いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

千鳥足でつぶやく『映画ばなし』その9:女医・綾乃が、尊厳死を選択するとき  

2012-11-15 23:53:44 | 映画
流水のままに流れてゆく落葉を眺める医者と検事との価値観の違いを映画の後半に展開する「終の信託」を観て、世界チャンピオンにまで育てた中年女ボクサーを安楽死させて何処かに去り行く老トレ―ナーの物語「ミリオンダラー・ベイビー」を思い起こしたのです。



後者は、アメリカで公開後、保守派コメンテーター、障害者団体、キリスト教団体などから映画のボイコット運動が起こり話題となったようです。半面、前者に対する日本の諸団体からは、後者のような公の話題として取り上げられていないようです。

「ミリオンダラー・ベイビー」は、クリント・イーストウッド監督・主演の映画であること、第77回アカデミー賞で、作品賞、監督賞、主演女優賞(ヒラリー・スワンク)、助演男優賞(モーガン・フリーマン)の主要4部門を独占したことは、先刻ご存知でしょう。

老トレーナーのフランキー.・ダン(クリント・イーストウッド)は、ウエルター級イギリス人チャンピオンに挑むマギー・フイッツジエラルド(ヒラリー・スワンク)に、緑色のガウンを贈り励ます。世界チャンピオンの座を獲得したマギーは、ガウンの背中に縫いこんである「モ・クシュラ」の意味をフランキーに問い質すのですが、彼は言葉を濁します。

さて、「終の信託」です。
「これが周防流ラブ・ストーリー」と、プログラムは謳っています。



江木 泰三(役所 広司)が好んで歩く散歩道で偶然出会った折井 綾乃(草刈 民代)は、愛車の中に江木を誘い、彼への想いを告げます。
そこで、自分の死期が迫っていることを自覚している江木から、最期の時は早く楽にしてほしい、と依頼されるシーンを撮影中に、これはラブ・ストーリーであると確信した。江木の依頼に対して、貴方がいなくなったら、私はどうしたらいいの、と問い詰める綾乃は、女医としてではなく、女性として愛の告白をしている。このように、周防監督は、プログラムのインタビューで語っています。

さらに、医者だって人間。必ず好きな人、あるいは患者であっても人間的に好きになれない人はいるはず。綾乃も江木に対しては、患者と医者という関係以上の感情を抱いてしまった。周防監督は、それを愛情と解釈している、と続けています。

先の「ミリオンダラー・ベイビー」では、世界チャンピオンという栄光の世界から、完治の見込みがない延命治療を受けるまでに生活環境が激変したマギーは、人生に絶望し自殺を図るが未遂に終わる。そんな中で、彼女はフランキーに生命維持装置を外すように意思表示をする。様々な価値観を熟慮した末、彼女への愛情を選択するフランキー。

ガウンの背中に刺繍した言葉の意味を明かされ微笑みで答えるマギーにフランキーは、彼女にアドレナリンを過剰投与し安楽死を確かめて、娘とも疎遠であった住みなれた町から姿を消す。

冒頭に書いた綾乃と検事・塚原 透(大沢 たかお)との尊厳死を廻っての攻防で、周防監督は女医綾乃を一人の女性・綾乃を強調している。その意図は、世界チャンピオンになったマギーの尊厳を守るために残されたフランキーの選択肢は、安楽死しかなかったと主張し、マギーへの思慕の深さを描いたことに通ずるもの。元気印の勝手気侭な映画話ですから、独断と偏見に満ちた感想は、許容範囲と自負しているので、お気になさらずに・・・。

喘息患者・江木に寄せていた女医・綾乃の心境を端的に表せば、落花流水(らっかりゅすい)です。
安楽死とはこういう状態である、尊厳死とは云々、生前意志表示(リビング・ウイル)はカンヌンなどなど、女医・綾乃が江木に施した行為は、司法が規定する価値観の枠内で判定すると殺人罪である、と執拗に追詰める塚原との攻防戦は、この映画のクライマックスです。この場面で、ダンサー草刈 民代が一皮剥けた演技をしています。

その昔、「Wの悲劇」で薬師丸ひろ子が、劇団の看板女優の醜聞の身代わりになって記者会見する場面では、切羽詰る演技で乗切り女優に脱皮したように、ダンサーのイメージが強い草刈から、「終の信託」で綾乃を演じた女優に変身したことを印象付けられるシーンでした。そして、周防監督は、江木を殺したことを綾乃に認めさせます。

女医・綾乃が検事の塚原に、「あなたは、自分の患者である江木さんを殺したのですね」と念を押され「私が殺しました」と答える台詞に、アドレナリンの投与に決断を下したフランキーの姿が重なったのです。

尊厳死を軸に据えて主人公の生き様をドラマテイックに表した監督・クリントと周防は、マギーや江木が信頼する相手に殺させる行為に社会人としての矜持を、フランキー、綾乃が安楽死させた相手に抱いている愛情の刹那さ、信頼の厚さを、濃淡を込めて主張している。そこには、医学や司法や宗教がもたらす倫理観、世間が喧伝する価値観などよりも勝るものがあるとする、両監督の見識を窺い知った映画でした。

「おまえは、私の親愛なる者、お前は私の血」

フランクは、アドレナリンを過剰投与され意識朦朧とするマギーに「モ・クシュラ」の意味を囁き、緑色のガウンに縫いこんだ彼の心根を伝えます。

「私が江木さんを殺しました」

と検事に言い切った綾乃の江木に対する思慕の念も、「モ・クシュラ」だった。

検事と綾乃との尊厳死に対する攻防戦を後半に設定した周防監督の狙いは、主治医でありながら喘息患者の江木に抱いた綾乃の女心を描き切ることであった。同僚の医師に失恋し自殺を試みるが未遂に終り、失意のどん底にあった綾乃を信頼する江木に心の癒しを求めた一人の女性として、彼が熱望した安楽死を叶える。

「その心は、水面に浮かぶ落花が、流水のままに流れていく晩秋の情景ですか。そのように勝手に決め込んでいる元気印さん、日米の映画監督に、モ・クシュラ、ですね」

ボケ封じ観音さまが、本稿を締めてくれました。

注記
11月17日、旧タイトル「ラブ・ストーリーは、落花流水がいい!!」を変更しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千鳥足でつぶやく『 映画ばなし 』 その8:大滝 秀治の演技に涙した高倉 健

2012-10-27 14:56:23 | 映画
富山刑務所で定年を迎えた倉島 英二(高倉 健、以下、健さん)は、嘱託として木工専門の作業技官に雇用され3年目に入っていた。それまで地味だと信じてきた仕事を「あなたの転職ね」と自分のように喜び、刺激のない平凡な暮らしを「これこそが幸せ」といって微笑み、口下手という短所を「沈黙は金なのよ」と励ましてくれた愛妻・洋子(田中 裕子)との15年間の結婚生活は、洋子に取り付いた悪性リンパ腫に終止符を打たれてしまう。

癌による余命宣告をなされ、53歳を迎えた年に還らぬ人となった洋子は、自分の遺言をNPO法人遺言サポートに託していた。

それは2通の封書に入れられていた。
1通は、英二が受け取ったときに開封すること。洋子の遺言を英二に伝えた後、遺言サポートが投函するようにと言い残していた2通目は、長崎県平戸市鏡川町薄香(かがみがわちょう・うすか)郵便局留めになっている。

ハガキ大の1通目の遺言書には、中央下に描かれている燈台を雀が左上側から見下ろしている図柄で、右上には「あなへ」。
燈台と雀の間の余白に、

わたしの遺骨は、故郷の海にまいてください

と記されていた。

2通目の局留め封書は、英二自身が引取らねばならず、その保管期日は12日間。
それを過ぎた封書はNPOに返送され、焼却処分にする、と遺言サポートの担当者は英二に説明する。否応なく、富山から平戸までの1,200kmをドライブする羽目に追い込まれる英二。

木工が手職の英二は、癌と闘う洋子が元気になったら一緒にドライブすると約束していた。
改造途中のキャンピングカーを仕上げた英二は、洋子の骨壺を助手席に据え、平戸への一人旅が始まる。

飛騨高山、琵琶湖から竹田城址(朝来市・あさぎし)、広島を経て平戸市までの旅程で英二が出会う人たちは、「わけあり」を肩に背負った人物ばかり。

出家得度した俳人・種田 山頭火(たねだ・さんとうか)に心酔している杉野 輝夫(ビートたけし)とは、夕日が美しい琵琶湖畔のキャンピング場で「旅」と「放浪」の違いに話が弾み門司港で再会、北海道の駅弁「イカめし」の店頭販売をしている田宮 祐司(草薙 剛)と南原 慎一(佐藤 浩市)のイカめし作りの手伝いをする関りのなかから湧き出してくる心境の変化を噛締めながら英二は、目的地へひた走る。



さて、「あなたえ」のプログラムに高倉 健出演・全204作品が掲載されているので、205作品目が「あなたえ」になる。
この204作品リストを眺めていて、昭和31(1956)年、「電光空手打ち」で銀幕デビューしてから平成24(2012)年の「あなたへ」まで、健さんの俳優生活56年間を3っつの時期に分けてみた。

