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いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

浮島の阿弥陀さまへお参りする

2009-11-21 17:55:04 | 散策
諏訪大社下社・春宮のお舟渡しを見学した8月1日、「万治の石仏(せきぶつ)」に出会い、お参りした縁で、弾誓(たんぜい)を初祖とする作仏聖(さくぶつひじり)を垣間見て、その一部を書いてきました。

「万治の石仏」の出自は、『謎の石仏-作仏聖の足跡』(宮島潤子著)で解き明かされています。
その著書に掲載されていたのが、大正15(1926)年に撮影された下原念仏講による供養の模様です(写真)。

「浮島の阿弥陀(あみだ)さま」と呼ばれ敬われていた「万治の石仏」の前左右には、石灯篭があります。
右側の灯篭の笠(かさ)は左にずれているのか、破損しているのか判読できませんが、火袋(ひぶくろ)から落ちそうな状態です。この石灯篭は撤去されてしまい、今は見ることが出来ません。

「あみだ様」の前に座り融通念仏を唱えている下原念仏講中は14人。1人100回念仏を唱えると1,400回になります。つまり、14人で唱えて溜めた念仏を講中が融通し合い、それに見合った数だけ願を掛ける訳です。

ここで言いたいのは、「あみだ様」を拝む「しきたり」です。

「万治の石仏」の前には、お参りの仕方を説明した看板があります。

1. 正面で一礼し、手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる。
2. 石仏の周りを、願い事を心で唱えながら、時計回りに三周する。
3. 正面に戻り、「よろずおさめました」と唱えてから一礼する。

「あみだ様」に初対面した元気印は、その解説に従って願を掛け、ホットした気持ちで「よろずおさめました」、と報告したことを思い出します。

話しは、積石遺跡に飛びます。
石を積んで塔とする信仰は、我が国では十三重塔や九重、七重、五重などの石造層塔となり、五輪塔ともなる。三段の積石石壇を造った特別の例もある。
この積石石壇は備前(びぜん)熊山(岡山県赤磐郡熊山町)の山頂にあって、謎の積石遺跡といわれてきた、と五来 重(ごらい・しげる)氏は『石の宗教』で述べています。

熊山を山岳信仰の山とするとき、このような岩盤は「盤座(いわくら)」として崇拝される。
「盤座」というのは、その上に山神が影向(ようごう:人間の願い事を聞くために、この岩に神が出現)するので影向石とよばれ、山神を護法善神(ごほうぜんじん)とする場合は護法石とよばれる。一種の自然崇拝であるが、そこに神が実在すると見る自然崇拝である、と著しています。

熊山山上の積石石壇がこの盤座の上に築かれたのは、二つの意味があると思う。
一つは、舎利(しゃり:遺骨)を蔵する塔をもっと神聖なる石の上に建てるということであり、もう一つは、この塔を回るためである。修験道の山には「行道岩(ぎょうどういわ)」というものがあって、そのまわりを回る行(ぎょう)がある、とも述べています。

下諏訪観光協会、下諏訪商工会議所が薦めている「万治の石仏」のお参りの仕方は、おそらく、「行道岩」のまわりを回る修験僧の行がヒントになっている、と勝手に解釈しています。
「あみだ様」の前に正座して念仏を唱えるのが由緒ある参拝ですが、石仏(いしぼとけ)の周りを、願い事を心で唱えながら、時計回りに三周するお参りも今風で良いと思います。行道の間は、断食断水を伴う苦行だからです。

「ちょっと、待って。それは、正しい参拝の仕方を知ってからのことです。わずか80数年前の参拝方法を忘却の彼方へ追いやってしまう。350年前に安山岩を刻んだ願主の志を尊重し、それを後世に伝承するためには、温故知新の材料を残す心がけは欠かせませんよ」

ボケ封じ観音さまは、苦言を呈します。

「狭い日本、そんなに急いでどこへ行くでは、先人達の立つ瀬がありませんね。下原念仏講中と同じ参拝はしなくても良いのです。大事なのは、その心を忖度して三周する心配りなのです」

