記されていた。

2通目の局留め封書は、英二自身が引取らねばならず、その保管期日は12日間。
それを過ぎた封書はNPOに返送され、焼却処分にする、と遺言サポートの担当者は英二に説明する。否応なく、富山から平戸までの1,200kmをドライブする羽目に追い込まれる英二。

木工が手職の英二は、癌と闘う洋子が元気になったら一緒にドライブすると約束していた。
改造途中のキャンピングカーを仕上げた英二は、洋子の骨壺を助手席に据え、平戸への一人旅が始まる。

飛騨高山、琵琶湖から竹田城址(朝来市・あさぎし)、広島を経て平戸市までの旅程で英二が出会う人たちは、「わけあり」を肩に背負った人物ばかり。

出家得度した俳人・種田 山頭火(たねだ・さんとうか)に心酔している杉野 輝夫(ビートたけし)とは、夕日が美しい琵琶湖畔のキャンピング場で「旅」と「放浪」の違いに話が弾み門司港で再会、北海道の駅弁「イカめし」の店頭販売をしている田宮 祐司(草薙 剛)と南原 慎一(佐藤 浩市)のイカめし作りの手伝いをする関りのなかから湧き出してくる心境の変化を噛締めながら英二は、目的地へひた走る。



さて、「あなたえ」のプログラムに高倉 健出演・全204作品が掲載されているので、205作品目が「あなたえ」になる。
この204作品リストを眺めていて、昭和31(1956)年、「電光空手打ち」で銀幕デビューしてから平成24(2012)年の「あなたへ」まで、健さんの俳優生活56年間を3っつの時期に分けてみた。

健さんが、1.俳優として修業する、2.スタートして主役を張る、3.独立して映画作りをする、3期に区切って整理してみます。

まず、俳優として修業する時期は、昭和31(1956)年から昭和38(1963)年までの7年間。
健さんが、東映第2期ニューフェイスとして東映に入社してから、「人生劇場 飛車角」へ出演するまでの期間に相当します。

この間に出演した映画作品は90作あり、主演したのは33本。年平均13作品に出演している割に主演本数は36%強です。デビュー2年間では出演21作品、主演11本の52%強あるから、快調に修業時代を滑り出している。毎月2本弱の映画に出演しているのが、この時期の特徴です。

それは、この時期に映画産業は、第二黄金期を迎えていたからです。
昭和33(1958)年に製作された映画作品は504本、入場者数は12億2,750万人と最高潮に達します。興行収入も同様で724億3,600百万円です。
ちなみに、昭和33年の入場料は平均64円、翌年の65円以降は、72円、85円と値上げされ4年後には115円という具合です。入場者減少による採算確保対策が値上げの原因でしょう。従って、年度別興行収入の比較はできないので、最盛期の興行収入のみ紹介します。。

映画産業の最盛期には、松竹、東宝、大映、東宝、日活の5社が、新作を毎週2作品、年間で50週公開し、日本映画の製作本数が年間500本を超え、各撮影所は活況を呈していた時期が、昭和31年から昭和36年です。

健さんが銀幕デビューした年の東映は、松竹を抜いて業界第1位の業績を挙げて、その4年後に製作本数シエア50%を目指し第2東映を立上げます。昭和29(1954)年度に東映が製作した103作品は、当時の世界一本数ですから、その勢いに乗っていたのです。つまり、健さんはその真只中で俳優修行をしていたんです。

余談です。
この時期に健さんが共演した東映のスターに片岡 千恵蔵と美空 ひばりがいます。
映画会社として後発になる東映の設立に関わり取締役に就任しても、「時代劇の東映」の屋台骨を支える重役スター千恵蔵とは「七つの顔を持つ男」シリーズなどで9作品共演しています。千恵蔵は、重役でありながらも年間10作品で主役を演じていたようで、駆出し中の健さんが13本撮っても当たり前だった。

一方、松竹で嵐 寛寿郎(以下、アラカン)の「鞍馬天狗」シリーズで杉作役などを含めた持ち役がありスターとしての地位を固めていたからでしょうか、自分のプロダクションを設立して、昭和33年に東映と専属契約を結んだ美空 ひばりの「べらんめえ芸者」シリーズなどで16作品に共演していますが、スターシステムで映画作りをする東映では、主役を演じる作品に恵まれない境遇が窺える健さんの修業時代です。

また、時代劇に飽きて入場者数が激減するこの時期、時代劇やギャング路線からの切り替えを東映は模索し出します。映画製作本数も昭和38(1963)年には357本、入場者数も5億1,100万人まで落ち込んでいたのです。第二黄金期を迎えていた映画産業も、昭和33年度末に200万弱台のテレビが倍々ゲームで普及し3年後に1千万台を超える普及率になる速度には勝てず、映画産業の衰退が既に始まっていた。

そこで、東映東京大泉撮影所長に就任した岡田 茂は一発勝負を賭けます。
これまでに青成 瓢吉を主人公にして何度も映画化され好評を博していた「人生劇場」を、ヤクザの飛車角を主人公に据えたそれの製作を強行したのです。

そうして、昭和38年に封切られた「人生劇場 飛車角」は、この年の6位にランクされる興行成績2億8,800万円も稼いだのです。
しかも、東宝から引き抜いて以来パッとしなかった鶴田 浩二を主役の飛車角に、修業時代とはいえデビュー7年目、齢31を迎える中堅どころになっても燻っていた健さんを、若い任侠・宮川役に抜擢しての大成功でした。

ちなみに、この年の興行収入のトップは、「天国と地獄」(東宝 監督:黒澤 明)で4億6,020万円、5位「宮本武蔵 般若坂の決闘」(東映 監督:内田 叶夢)が3億241万円、健さんが千恵蔵と共演した「裏切り者は地獄だぜ」(東映 監督:小沢 茂弘)は9位で2億7,912万円です。

この成功に手応えを感じた岡田 茂は、東映の映画製作路線を時代劇から任侠映画へシフトします。
東映仁侠映画路線のスタートとなる「日本任侠伝」シリーズ第1作の製作が開始されたのが、昭和39(1964)年。宮川役で注目を集めた健さんは、主役・辰巳の長吉を演じて、ここからスターの第一歩を踏み出します。これが、健さんの修業時代を昭和31年から38年にした根拠です。

ここから、健さんが東映のスターとして主役を張る時代の話です。
昭和39(1964)年、健さんが東映から独立する昭和50(1975)年迄が対象になります。
この11年間に93作品、出演作品は年間8本強に激減しているが、出演作品の63%強を主演作が占めている。この間に公開された任侠シリーズは、日本任侠客伝11作品、昭和残侠伝9作品、網走番外地18作品あり、主役を演じた任侠シリーズの成果が表れた時代なのです。

このブログを書いている最中に、面白いデータを見付けました。
「キネマ旬報ベスト・テン 85回全史 1924→2011」に、年度別興行収入ベスト10のランキングが掲載されています。