健さんが、1.俳優として修業する、2.スタートして主役を張る、3.独立して映画作りをする、3期に区切って整理してみます。

まず、俳優として修業する時期は、昭和31(1956)年から昭和38(1963)年までの7年間。
健さんが、東映第2期ニューフェイスとして東映に入社してから、「人生劇場 飛車角」へ出演するまでの期間に相当します。

この間に出演した映画作品は90作あり、主演したのは33本。年平均13作品に出演している割に主演本数は36%強です。デビュー2年間では出演21作品、主演11本の52%強あるから、快調に修業時代を滑り出している。毎月2本弱の映画に出演しているのが、この時期の特徴です。

それは、この時期に映画産業は、第二黄金期を迎えていたからです。
昭和33(1958)年に製作された映画作品は504本、入場者数は12億2,750万人と最高潮に達します。興行収入も同様で724億3,600百万円です。
ちなみに、昭和33年の入場料は平均64円、翌年の65円以降は、72円、85円と値上げされ4年後には115円という具合です。入場者減少による採算確保対策が値上げの原因でしょう。従って、年度別興行収入の比較はできないので、最盛期の興行収入のみ紹介します。。

映画産業の最盛期には、松竹、東宝、大映、東宝、日活の5社が、新作を毎週2作品、年間で50週公開し、日本映画の製作本数が年間500本を超え、各撮影所は活況を呈していた時期が、昭和31年から昭和36年です。

健さんが銀幕デビューした年の東映は、松竹を抜いて業界第1位の業績を挙げて、その4年後に製作本数シエア50%を目指し第2東映を立上げます。昭和29(1954)年度に東映が製作した103作品は、当時の世界一本数ですから、その勢いに乗っていたのです。つまり、健さんはその真只中で俳優修行をしていたんです。

余談です。
この時期に健さんが共演した東映のスターに片岡 千恵蔵と美空 ひばりがいます。
映画会社として後発になる東映の設立に関わり取締役に就任しても、「時代劇の東映」の屋台骨を支える重役スター千恵蔵とは「七つの顔を持つ男」シリーズなどで9作品共演しています。千恵蔵は、重役でありながらも年間10作品で主役を演じていたようで、駆出し中の健さんが13本撮っても当たり前だった。

一方、松竹で嵐 寛寿郎(以下、アラカン)の「鞍馬天狗」シリーズで杉作役などを含めた持ち役がありスターとしての地位を固めていたからでしょうか、自分のプロダクションを設立して、昭和33年に東映と専属契約を結んだ美空 ひばりの「べらんめえ芸者」シリーズなどで16作品に共演していますが、スターシステムで映画作りをする東映では、主役を演じる作品に恵まれない境遇が窺える健さんの修業時代です。

また、時代劇に飽きて入場者数が激減するこの時期、時代劇やギャング路線からの切り替えを東映は模索し出します。映画製作本数も昭和38(1963)年には357本、入場者数も5億1,100万人まで落ち込んでいたのです。第二黄金期を迎えていた映画産業も、昭和33年度末に200万弱台のテレビが倍々ゲームで普及し3年後に1千万台を超える普及率になる速度には勝てず、映画産業の衰退が既に始まっていた。

そこで、東映東京大泉撮影所長に就任した岡田 茂は一発勝負を賭けます。
これまでに青成 瓢吉を主人公にして何度も映画化され好評を博していた「人生劇場」を、ヤクザの飛車角を主人公に据えたそれの製作を強行したのです。

そうして、昭和38年に封切られた「人生劇場 飛車角」は、この年の6位にランクされる興行成績2億8,800万円も稼いだのです。
しかも、東宝から引き抜いて以来パッとしなかった鶴田 浩二を主役の飛車角に、修業時代とはいえデビュー7年目、齢31を迎える中堅どころになっても燻っていた健さんを、若い任侠・宮川役に抜擢しての大成功でした。

ちなみに、この年の興行収入のトップは、「天国と地獄」(東宝 監督:黒澤 明)で4億6,020万円、5位「宮本武蔵 般若坂の決闘」(東映 監督:内田 叶夢)が3億241万円、健さんが千恵蔵と共演した「裏切り者は地獄だぜ」(東映 監督:小沢 茂弘)は9位で2億7,912万円です。

この成功に手応えを感じた岡田 茂は、東映の映画製作路線を時代劇から任侠映画へシフトします。
東映仁侠映画路線のスタートとなる「日本任侠伝」シリーズ第1作の製作が開始されたのが、昭和39(1964)年。宮川役で注目を集めた健さんは、主役・辰巳の長吉を演じて、ここからスターの第一歩を踏み出します。これが、健さんの修業時代を昭和31年から38年にした根拠です。

ここから、健さんが東映のスターとして主役を張る時代の話です。
昭和39(1964)年、健さんが東映から独立する昭和50(1975)年迄が対象になります。
この11年間に93作品、出演作品は年間8本強に激減しているが、出演作品の63%強を主演作が占めている。この間に公開された任侠シリーズは、日本任侠客伝11作品、昭和残侠伝9作品、網走番外地18作品あり、主役を演じた任侠シリーズの成果が表れた時代なのです。

このブログを書いている最中に、面白いデータを見付けました。
「キネマ旬報ベスト・テン 85回全史 1924→2011」に、年度別興行収入ベスト10のランキングが掲載されています。

日本侠客伝( 2作品)  4億9,310万円
網走番外地(10作品)  22億6,765万円
昭和残侠伝( 1作品)  2億円

健さんが主演した上記任侠シリーズの稼ぎ頭は、「網走番外地」。
毎年併行して製作・公開されたこれらのシリーズで、網走番外地シリーズが18作品も撮られたことがこのデータから解った次第です。18作品中10本が興行収入ベストテンに入っているのは、それだけ観客に受けた証ですから。なお、1億円弱の興行収入があった任侠シリーズ作品もありますが、ランク外なので集計から除外しました。

ところで、網走番外地シリーズには、八人殺しの鬼寅という、強烈な印象を受ける脇役がいます。
映画の先達・日活時代から時代劇スターとして君臨したアラカン、極め付きの十八番「鞍馬天狗」と「右門捕物帳」を持っていたアラカンが、網走番外地の主役・橘 真一の脇を固めている。
この鬼寅は、映画史に残る名キャラクターとも言われており、番外地シリーズの高い興行収入をアラカンが稼ぐ要因になっていることは、否定できませんね。第1作をレンタルDVDで観て、昔取った杵柄に裏打ちされたアラカンの貫禄というか、スター・アラカンを彷彿とさせる、その存在感に圧倒されてしまった。
「男はつらいよ・寅次郎と殿様」(第19作:昭和55年公開)では、殿様役に出演しているので、お馴染みのフアンも多いことでしょう。

東映スターとしての地位を固めた当時の健さんとのインタビューが「日本映画俳優史 男優編」(猪俣勝人・田山力哉共著:現代教養文庫 初版第17刷)に掲載されているので、引用します。

「ぼくも前にはサラリーマンの役をやらされましたが、やはりピッタリしなかったような気がしますね。ああいう安定した会社員などより、ギリギリに追いつめられ、社会から外された人間のほうが似合うらしい。これはどういうわけですか・・・やっぱり「網走番外地」が成功したということですか。そういう点で、石井 輝男監督が今日のぼくを作ってくれたといえるかもしれない」(同書183頁)。石井 輝男は、新網走番外地シリーズを除く同シリーズの10作品を監督している。

こうして彼の役どころを見ればわかる通り、任侠路線時代の東映で、高倉 健は実にサマになるスターであった。それだけに仁侠映画がようやく観客に飽きられ、実録やくざの時代が来た時、東映のエースの座を菅原 文太にゆずり渡すことになり、彼はやや宙に浮く存在になったのである。(同上186頁)

最後は、このような状況にあった健さんが、東映から独立してから今日までになります。
東映から独立した昭和51(1976)年から平成24(2012)年までの36年間では22作品しか撮っておらず、年平均2本弱にしかならない。勿論、その全作品は健さんの主演映画です。

これまでの俳優生活56年間(昭和31年~平成24年)における年平均出演作品は、3.7本。決して少ない本数ではないでしょう。

「君よ憤怒の河を渉れ」(監督:佐藤 純弥)などで大いに頑張っているが、いまひとつ本領を発揮していない。この時期(昭和52年)に「八甲田山」(監督:森谷 司郎)に出演、山田 洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」に出演が決まるなど、大いに意欲的なところをみせているが、今が曲がり角にさしかかっているところだ。フアンとして健闘を祈りたい。
なお私生活では江利 チエミと離婚してから独身を続けている。ほとんど女性関係のゴシップなども出ないところは真面目というべきなのだろうか。(同上)

引用した男優編は、昭和52(1977)年11月15日に初版が刊行されているので、健さんの評価は同じ時期の状態と見て良い。

また、東映独立以降の健さんは、作品の内容、スタッフ、ギャラなど自分が本当に納得できる作品を選んで出演しているようです。

余計なテクニックを廃し、最小限の言葉で演じる人物の心に込み上げるその瞬間の心情を表す台詞、動きを表現する芝居を真骨頂とし、基本的に本番は1テイクしか撮らせないのは、