「彫刻・万治の石仏」として下諏訪町の文化財となった「石仏(いしぼとけ)」、こと、「あみだ様」の気持ちをボケ封じ観音さまは代弁すると、西の彼方へ消え去るのです。

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万治の石仏 番外編:衝撃の告白をする「あみだ様」

2009-11-15 22:47:30 | 散策
「あみだ様」(写真)の建立350年祭が11月1日行われました。
主催は、下諏訪町商工会議所、町観光協会などで構成した実行委員会とのこと。というのは、祭りには参加できず新聞情報によるからです。

万治3(1660)5月25日に鑿(のみ)を入れられた耀石安山岩の小袋石(こふくろいし)は、11月10日に頭を据え付けられ、阿弥陀如来が化生(けしょう)した石仏(いしぼとけ)となり、信者に「あみだ様」と呼ばれてから350年目に当たる年を記念したお祭りです。

あみだ様を造立したのは、明誉浄光と心誉慶春と謂れ、浄土宗に帰依した法名(ほうみょう:生前に出家し仏門に入った者が名乗る名前)願主であり、二人の関係などは下諏訪町生涯学習情報(以下、生涯学習情報)を参考にして「その2」に書きましたが、もう少し探ってみます。

『宮島潤子さんは、その「万治の石仏」の謎を追って、長い探索の旅を続けてこられた篤学の人である。ときに民俗研究者として各地のフィールドに執拗な探求の足をのばし、また時には歴史研究者として新発見の文書の解読に精力を注いできた。その実態調査と資料探索のなかから本書「謎の石仏-作仏聖の足跡」が生まれることになった』(山折哲雄:宮崎潤子著・謎の石仏-作仏聖の足跡解説)。

「あみだ様」に関わっている作仏聖(さくぶつひじり)の思想とその系譜について、宮島潤子氏を紹介した山折哲雄氏は、次のように解説しています。

『わが国には古くからあった、民衆の間に伝道し、民衆の苦しみや悲しみに直接答えようとした聖(ひじり)と呼ばれる民間宗教者の流れは、江戸時代になっても伝統は受け継がれていった。
 蝦夷地などの辺境の地に遊行漂泊して民衆教化の仕事に携わる遊行僧や回向聖、木食戒のような厳しい禁欲生活を守って仏像を彫り、祈祷や占いを行った木食行者や作仏聖たちがそれである。このような作仏聖や遊行聖の系譜から円空(1632~95)と木食行道(1718~1810)のようなきわ立った才能が生み出されてことは、既に広く知られている』

『本書の中に登場する主人公たちが、そのような木食行者や作仏聖たちなのである。
弾誓(たんぜい)を初祖と仰ぐ、但唱(たんしょう)、長音(ちょうおん)、閑唱(かんしょう)、空誉(くうよ)、明阿(みようあ)、山居(さんきょ)と続く「作仏集団」(仏像造りの聖集団)の流れである。彼らの多くは、円空や木食にやや先立って、あるいは殆ど同時に活躍した聖たちであるが、その業績や足跡は円空、木食に比べると闇に包まれた部分が多く、十分に明らかにされてきたとはいい難かった。否、むしろ歴史の片隅に押しやられたままであったと言ってもよいだろう。宮島さんは、その作仏集団としての弾誉教団の歴史と活動を資料的に解明することを通して、「万治の石仏」の謎に迫り、その背後に広がる当時の民衆宗教家たちの実態をわれわれの眼前に生き生きと蘇らせようとしている』

さて、小袋石に鑿を入れ「あみだ様」を刻んだ二人の願主の話です。
結論を先に書きますと、清念や説難は、弾誓を初祖として、但唱、長音、空誉と続く継承者である弾誓4世・空誉と相弟子関係にある。清念と説難は、明誉浄光と心誉慶春であるとして、宮崎潤子氏は弾誓派の系図に挙げています。つまり、明誉浄光は清念、説難が心誉慶春であったのです。

「あみだ様」は、宮崎潤子氏が述べているこの二人に関する逸話を書き出すようにと、元気印の夢枕にお告げをして急かすのです。

『願主であり勧進元である作仏聖の法名には誉号がついている。この誉名を与えるようになったのは長音の代からで、その最初が江戸安養寺の直弟子で当時19歳の4世空誉であった。正保3(1646)年、長音が相川弾誓寺(新潟県佐渡市)を建立し、本尊造立のため、奥州十三湊へ材木を調達しに出掛けたおりに、清念(当時18歳)、説難(当時12歳)の二人の弟子がしたがった。長音は後年、この二人にも当然のことながら誉号は与えたはずで、その二人が「万治の石仏」の願主となった万治3年、つまり清念32歳、説難26歳の時には明誉、心誉の弾誓流の法名を持っていたことは容易に推定できる』