日本侠客伝( 2作品)  4億9,310万円
網走番外地(10作品)  22億6,765万円
昭和残侠伝( 1作品)  2億円

健さんが主演した上記任侠シリーズの稼ぎ頭は、「網走番外地」。
毎年併行して製作・公開されたこれらのシリーズで、網走番外地シリーズが18作品も撮られたことがこのデータから解った次第です。18作品中10本が興行収入ベストテンに入っているのは、それだけ観客に受けた証ですから。なお、1億円弱の興行収入があった任侠シリーズ作品もありますが、ランク外なので集計から除外しました。

ところで、網走番外地シリーズには、八人殺しの鬼寅という、強烈な印象を受ける脇役がいます。
映画の先達・日活時代から時代劇スターとして君臨したアラカン、極め付きの十八番「鞍馬天狗」と「右門捕物帳」を持っていたアラカンが、網走番外地の主役・橘 真一の脇を固めている。
この鬼寅は、映画史に残る名キャラクターとも言われており、番外地シリーズの高い興行収入をアラカンが稼ぐ要因になっていることは、否定できませんね。第1作をレンタルDVDで観て、昔取った杵柄に裏打ちされたアラカンの貫禄というか、スター・アラカンを彷彿とさせる、その存在感に圧倒されてしまった。
「男はつらいよ・寅次郎と殿様」(第19作:昭和55年公開)では、殿様役に出演しているので、お馴染みのフアンも多いことでしょう。

東映スターとしての地位を固めた当時の健さんとのインタビューが「日本映画俳優史 男優編」(猪俣勝人・田山力哉共著:現代教養文庫 初版第17刷)に掲載されているので、引用します。

「ぼくも前にはサラリーマンの役をやらされましたが、やはりピッタリしなかったような気がしますね。ああいう安定した会社員などより、ギリギリに追いつめられ、社会から外された人間のほうが似合うらしい。これはどういうわけですか・・・やっぱり「網走番外地」が成功したということですか。そういう点で、石井 輝男監督が今日のぼくを作ってくれたといえるかもしれない」(同書183頁)。石井 輝男は、新網走番外地シリーズを除く同シリーズの10作品を監督している。

こうして彼の役どころを見ればわかる通り、任侠路線時代の東映で、高倉 健は実にサマになるスターであった。それだけに仁侠映画がようやく観客に飽きられ、実録やくざの時代が来た時、東映のエースの座を菅原 文太にゆずり渡すことになり、彼はやや宙に浮く存在になったのである。(同上186頁)

最後は、このような状況にあった健さんが、東映から独立してから今日までになります。
東映から独立した昭和51(1976)年から平成24(2012)年までの36年間では22作品しか撮っておらず、年平均2本弱にしかならない。勿論、その全作品は健さんの主演映画です。

これまでの俳優生活56年間(昭和31年~平成24年)における年平均出演作品は、3.7本。決して少ない本数ではないでしょう。

「君よ憤怒の河を渉れ」(監督:佐藤 純弥)などで大いに頑張っているが、いまひとつ本領を発揮していない。この時期(昭和52年)に「八甲田山」(監督:森谷 司郎)に出演、山田 洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」に出演が決まるなど、大いに意欲的なところをみせているが、今が曲がり角にさしかかっているところだ。フアンとして健闘を祈りたい。
なお私生活では江利 チエミと離婚してから独身を続けている。ほとんど女性関係のゴシップなども出ないところは真面目というべきなのだろうか。(同上)

引用した男優編は、昭和52(1977)年11月15日に初版が刊行されているので、健さんの評価は同じ時期の状態と見て良い。

また、東映独立以降の健さんは、作品の内容、スタッフ、ギャラなど自分が本当に納得できる作品を選んで出演しているようです。

余計なテクニックを廃し、最小限の言葉で演じる人物の心に込み上げるその瞬間の心情を表す台詞、動きを表現する芝居を真骨頂とし、基本的に本番は1テイクしか撮らせないのは、

「より厳しい状況に身を置いて、役者としての自分を磨くこと」「映画はそのときによぎる本物の心情を表現するもの。同じ芝居を何度も演じることは僕にはできない」

とする健さんの役者哲学によるもの。

なにはともあれ、東映を独立してからの主演映画の成果は、既にご存知の方が沢山おられるはずです。
「八甲田山」の徳島大尉の演技で、ブルーリボン賞主演男優賞。「幸せの黄色いハンカチ」の島 勇作では、第1回日本アカデミー賞 最優秀男優賞を受賞、併せてブルーリボン賞主演男優賞に耀く。

これ以降も、「動乱」「遥かなる山の呼び声」「駅STATION」「あ・うん」、そして「四十七人の刺客」と「鉄道員(ぽっぽや)」で日本アカデミー賞 最優秀男優賞を受賞する。さらに「鉄道員(ぽっぽや)」では、ブルーリボン賞 主演男優賞を併せて受賞し、俳優・高倉 健としての名声は揺るぎないものになった。健さんは、映画専門(脚本と映画評論)家の期待に応えたのです。

話は「あなたへ」に戻します。
健さんの出演した映画リストを眺めたことで、千鳥足に運ばれっ放しになった話に迷い込み、やっとこさ、書きたいことを整理出来ました。長々の話にお付き合い下さり感謝感激です。

洋子の遺骨を海に撒く漁船を出す老漁師・大浦 吾郎(大滝 秀治)と英二とが船上で交わすシーンがあります。

『このあたりでよかろう。わしの家族も海の底で眠っている』と言って吾郎は船を止める。

『今日の海は、優しいかね。奥さんも喜んでおるじゃろ』

洋子の遺骨を海へ撒き終えた英二に、花束を差し出す吾朗。それを受け取り海へ落とす英二。

小説「あなたへ」では、この情景を次のように表現している。

「荒れた海に出漁した卓也の両親は7年前にここで遭難し、奈緒子の父(南原)も同じ年に遭難している。毎年、それぞれの親の命日になると、卓也と奈緒子はじっちゃん(吾郎)の船で沖へ出て、献花と合掌を繰り返している。二人にとって、この静かで美しい海は、漁場であると同時に墓場でもあった」(森沢明夫著:あなたへ 69ページ)。

洋子の遺骨を海へ撒く英二の姿に、この場所で毎年息子たちと家族を慰霊する老漁師・吾朗の心情が重なっていると感じます。吾郎のふた言の台詞と花束を英二に差し出す行為がそれを物語っている。

散骨を終えた漁船が薄香に帰港した際、英二が謝礼の入った封筒を吾郎に差し出す。

『卓也(三浦 貴大)、お前が貰っておけ』と甥っ子に指示する吾郎。

『こんなに綺麗な海は、久し振りじゃった』と、笑顔で英二に胸の内を打ち明ける吾郎。



この台詞を聴いて健さんは涙したと告白している。気が乗らないと台詞を言わない健さんには、この台詞の中に監督の想いもライターの想いも全部入っていることが解っていた。この台詞に込められた意味を監督に念を押していた大滝さんを見ていたので、久し振りに美しい海を見た、と吾郎が言った瞬間、英二は感に詰まったのです。

脇役がしっかりしている映画は締る、とは良く聞きます。
英二の散骨に協力する渋い吾郎を演じた大滝さんは、10月2日に他界してしまった。
鬼寅でスターの貫禄を振りまいたアラカン同様、渋くて人情味あふれる老漁師・吾郎を演じた大滝さんには、もう、レンタルDVDでしか逢えない。