「より厳しい状況に身を置いて、役者としての自分を磨くこと」「映画はそのときによぎる本物の心情を表現するもの。同じ芝居を何度も演じることは僕にはできない」

とする健さんの役者哲学によるもの。

なにはともあれ、東映を独立してからの主演映画の成果は、既にご存知の方が沢山おられるはずです。
「八甲田山」の徳島大尉の演技で、ブルーリボン賞主演男優賞。「幸せの黄色いハンカチ」の島 勇作では、第1回日本アカデミー賞 最優秀男優賞を受賞、併せてブルーリボン賞主演男優賞に耀く。

これ以降も、「動乱」「遥かなる山の呼び声」「駅STATION」「あ・うん」、そして「四十七人の刺客」と「鉄道員(ぽっぽや)」で日本アカデミー賞 最優秀男優賞を受賞する。さらに「鉄道員(ぽっぽや)」では、ブルーリボン賞 主演男優賞を併せて受賞し、俳優・高倉 健としての名声は揺るぎないものになった。健さんは、映画専門(脚本と映画評論)家の期待に応えたのです。

話は「あなたへ」に戻します。
健さんの出演した映画リストを眺めたことで、千鳥足に運ばれっ放しになった話に迷い込み、やっとこさ、書きたいことを整理出来ました。長々の話にお付き合い下さり感謝感激です。

洋子の遺骨を海に撒く漁船を出す老漁師・大浦 吾郎(大滝 秀治)と英二とが船上で交わすシーンがあります。

『このあたりでよかろう。わしの家族も海の底で眠っている』と言って吾郎は船を止める。

『今日の海は、優しいかね。奥さんも喜んでおるじゃろ』

洋子の遺骨を海へ撒き終えた英二に、花束を差し出す吾朗。それを受け取り海へ落とす英二。

小説「あなたへ」では、この情景を次のように表現している。

「荒れた海に出漁した卓也の両親は7年前にここで遭難し、奈緒子の父(南原)も同じ年に遭難している。毎年、それぞれの親の命日になると、卓也と奈緒子はじっちゃん(吾郎)の船で沖へ出て、献花と合掌を繰り返している。二人にとって、この静かで美しい海は、漁場であると同時に墓場でもあった」(森沢明夫著:あなたへ 69ページ)。

洋子の遺骨を海へ撒く英二の姿に、この場所で毎年息子たちと家族を慰霊する老漁師・吾朗の心情が重なっていると感じます。吾郎のふた言の台詞と花束を英二に差し出す行為がそれを物語っている。

散骨を終えた漁船が薄香に帰港した際、英二が謝礼の入った封筒を吾郎に差し出す。

『卓也(三浦 貴大)、お前が貰っておけ』と甥っ子に指示する吾郎。

『こんなに綺麗な海は、久し振りじゃった』と、笑顔で英二に胸の内を打ち明ける吾郎。



この台詞を聴いて健さんは涙したと告白している。気が乗らないと台詞を言わない健さんには、この台詞の中に監督の想いもライターの想いも全部入っていることが解っていた。この台詞に込められた意味を監督に念を押していた大滝さんを見ていたので、久し振りに美しい海を見た、と吾郎が言った瞬間、英二は感に詰まったのです。

脇役がしっかりしている映画は締る、とは良く聞きます。
英二の散骨に協力する渋い吾郎を演じた大滝さんは、10月2日に他界してしまった。
鬼寅でスターの貫禄を振りまいたアラカン同様、渋くて人情味あふれる老漁師・吾郎を演じた大滝さんには、もう、レンタルDVDでしか逢えない。

「そんなガラガラ声は使わない」と劇団民芸の創立者・俳優・演出家の宇野 重吉 に言われた大滝さんは、その声を努力の末に味わいに変えた、と逝去を伝える新聞で読んだ。

東映のニューフェイスに合格はしたものの、健さんも同じような体験をしている。
映画デビュー前にニューフェイスたちは、俳優座研究所で6か月、さらにエキストラ出演などで6か月の修業期間を得なければならないのです。俳優座養成所に委託研究生として入所した健さんが自己紹介をした途端、

「小田君(健さんの本名)、挨拶はいいから、まずパントマイムをやってみなさい」

周囲がすべて壁で囲まれている場所で火災にあった男をパントマイムで表現するように指示が出されても、素人だから「すみません。できません」と正直にいった。

「小田くんは俳優を目指して稽古にきているのに、できませんとは何事かね」

と健さんだけ怒られたことを告白しています(文・構成:野地秩嘉 高倉健インタビュー)

大滝さん、健さんは俳優としてスタートする際、共に順調ではなかった。そんな二人が名優として俳優人生を生き抜いていることに、元気印は感嘆しています。

洋子が遺言に託した本心を英二が心底から理解する話で本稿を終りにします。

薄香郵便局留めの遺書に描かれていたのは、灯台を眼下にして大空に舞い上がる雀が描かれ、「さようなら」のメッセージを書き添えただけの絵手紙。

2通目の絵手紙に描かれた風景が見える丘に立った英二が、洋子が遺言として残した2通の絵手紙を空中に放り投げた英二は、「さようなら」に書き込めた洋子の心に触れて、愛妻の散骨に踏み切り、彼女亡き後の自らの人生を選択します。

映画は、自分の意思に従って人生を生き抜こうと歩みだした英二を追って、大円団へ向かいます。
薄香漁港で女手ひとつで食堂を切り盛りしている濱崎 多恵子(余 喜美子)と奈緒子(綾瀬 はるか)が過ごしている何の変哲もない日常生活との触れ合いから、下関港に南原を呼び出す英二は、これまでとは違った行動を起こします。

洋子に託された人生を生き抜こうと決断してからの英二の生き様の味付けは、吟味どころです!!
中華料理か日本料理、あるいはフランス料理かイタリア料理なのか・・・。映画を観てのお楽しみに残します。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千鳥足でつぶやく『映画ばなし』 その7 :神さまも見守った「はやぶさ」のど根性

2012-03-02 16:08:51 | 映画
7年間にも及ぶ宇宙の大冒険に耐え抜いた「はやぶさ」の総航続距離は、60億kmを超えました。
そして、地球から約3億3,000万kmも彼方の宇宙空間で、通信途絶したまま迷子になった「はやぶさ」に与えられた最後の使命は、地球へ帰還することではなく、大気圏へ突入時に生じる摩擦熱で燃え尽きる前に、地球の姿を観ることでした。

大気圏に再突入してから2時間後には焼失してしまう「はやぶさ」。
小惑星のサンプルを地球に持ち帰る「サンプルリターン」の技術を実証する使命を帯びた「工学実験探査機」を制御するために送信した数々の指令に対する反応は、失敗の連続でした。

 「間に合わなかったか・・・」

と、諦めていた「はやぶさ」の運用スタッフが、最後のデータをダウンロードします。
「はやぶさ」がその生涯を閉じる直前に撮影した地球の映像がモニターに映し出されたのです。「はやぶさ」は、最後の使命を成し遂げ、無言のまま焼失した。その写真は、JAXAの相模原キャンパスに展示してありました。



さて、大気の摩擦熱で焼失した「はやぶさ」の模型が、JAXAの相模原キャンパスに展示してあり、元気印は、「はやぶさ」の形見に出遭った思いでした。



「はやぶさ」プロジェクトの成功体験は、さまざまな社会現象を惹起しました。映画もその一端でしょう。先ず、口火を切ったのは、プラネタリュウム用CGプログラム「HAYABUSA BACK TO THE EARTH」。新宿の映画館まで足を運び、はやぶさの偉業を認識した次第です。



はやぶさ映画の嚆矢は、ポスター写真右端の「はやぶさ」(監督:堤 幸彦 脚本:白崎 博史 井上潔 出演:竹内 結子 西田 敏行 他)で、小惑星探査機「はやぶさ」の入門編になっている。







その次が今公開されている「はやぶさ 遥かなる帰還」(原作:山根 一眞・小惑星探査機 はやぶさの大冒険 監督:瀧本 智行 脚本:西岡 琢也 出演:渡辺 謙 江口 洋介 夏川 結衣 山崎努 他)。中央のポスター写真。





「観客の方にエンタテイメントとして楽しんでいただくことは勿論ですが、日本にはこれだけ世界に誇れるものがある、と映画を通して伝えられたら。実際のプロジェクトや、それが継続していくための原動力に映画がなってくれれば嬉しいです」

この映画の主人公・山口 駿一郎(JAXA教授:はやぶさプロジェクトチームのマネージャー)を演じる渡辺 謙が、映画プログラムで述べているメッセージです。

釈迦に説法になりますが、、「サンプルリターン・プロジエクト」を担う「工学実験探査機」とされる「はやぶさ」には、それに課せられた技術実証項目があり、「はやぶさ そうまでして君は」(川口 淳一郎)に記載されています。それを引用・列記します。

 1.イオンエンジンという新しい推進機関による惑星間航行
 2.遠く離れた宇宙空間での自立誘導航法
 3.微小重力の小惑星でサンプル採取
 4.イオンエンジンを使用した地球スウィングバイ
 5.カプセルによる大気圏再突入