つまり、生涯学習情報で推測していたことを、宮島氏は自らのフイールドワーク調査から大胆に推定したのです。

『寺僧であった長音の弟子清念と説難は、寛永年間(1624~1644)に続々と造立された常盤南部(茨城県竜ヶ崎市、水海道市周辺)の大日像や大日三尊像の存在を、目黒行人坂(東京都品川と目黒の区境)の安養院にいた清念と説難が知らぬはずはなく、かつて長音にしたがって赴いた秋田帰命寺や、但唱の湯殿山(日原一石寺)、湯殿山の大海法印が開いた大円寺(明王院)において、湯殿信仰の影響を受けなかったはずもない。
このようにみてくると、「あみだ様」こと「万治の石仏」は、弾誓一派における仏頭への熱い祈りを造形化しているとともに、胸の図柄や卐(左マンジ)はこの時代の弾誓一派と湯殿行者との交流を示しているとみることができる』

『長音が中興開山した安養院は、弾誓系の木食の寺と湯殿系の木食の寺がともに護国院に属していたので、弾誓系の作仏聖は、湯殿信仰とかかわりを持つことができた。帰命寺から10里ばかりの山形県の湯殿山は、即身即仏で有名である。
湯殿山の行者が木食後に入定(にゅうじょ:真言密教の究極的な修行のひとつ)するのは、作仏聖とは思想的に異なる。代受苦までは同じであるが、その目的は6億7千万年の後に弥勒(みろく)がこの世に現れるときまで、自己の肉体をミイラ化させて現世に残し結縁(けちえん)を続けようとするものである。
作仏聖の場合は、初祖弾誓以来、民衆との接点を仏像と考えた。弾誓の「心」を形としてこの世に残し、永遠に民衆との結縁を続けようと志すもので、それは入定ミイラのように肉体不壊(ふえ)の思想とは異なり、霊魂を仏像に封じ込めて霊魂不壊の思想であった。心を形に残す手段として一方は「入定ミイラ」となり、一方は民衆救済の誓願に基づく「作仏入定」となった』

と延べて、別のところでは、

『護国院系の融通念仏と弾誓流念仏は表裏一体であった』との結論を出しています。

さらに、「あみだ様」の持つ特徴は、

『但唱の作仏の特徴は、木彫と石彫の両方がこなせることであるが、但唱と弟子の一部は、木彫仏からはじめたが、やがて石仏も堂々とこなすようになった。「万治の石仏」の弥陀の定印(じょういん)や三衣(さんね・袈裟)の繊細で軽やかな線の美しさには、高度の技術がみられる。清念や説難は佐渡を離れて長音にしたがい、江戸をはじめ本土を回国した作仏聖であった』

そして、

「万治の石仏」も同様で、仏頭の表現の技法はきわめてシンプルでありながら、仏師の写実的な木彫技法の及ばぬ内面の深さを示し、胴体の複雑な線彫りは、広い岩面に冴えた鑽(たがね)が駆使されており、圧倒的な量感で迫ってくる。線彫の線が叩きっ放しのあたりにも、職業的石工とは異質の野生がみなぎっていて、祈りが先行する宗教者の作という感がある。清念や説難にとっては、おそらく一生に一度の大作であったに違いない、と著しています。

「万治の石仏」を解説した生涯学習情報を思い出します。

『高島藩主・諏訪忠晴(ただはる)公が、万治2年(1659)春宮の石の大鳥居を寄進した。そのときこれを石材にしようとして石工が鑿(のみ)を入れたところ、血が流れ出たので神様の祟(たた)りと恐れて中止した。その夜石工の夢枕に、上原山(茅野市)に良い石材があるというお告げがあり、上原山の石を使い、急ぎ阿弥陀(あみだ)様を祀って、鳥居の完成を祈願した」という。現在も残っている鑿(のみ)の跡はその時のものと言われている』