「そんなガラガラ声は使わない」と劇団民芸の創立者・俳優・演出家の宇野 重吉 に言われた大滝さんは、その声を努力の末に味わいに変えた、と逝去を伝える新聞で読んだ。

東映のニューフェイスに合格はしたものの、健さんも同じような体験をしている。
映画デビュー前にニューフェイスたちは、俳優座研究所で6か月、さらにエキストラ出演などで6か月の修業期間を得なければならないのです。俳優座養成所に委託研究生として入所した健さんが自己紹介をした途端、

「小田君(健さんの本名)、挨拶はいいから、まずパントマイムをやってみなさい」

周囲がすべて壁で囲まれている場所で火災にあった男をパントマイムで表現するように指示が出されても、素人だから「すみません。できません」と正直にいった。

「小田くんは俳優を目指して稽古にきているのに、できませんとは何事かね」

と健さんだけ怒られたことを告白しています(文・構成:野地秩嘉 高倉健インタビュー)

大滝さん、健さんは俳優としてスタートする際、共に順調ではなかった。そんな二人が名優として俳優人生を生き抜いていることに、元気印は感嘆しています。

洋子が遺言に託した本心を英二が心底から理解する話で本稿を終りにします。

薄香郵便局留めの遺書に描かれていたのは、灯台を眼下にして大空に舞い上がる雀が描かれ、「さようなら」のメッセージを書き添えただけの絵手紙。

2通目の絵手紙に描かれた風景が見える丘に立った英二が、洋子が遺言として残した2通の絵手紙を空中に放り投げた英二は、「さようなら」に書き込めた洋子の心に触れて、愛妻の散骨に踏み切り、彼女亡き後の自らの人生を選択します。

映画は、自分の意思に従って人生を生き抜こうと歩みだした英二を追って、大円団へ向かいます。
薄香漁港で女手ひとつで食堂を切り盛りしている濱崎 多恵子(余 喜美子)と奈緒子(綾瀬 はるか)が過ごしている何の変哲もない日常生活との触れ合いから、下関港に南原を呼び出す英二は、これまでとは違った行動を起こします。

洋子に託された人生を生き抜こうと決断してからの英二の生き様の味付けは、吟味どころです!!
中華料理か日本料理、あるいはフランス料理かイタリア料理なのか・・・。映画を観てのお楽しみに残します。



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浜離宮恩賜庭園 その1:センチュリー・プラントの先触れ?

2012-08-31 18:07:51 | 四季折々の風景
センチュリー・プラントに纏わる話は、恩賜庭園はひとつしかない、との思い込みから始まりました。
話を進める前に、センチュリー・プラントについて書きます。

アオノ・リュウゼツラン(青の龍舌蘭)は、センチュリー・プラント( Century Plant )の英名があるほど開花が遅く、温帯では滅多に花が咲かないので100年も掛かる、との意味でこの英名がある。熱帯では10年もすると開花し、木質の茎と硬くて厚い多肉質の葉という栄養器官を有することを特徴とするリュウゼツラン科に属している(朝日百科 世界の植物 他)。

そのアオノ・リュウゼツランが10年振りに開花した、との新聞記事を読み、何度か訪れている芝離宮恩賜庭園へ向かいます。



8月15日、靖国神社への参拝を済ませ、JR浜松町駅から芝離宮恩賜庭園へ向かい、アオノ・リュウゼツランの所在を受付の女性に尋ねます。

「それは、浜離宮恩賜庭園にあります。ここから徒歩でおおよそ15分くらいです」

猛暑の昼下がり、アスファルトで舗装された歩道を汗だくになっての15分は、42kmのフルマラソンを完走するくらい長く、10年振りに開花したアオノ・リュウゼツランの新聞記事を読み写真を撮ろうと決めた経緯を炙り出し、その軽率な判断を額から流れてくる塩味の濃い汗で洗濯する15分でもあったのです。

そもそも、アオノ・リュウゼツランが開花した庭園名を確認すべく8月14日の朝刊を探しても何処にも見当たらないのに、浜松町の芝離宮恩賜庭園と判断したことが、ことの始めだと、文句を言う相手もいない。汐留川沿いに中の御門入口まで炎天下の歩道を黙々と歩くしかないのでした。

「浜松町にある事務所へ20年以上も通勤していたのに、恩賜庭園がふたつあったことを知らなかった。それが、炎天下の歩道を歩く羽目に陥れただけ。そうでしょう、元気印さん」

耳が痛いボケ封じ観音さまの囁きです。

さて、浜離宮恩賜庭園は、浜松町から行くと「中の御門口」から庭園へ入りますが、新橋駅からだと「大手門口」になります。新橋駅から大手門口へ向かう方が、新橋駅周辺の変貌を見聞する楽しみがあります。
今回は逆ルートでしたが、日テレタワーや汐留シティーセンターなどに立ち寄り流行の一端に触れる機会に恵まれました。時間に余裕を持たせて散歩気分でこのエリアを通るだけで、その時々に開催されるイベントに出会うなど、思わぬ余禄がありそうです。

人、ヒト、ひとで賑わうエリアを抜け地上に出てからも、周辺の風景を楽しめます。
年代に浸ることを誘う南門橋。築地川に架かるこの橋の先が浜離宮恩賜庭園です。



南門橋の左側には、近代ビルと屋形船とが違和感もなく混在する築地川の風景が佇んでいます。



南門橋を渡り切ると大手門口が視界に飛び込んできます。



庭園案内平面図、アオノ・リュウゼツラン、早蒔きのキバナコスモスを紹介した案内板を一読して入園券売り場へ・・・。65歳以上のシニアは、半額の150円で入園できますが、ここは年齢を証明するものがないと300円です。ロンドン、ニュヨークなどでは、受付でその旨説明すると、元気印の顔を一瞥しただけでOK。日本は、風貌だけで年齢を判断しないところが多いので要注意です。こういう時だけ性悪説になるようですから・・・。



お目当てが「お花畑」にあることを受付で確かめ、一目散に直行します。
アオノ・リュウゼツランの説明板から、前回は平成13年に開花したことが分かります。



とげのある多肉質の長い葉が放射状についた株の中心から伸びている花茎(手前が右側のもの)。



花茎の左側から撮った写真。



花茎から出ている蕾の塊(写真右のラン)。



蕾が成熟し黄色の長い雄しべが上向きに飛び出しています(写真左のラン)。



一通り撮影を終えて帰宅する際に、今年以前の開花情報をお尋ねしましたが、記録がないので不明。また、誰が何時頃移植したのか等の基本情報はないようです。米軍人が占領時代に植えた、日本人が持ち込んだなど諸説があって、それらの根拠は検証されていない模様でした。

余談になります。
平成13年は西暦2001年、21世紀が始まった年。そして、アメリカ同時多発テロ事件が9月11日に勃発しました。年表を眺めていて興味を引いたのは、1月1日にギリシャがユーローを導入したこと。ユーロー圏の金融危機解決に向かって全世界が知恵を絞っている今日の姿を誰が予測したでしょうか。