これらは、いずれも世界初となる実験項目で、5が達成された現在、1から4の項目も確実に実証されたことになります。

それらの結果が樹立した、平成24年2月時点における世界記録が、映画プログラムに記載されています。

 イ.光学的手法により、自力で史上最も遠い天体への接近・到着・着陸・離陸
 ロ.最も長い期間を航行し、地球に帰還した宇宙機(2,592日間)
 ハ.最も長い距離を航行し、地球に帰還した宇宙機(60億km)
 ニ.最も長い時間、動力飛行をした宇宙機

「はやぶさ」が航行する2,592日間に発生した絶望を伴う危機的なトラブルは、「はやぶさの軌跡」(別冊宝島1739号)に整理してあります。

 A.ABCD4基のイオンエンジンの内、Aは出力不安定のため運転中止(平成15年9月)
 B.姿勢制御用リアクションホイール3基の内、X軸用が故障(平成17年7月31日)
 C.姿勢制御用リアクションホイールY軸用が故障(平成17年10月2日)
 D.1回目のトカワへ着陸は、3回バウンドして不時着(平成17年11月20日)
 E.化学スラスターB系統の燃料がタンクから漏洩し凍結を引き起こす(平成17年11月26日)
 F.燃料漏れが再発した翌日、通信途絶(平成17年12月8日)
 G.パラボラアンテナのズレの大きさが判明(平成18年2月25日)

何はともあれ、この映画で感銘したのは、はやぶさプロジエクト・マネージャー山口JAXA教授の粘り強さ。
通信が途絶した惑星探査機が、再発見された前例がない宇宙工学の世界にあっても、「はやぶさ」の救出を諦めず、救出に残された1年間に尽力を尽くすとの決断を下した山口プロジェクト・マネージャーには、「のぞみ」の苦い失敗体験があったからです。

「はやぶさ、応答せよ! はやぶさ 応答せよ!!」

と、往復30分も要する信号を「はやぶさ」がさまよう虚空に向けて1年間呼びかる技術者のど根性を生み出し、通信途絶から46日目に「はやぶさ」からの応答信号を確認したのです。
はやぶさプロジェクトの存続に知恵を絞り奔走するチームリーダー山口 駿一郎と彼を縁の下で支える各分野の専門技術者たちとの間に、お互いが信頼し合える強力なチームワークを築いて、プロジェクトチームをひとつに纏め上げた成果です。

 「はやぶさは、どんなスピンを起こしても、やがて必ず安定する設計になっている」

これを殺し文句にして「はやぶさ」を救出する運用体制の確保を監督官庁から取り付けた山口プロジェクト・マネージャーは、直ちに「はやぶさ」捜索のための具体的な計画を策定して、バラバラに分解するプロジェクトチームを纏める手段にするのです。
その執念が、「はやぶさ」チームの崩壊危機を克服させ、チーム一丸となって「はやぶさ」救出のドラマを生み出していきます。

映画に描かれた感動するシークエンスがふたつあります。ただし、元気印に限ってのことです。
Fの危機的なトラブルへの取組みに、神様はじいーっと見守っていた筈ですが、絶望的なトラブルEの対策をめぐり、民間会社の協力者・森内 安夫(吉岡 秀隆)とイオンエンジンを担当するJAXA教授の藤中 仁志(江口 洋介)とが激論を戦わすところがその1。

「イオンエンジンが破壊される対策だ」と企業人の価値観を最優先にして主張する森内に対して、藤中は「はやぶさの帰還に一縷の望みを託する。その可能性がる対策を進める」と反論する。
イオンエンジンを研究・開発した同窓の誼が、喧嘩別れした二人の関係を修復させて、森内はトラブルを解決する決断を下します。

このような生々しい二人の激論に、企業人が背負っている重荷を痛感した男性観客も少なからずおられたでしょうが、現役時代の厳しい現実を思い起こす時間でした。企業利益の有無で物事の価値判断をせざるを得ない企業人の苦悩を、吉岡 秀隆は好演しています。

2番目の感動は、Eトラブルの対策に、イオンエンジン燃料のキセノンガスをイオン化せず、中和器から直接噴射させる対策を行い姿勢制御に成功したのですが、緊急作成した回路設計で機能する「キセノン・ジエット」にトラブルが再発しないようにと、山口マネージャーが航空の神様・飛不動へ祈願に詣でた時、(有)東出機械の社長(山崎 努)と出逢い、ふたりがベンチに腰掛けて「かりんとう」を摘むシークエンス。

「はやぶさ」などの試作部品を作っている偏屈な小さな鉄工所社長の苦労を滲ませた山崎 努の清清しい演技と、日本的な発想で物事を考えない人の集団が居心地よいとしながらも、「はやぶさ」のトラブル解決に追い込まれ続け、その苦境と闘っている様子を交えた山口チームリーダーを、何気なく演じる渡辺 謙との絡みには、信念を貫くために降りかかる困難を厭わない大人の味が充満していました。

ちなみに、JAXAの相模原キャンパスには「中和神社」や他神社の御札が展示してありますので、理論を基に物事を進める冷静な科学者も、尽力を尽くした後は、自らの心身を安定させ、癒すために、神社詣でをして大願成就の祈願をしているようです。

川口 淳一郎JAXA教授は、著書の中で、

「やれることはすべてやり尽くした。あとはもう、神仏の力に委ねるしかない。心を落ち着かせ、自分を納得させたい。自分は神頼みしなくてはいけないほど、全力を尽くしたのか」

と自問自答し自己採点する機会にし、「空飛ぶお不動さま」(東京都台東区にある飛不動尊)へ、平成17年の年末にお参りしたと述べています。



東出社長が山口マネージャーの心境を忖度して、山口を励ますセリフは、元気印の胸に滲み込みました。その、東出 博を演じた山崎 努は、「はやぶさ」に出演した動機を語っています。

「はやぶさのように壮大なプロジェクトは、小さな鉄工所のおやじが作ったテスト部品など、職人の手仕事から始まるという感じを持っている。(中略)。娘の真理(夏川 結衣)のことで、親子は似ているところもあるし、反発するところもある。しかし、やはり親は子どもが自立していくことを一番願っている」

このように微妙な親子関係は、映画に充分反映されていますが、

「映画のテーマのひとつに、バトンタッチしていく“順繰り”ということがあると思うんです。我々の世代にできなかったことを次の世代がやってくれると。(中略)。科学というのは諸刃の刃(かたな)ですから、何を次の世代に渡すのか。それも、大きなテーマだと思っている」

この映画のプロジェクト・マネージャーも兼ねている渡辺 謙の狙いは、余すところ無く、元気印に伝わってきました。

今世には古びてしまった諺でしょうが、「人事を尽くして、天命を待つ」心境でしょうか。

「勘所を押さえましたね、元気印さん。技術者としてなすべき努力を尽くしたあとは、人力のいかんともなしえぬものがあります。だから、すべて「天命」に任せるのです。はやぶさチームが、地球帰還までの時間に尽くした努力は、並大抵のものではなかった、と一言で片付けられない。2,592日にも及んだサンプルリターン計画を成功に導いたのは、それぞれの分野における専門家らのプライドでしょう」

本稿の終りに、川口 淳一郎JAXA教授の言葉を、その著書「はやぶさ そうまでして君は」(宝島刊)から引用し紹介します。

『小惑星サンプルリターンに関しては、我々のほうが一歩先に突き抜けました。たった、一つの分野ですが、ここを突破口にすれば、いつか他の分野でも「日本が一番だ」といえる日がくるかもしれません。
 そのためには、今回の成果に「よかった」「がんばった」と浮かれるのではなく、冷静な検証が必要になります。なぜ「はやぶさ」はイトカワにタッチダウンして、地球に帰ってくることができたのか。日本の技術力の高さ。運用チームの経験、知恵、勇気、決断力。それらが重要なファクターでしたが、忘れてはいけないのは、「はやぶさ」が神様に愛されているとしか思えないほど、幸運だったことです』

古稀を過ぎたシニアにとって、明日を生き抜く勇気と希望を与えられる物語であったことは、言うまでもありません。

この映画の感動を倍加している要因に音楽があることを書き忘れていました。
瀧本 智行監督がイメージした、困難、葛藤、達成という3っつのキーワードから、この映画の音楽を作曲した辻井 伸行の旋律には、その時々に「はやぶさ」が背負う宿命を象徴する役割が込められています。
特に、「はやぶさ」が地球に帰還するシークエンスに流れる「達成」を喜ぶ強い旋律には、心を打つものがあります。

付録です。



JAXA相模原キャンパスに展示してあります。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千鳥足でつぶやく『映画ばなし』その6:淳之介に芥川賞を期待する

2012-02-25 15:46:34 | 映画
『三丁目の夕日』シリーズを3部作とすれば、今回封切られた『三丁目の夕日’64』は完結編でしょう。

「鈴木オート」に集団就職で上京した六ちゃん(堀北 真希)は結婚、見えない指輪を後生大事にしていたヒロミ(小雪)にも茶川家の主婦らしい貫禄が出てきた。エレキに熱中する鈴木オート社長(堤 真一)の息子・一平(小清水 一輝)は反抗期を向かえた様子。