『雲をまとった桜樹を代り自ら影像を彫刻しようとしたが、たちまち熱血が流れ出したので半作のまま中止した。これを「斧作りの御影」という』

ことも前に書きましたが、元気印は次の伝承が気に掛ります。

『弾誓が岩泉に浴しているとき、五社の善神(天照、八幡、春日、住吉、熊野)が現れて、神道の秘奥を授けるために弾誓の背筋を知剣で断ち割り、凡骨と抜き変えたのち頭上に神水を注いだ。こうして「換骨の秘儀」は終わったと「畧伝」にある』

その挿絵に描かれている弾誓の背中からは、骨もあらわに鮮血をほとばしらせており、スリリングな迫力がある、と宮島氏は述べています。石仏の背中から流れ出した血、桜の大樹から流れ出した鮮血に、どこかで繋がっている言い伝えのように想像してしまいます。

『徳道上人の生まれた矢田部(兵庫県揖保郡太子町)には、上人の偉業に感動して動いたと伝える大岩、感動岩が遺跡となっており、別の山中にも、上人が岩上に座して行をしたという三つに割れた大岩の遺跡があったが、こちらのほうはそのひとつに石工がノミを入れると、割れ目から鮮血がほとぼしった、という「万治の石仏」と共通した伝承が残っている』

のですから、尚更その思いが強くなります。

『過日、虫倉山中の木食仏を調査したおり、小川村の大日方英雄氏邸内に立つ毘沙門堂で千体仏に出会った。全体に歳月の間の痛みがみられるが、高さ11cm~14cmの地蔵立像である。そして驚いたことにその眼の彫はまさに「万治の石仏」の眼と同じであった。頭形は細長いもの、円いものが混じり、背丈や表情も少しずつ異なるが、親指の頭ほどの仏頭の眼は単なる線彫りではなく、小さいなりに上下の瞼から眼底に向かって深く抉られている』

続けて、

『技術的に共通しているだけでなく、こちらを向いたお顔の奥深いまなざしは、「万治の石仏」と同じ呪術的な雰囲気に満ちていた。明誉と心誉はここにいたのである。ようやく二人にめぐり会えたという思いで私は緊張した。万治3年から少なくとも5年ほど経っているのであろう。明誉は40歳近く、心誉も30歳半ばになっていたはずである』

ここまできて、やっとこさ、元気印は「万治の石仏」を彫った明誉と心誉が、清念と説難であることを確信するのです。

「あみだ様」の謎解きは終りに近づきます。

「万治の石仏」が小袋石であった時代に弾誓は、この神石の上に座って、神から生まれた仏として念仏を唱え説教した様子が想像される。それは播磨の檀特山(だんとくさん:兵庫県姫路市)の大岩上に座った徳道上人以来の歴史であり、北安曇郡松川村板坂に残る弾誓の岩上の説法そのままの光景であったろう。諏訪下社への参詣者が渡る橋の手前で、弾誓は神も唱える。しかも諏訪明神が守護神である融通念仏の勧化を続けた。女や子供の救済に力を入れた弾誓の勧化において、子安信仰のこの神石はまことにふさわしかったといわねばならないし、この神石そのものが弾誓遺跡であったことに、宮島氏は改めて気付くのです。

この地が神領であることからみて、弾誓が下原、東山田とともに神領で布教したことを教えてくれる。神領の村人たちは、下社の奉仕に通い続けていたから、たちまちのうちに薬師参詣道の神石で布教していた弾誓の熱心な支持者となったことだろう。ここで得た浄財が、山中の一草庵から法国山阿弥陀寺という弾誓の法名の二字を山号につけた現在の唐沢阿弥陀寺(長野県諏訪市)建立の基金となった、と宮島氏は指摘しています。

その阿弥陀寺で万治3年5月25日、弾誓の50回忌が行われたのです。
その帰途に、明誉と心誉は下諏訪町の砥川のほとり、弾誓以来の信者たちが待つ東山田へ向かいます。そして、弾誓遺跡の「ゑぼし石:烏帽子石」(小袋石)の傍に庵を作り、翌日から早暁の砥川で禊(みそぎ)を行いつつ6カ月間に亘って造仏に励み、11月10日に「あみだ様」が誕生したのです。

生誕350年記念のお祭りが11月1日に開催されたのですが、「あみだ様」は、相も変らず仏頂面(ぶっちょうずら)をして「万治の石仏」を装っているようです。


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