芽生えてから開花するまでに、長いものでは100年かかると言われ「センチュリー・プラント」の英語名を付けられた、アメリカ大陸に分布しているリュウゼツラン。
「1世紀の植物」が開花する時は、人知の及ぶところではない、何かよからぬ事態が人の世に起こる前兆なのかと、予察したくなります。



見事に咲いているアオノ・リュウゼツラン。
開花後、株は枯死して消滅する1回結実性の植物なので、別の場所から新しい芽を出して人の目を楽しませてくれる。それが何時になるかは予測できないと、多肉質の葉を切断していた管理人が教えてくれたのです。浜離宮恩賜庭園のアオノ・リュウゼツランとの再会は、早くて10年後の平成34(2022)年7~8月でしょうか。

その時、「センチュリー・プラント」が予告する天地異変が起こらないよう祈念ですね。
奇しくも、昨年3月11日、日本は東日本大震災に見舞われました。10年前の1月26日、マグニチュード7.7規模の大地震がインド西部のグジャラート州に発生、死者2万人、負傷者数16万6千人とインド政府は発表。11月17日頃には、極大を迎えたしし座流星群が出現しています。
他方今年は、金星が主役を演じた「金環日食」「金星日面経過」、そして「金星食」がありました。
この庭園のアオノ・リュウゼツランが咲いた10年前の状況と重ね合わせると、天地異変の先触れではなかったか?
なにはともあれ、気にかかる符号ですね。

「そのような素人判断は、下手な考え、休むに似たり。熱帯夜が続き寝不足していますね」

ボケ封じ観音さまの世界に地震などの異変現象はないはず・・・!?。敢えてここは、馬の耳に東風を吹かせます。

ブログを最後まで読んでくれたくれた方への話題提供です。
浜離宮恩賜公園以外にリュウゼツランを植栽している所がないかと調べた結果を紹介します。

A.東京都立夢の島熱帯植物園 
昭和63(1988)年に開園したが、平成18(2006)年4月から日比谷アメニス夢の島グループで管理するように変更となった。
平成19、20、22年7月にアオノ・リュウゼツランが咲いた記録は残っている。それ以前の記録がないので、来歴なども含めた詳細は分からない。
 
B.藤沢市江ノ島 サムエル・コッキング苑 
1. 横浜在住のアイルランド人貿易商サムエル・コッキングが、明治15(1882)年に開園した、日本で3番目に古い植物園。
2. 別荘の向いに江ノ島神社の所有地があり、江ノ島頂上部の土地3,200坪余を購入し、和洋折衷の大庭園の造築を開始し、3年後に完成した熱帯植物園。
3.大正12(1923)年9月1日に起きた関東大震災等で温室の上屋は全て倒壊したが、煉瓦を主体にした基礎部分や地下に造られた施設は、温室遺構として現存している。煉瓦造りの温室遺構としては、現存する唯一のものとされ、明治中期に造られた文化遺産として貴重なものと言われている。
4. 3~40年前に植えたアオノ・リュウゼツランが開花したのは、平成17、20、23、24年7月。それ以前の開花情況などは、記録がないので分からない。
5.サムエル・コッキングがアオノ・リュウゼツランを植栽したのか、彼の遺族が植栽したのかなど、その来歴は分からない。

C.国立科学博物館 筑波実験植物園 
1.日本国立科学博物館の1研究部門として、日本の先駆的な植物の研究を行う研究機関のひとつ。昭和53(1983)年10月開園。 
2.中日本(日本の中央部)の維管束植物、東アジアのシダ、ソテツ、サトイモ類、南アメリカのラン科植物を重点的に収集している。
5. 世界に300種ほどあるリユウゼツランのうち15種を植栽しているが、昭和61(1986)年から栽培しているサケリュウゼツが平成20(2008)年6月、22年後に初めて開花。この時、アオノ・リュウゼツラン、リュウゼツラン属の1種も初めて開花したが、その後、いずれも開花は見られない。

ここに掲載した3箇所の関係者には不躾な電話取材にも関わらず、丁寧なご協力を賜わり御礼申し上げます。有難うございました。








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家庭菜園で羽化したキアゲハ

2012-08-19 18:05:13 | 四季折々の風景
猛暑日が途切れなく続く今年の家庭菜園は、雑草を除草する戦いでもあり、その戦いは朝7時までに終えないと、熱中症に襲われる危険があります。

昨年、ナスと一緒に植えたニラを一ヶ所にまとめて植え替えた場所に雑草が繁り除草したのですが、元の木阿弥。やむなく8月19日、5時起きで除草作業を始めます。

午前と午後の2回にわか雨が降った8月18日。
収穫の終わったスイカ、カボチャを整理し、ニラを覆っている雑草退治に掛かります。

日本放送の「日本人の底力」を聴いている時でしたから5時半をまわったころです。
雨水で軟らかくなった土、泥まみれになった軍手でニラを避けて雑草を握りその根元を鎌で切ったのです。

翅を広げてニラに掴まっているキアゲハが目に飛び込んできます。
成長した蝶が雑草の中に潜むなんていうことは夢の世界でしょう。しかも、翅を広げたまま微動だにしません。沈黙を守ったままです。

キアゲハの様子を窺い、窺いし、残っている場所の除草を進め、その作業が終った6時過ぎも沈黙を守っています。陽光が強くなると飛び去ると思いながら帰宅し、シャワーを浴びてから家庭菜園へ向かいます。

予想に反せず、キアゲハの姿はありません。
キアゲハに出会ったとき、間を置かずカメラを撮りに帰宅すればと後悔です。
そのとき、羽化した場所の近くへキアゲハが戻ってきたのです。
翅を休めるために停まったキアゲハに接近しシャッターを切ります。見栄えのする撮影アングルを探り忍び寄ると飛び立ち、5から6m先の地這いキュウリに停まります。



一旦は撮影を断念したのですが、気持ちを入れ替えキュウリ畑のキアゲハを追います。
真上から撮るには距離があるので、横ポーズを狙って一枚。



カメラアングルを求めて更に接近すると飛び立ち、近くに下ります。

「ここまでお出で」

をしているようでした。背後から朝の散歩に来たチャッピーの鳴き声が聴こえてきます。
キアゲハとの交流を断念し、何時もの早朝散歩に戻ります。

さて、ウイキペディアのキアゲハ解説によると、

「キアゲハの蛹は、温かい時期にはおおよそ1週間で羽化する。晴れた日の朝方に、蛹の頭部と胸部の間が割れて這い出てきた成虫は、縮んだ翅に体液を送って伸ばし、体が固まると飛び立つ」

『先々週からニラの雑草が気になり除草作業をする積りでしたね。猛暑を良いことに昨日まで延ばした怠慢が、キアゲハと対面する幸運をもたらしてくれた。キアゲハの蛹は気がつかずに刈り取られた雑草と一緒に処分したでしょう。お互いに縁があった。違いますか、元気印さん』

なにはともあれ、羽化した直後のキアゲハを撮影する機会に恵まれた幸運を、それも偶然訪れた縁ですから、キアゲハが羽化する過程から推察しても、ボケ封じ観音さまの指摘に反論する根拠は見当たりません。