さて、昭和33年から始まった『三丁目の夕日』シリーズ。
プロレス中継では力道山の空手チョップに熱狂し、大人も子供もフラフープの流行に乗りフラダンスに浮かれ、立教大学野球部から長島 茂雄、阪神入りを噂されていた早稲田実業の王 貞治が巨人へ入団しON時代の緞帳が吊り下げられ、12月23日には東京タワーの完工式を迎えた昭和33年は、そんな年でした。



翌年の4月10日、皇太子殿下(今上天皇)と正田 美智子(皇后)さんはご結婚なされ、テレビはそのパレードを生中継し、各局は朝の6時から深夜12時まで、特別番組を組んだ。
6月25日の巨人、阪神戦では、王がホームランをかっ飛ばし、長島が宿敵村山 実からサヨナラホームランを放ち、天覧試合に花を添えた年でもあります。

「元気印さんが北海道立の工業高校を卒業した昭和34年4月、三人の仲間と墨田区の町工場に就職で上京しましたね。三丁目の住民に共感を覚えるのは、当然でしょう」

久し振りに聴く、ボケ封じ観音様の声。

他方、全6部からなる映画『人間の条件』(原作:五味川純平 監督・脚本:小林正樹 脚本:松山善三 出演:仲代達也 新玉美千代 他)の第1、2部が1月15日、第3,4部が11月20日、昭和35年1月28日に第5,6部が封切られてからも、この9時間半にも及ぶ全編を一挙に上映するオールナイトを観る愉しみは、無くなってしまった。あの頃を懐かしむのは、元気印だけなのでしょうか・・・。

『三丁目の夕日’64』のプログラムによれば、三丁目のセットは、昭和39年の町並みをイメージして建て、時代設定は東京オリンピックが開催された昭和39年になっている。つまり、三丁目の住民は6年の歳月を過ごしている訳です。

茶川 竜之介(吉岡 秀隆)と古行 淳之介(須賀 健太)との関係も、淳之介が小説家として自立する道を選択するので、育ての親子関係は作家としてのライバルへ発展します。

淳之介が自立する過程では、竜之介の父・林太郎(米倉 斉加年)に息子を勘当したエピソードを語らせ、彼が選択した道は浮き沈みが激しく、ドン底の境遇に陥っても作家の矜持を失わずに前進せねばならない物書きの宿命を暗示するのです。
お人よしで苦労ばかり背負い込む竜之介の背中を観て育った淳之介は、必ず、芥川賞の候補に挙がる作品を書き上げるでしょう。三丁目の住人達は、その日を今かいまかと見守っている筈です。

芥川賞受賞を保障するが、それには資金が要る、と称する詐欺にまんまと騙される茶川 竜之介。
それとも知らず、受賞させるためになけなしの預金を提供する鈴木オート社長を筆頭にした三丁目住民らの思いやり。
その半面、住民の繋がりを訴えるのに「絆」をキーワードにしなければならないほど、共同社会、換言すれば地域社会で生きるための人徳が荒廃している平成の世に、三丁目の住民らの思いやりは、珍しい光景になりました。

「淳之介が竜之介を凌ぐ作家になる。二人の繋がりに感動していますね、元気印さん」

ボケ封じ観音様の読心力は、相変わらず鋭い。

「友達と生の母を訪ねた淳之介に、母は義父を通じて逢う事を拒否する。しょんぼり帰ってきた淳之介を叱りつける竜之介の親心、実父に引き取られて行った直後、淳之介が机上に残した置手紙を読み、彼が乗った乗用車を必死に追いかける竜之介。実父と別れて引き返してきた淳之介との出会いに涙したのでしょう」

これでは、映画も安心して観ていられない。観音さまの見立ては図星だから・・・。

なにはともあれ、ミッチーブームを巻き起こした皇太子殿下と美智子さまのご成婚から31年を経た昭和64年1月7日、昭和天皇が崩御され、皇太子明仁親王が即位されました。激動の昭和が幕を閉じ、時代は平成に移行して24年目を迎えました。

そして、明治、大正、昭和、平成の年号が1868、1912、1926、1989の如く表記される風潮が強まり、昭和の香と共に平成の芳香を味わいたくても、西暦表記の年号ではそれも叶いません。
極端な場合は、本能寺の変1582年と西暦表記がなされ、ナレーションで天正10年と年号を説明してから後は西暦で通す、歴史解説書でも西暦だけを表記しているものが多くなったように感じています。年号を西暦で表すのは、天皇制に対するアレルギーがあるからとも言われています。

また、学校の行事、例えば、卒業式で国旗掲揚と国歌斉唱は礼儀とされた昭和の慣習も、法律でそれらを定めなければ執り行わない現在、それも明日を担うべき日本人を育成する義務教育現場では裁判沙汰になり、最高裁判所で判決が下されたばかり。
反日の世相が強い今の日本では、『三丁目の夕日』が描いている昭和30年代になっても日本人が共有していた徳目に新鮮な驚きがあるのでしょう。

ところで、東日本大震災が起きてからほぼ1年を経過しました。
その間、大震災関連書籍の発刊やメデイア報道は、膨大な件数に及んでいますし、現在も様ざまな切り口で採り上げられています。



余りにも恐れ多いこととは思いますが、平成23年3月16日に発表された天皇陛下のお言葉の後半部分を、本稿に引用させて頂ききます。

『今回、世界各国の元首から相次いでお見舞いの電報が届き、その多くに各国国民の気持ちが被災者と共にあるとの言葉が添えられていました。これを被災地の人々にお伝えします。
海外においては、この深い悲しみの中で、日本人が、取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。
 被災者のこれからの苦難日々を、私たち皆が、様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地の上にこれからも長く心を寄せ、被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています』



このお言葉には、三丁目の住民が共有する日本人の徳目を端的に示唆されていると、元気印は痛感しております。

『夕日の三丁目』シリーズで感動するのは、

『海外においては、この深い悲しみの中で、日本人が、取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していることに触れた論調も多い』



『被災者のこれからの苦難日々を、私たち皆が、様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います』

天皇陛下は、三丁目の住民らが共有している「人として習得しなければならない常識」をこの簡潔・明瞭なお言葉に込めておられる。

「へそ曲がりの元気印さんは、どこへ行ったのですか?」

昭和30年代を1955年代と表記されて、その時代の雰囲気を思い起こせない元気印ですが、多様な価値観に馴染めない、追いつかないなどと、時代おくれの愚痴話を語っても、よる歳に負けてはシニアの価値が無くなってしまう。

「そうあってこそ、へそ曲がりの元気印さん。独断と偏見かも知れませんよ」

「それで良か、観音さま」


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千鳥足でつぶやく『映画ばなし』その5:人間・山本五十六の葛藤とその戦い

2012-02-22 11:54:56 | 映画
真珠湾攻撃から1年5ヶ月後の昭和18(1943)年4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官が搭乗していた一式陸上攻撃機は、ブーゲンビル島ブイン上空で待伏せしていた米軍のロッキードP38ライトニング戦闘機に爆撃され、山本長官は戦死する(海軍甲事件)。

ラバウルの南東方面司令部から、ブイン周辺にある海軍部隊五ヶ所に打電された暗号電報「機密第131755電:13日17時55分発を意味する」を傍受した米軍は、17日までに解読し、山本長官機を撃墜するP38ライトニング戦闘機17機から成る「ヤマモト・ミッション」を編成。

山本長官らを一番機に乗せた一式陸攻2機を6機のゼロ式戦闘機が護衛する編隊構成から、その航程や時間、場所を知らせる暗号電報を傍受・解読した米軍の迎撃計画は周到で完璧だった(太平洋戦争全記録:あの戦争上 他)。
映画では、山本長官のスケジュールは平分で打電したことになっているのですが・・・。

「おめでとう、獲物のカモのなかの一羽は、孔雀だったらしいね」

これは、山本長官機撃墜の報告を受けたウイリアムズ.F.ハルゼー大将がソロモン方面航空部隊指揮官M.A.ミッチャー少将へ送った祝電といわれている。また、この作戦は、時の米国大統領フランクリン.D.ルーズベルトの承認を得て実施された(同前)。



さて、連合艦隊司令長官山本 五十六大将を描いた映画は、当然、山本長官の戦死で終わります。
人間・山本 五十六は、随所に描かれていますが、軍人としての山本 五十六は、日独伊三国同盟の締結に異議を唱える場面、真珠湾攻撃に出撃しても外交交渉が円滑に行われた際に艦隊は、作戦を停止し引き返すことを徹底する場面でしょう。
そして、五十六長官の心境を忖度するには、彼のセリフを注意深く聴いていないとイメージできない。元気印が注目したセリフがあります。

「これで、詰んだな」



世界で最初に航空母艦同士がまともにぶつかった珊瑚海海戦は、日米五分五分の戦いでしたが、航空母艦『赤城』『加賀』『蒼龍』『飛龍』を失ったミッドウエー海戦は、大東亜戦争の帰趨を決める分岐点となった。このことは、さまざまな局面で語りつくされているので、何方もご存知の史実でしょう。

余談になります。
次男坊がロンドンで仕事をしている時期に初孫が産まれ、その100日祝も兼ねて内儀と共に訪英し、孫の背中に一升餅を背負わせたのは、8年前のことです。
ルイ・アームストロングに憧れトランペットを吹いている小学5年生に、初期に録音したサッチモのCDをロンドンから送ったのも、この時でした。その小学生は今、米国へ留学してジャズの勉学に励む高校生に成長しました。

そんな時、ロンドン市内の書店で、航空母艦を扱ったバーゲン品が目に留まり、ペラ、ペラ頁をめくると、第二次世界大戦時における米国、英国、日本の航空母艦が紹介されていたのです。しかも、£19.99が£9.99の半額です。英語の理解力ゼロの自分をど忘れして購入。帰国してから興味のあるページを見て本棚に眠っていた次第。



それは兎も角、映画『山本 五十六』を観て、真珠湾攻撃の主戦力をなした航空母艦を含め、それらの詳細が写真入で紹介されていることを思い起こし、改めての見直しです。



『鳳翔』(ほうしょう:Hosho)
 大正11(1922)年12月、浅野造船所(横浜市鶴見)で竣工。常備排水量9,449トン。
 大正7(1918)年1月に起工した英国海軍小型航空母艦『ハーミーズ』(10,850トン)の竣工は大正13(1924)年2月。このた  め、世界で最初に竣工した純空母は『鳳翔』とされる。昭和20(1945)年9月20日、特別輸送艦として復員輸送で活躍する。

『赤城』(二代目・あかぎ:Akagi)
 昭和2(1927)年3月25日、呉海軍工廠で竣工。公試排水量34,364トン。昭和11(1936)年10月から13(1938)年8月までの大改 装(飛行甲板の全通化や兵装等の強化)工事により空母機能を充実する。昭和15(1940)年11月26日、機動部隊として単冠(ひ とかっぷ)湾を出撃、12月8日、真珠湾攻撃を実施。
 昭和17(1942)年5月27日、旗艦としてミッドウエー海戦に出撃、6月5日、米国機動部隊の艦上爆撃機の襲撃を受け大破、日本 機動部隊の第四駆逐隊4隻が発射した魚雷により自沈処理される。

『加賀』(かが:Kaga)
 大正12(1923)年12月13日、横須賀工廠で航空母艦への改装工事に着手、同14(1925)年4月22日竣工。公試排水量33,693トン。昭和10(1935)年、全通甲板の採用やタービン交換などの改装工事により空母機能を向上させる。改装後の公試排水量42,500トン。開戦後の戦歴は『赤城』と同じ。ミッドウエー海戦で米国機動部隊の艦上爆撃機の奇襲を受け沈没。

『龍驤』(りゅうじょう:Rujo)
 昭和6(1931)年4月2日竣工。公試排水量11,733トンの小型航空母艦として建造され、昭和12(1937)年の改装で公試排水量12,575トンに。昭和16(1941)年8月16日、第二次ソロモン海戦に出撃し、ソロモン諸島の南端マライタ島付近で米国機動部隊 の攻撃を受け沈没。

『飛龍』(ひりゅう:Hiryu)

 昭和14(1939)年7月5日、横須賀工廠で竣工。公試排水量20,165トン。
 昭和12(1937)年12月19日呉海軍工廠で竣工した公試排水量が18,800トンの『蒼龍』(そうりゅう)とは姉妹艦で、共に計画さ れた日本海軍初の近代的航空母艦。



話は山本 五十六に戻ります。
ミッドウエー海戦で、米軍機の急襲を受けた航空母艦『飛龍』は火災を起こし、第二航空戦隊司令官山口 多門少将は総員退去命令を発したが、『飛龍』艦長の加来 止男大佐と共に艦に残った。そして、駆逐艦『巻雲』から発射された2本の魚雷により『飛龍』は海の底に沈んだ。

この報告を受けた山本長官は、連合艦隊の旗艦『大和』で将棋を指していた。山口少佐の戦死報告を聴き終わった山本長官は、平静を装いつつも苦渋の面持ちで言い放った。

「これで、詰んだな」

これは、アメリカとの戦いの行く末を予見した軍人・山本 五十六でなければ言えないセリフです。
ミッドウエー海戦の指揮を執った第一航空戦隊司令官を兼務していた第一航空艦隊司令長官南雲 忠一が、海戦敗北の報告に『大和』を訪れても、海戦にまつわる会話は一切なく、山本 五十五は南雲 忠一に雑炊を勧めるだけです。

ミッドウエー海戦敗北の最大の要因となった「兵装転換」は、昭和17(1942)年4月5日から9日に展開された「セイロン沖海戦」でも南雲機動部隊では実施しており、英国東洋艦隊の消極的な攻撃のお陰で難を逃れています。

この時は、

「攻撃隊がツリンコマリやハーメス攻撃している間、母艦の方では早朝から敵襲を予期して厳重な警戒を続けていたのであるが、 早朝の敵機来襲は無く、午前10時15分敵飛行艇1機の触接するのを認め一撃にしてこれを撃墜したのみであった。この様子であ るいは今日も敵襲は無いかも知れないと思っていたのであるが、午後1時48分に至って見張員から「利根方向水柱」との報告 があり、我々が目を右前方の利根の方に転じた瞬間「シュッ、シュッ、シューッ」という昔どこかで聞き慣れた様に感ずる音が 響いた。と思うと同時に赤城の右前方から後方にかけ、艦を挟んで爆弾の着弾波紋と皮膚を突き破るような衝撃波を経験した。 上空を見れば敵の爆撃機9機が旋回中である。上空の戦闘機はやや離れていたが、全速力で追撃に移り、これを捕捉して敵プレ ネム双発爆撃機9機の内6機を撃墜した。この戦闘で飛龍分隊長熊野大尉を失ったのは痛かった。(中略)。こんな奇襲を喰う ようでは、今後よほど警戒しなければならない。余りにも順調な戦闘を続けた我々は、この瞬間に更に深い反省をすべきであっ たと思う。その反省の不足は、2カ月後のミッドウエーに現れて来た次第である」(源田 實:海軍航空隊始末記)。

英国東洋艦隊の動向を把握してから南雲機動部隊の作戦決定までの経過を「海軍航空隊始末記」で整理してみます。

昭和17年4月5日は、

 午後1時過ぎ 利根4号機から「敵巡洋艦らしきもの2隻見ゆ」の電信を受ける。
 午後1時25分 第三編制は敵巡洋艦攻撃の予定。艦攻は出来る限り雷装とす、の予令が発せられ、各  
       母艦は直ちにその準備に取掛かった。
 午後2時15分 阿武隈機から「敵駆逐艦2隻見ゆ」との報が入る。
     司令部の意見が対立したが、南雲長間の決定で駆逐艦をやることになり、議論は打ち切られた。
 午後4時   「敵巡洋艦はケント型なり」との報が利根1号機より入る。
        これで、コロンボ再攻撃の議論は不要になった。

の経緯を経て作戦方針が決まり、南雲機動部隊は華々しい戦果を得ています。

つまり、午後1時12分に発令された兵装転換の実施から、午後4時の敵巡洋艦発見の報告が入る迄に2時間半もの時間的余裕があった。その間に兵装転換を終え発進準備の整っていた第一、第二航空戦隊の艦爆53機は、2時45分各母艦を発進し、『蒼龍』飛行隊長江草 隆繁少佐の指揮の下に、英海軍1万トン級巡洋艦の攻撃に向い、「ドーセットシャー」「コンウォール」を撃沈したのです。

一方の英国東洋艦隊は、南雲機動部隊が4月1日に来襲する暗号情報を入手・解読し待伏せしていたのですが、出撃が4月5日に変更となり機動部隊と遭遇しなかった。勝利の女神が、日本側に微笑む要因になったのです。

この海戦で気になるのは、コロンボ攻撃部隊を発進させた『赤城』が、自軍空母を護衛する戦闘機隊が見逃したプレネム双発爆撃機の爆撃を受けていることです。不幸中の幸いでしょうか、投下された爆弾は『赤城』の左右に外れたので、勝利を得られたのです。

しかし、ミッドウエー海戦では、セイロン沖海戦のような兵装転換に要する1時間半もの時間的な余裕は皆無で、雷装(魚雷)から陸用爆弾への転換令が発せられ、さらに雷装への転換令が出され、その作業中に米軍機の急襲に遭い、虎のこの空母4隻を失っている。セイロン沖海戦で作戦の指揮を執った源田 實が自著の中で告白している通りミッドウエー海戦で敗北した。その原因となったとされる「魔の5分間」についてはご存知の方も多いと思います。

山本長官の命令は、門田隆将の著書「太平洋戦争 最後の証言-零戦・特高編」に『加賀』艦攻隊前田 武の証言があります。 

「とにかく、あれは源田参謀と南雲長官の責任です。特に源田参謀ですね。戦後、私は山本五十六長官が、敵が日本の艦隊へ接近 することがわかったら、何を置いても、魚雷攻撃しかないんだから、艦攻が出ていって応戦しろと、源田にかたく言いつけてい たことを聞きました。山本長官の部下から聞いたんですよ。艦攻は何があっても、魚雷をおろして爆弾に積みかえるのは禁止す る、とまで山本長官は厳命していたことも聞きました。出航する時の打ち合わせでも、赤城と加賀の2隻は絶対に魚雷攻撃以外 を考えちゃいかんと、言われていた。それでも源田参謀は、ああいう指示をしてしまったんですからね(中略)。