我が家庭菜園で羽化したキアゲハと、何処かで再会する楽しみが増えた早朝の除草作業でした。

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雀の親子 その1:平成の舌切り雀

2012-06-15 20:12:52 | 四季折々の風景
我が家の屋根に営みの場を設けたスズメの番のことは、積雪のあった翌日(24.1.26)に書きました。



 ♪♪
  すずめ すずめ
  お宿は どこだ
  チチチ チチチ
  こちらで ござる

首をすくめている番の宿は、中央の置くにある雨樋にあります。



写真の前下のベランダの外塀の上に角パンの耳を細かくして置いておくと、パン屑を見付けたあの夫婦スズメは、これ幸いに餌場に変えてしまいます。



「餌場を提供した元気印さんは、ほんの気まぐれでしょう。でも、突然出現した餌場をスズメの親子が、毎日の生活にどのように利用するかは、提供者の心がけ次第ですよ」

耳が痛いボケ封じ観音さまの忠告が聞こえてきます。

釈迦に説法です。スズメの繁殖時期は3月から8月頃といわれ、天敵から逃れる手段として、人が生活する傍で繁殖を行う反面、人に対する警戒心は一方ならず強く、ベランダに寄ってくる物好きスズメを見かけたことはありません。

さて、ベランダの外壁上のパン屑を見つけたのは、おそらく今年生まれの若スズメでしょう。オスかメスかの判別はできませんがピー太郎と命名します。そのピー太郎が先に飛んできて親が来るのを待っている。
そこへ、後を追うように飛来した母親、チュンコは、大き目のパン屑を銜えて、ピー太郎を見上げる。横目で母を見下ろすピー太郎。



粉末状にしたパン屑はチュンコが啄ばんでしまい、ピー太郎に与えないけども、塊状になっているそれは、わが子の食べ物として与えること、チュンコが先に餌場に来たときは「チュン」と一声、少し間を空けて「チュン」と鳴き、ピー太郎へ呼びかけることなどが、この親子の行動を観察して分かってきたのです。



ピー太郎にパン屑を与えたチュンコは、餌離れをしない息子がパン屑を食べ終わるのを待っているかのように窺えます。



  ♪♪
   おじいさん おいでなさい
   ごちそう いたしましょう
   お茶に お菓子
   おみやげ つづら

フランスの曲に歌詞をつけた「すずめのお宿」。
日本の昔話にある、すずめの恩返しをもじった歌詞のようです。

 「おみやげ つづらの歌詞からも、わかりますね。急ごしらえの餌場を作ったのは、下心があってのことですか?」

 「古稀を迎えた欲張り爺さんにでもなってみたい・・・な」

 「平成の舌切り雀も、面白いかも知れませんよ、元気印さん」

なにはともあれ、ベランダに設けた餌場で採餌する行動を繰り返したチュンコは、パン屑とは違う食べ物を探しに何処かへ飛んでいきます。

嘴にパン屑を覗かせているピー太郎は、母が飛び去った方向を暫く凝視していたのですが、意を決して、母親の後を追うように飛び去りました。



ところで、ピー太郎が、自分が生まれた巣のある雨樋へまっすぐに戻ることは極まれです。
餌場から巣の反対方向へ飛び立ち、時間を置いてから巣へ戻っている様ですが、その様子を観察したことはありません。

パン屑を餌にしてスズメを誘惑した元気印は、ベランダの餌場から飛び立ったピー太郎のあとを追いたいけれど山もない。
家庭菜園の近くにある林に「つづら」を隠す場所も見当たらない。
その前に、何を理由にしてピー太郎の舌を切るのか? それが問題だ。
 
 「平成の舌切り雀は、夢物語でよかったですね」

ボケ封じ観音さまは、今日も冴えています。




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月が演出した大宇宙の桧舞台、金環日食

2012-05-21 22:35:08 | 時の話題
国内で25年振りに観られる金環日食に期待を膨らませる人が、JAXA相模原キャンパスに集まっています。



キャンパスの室内に展示されている「はやぶさ」模型の背後にもその姿が窺えます。



6時頃には五月晴れだった空も、徒歩でキャンパスに着いた7時13分、金環日食の桧舞台は、雲の緞帳に遮られています。



月が演出する檜舞台を実況中継するJAXAスタッフの表情も曇りがちです。



7時25分、分厚い雲の切れ間に第2接触を迎えようとしている日食が姿を現したとき、世紀の一瞬を観察に訪れた約400人から一斉に歓声が沸き起こります。



それも、束の間のことでした。
曇天の空を蔽う雲の流れは速く、意地悪雲は桧舞台に幕を引き、地球上からの視野を遮るのです。



そんな状況の中で、地元の観察者に混じって外国人観測者は、月縁が太陽の輪郭の内部に完全に含まれる瞬間、食甚(しょくじん)を狙っています。



5月20日、減光フィルターを購入するためヨドバシカメラに立ち寄ったのですが、19日に入荷したフィルターは完売し在庫なし。そんな事情もあって、食甚の撮影を諦めた元気印。しかし、第2接触は、陽光を減光する雲のお陰で無事撮れました。モノクロの食甚には、滋味があります。

「負け惜しみ半分、本音半分ですね。元気印さん」



見事なリングの後ろから聴こえてくる、ボケ封じ観音さまの呟き。7時34分のことです。

負け惜しみ半分の心境で強がっていると、実況中継しているJAXAスタッフのモニターに映された月の桧舞台が目に留まり、その映像を拝借します。



狙い通りの撮影に成功したであろう外国人取材スタッフは、ノートPCのキーを叩き記事を送信している様子が窺えます。
桧舞台を観に来た人へインタビューしていたのが、右端でマイクを持っている女性。

「元気印さんもインタビューを受けましたね」



一番奥に見えるのは、JAXA相模原キャンパスに野外展示されているロケット。
世界最大の能力を有する個体燃料ロケットM-V2ロケットの実物(右)とM-3S2ロケットの原寸模型(左)です。





雲の切れ目から垣間見える日食は、ブラックホールを連想させ、M-V2ロケットに乗って、探索に行きたくなります。
五月晴れの空に観る桧舞台より、気まぐれ雲の切れ間に観えるそれの方が、神秘的で想像力を膨らませてくれます。



なにはともあれ、通常よりも登校時間をはやめた、JAXA相模原キャンパスの間近にある小学校では、体育館に設けた大きなモニターに金環日食の進行状況を映して、それをJAXAの専門家が解説する力の入れようでした。



JR横浜線「淵野辺駅」の改札口正面に設けてある看板からも、『はやぶさの故郷』を実感させられます。





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雲海が明かす竜巻注意情報の残骸

2012-05-11 15:41:01 | 時の話題
5月7日、ANA905便で成田を発ち、10日のANA906便で北京から帰国しました。
北京市内とその周辺都市にある大学などを訪問するグループの撮影班員として同行した2.5日間の現地は、乾燥した空気と気温26度以上の環境でした。

北京のホテル・北京宝辰飯店(HOWARD JOHNSON PARAGON HOTEL BEIJING)でチエック・インを済ませたメンバーは、訪問先が用意してくれたミニバンで承徳市(しょうとくし)へ・・・。

北京市の北東に位置する承徳市まで230kmの道のりです。
北京市郊外から高速道路に入ったミニバンは、時速100kmを保持して承徳市内のホテルへ直進します。
盛華大酒店(SHENG HUA HOTEL)へ到着したのが20時近く、日本時間では21時。

ちなみに、ガイドブック情報では、北京から承徳への交通アクセスは、鉄道とバスがあります。
北京始発の承徳行き鉄道列車は、始発の3列車を含めて5本しかありません。快速で4時間26分の所要時間とあります。
では、バスの利用を考えますが、30分に1本、所要時間は約3時間。料金は85元。

成田空港内の銀行で円から元に換える交換レートは14.57円ですが、北京でのそれは12円のようです。バス料金85元は1,020円。日本で230kmの距離を1,020円で運行する長距離バスがあるかどうかは不詳ですが、超々格安運賃の部類でしょう。
身近な例で恐縮ですが、千葉市内から東京駅八重洲口までの高速バス料金が1,100円、距離53kmを80分で運行していますから、230kmを1,020円(85元)で運行するバス会社は日本では皆無でしょう。

このような北京の交通事情を配慮して、ミニバンを手配してくれました。
それにしても、北京を出てからおおよそ3時間40分の間、トイレ休憩も無くミニバスは走る、ただ、はしる、荒涼とした大地を貫く高速道路をひたすら走り続けるのでした。

とはいうものの、承徳市へ着く1時間20分ほど前でしょうか、名も知らぬ山並みの稜線に沈んでゆく太陽が、ミニバンの進行方向左側に観えます。沈黙に包まれたバスの車内が、賑やかさを取り戻した一時でした。



ところで、愛清覚羅(あいしんかくら)氏が中国を統一して打ち立てた清朝は、第3代皇帝・康熙帝(こうきてい)、第4代皇帝・雍正帝(ようせいてい)、第5代皇帝・乾隆帝(けんりゅうてい)の3代に最盛期を迎えています。康熙帝は、1703(元禄16)年、熱河離宮「避暑山荘(ひしょさんそう)」の造営を命じ、雍正帝、乾隆帝へと引き継がれ、1790(寛政2)年に完成しています。

総面積564万平方メートルの敷地内に110余の建物が現存するこの山荘は、中国の皇宮では最大のスケールを誇り、避暑山荘の東と北の山麓に建立した12カ所の名刹群「外八廟(そとはちびょう)」も3代の時代に建立されています。ガイドブックの受け売りですが、興味津津な話ですよ。

そのような清朝皇帝の遺跡を守っている承徳(チョントー)市は、燕山(イエンシャン)山脈の一角に位置するために、避暑地として絶好の場所にあります。バスから観た光景は、燕山山脈を形成する山群に沈む太陽だった。

余談になりますが、清朝と聞けば、ラストエンペラー溥儀(ふぎ)をご存知の方も多いでしょう。
そんな清朝に縁の深い皇帝の宮を守っている所が、承徳市だったのです。このような時代背景は、帰国してからの情報収集で解ったことです。しかし、今回の訪問では観光に割く時間的な余裕は絶無でしたから、再訪したい願望だけが残っています。
元気印には、日本との関わりが思いつかない北京よりも見応えがある。


さて、ANA906便は、北京空港を5月10日14時15分、定刻に離陸し成田へ向かいます。
成田空港へ着陸する60分ほど前でしょうか、進行方向左窓を眺めると雲海が広がっています。
いつもなら、真っ白い雲なのですが、地上から見上げる雲は、雨雲でしょうか。おそらく、大雨が降っていたはずです。

5月10日午後6時.14分に撮った雲海。



同じような雲海が平行しています。



2枚の写真を撮ってから8分成田方向へ飛んだ時の雲で、茨城県の一部でしょうか、雲の下には陸地が観えます。



さらに5分飛んだ時の空は、地上から観ると夕焼けに映え、明日は快晴だな、と自分勝手な天気予報をしたはずです。



成田空港へ着陸した時は、滑走路が濡れていたので低気圧が通過した跡だけでした。

11日の朝刊を読み、気象庁が茨城、栃木両県を含む1都8県に「竜巻注意情報」を発表するまでに追い込んだ残骸が、機内で見た雲海なのかも知れませんね。

気になる話題です。
北京で発行されている5月9日発行のタブロイド紙「GLOBAL TIMES」の14面、FORUM EYE ON THE NEWS に掲載されていた戯画が気になります。





記事との関連を風刺しているのでしょうが、なんらかの資金援助を日本は喜んで行うことを表す戯画なのかは、記事を読んで理解しなければ判断できません。日本人としては、気になる戯画です。























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菜の花畑を走るキハ200型気動車(小湊鐵道)

2012-04-27 15:45:59 | 散策
養老渓谷駅を発ち終着の上総中野駅へ向かうキハ200型気動車は、昭和36(1961)年から導入され、昭和52(1977)年迄の16年間に、総計14両が日本車両製造株式会社で製造されている。



昭和36年から製造された車両は、キハ201から214の車番を持ち、製造年も分かるけれども、鉄道マニアからはかけ離れたところにいる元気印には、写真の気動車の車両番号は判断できません。

上総大久保駅から芋原の手掘トンネルを通り養老渓谷へ抜ける山道の途中には、ヘリコプターから展望する菜の花畑とされるビューポイントがある。ヘリコプター展望台といっても、花畑側の樹木を伐採し菜の花が見晴らせるようにしてある、山道を登る途中に設けられた場所でした。

そこへ、4月21日の昼ごろ散策で訪れた時には、二人のカメラマンが菜の花畑を通り抜けるキハ200型気動車を待ち構えていた。1時間に1回しかないチャンスを待っているとの話を聴いて、驚き桃の木山椒の木。

しかも、この気動車は15分近く遅れていたのにもかかわらず、通過する時に汽笛を鳴らすのでチャンスを逃すことは無い。
その平然とした佇まいに、一刻も早く休憩して昼食を摂りたい元気印も圧倒され、沈黙を守るしか術はありませんでした。
辛抱強く気動車の通過を待ち続けていたカメラマンは、養老渓谷を発つときに鳴らすキハ200型気動車の汽笛で、菜の花畑を通る気動車の気配を察していたのです。最初に掲載した写真は、この散策の終着点で出逢った気動車、菜の花畑を横切るキハ200型気動車を撮った後なので、それが解ったのです。

痺れをきらして、待ちに待った気動車が、養老渓谷駅を発車し、左側から進行してきます。



この気動車のショットが気に入らなければ、15分後に上総中野を引き返す上り気動車が通過するので、シャッターチャンスを待つと、笑顔で解説するカメラマン。2012中房総の小さな旅シンポジュームのひとつである「新緑の養老渓谷を歩く」に参加した30数名全員が脱帽した次第。

小湊鐵道の周りに作られた『石神なの花畑』は、放置されたまま荒廃していた田圃の手入れをして種を蒔き育てた菜の花が咲き誇っている花畑です。水を張ってある所は、畑に作り上げる途中の田圃で、来年には菜の花畑に変身するようです。

この展望台を後にして山道を降り養老渓谷駅へ向かいます。
熊野神社を過ぎ養老渓谷を跨ぐ「御里津橋」を経ると国道32号線にでます。
橋から眺めた養老渓谷。写真左上が養老渓谷駅の方向になります。



渓谷の深さを実感する迫力がありました。

橋を渡って国道へ出る直前、ヘリコプターから眺めたような花畑が展望できることが謳い文句の「ヘリコプター展望台」で、上りのキハ200型気動車が15分後に花畑を横断するとカメラマンが言っていたその気動車が通通過する音が、御里津橋まで聴こえたのです。
この時点では、キハ型気動車より養老渓谷に気をとられており、通過音を聴いても写真を撮るには間に合わず、歯軋りするだけでしたが・・・。それなりの目的を持ってシャッターチャンスを待たなければ、良い写真は得られないですね。


国道32号線沿いには、ミツバツツジに囲まれた民家を映す田圃の風景などがあり、スナップ撮りに追われます。





石神なの花畑で昼食休憩。
ヘリコプター展望台から眺めていた小湊鐡道が、花畑を横断しています。



キハ200型気動車が、ここを走る写真が撮りたかったのですが、あいにく、時間が会わずすれ違いになりました。
花畑の右側奥にヘリコプター展望台が見え、花畑を通過する気動車を狙っているカメラマンらしき影が一瞬目に入ったのですが、三々五々に散らばって昼食を摂る人の姿が邪魔をするので、移動した様子。

カメラマンの心情は、痛いほど伝わってきます。
しかし、ここで主催者に場所を換えるように言い出す勇気は持ち合わせていない元気印です。
そこが問題なんです。菜の花畑を横断する写真をとる前、軽トラックが踏み切り前に駐車した際は、

 「糞ッたれ、邪魔スンナ!!。早くどけろ」

これが、カメラマンもどき元気印の心境でした。この時は、軽トラックと同じ役割を演じているにも拘らず・・・。

ここから養老渓谷駅までは、15分くらいです。
養老渓谷駅前にある足湯に浸かっていた、「新緑の養老渓谷を歩く」に参加したシニアの女性は、

『1万5000歩も歩いたけれど、ここで足を暖めたので、疲れが和らぎました』





ほど良い湯加減の足湯に浸っていると眠気に襲われます。散策の仕上げにはもってこいのゴールでした。

里見八犬伝に縁のある「寶林寺(ほうりんじ)」が、養老渓谷駅から徒歩で数分の所にあります。
住職さんからは、里見家の来歴、伏姫のモデルとされる種姫の話を聴きましたが、それは別の機会にします。



























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千鳥足でつぶやく『映画ばなし』 その7 :神さまも見守った「はやぶさ」のど根性

2012-03-02 16:08:51 | 映画
7年間にも及ぶ宇宙の大冒険に耐え抜いた「はやぶさ」の総航続距離は、60億kmを超えました。
そして、地球から約3億3,000万kmも彼方の宇宙空間で、通信途絶したまま迷子になった「はやぶさ」に与えられた最後の使命は、地球へ帰還することではなく、大気圏へ突入時に生じる摩擦熱で燃え尽きる前に、地球の姿を観ることでした。

大気圏に再突入してから2時間後には焼失してしまう「はやぶさ」。
小惑星のサンプルを地球に持ち帰る「サンプルリターン」の技術を実証する使命を帯びた「工学実験探査機」を制御するために送信した数々の指令に対する反応は、失敗の連続でした。

 「間に合わなかったか・・・」

と、諦めていた「はやぶさ」の運用スタッフが、最後のデータをダウンロードします。
「はやぶさ」がその生涯を閉じる直前に撮影した地球の映像がモニターに映し出されたのです。「はやぶさ」は、最後の使命を成し遂げ、無言のまま焼失した。その写真は、JAXAの相模原キャンパスに展示してありました。



さて、大気の摩擦熱で焼失した「はやぶさ」の模型が、JAXAの相模原キャンパスに展示してあり、元気印は、「はやぶさ」の形見に出遭った思いでした。



「はやぶさ」プロジェクトの成功体験は、さまざまな社会現象を惹起しました。映画もその一端でしょう。先ず、口火を切ったのは、プラネタリュウム用CGプログラム「HAYABUSA BACK TO THE EARTH」。新宿の映画館まで足を運び、はやぶさの偉業を認識した次第です。



はやぶさ映画の嚆矢は、ポスター写真右端の「はやぶさ」(監督:堤 幸彦 脚本:白崎 博史 井上潔 出演:竹内 結子 西田 敏行 他)で、小惑星探査機「はやぶさ」の入門編になっている。







その次が今公開されている「はやぶさ 遥かなる帰還」(原作:山根 一眞・小惑星探査機 はやぶさの大冒険 監督:瀧本 智行 脚本:西岡 琢也 出演:渡辺 謙 江口 洋介 夏川 結衣 山崎努 他)。中央のポスター写真。





「観客の方にエンタテイメントとして楽しんでいただくことは勿論ですが、日本にはこれだけ世界に誇れるものがある、と映画を通して伝えられたら。実際のプロジェクトや、それが継続していくための原動力に映画がなってくれれば嬉しいです」

この映画の主人公・山口 駿一郎(JAXA教授:はやぶさプロジェクトチームのマネージャー)を演じる渡辺 謙が、映画プログラムで述べているメッセージです。

釈迦に説法になりますが、、「サンプルリターン・プロジエクト」を担う「工学実験探査機」とされる「はやぶさ」には、それに課せられた技術実証項目があり、「はやぶさ そうまでして君は」(川口 淳一郎)に記載されています。それを引用・列記します。

 1.イオンエンジンという新しい推進機関による惑星間航行
 2.遠く離れた宇宙空間での自立誘導航法
 3.微小重力の小惑星でサンプル採取
 4.イオンエンジンを使用した地球スウィングバイ
 5.カプセルによる大気圏再突入

これらは、いずれも世界初となる実験項目で、5が達成された現在、1から4の項目も確実に実証されたことになります。

それらの結果が樹立した、平成24年2月時点における世界記録が、映画プログラムに記載されています。

 イ.光学的手法により、自力で史上最も遠い天体への接近・到着・着陸・離陸
 ロ.最も長い期間を航行し、地球に帰還した宇宙機(2,592日間)
 ハ.最も長い距離を航行し、地球に帰還した宇宙機(60億km)
 ニ.最も長い時間、動力飛行をした宇宙機

「はやぶさ」が航行する2,592日間に発生した絶望を伴う危機的なトラブルは、「はやぶさの軌跡」(別冊宝島1739号)に整理してあります。

 A.ABCD4基のイオンエンジンの内、Aは出力不安定のため運転中止(平成15年9月)
 B.姿勢制御用リアクションホイール3基の内、X軸用が故障(平成17年7月31日)
 C.姿勢制御用リアクションホイールY軸用が故障(平成17年10月2日)
 D.1回目のトカワへ着陸は、3回バウンドして不時着(平成17年11月20日)
 E.化学スラスターB系統の燃料がタンクから漏洩し凍結を引き起こす(平成17年11月26日)
 F.燃料漏れが再発した翌日、通信途絶(平成17年12月8日)
 G.パラボラアンテナのズレの大きさが判明(平成18年2月25日)

何はともあれ、この映画で感銘したのは、はやぶさプロジエクト・マネージャー山口JAXA教授の粘り強さ。
通信が途絶した惑星探査機が、再発見された前例がない宇宙工学の世界にあっても、「はやぶさ」の救出を諦めず、救出に残された1年間に尽力を尽くすとの決断を下した山口プロジェクト・マネージャーには、「のぞみ」の苦い失敗体験があったからです。

「はやぶさ、応答せよ! はやぶさ 応答せよ!!」

と、往復30分も要する信号を「はやぶさ」がさまよう虚空に向けて1年間呼びかる技術者のど根性を生み出し、通信途絶から46日目に「はやぶさ」からの応答信号を確認したのです。
はやぶさプロジェクトの存続に知恵を絞り奔走するチームリーダー山口 駿一郎と彼を縁の下で支える各分野の専門技術者たちとの間に、お互いが信頼し合える強力なチームワークを築いて、プロジェクトチームをひとつに纏め上げた成果です。

 「はやぶさは、どんなスピンを起こしても、やがて必ず安定する設計になっている」

これを殺し文句にして「はやぶさ」を救出する運用体制の確保を監督官庁から取り付けた山口プロジェクト・マネージャーは、直ちに「はやぶさ」捜索のための具体的な計画を策定して、バラバラに分解するプロジェクトチームを纏める手段にするのです。
その執念が、「はやぶさ」チームの崩壊危機を克服させ、チーム一丸となって「はやぶさ」救出のドラマを生み出していきます。

映画に描かれた感動するシークエンスがふたつあります。ただし、元気印に限ってのことです。
Fの危機的なトラブルへの取組みに、神様はじいーっと見守っていた筈ですが、絶望的なトラブルEの対策をめぐり、民間会社の協力者・森内 安夫(吉岡 秀隆)とイオンエンジンを担当するJAXA教授の藤中 仁志(江口 洋介)とが激論を戦わすところがその1。

「イオンエンジンが破壊される対策だ」と企業人の価値観を最優先にして主張する森内に対して、藤中は「はやぶさの帰還に一縷の望みを託する。その可能性がる対策を進める」と反論する。
イオンエンジンを研究・開発した同窓の誼が、喧嘩別れした二人の関係を修復させて、森内はトラブルを解決する決断を下します。

このような生々しい二人の激論に、企業人が背負っている重荷を痛感した男性観客も少なからずおられたでしょうが、現役時代の厳しい現実を思い起こす時間でした。企業利益の有無で物事の価値判断をせざるを得ない企業人の苦悩を、吉岡 秀隆は好演しています。

2番目の感動は、Eトラブルの対策に、イオンエンジン燃料のキセノンガスをイオン化せず、中和器から直接噴射させる対策を行い姿勢制御に成功したのですが、緊急作成した回路設計で機能する「キセノン・ジエット」にトラブルが再発しないようにと、山口マネージャーが航空の神様・飛不動へ祈願に詣でた時、(有)東出機械の社長(山崎 努)と出逢い、ふたりがベンチに腰掛けて「かりんとう」を摘むシークエンス。

「はやぶさ」などの試作部品を作っている偏屈な小さな鉄工所社長の苦労を滲ませた山崎 努の清清しい演技と、日本的な発想で物事を考えない人の集団が居心地よいとしながらも、「はやぶさ」のトラブル解決に追い込まれ続け、その苦境と闘っている様子を交えた山口チームリーダーを、何気なく演じる渡辺 謙との絡みには、信念を貫くために降りかかる困難を厭わない大人の味が充満していました。

ちなみに、JAXAの相模原キャンパスには「中和神社」や他神社の御札が展示してありますので、理論を基に物事を進める冷静な科学者も、尽力を尽くした後は、自らの心身を安定させ、癒すために、神社詣でをして大願成就の祈願をしているようです。

川口 淳一郎JAXA教授は、著書の中で、

「やれることはすべてやり尽くした。あとはもう、神仏の力に委ねるしかない。心を落ち着かせ、自分を納得させたい。自分は神頼みしなくてはいけないほど、全力を尽くしたのか」

と自問自答し自己採点する機会にし、「空飛ぶお不動さま」(東京都台東区にある飛不動尊)へ、平成17年の年末にお参りしたと述べています。



東出社長が山口マネージャーの心境を忖度して、山口を励ますセリフは、元気印の胸に滲み込みました。その、東出 博を演じた山崎 努は、「はやぶさ」に出演した動機を語っています。

「はやぶさのように壮大なプロジェクトは、小さな鉄工所のおやじが作ったテスト部品など、職人の手仕事から始まるという感じを持っている。(中略)。娘の真理(夏川 結衣)のことで、親子は似ているところもあるし、反発するところもある。しかし、やはり親は子どもが自立していくことを一番願っている」

このように微妙な親子関係は、映画に充分反映されていますが、

「映画のテーマのひとつに、バトンタッチしていく“順繰り”ということがあると思うんです。我々の世代にできなかったことを次の世代がやってくれると。(中略)。科学というのは諸刃の刃(かたな)ですから、何を次の世代に渡すのか。それも、大きなテーマだと思っている」

この映画のプロジェクト・マネージャーも兼ねている渡辺 謙の狙いは、余すところ無く、元気印に伝わってきました。

今世には古びてしまった諺でしょうが、「人事を尽くして、天命を待つ」心境でしょうか。

「勘所を押さえましたね、元気印さん。技術者としてなすべき努力を尽くしたあとは、人力のいかんともなしえぬものがあります。だから、すべて「天命」に任せるのです。はやぶさチームが、地球帰還までの時間に尽くした努力は、並大抵のものではなかった、と一言で片付けられない。2,592日にも及んだサンプルリターン計画を成功に導いたのは、それぞれの分野における専門家らのプライドでしょう」

本稿の終りに、川口 淳一郎JAXA教授の言葉を、その著書「はやぶさ そうまでして君は」(宝島刊)から引用し紹介します。

『小惑星サンプルリターンに関しては、我々のほうが一歩先に突き抜けました。たった、一つの分野ですが、ここを突破口にすれば、いつか他の分野でも「日本が一番だ」といえる日がくるかもしれません。
 そのためには、今回の成果に「よかった」「がんばった」と浮かれるのではなく、冷静な検証が必要になります。なぜ「はやぶさ」はイトカワにタッチダウンして、地球に帰ってくることができたのか。日本の技術力の高さ。運用チームの経験、知恵、勇気、決断力。それらが重要なファクターでしたが、忘れてはいけないのは、「はやぶさ」が神様に愛されているとしか思えないほど、幸運だったことです』

古稀を過ぎたシニアにとって、明日を生き抜く勇気と希望を与えられる物語であったことは、言うまでもありません。

この映画の感動を倍加している要因に音楽があることを書き忘れていました。
瀧本 智行監督がイメージした、困難、葛藤、達成という3っつのキーワードから、この映画の音楽を作曲した辻井 伸行の旋律には、その時々に「はやぶさ」が背負う宿命を象徴する役割が込められています。
特に、「はやぶさ」が地球に帰還するシークエンスに流れる「達成」を喜ぶ強い旋律には、心を打つものがあります。

付録です。



JAXA相模原キャンパスに展示してあります。








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