 やはり、敗北の最大の原因は、日本側の索敵の怠慢にありました。巡洋艦『筑摩』から出た海軍兵学校出の大尉の一号偵察機  が、発艦おおよそ1時間後に敵のドーントレスと遭遇して、撃ちあっている。しかし、大尉はこれを報告していない(中略)。
 私は、真珠湾50周年の時に、ハワイに招かれ、このときのドーントレスを操縦していたアメリカのパイロットに会うことかでき ました。向こうは日本の偵察機と遭遇したことをきちんと報告しているのに、こっちは肝心の報告をしていないんです。それど ころか、この決定的なミスが巡洋艦『利根』から発艦した索敵機のせいにされているんです」

いずれにしても、ミッドウエー海戦の敗北を報告に来た南雲 忠一に対する山本 五十六の心境は、親指が他の指を骨折させるくらい拳に力を入れて握っていた筈です。心中に噴き上る葛藤を必死に握り潰して、淡々と雑炊の箸を進める山本長官を描いたシーンは、観る者に訴えるものがあります。



山本 五十六長官を端的に表した作家の言葉を紹介して、本稿の終りにします。

「五十六が名将でないとしたら、日本の軍部は一人の名将も持たなかったことになる。与えられた条件の下で、五十六はおよそ人 間の出来る限りの努力をした。勝ち目がないと承知しながら、大博打に打って出た」(工藤 美代子:海燃ゆ・山本五十の生  涯)。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千鳥足でつぶやく『映画ばなし』その4:幕末の太陽族・高杉 晋作と意気投合する居残り佐平次

2012-01-02 21:46:24 | 映画
一橋大学生の石原 慎太郎が著した「太陽の季節」が第34回芥川賞に選定されてから、その単行本が26万部を売りあげ、それまで社会的関心が低かった芥川賞は、国民注視のイベントになった(現代風俗史年表 昭和20から年~平成12年:世相風俗観察会編)。
一方の映画界は、昭和33(1958)年に観客動員数11億2700万人と戦後のピークを迎えて、映画製作本数は年間500本を超え、映画各社は2本立て体制に突入していたのです。

そんな時代背景にあった昭和32(1957)年、『幕末太陽傳』は、日活製作再開三周年記念として公開されています。日活が平成24(2012)年に迎える創立100周年を記念して、54年前のフイルムにデジタル修復を施した修復版が、今公開されています。



「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起請」「お見立て」など10話の古典落語のエピソードを話の随所に散りばめ、幕末の太陽族に見立てた佐平次に、長州藩士・高杉 晋作らの一党が絡んで物語は進行していき、佐平次が無銭飲食で居座った相模屋からバイバイしながら去っていくところで話は終ります。



明治大学専門部文藝科を昭和13(1938)年に卒業して、松竹大船に入社した川島 雄三が45年の短い生涯で残した監督作品は、51本あります。渋 谷実、島津 保次郎、清水 宏、野村 浩将、大庭 秀雄、小津 安二郎、木下 恵介などの助監督に付き、3年以上の助監督歴を持つ者を対象にした監督試験を首席で突破した川島助監督は、昭和19(1944)年に『還ってきた男』を撮り、監督デビューします。

余談です。
川島 雄三が松竹へ入社当時時の月給は25円。他社は60円位で、東宝はそれより高もかったようです。

さて、パンフレットに紹介されているキャスト・プロフイール。



左からフランキー 堺(28歳)、南田 洋子(24歳)、左 幸子(27歳)、石原 裕次郎(23歳)、芦川 いづみ(22歳)、金子 信雄(34歳)。次ページに掲載されている小林 旭(19歳)、岡田 真澄(22歳)、二谷 英明(27歳)。出演当時の年齢を( )内に追加しました。川島監督の39歳と金子 信雄の34歳とが目立ちます。

また、無銭飲食を承知で相模屋に乗り込み、どんちゃん騒ぎを始める佐平次に気をもむ「気病みの新公」を演じた西村 晃には、演技者としての地位が定まってからの水戸黄門とは違う役者の味を、元気印は垣間見ました。この時、川島監督より3歳年下の36歳です。役者としての一端を再認識する役柄でもありました。

ところで、文春文庫ビジユアル編集部が昭和63(1988)年末に行ったアンケートをもとにした『日本映画ベスト150』(文藝春秋編)があります。そのなかでフランキー 堺は、川島監督とこの映画について次のように語っています。

「川島監督とは計11本、一緒に仕事しています。『幕末太陽傳』はその2本目で、川島監督はこれを撮り終えて日活をやめ、フリーになっているんです。
 そのこととのかかわりでよく覚えているのは、あのラストシーン、台本(脚本・今村 昌平)では太陽が品川の海に昇る刻(とき)、居残り佐平次が旅立つというふうになっているのを、川島監督はスタジオの中から外へ出て、さらに撮影所の外まで走らせようっていうアイデアを出してきた。これでは会社と揉め事になると判断したセカンド助監督の浦山 桐朗が、ぼくにその案を撤回するよう監督を説得してくれと頼みに来たんです。結局は「台本どおり」ということで収まったんですが、あとになってああ、あのとき、もう監督は日活をやめることを決めていたんだな、と思ったんですね」
 
この映画を撮っている頃から川島監督は、遺伝的な進行性筋萎縮症が進んで自由に動けなくなっていたようです。それで、川島監督の分身として佐平次を映画のなかで思いっきり動かした。
その佐平次を労咳(肺結核)持ちにするフランキー 堺のアイデアに川島監督は、「他人にわかろうがわかるまいが、それでいきましょう!」と大賛成であった、とのこと。

「ぼくと川島監督とがセットの待ち時間によく話していたことなんですが、佐平次の生き方というのは、戦後民主主義がたどるべき道なんだ、ということですね。つまり、才覚を働かせて闘っていくしか生きる道はないんだという日本が当時おかれていた現実、それがまだダブっている。だからこそ『幕末太陽伝』は、非常に高いテンション(緊張度)と説得力をみち、川島作品のピークを形づくることになったんじゃないでしょうか」

と述べて、最後の結びは、

「もし、川島監督が生きていたら『写楽』、その積極的逃避精神ですね。これを一緒にやりたかった。彼も、生活のために、だけでなく、撮りたいと思っていたテーマだと思うんですよ。青蛙房(せいあぼう)の『江戸商売絵図』一冊を僕に残して死にました。彼の遺志を、必ずぼくはどこかで継ごうと思っています」

それから38年を経て、フランキー 堺は篠田 正浩監督の『写楽』(原作・脚本:皆川 博子)で企画総指揮に携わり、川島監督の遺志を継承しています。平成7(1995)年2月4日、松竹系配給で封切られ、自らも、蔦谷 重三郎役で出演しています。
 
川島監督は、自ら戯れて軽佻浮薄(けいちょう・ふはく)派と称していたようです。
44歳の若さで急逝した川島 雄三の死を惜しむ人は跡を絶たず、51本ある作品の中には埋もれた傑作、異色作が数少なくあって、これらの作品群は、今また再評価されるべきではないだろうか。あらためて、その夭折が惜しまれる所以である(日本映画ベスト150)。

先に書いた『日本映画ベスト150』は、昭和天皇が崩御され、年号が昭和から平成(1989)になった6月に発行されています。
フランキー 堺が書き残している佐平次の生き方は、54年後の現在にも訴えかけてくるものがあるように思います。川島監督の戯言「軽佻浮薄」、心が軽薄で、時流や調子に乗って行動する傾向が強い昨今、板蕩(ばんとう)とも思わせる今の世相に相通じるものがある、と、痛感させられます。

さて、相模屋の板頭(いたがしら:江戸の岡場所で、その娼家の最上位の女郎)を競う女郎のこはる(南田 洋子)とおそめ(左 幸子)との喧嘩は、映画ファンの間で伝説として語り継がれているシーンのようです。女優としての意地が乗り移り爆発しています。

若尾 文子と共演した『十代の性典』が大ヒットして注目され、大映から日活へ移籍した直後の昭和31(1956)年、『太陽の季節』で主演を張った南田 洋子に対して、『真昼の暗黒』(今井正)他1本の映画を撮った翌年、『幕末太陽傳』に出演した左 幸子は、女優の沽券にかかわると邪推させるど迫力で狂演しています。一方の南田 洋子も、負けては沽券にかかわると爆演で応じます。

白井 佳夫が川島 雄三の話を聞き書きした「日本映画黄金伝説」で、川島監督は『幕末太陽傳』について、次のように語っています。

「松竹にいた時から考えていた題材です。古典落語に出てくる居残り佐平次という人間と、歴史上の人物である高杉晋作がいっしょに出てくるんだが、話のこしらえ方は、割とすんなり出来ました。幕末のことは、事実を知っている人が多くいるわけだし、史実はちゃんと調べ、ウソをつく時は、はっきりウソだという形で出したいと思いました。(中略)。調査部門で、チーフ助監督の今村 昌平とセカンドの浦山 桐朗の両君が、よく働いて、献身的にやってくれました。(以下略)」

大阪から出た落語の居残り佐平次は、固有名詞みたいで、普通名詞みたいなところのある、おしゃべり、おせっかい、などの意味のある言葉です。この、オブローモフ的な性格の持主佐平次に対して、片や乱世の英雄で、29歳位で脳梅か何かで死んでしまう高杉 晋作という、違った意味での行動力のある人間を、ぶっつけてみた。土蔵相撲で高杉が遊んでいたのは事実なんですが、映画の設定は、史実とはちょっと違います、とも語っています。

川島 雄三が白井 佳夫に語り残した話の中には、これからは石原 裕次郎の時代になる。今後の映画作りは若い方の線でいくべきだ、と予言したことを川島監督は誇りにしています。

また、川島 雄三ご本人は、日本喜劇映画の最高傑作といわれる『幕末太陽傳』よりも、その前年、昭和31(1956)年に撮った『州崎パラダイス』の方が好きな作品と言っていますが、元気印はいまだに観ていません。『雁の寺』や『青べか物語』とは馴染み深いのですが・・・。
映画タイトルからは、他にも観た映画があるとは云っても、タイトル以外に記憶に残っていないので、本稿では省きます。
 
では、『日本映画ベスト150』から A.作品 B.監督 C.男優 D.女優のベスト3を挙げてみます。このアンケートへの回答者数は、372人。

A.作品(ベスト150のうち)
 1.七人の侍(黒澤 明) 2.東京物語(小津 安二郎 3.生きる(黒澤 明) 10.幕末太陽傳

B.監督(ベスト20のうち)
  1.黒澤 明 2.小津 安二郎 3.溝口 健二 10.川島 雄三

C.男優(ベスト20のうち)
 1.板東 妻三郎 2.高倉 健 3.笠 智衆  8.石原 裕次郎 
       
D.女優(ベスト20のうち)
1.原 節子 2.吉永 小百合 3.高峰 秀子
  
『幕末太陽傳』を上位とした回答者を列記します。

 油井 正一(ジャズ評論家)
   川島 雄三の才気。フランキーの神がかった名演技。若き日の裕次郎、小林 旭、二谷 英明、金子 信
   雄、岡田 真澄など配役の妙。

 佐藤 正悦(プロデューサー) 田中 千世子(映画評論) 橋本 勝(イラストレーター) 塚本 邦雄(歌人)  
 植草 信和(キネマ旬報編集部) 土屋 好生(読売新聞記者) 三枝 有希(フリーライター)

油井 正一が若き日の云々とするコメントの意味は、出演者の年齢からも納得できますし、出演者の中では、石原 裕次郎が男優のベスト8に選ばれているだけです。しかし、映画の出来映えはキャステインで決まる要素も大きく、「配役の妙」そのものが楽しめる活動写真でもあります。

そして、男優ベスト3には漏れた石原 裕次郎は、20位中8位に食い込んでいます。
『幕末太陽傳』で生硬い高杉晋作を演じた裕次郎に対する川島監督の眼は、確かであった証です。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千鳥足でつぶやく『映画ばなし』その3:抱腹絶倒して観た「ステキな金縛り」

2011-11-30 20:30:48 | 映画
今年5月に前立腺の全摘出手術を受けて3週間入院しましたが、術後の経過はその病院で毎月1回診てもらっています。
通院の帰途に、病院の近くにある映画館で封切られた、三谷幸喜作・監督の『ステキな金縛り』を観ました。

まず、本篇は別にして、冒頭のタイトルバックから楽しめます。

『Catch me if you can (キャッチ・ミ-・イフ・ユ-・キャン)』(監督・製作:スティーヴン・スピルバーグ、主演・レオナルド・ディカプリオ、トム・ハンクス)を連想した冒頭のタイトルバック。これで、一気に映画の世界に引きずり込まれてしまいます。

そして、エンデイング・タイトルバックは、弁護士(深津 絵里)と恋人(木下 隆行)との後日談を語る仕組みになっている。三谷監督スタッフの心憎い作戦ですから、見逃すには惜しい。

では、映画の感想は・・・。
かって、娘さんであった7人組が映画鑑賞に来ており、「短い2時間半だったね」と囁く感想が小耳に入ったくらいです。
元気印も腹の皮が捩れてしまい、笑い泣きの涙が出てくる。その涙を拭くハンカチを腰ポケットに挿し込んだのも度忘れして、足元を探す始末。伏線シーンが物語の先でどのようにして絡んでくるかを予測するのもこの映画の楽しみですが、見事に肩透かしを食わされてしまい、豊かな発想力に惚れ込む快さがあります。

さて、その昔は映画の途中で映画館へ入場しても、最初から見直したり、面白い映画になると2度観たりしたものです。今日、映画は時間割りに従って観せられているから、それも叶いません。映画館へ再度足を運ぶ気にさせた映画ですし、家内が観たい映画のようなので、近々、金縛りにあった面々に再会することになりそうです。

封切られたばかりの映画のストーリを書くのは野暮ですから、省略します。

打って付けの役を演じきっている三谷作品に集まる俳優たちのキャステイングの妙が、映画特有の味を嗜ませてくれます。
弁護士・宝生エミ(深津 絵里)のボス速水 悠が、密かに習っている趣味を披瀝するシーンがあります。それを演じる阿部 寛は一見の価値ありですよ、本当に!! タクシー運転手の生瀬 勝久、大部屋役者の佐藤 浩市などなど、芸達者が揃って物語を堪能させてくれます。



『ザ・マジックアワー』で、だまされる男・村田 大樹役を演じた佐藤 浩市 は、この役で一皮剥けたと元気印は評価しています。主役を張る俳優が三谷映画になると大部屋役者扱いになり、全力投球を求められている。三谷映画が面白くなるのは言わずもがなですね。大部屋役者が見得を切るシーンでは、きちんと落ちが付いていますから、それも、楽しみですよ。



『THE 有頂天ホテル』での佐藤浩市は、人生崖っぷちの汚職国会議員・武藤田 勝利役に挑戦している。
演技者としての芸の幅を広げようとしている役者根性に、元気印は期待している所以です。
また、申し分のない副支配人・新堂 平吉(役所広司)と張り合う怪しい、料飲部副支配人を演じた生瀬 勝久は、『ステキな金縛り』では別人のタクシー運転手役を得て気を吐いています。西田 敏行演じる落武者・更科 六兵衛に係わる一瞬のカット・センスには驚嘆するばかり。三谷監督のユーモアもさることながら、そのサービス精神に拍手喝采ですよ。



有頂天ホテルに登場する人物は、三谷監督がその役を演じる俳優をイメージして脚本を書き、そのキャステイングが100%実現できた映画になり監督自身が驚いた、とプログラムで明かしています。そして、4年前に撮った『ラジオの時間』のスタッフではなく、まったく新しい編成をしている。スタッフとの間に緊張感が生まれて、予想外の効果が期待できるからのようです。

それにしても、西田 敏行の役柄、死にたがる演歌歌手は心憎い限りです。

プログラムを引用して演歌歌手を説明します。

「初舞台から40年、今や国民誰もが知る大物演歌歌手。明日に公演初日を控えながら、リハーサルですっかり自信をなくしている。部屋に案内してくれたベルボーイ憲二に自殺を手伝って欲しいと泣きすがる」役柄でした。シンガーソングライターを目指しながらホテルで働く泣きつかれるベルボーイ憲二が香取 慎吾です。ご両人の芸歴から言っても真逆の絡みですから、そこに演技者・西田 敏行の役者魂を垣間見た映画でもありました。

この映画で印象に残っている役者がもう一人?います。
老腹話術師(榎本 兵衛)の相方を務めるアヒル、ダブダブです。腹話術ショーが始まる直前に脱走してホテル中を逃走します。物語の繋ぎとなるシーンで大活躍する役割を与えられた幸運な俳優アヒルでした。

マジックアワーで巨大な勢力を持つギャングのボスを演じた西田 敏行。
牛耳る男の異名をもち、仲間を裏切った人間を絶対に許さない暗黒街のボス・天塩 幸之助は、彼の風貌からも適役でした。そのように、元気印は捉えています。

それで、『ステキな金縛り』の西田 敏行は・・・。
ここでは、芸域が広く、奥行きの深い芝居を心得た役者である、とだけ書き留めます。
夫々が金縛りを観て感じた姿が、俳優・西田 敏行の評価になる筈ですから。

この作品に込められた三谷監督の意図は忖度できません。
しかし、元気印は、人の知恵と経験や専門知識だけでは、その事件に潜在している真実の究明は難しい。それは真実を見極める裁判所であっても例外ではない。映画を観終って、映画館が入っているビルの1階にある喫茶店で遅い昼食のサンドイッチを食べ、プログラムを読んでいての感想です。

映画プログラムの転載は禁止されていますので、表紙のみ写真を撮り掲載してあります。
また、僭越とは思いながら、俳優さんの敬称は省略して書いたことをお断りします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする